Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』 自由と不自由は常に裏返し

一列に整列し、出発するリムジンバスに深々とお辞儀をする係りの人たち。今年の夏の一時帰国を終え、成田空港へ向かうリムジンバスから見た、新宿のバスターミナルでのワンシーンだ。これはアメリカでは絶対に見ることのできない風景。お辞儀は文化的なものだからおいておくとしても、出発したリムジンバスに手を振るという行為もアメリカの職員はまずしないだろうし、まして一列に並んで全員があわせてするということは考えられない。

礼儀正しいと言えば礼儀正しいのだが、私はこのシーンを見ると、いつも少しだけ胸が苦しくなる。リムジンバス会社の上の人の判断で、「お客様に礼をつくすためにやろう」と決まったことなのか、「バスが出発したら挨拶もしないのか」という変な客のクレームから決められたことなのか、私にはわからない。9割の人が期待どころか注意も払わないことを、確立されてしまった社会通念と会社の方針に基づいて、毎回しなければ職員の方の気持ちを思うと、少しだけ息苦しさを覚えるのだ。

 

本日は『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を紹介したい。

昨年の年末に家族で「2022年に読んだ本の中で、一番面白かったものを紹介する」という企画をやったのだが、妻があげていたのが本書だ。妻とは読書の嗜好は少し異るものの、本読みの彼女が一番というのだから、これは読まねばと手にとってみたが、確かに良書であった。

筆者の熊代亨氏は、私と同い年の精神科医であり、ブログ『シロクマの星屑』で現代人の社会適応については骨太の発信を長らくされている。丁度私と同じくらいのタイミングではてなでブログを開設されたので、勿論ブログは存じ上げていたが、本書の筆者と同一人物というのは読後に知って驚いた。

精神科医としての経験、知見を活かし、ADHDなどの発達障害が近年病気として認識されるに至った社会的な経緯をつぶさにみながら、日本に限らず現代社会の「生きずらさ」がどこからきているのかを、すっきり、わかりやすくまとめあげているの流石。また、自身の精神科医としてのバックグラウンドに限らず、資本主義や社会契約という現代社会を形作るイデオロギーにも議論を範囲を広げているので、読み応えがありつつも、より本質的な理解へと導いてくれる

 

確かに私たちは旧来の不自由から自由にはなった。しかし現代社会の通念と、その通念にそむいた時の劣等感や罪悪感からは自由とは言えない。そうした義務や道徳の不履行に不安を覚える人々は、人間市場で勝ち上がるべく、フェイスブックやインスタグラムに好もしい投稿を心がけてやまない。

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』

現代社会、特に日本社会は健康的で、清潔で、道徳的で秩序があるため、非常に快適になった反面、その快適さとえた自由と引き換えに、われわれは新な不自由さを受け入れなければならなくなったのではないか、それが本書のキーメッセージだ。そして、その不自由さというものが現代社会の構造上、IQ70ー84の境界知能の方や、特に女性を中心とした子育て世帯や、それらの社会通念に自然と適応できない人に、偏ってしまっていると筆者はみてとる。

毎年一時帰国で帰る日本の東京というのは確かに本書のタイトル通りだ。

  • 無数の無糖のペットボトル飲料が自販機にあふれ、年に一度の帰国のたびに、新しい健康食品がコンビニの棚に並び、
  • 街に驚くほどごみ箱がないにもかかわらず*1、街は驚愕するほどきれいであり、
  • 法的拘束力がなかろうが、コロナ禍で外出制限が粛々と実行されるし、
  • 通勤ラッシュ時の山手線など、乗車率が150%を越えているにも関わらず、一糸乱れぬ美しさで昇降がなされ、2分おきに遅れず運行されており、

まさに、健康的で、清潔で、道徳的で、秩序のある社会である。ただ、その社会規範の徹底されぶりゆえに、社会規範なんて全く身についていない赤ん坊とその赤ん坊を公共の場につれていかなければならない親には、不自由さが伴ってしまうのも事実だ。冒頭のリムジンバスの例でも感じることなのだが、みんながもう少し規範を緩め、規範から外れた人へもう少しだけ寛容になれるように、微調整が行われれば、もっとみんなが幸せで、住みやすい社会になると思う。

 

あえて「微調整」という言葉を使ったのは、日本より不健康で、不衛生で、道徳観念が希薄で、混沌としているアメリカが必ずしもいいとは思わないからだ。確かに、移民が多く、多民族であるため、統一された強力な社会規範がないため、多少規範から外れても受け入れられるという寛容さは日本よりはるかにある(そして、それは私がアメリカが住みやすいと感じる大きな理由の一つだ)。ただ、周りの寛容を享受するために、周りの人や社会に、自分自身が寛容であらなければならない。この1ヵ月で私におきた「不自由さ」、「ま、しょうがねーな」と受け入れたことをあげてみよう。

  • 会社の部署で立食形式での集まりがあったのだが、春巻、揚げ餃子、フライドチキン、など食事の9割が揚げ物で、大変不健康(が、低コストで、多様なバックグラウンドの方に考慮した最大公約数をとると、どうしてもこうなってしまう)
  • レストランやスーパーのトイレを使ったが、7割くらいの確率で流れていないので、自分の用を足す前に、まず前の利用者の排泄物を流すことからはじめなければならず、不衛生で非道徳的
  • Amazonで購入した姿鏡が到着したのだが、明らかに箱を誰かが開封した後があり、箱のよれぐあいとテープ止めの跡から、2ー3回は開封されたことがみてとれ(おそらく、他の顧客から返品されたものをそのまま転送)、商品と配送管理が無秩序
  • 友人に送るために手配したホリデーギフトが、12月25日の配送に間に合わないという一方的かつ宗教的な理由で、こちらへの確認なく勝手にキャンセルされてしまい、顧客対応が無秩序
  • 上記について、カスタマーサービスに問い合わせたところ、担当者につながるまで60分待たされたうえ、「折り返し確認して、電話します」と言われたのに、折り返しがなく、顧客との約束簡単に反故にして非道徳的(ちなみに、アメリカでは「折り返しします」と言われても、30回に1回くらいしか折り返しはない
  • 妻が医師の診断に基づいて追加の検査を受けたのだが、保険会社からこれは必要の無い検査だから保険はおりないという一方的な通告が到着

あげはじめたら気持ちが高ぶってきた、つい沢山書いてしまった。繰り返すが、これはここ1ヶ月ほどで起きたことであり、別に特別なことではない。

 

どんな社会にも一定の自由があり、また一定の不自由さがある。ただ、その中で楽しく過ごすためには、

  • 目の前の不自由さの対価として、自分がどんな自由をえているのかを理解すること
  • 一定の寛容さをもって、相手や状況を許すこと
  • よりよい社会にしていくために、確立された社会規範に挑戦することも恐れないこと

そういうことが大事なんだと思う。本書『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は、現代日本社会を痛烈に批判したり、欧米のよりよい慣習を賛美するものではない。次世代のために社会をたゆまず良くしていくためには、問題意識をもって議論を重ねることが大事で、そのための現状把握のための視点を提供することに主眼がおかれている。今の社会に少し、もしくは大いに「生きずらさ」を感じている全ての人におすすめした良書であり、2023年の読書体験の絶好のスタートとなる読書体験であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:東京と同様にきれいな都市はあると思うが、これだけごみ箱が少ないのにこれだけのきれいさを保っているのはにほんだけだと思う

『物価とは何か』 値上げラッシュ万歳、日本経済再生の活路

日本のニュースを見ていると、生活用品の値上げについて最近良く取り上げられている。総務省統計局によると2022年10月の消費者物価指数は前年同月比+3.7%とのこと。かれこれ20年以上デフレにあえぐ日本経済にとっては、ようやく適正な価格転嫁が進みはじめ、私は良いことなんじゃないかと思うが、マスコミの報道は下記のようなネガティブなものが多い。

「年間7万円の負担増も」値上げラッシュの今後を専門家が予測

値上げラッシュの秋 なぜ止まらない物価高

 

10月の消費者物価指数が+7.7%で、ようやくインフレが落ち着いてきたかと胸をなでおろす米国在住の私から見ると、「えらい大騒ぎするなぁ」という感じだ。毎年夏に日本に一時帰国するが、帰国する度に物価がどんどん安くなっている錯覚に見舞われる。勿論、今年の帰国については円安効果が高いことはあるが、$1=100円で計算したとしても日本の物価は米国と比べると驚くほど安い。最近の日本の物価は、20年前にタイの屋台で「やっぱり、東南アジアの国は物価安いなぁ」のと感じたのと同じくらいの感覚で安い。

 

欧米と比較してはるかに低い物価とはるかに低いインフレ率で大騒ぎする日本の方々に強くおすすめしたい本したい本がある。日本銀行の調査統計局に勤め、その後一橋大学、東京大学大学院で教鞭をとる渡辺努氏の『物価とは何か』だ。

「フィリップス曲線」、「自然失業率仮説」、「価格硬直性」、「流動性の罠」などの経済用語が頻出するが、それぞれの用語について丁寧な説明があるため、経済学の事前知識なしに読むことができる。数式を使わずにそれらの経済学用語をできるだけわかりやすく解説しつつ、一度説明したらおしまいではなく何度か用語の説明が繰り返されるので、経済学の用語に馴染みがない人でも読みやすい。日本の物価問題についてずっと取り組んできた筆者。「物価についてみんなもっと深く考えようぜ、そうすれば日本の経済はもっと強くなる!」という筆者の想いが伝わってくる。

 

本書では、日本のデフレ経済と現在の値上げラッシュを考える上で、非常に重要なポイントが多く紹介されている。その中でも本書の中でも下記の点は私は非常に重要だと思う。

  • 物価というのは、「人々の予想」によって大きく左右される。即ち、生産者も消費者も物価があがるだろうと思えばあがるし、あがらないと思えばあがらないもの。
  • 日本の問題点は、四半世紀に渡ってデフレ下にあり、インフレを全く経験したことがない人々が多く、それが故に「物価があがるという予想」が非常に高まりにくい。
  • 長期に渡るデフレ経済の結果として、他国と異なり、日本の消費者は「断固値上げ反対」という態度をとるため、企業の「価格支配力」が非常に弱く、製品のコスト削減と価格維持に多くの企業努力が払われ、経済に活力がない

 

現在の+3.7%の状況をして「異例の物価高」という言葉がよく使われるが、異例なのは20年以上モノの値段が上がらなかったことだ。「企業努力が限界を迎え、価格転嫁せざるをえなくなった」というのもよく聞くフレーズだが、本当に問題なのは「企業努力」がステルス値上げのための商品開発や価格維持のための商品のリニューアルに費やされ、より付加価値の高い製品やサービスを顧客に提供することに向かなかったことだろう。そして、今回の「値上げラッシュ」をうけて報道が発信するべき情報は、「値上げで生活が苦しくなる人が多くなる」ということではなく、「物価があがり、値上げもするのだから、たまりにたまった内部留保を吐き出して、従業員の賃金をあげる企業努力をすべき」というメッセージではないだろうか。

 

「まだまだモノの値段が上がりそうだぞ」、という「人々の予想」が四半世紀ぶりに復活したことは千載一遇のチャンスだ。やれ「スタグフレーション」、やれ「悪いインフレ」とか、やれ「一緒に給料があがらないから、生活は苦しくなるばかり」とか言っている場合ではない。ある程度のショック療法なしに、日本経済は動かないだろうなという「予想」は多くの人が共有していると思う。なので、欧米に比べてちょっとの値上げで大騒ぎするのではなく、デフレスパイラルを断ち切り、日本経済再生の活路を切り拓く機会として、この流れにのることが大事ではないか。本書は、そんな考え方で現在の日本経済を見る知識と土台を与えてくれる良書だ。読み応えのある本ではあるが、より多くの方に手にとって頂きたい。

『世間ってなんだ』 「社会」で幸せに生きる方

私はアメリカに住んでかれこれ10年近くになる。今までこちらで色々な日本人とお付き合いしてきたが、馴染んでいる人もいれば、あまり馴染まずに苦労している方もいる。勿論、言語の壁というは低くはないが、「こちらの生活は無理!」と思う方は言語プラスアルファで文化的に乗り越えることのできない壁にぶつかる場合がほとんどだ。私の経験上、2つのことを諦めることができれば、こちらでの生活は楽しいものになるし、それができない人は英語がどんなに堪能でもこちらで暮らすことはできないだろう。その諦める(考え方を改めるべきとも言うことができる)2つのこととは

  • 言わずとも自分の気持ちや要望を察して欲しいという想い
  • お客「様」として自分のことを大切に扱って欲しいという期待

である。稀に「まぐれ!」という形で自分の気持を汲んでもらったり、大切な顧客として扱われることもあるが、そういうシーンは「今日はラッキーな日だったなぁ」と思うくらいの頻度でしか訪れない。上記の考え方を改め、

  • 自分の要望を丁寧に相手に伝える
  • サービスの提供者と受益者という対応な立場で敬意をもって相手と接する

という2つのことができれば、逆に息苦しさを感じることのない快適な生活が待っている。

 

そんな違いについて考えていたら、この夏に日本に一時帰国した際に、ユニクロの新宿西口店であった出来事について思い出した。私は3階のメンズフロアの会計の列にいた。そのフロアはセルフレジとなっており、購入する服をレジのボックスにいれると、一気にスキャンされて支払いまで一気に進めるという、アメリカの感覚でいうと近未来的なレジシステムを整備した店舗だ。私の前は50代後半くらいのおじさんだったのだが、おぼつかない足取りでセルフレジまで進み、立ち往生している。

「あぁ、使い方がわからないのかな?」

と思ってみていると、おじさんはそれまでの不安げな雰囲気を吹き飛ばすように激昂して、

「なんだ!これは!?どうやるんだ!?」

と待機している店員を怒鳴りつけて、呼びつけるではないか。

かけよった若い女性店員が

「こちらにお品物を入れてください」

と丁寧に対応し、

「購入のお品物はこちらでよろしかったでしょうか」

などパネルに表示された内容の確認を求めたり、タッチパネルの操作方法をやさしくガイドするも、おじさんは

「なんだ、どうするんだ!」

ととにかく画面が遷移するごとに、怒りを爆発させている。

そして、店員の女性が

「有料となりますが、ショッピングバッグはご入用でしょうか?」

と聞くと、おじさんは

「なんだ、袋に金とるのか、いらないよ!」

とその日の最頂点の怒りをしめし、会計を済ませると商品をつかみとって、肩を怒らせながら下りエレベーターへと進んでいった。その店員が少し悲しそうな顔をしながら、「次のお客様こちらにどうぞ」と案内するので、「大変ですね、お疲れさまです」と声をかけるくらいしか私はできなかった(ので、この文章を書いている)。

おじさんはきっと

  • 自分がわからなそうなのを察し、自分が恥を感じないような対応をしてかったし、
  • お客「様」なのだから、セルフレジではなく、店員に会計をして欲しかったし、
  • 店員が丁寧におじぎをし、自分を神様扱いするというサービスも無料で受けたかった

のだと思う。

 

先程のアメリカであきらめるべきことにあてはめてみれば、

  • 自分は機械が苦手なので、会計を手伝って欲しいという要望、もしくは対人のレジで会計をしたいという要望を伝え、
  • 自分へのサポートを丁寧にしてくれる店員に敬意をもって接する

ということをすれば、おじさんも店員も気持ちよかったと思う。

 

別にアメリカのやり方のほうが正しいなんて言うつもりはない。ただ、日本は経済が先細っており、諸外国と比較し購買力が下がっているのは、全員が認識しなければならない事実だ。そうするとサービスに対価を払うか、モノの値段を維持する代わりに微に入り細に入りのサービスをあきらめざるをえなくなる。今でも百貨店で買い物をすれば、造形美とも言うべき洗練されたおじぎをしてもらえるし、買い物袋に10円払ってもらうなんてみみっちいことは言わずに、そのサービスと袋代すべてを製品の販売価格に無言で含めてくれる。そういうゆとりがある人は、引き続きそういうサービスを享受する生活をすればよいけど、良いものを少しでも安く買いたいという人は、考え方をあらためたほうが日本で幸せ暮らすことができると思う。

 

今週、鴻上尚史さんの『世間ってなんだ』という本を読んだ。

鴻上さんは、「世間」と「社会」を下記のようにすっきり定義している。

  • 世間:自分の関係のある人たちで構成され、気持ち・情・思いやりが行動規範
  • 社会:自分とは関係ない人たちで構成され、法律と規則が行動規範

そして、彼は日本人は「世間」での振る舞い方には長けているが、「社会」とどのように向き合えばよいのかわからず、「社会」に「世間」の行動規範を求めるので、自粛警察やモンスタークレーマーのような人が横行してしまう、と嘆く。

お得意様でもないのに、「世間」レベルの気持ちや思いやりを無料のサービスとしてどこでも受けることができるというのは、それ自体が特別な状態であることに全員が気づく必要がある。今までは、経済が先細る中でも、わずかな資源をそういった無料のサービスに全振りしてきたのだろうが、それも限界に達している。割高なお金を払って無料のように見えるサービスを百貨店などで享受するか、「社会」との付き合い方を身につけるか、の2択を今後は日本の消費者は求められるだろう。

 

日本人は、「世間」の人相手に「腹芸」とか「根回し」とかの訓練をたくさん受けるのですが、「社会」に生きる人に対して、穏やかに「自分の要望を語る」ということに、慣れていないのです。

『世間ってなんだ』

本書には、上記のようなわかりやすい言葉で、「世間」と「社会」の区別をつけて、「社会」で幸せに暮らすための金言が溢れている。より暮らしやすく、幸せな「社会」を作っていくために、多くの日本に住む方に読んで頂きたい。

『何とかならない時代の幸福論』 社会への信頼と幸せな社会

先日、子どもたちが通う補習校で、コロナ禍以後初めて運動会が開催された。久し振りの大規模イベントであったため、運営の方々の苦労と努力は計り知れないものがあったことは簡単に想像できる。当日は晴天に恵まれ、大きなトラブルもなく、生徒たちも久し振りの運動会を大いに楽しんだようで、とても良いイベントとなった。

が、その裏側で一つだけ悲しい出来事があった。幼稚部の生徒の種目で親子ダンスというものがある。その名の通り、保護者と生徒でダンスを踊るという愛くるしい種目だ。北米でも中規模の当校では、保護者にも先生になって頂くというケースがよくあるのだが、幼稚部の子供を持つ先生が今年は複数いた。競技時間はそれこそ10分程度なので、その時間のみ競技に参加をしたいという要望が当の先生からあがったのだが、運動会中は業務時間内であるため、どうしても親子競技に参加をする場合は丸一日有給をとらないといけないという意見がでた。その件について、色々話をしたのだが結果として、

  • 授業料を払っているのに子供を先生がみてくれないという親からの批判
  • 勤務時間中なのに業務外のことをする先生がいることへの他の先生からの不満
  • 10分がよければ1時間はどうなんだという疑問

などが起こることを慮って、結局当の先生方は親子競技への参加は叶わなかった。

 

  • 場合によっては10分くらい業務から抜けることを許容するほうが、働きやすい職場になるのにどうしてそうできないのか
  • より多くの人が幸せになることよりも、何故あらゆる角度からの批判に対処することを優先させてしまうのか

そんなことが気になり、もやもやしている中、ブレイディみかこさんと鴻上尚さんの『何とかならない時代の幸福論』を読んだ。その中に丁度、私の感じたもやもや感をきれいに整理してくれる言葉を見つけた。

「周囲の人たちがきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えは、あまりにも社会への信頼が足りない。確かに日本にはそういうところは、あるような気がします。

『何とかならない時代の幸福論』

これは、日本に大型の台風が到来した際に、ホームレスが避難所に入るのを役所の人から断れた、という出来事を二人で語っている際にでてきた言葉だ。その出来事を英国のニュースでみたブレイディさんの息子が、

  • ホームレスを追い返した担当者自身は別に受け入れても良いんじゃないかと思ったに違いない
  • だけど、周囲の人たちや役所の上役がそれを許さないということを忖度して、追い返したのではないか
  • その出来事から「日本人は社会に対する信頼が足りないんじゃないか」と思った

というエピソードが紹介されていた。

勿論、真相はわからないが、「周囲がこういうネガティブな反応を示したらどうしよう、それを回避するためにこうしておこう」という力が日本では働きやすいというのは確かだと思う。

  • たかだか10分くらい抜けることは多くの人がきっと許容してくれるに違いない
  • 「そういう事情なら私がその間に子どもたちを見てますよ」と言ってくれる保護者がいるに違いない
  • 先生たちからも「じゃぁ、その間私がまとめて生徒を見てますよ」という申し出があるに違いない
  • よしんば不公平感を口にする先生がいても「その程度は許容できる職場のほうが働きやすいじゃないですか」と声をあげる先生がいるに違いない
  • 「10分がよければ1時間はいいのか」という疑問がでたとしても、「どうすれば皆がより幸せになれるのか」という生産的な議論をすることで解決できるに違いない

という信頼がなかったのが、きっと今回私が望むような形に落ち着かなかった原因なのだろう。当の議論をしている際に、そういうことをきちんと言語化できたら、違う形にできたのではないかと、自分の見識と知性の足りなさを悔やむばかりである。

 

本書ではコロナ禍の自粛警察についても色々語られており、「幸せ」に背を向けて我慢をして、その我慢を人にも強要する、という「不幸せ」な選択を安易にしてしまうことについて、大いに疑問が寄せられていた。その一方で、誰もが自粛警察をよく思っているわけではなく、そういう日本人の気質に対して疑問を呈する声も多くあがり、より議論が深められていることについて、前向きな意見もだされていた。

アメリカでは、生徒たちが辟易とするくらい人種差別問題に対して授業をしているのに、未だに”Black Lives Matter”みたいな問題が起こる。が、その度に大きな議論が巻き起こり一歩一歩社会が成熟に向かって歩みを進めているとみることもできる。当補習校もそういう道を歩んでいるのだと理解し、もっと色々学習をして見識を深めなければと思いを新たにした。

『Au オードリー・タン 天才IT相の7つの顔』 台湾の推進する「デジタル民主主義」

オードリー・タン、その名前や彼女の功績は何度も耳にしたことがあった。35歳の若さで台湾のデジタル担当大臣に就任し、コロナ禍でマスクの供給が逼迫する状況で、マスクの在庫管理・供給管理システムを迅速に作り、問題を一気に解決した人物として名高い。「天才」、「最年少閣僚」などのキャッチーな経歴はよく耳にするが、その凄さに本質的に迫る記事や本は読んだことがなかったので、今回『Au オードリー・タン 天才IT相の7つの顔』を手にとってみた。

 

 

本書を読んでみて、「成程、こりゃすごい」と一番感銘を受けた点は、彼女は「オープンソースソフトウェの開発というソフトウェア産業で起きた問題解決のイノベーションを、政治に適用してきちんと実績にあげた」ということだ。

政治の世界というのは、何かにつけて旧態依然としている。未だに答弁で利用するのに大量の紙を使用しているし、会議をするのに全員が一同に対面で介するという前近代的なことを大規模にしているし、新しい発想を生み出すために多様性の重要性が語られる世の中で男性老人に権力が過度に集中している。このやることなすことイノベーションとは最もかけ離れた世界に、ソフトウェア産業を牽引した手法を鮮やかに活用するというのは驚くべきことだ。

有名なマスクの管理システムでも、民間の一個人の作成したマスクマップを土台として活用し、自身の参加するコミュニティに開発への参加を促し、政府が保有する薬局の住所情報とマスクの配布・在庫数を公開して自由な開発を促進し、運営のために政府の予算もつけて、薬局版マスクマップをリリースしてのけた。

彼女が土台となったマスクマップの存在を認知したのは2020年2月3日夜であり、デジタル担当大臣として2月4日には薬局情報の公開と予算などの構想について首相の承認を取得して、2月5日には政府の情報を公開して、初版の薬局マスクマップをリリースしたのは2月6日朝というのは驚愕のスピードだ。開発速度が3−4日というのはソフトウェア開発の世界では珍しい話ではないが、政府の保持する薬局の住所情報などの公開も含めて政府のシステムをそのスピードで構築・展開したというのは例がないだろう。

 

勿論、政府システムの開発に限らず、6000以上のエアボックスによる空気の室のモニタリング設備の導入、タピオカミルクティー王国の台湾におけるプラスチック製ストロー使用の禁止、など民間と政府の連携を通した様々な施策にその実績はあらわれている。

「政治」に携わると言えば、何か壮大なことをしているかのように聞こえるが、実際のところ政治は「人々の問題の処理」である。たとえ単純に地域の事柄に関心があるだけであっても、地域を愛する友人たちが集まり、共に問題解決にあたれば、それは人々が政治に携わったことになるのだ。

『Au オードリー・タン 天才IT相の7つの顔』

政策と言うと如何にも仰々しく聞こえるが、彼女はそれに対する気負いは一切ない。

  • 様々なチャネルから共有される問題やその解決へのアイデアをきちんと選別し、
  • その問題や解決方法に関わる情報をガラス張りに公開し、
  • その問題解決へ意欲のある人に適切に参加を促し、
  • 政府の各機関の機能に応じて、タスクを割り振るというコーディネーションをする

このステップを踏めさえすれば、古い官僚機構を横断しているがゆえに店晒しになった社会課題が、官僚組織の縦割りを乗り越えて、解決されていくという政治的コンセンサスが台湾では形成されているように見える。そして、その中心的な役割を担い、必要なイネーブルメントをしているのがオードリー・タンなのだ。

そういう意味で台湾のデジタル担当大臣というのは、日本のデジタル省のように行政手続きのデジタル化を進めるという次元の機能(それはそれで勿論大事であるが)に留まらない。それを2〜3歩進めて「民意の把握から、社会課題解決に向けての民衆の力の結集をデジタル技術を最大限活用して進める」という「デジタル民主主義」の推進を担う機能があるように理解した。この形というのは、既得権益者による構造的なロックインで身動きがとれなくなった日本の民主主義とは当然異なるし、衣食住足りた金持ちが公益に興味をもって意欲的に社会貢献するという資本主義によって主導されたアメリカ型の民主主義とも異なる独自の魅力を放っている。

 

本書で紹介される各種のエピソードから、彼女がIQ180以上の紛うことなき天才であることは明らかであり、天才の逸話というのはわれわれ凡人から見るとなかなかに興味深いものは確かにある。また、35歳の最年少閣僚という話も、老人ホームさながらの日本の内閣を見ると、まばゆいばかりで、興味をそそる。が、本書の魅力は台湾で現在推進されている「デジタル民主主義」の力を実感できることにある。成田悠輔氏の『22世紀の民主主義』を興味深く読んだ方は、その実現の片鱗がみてとれるので是非おすすめしたい。

『ウクライナ危機後の世界』 ロシアのウクライナ侵攻後の世界を読み解く

2月から始まったロシアウのクライナへの侵攻を端に発した戦争は終わる気配を見せない。どのような終結を見せるかは未だ不透明であるが、この戦争がどのような形を迎えるのかで国際秩序は大きく変るということだけは確かだ。一方で、世間の雰囲気にこの戦争に対する中弛み感があるのは否めない。アメリカのニュースは、FRBの利上げとインフレ抑制政策や中間選挙の動向により多くの時間がさかれるようになっているし、日本のニュースも、国葬問題から岸田政権の支持率低下と国内問題に多くの時間が割かれている。私自身も当初は関心を高く持って注視したり、ウクライナのNPOに寄付をしていたりしたが、最近はアンテナが下がってきている感が否めない。その理由を考えるに、見通しが不透明で膠着状態が長く続いていることに原因があると思う。その不透明感が少しでもぬぐえればと思い、『ウクライナ危機後の世界』を手にとってみた。

本書は、国際ジャーナリストの大野和基氏が「現代の知の巨人」ともいうべき人へのインタビューをまとめたもので、各氏の高い視座による現状の理解と将来への展望がコンパクトにまとめられている良書。刻々と変わる情勢とその複雑性を考えると、一人の著書の分厚い本を時間をかけて読むより、多くの現代の知性の多角的な視点に触れることのほうが、勉強になる。

 

本書が面白いのは、現状の理解と将来への展望への見方が「現代の知の巨人」と言われる人の中でも一定ではなく、そして時に対立していることが見てとれることだ。例えば、この戦争を「民主主義と権威主義の対立」という枠組でみることへの是非があげられる。ラリー・ダイアモンドはこの戦争を「民主主義と権威主義の対立」という軸でとらえる。

ロシアによるウクライナ侵攻もまた、権威主義国による民主主義国への攻撃に他ならないのです。その目的は、ウクライナに西側の民主主義国との提携を諦めさせることにあります。・・・<中略>

この戦争でウクライナが勝つことが非常に重要なのです。ウクライナ一国だけの問題ではなく、その勝敗如何によって世界秩序の趨勢が民主主義と権威主義のどちらに傾くかが賭けられているのです。

『ウクライナ危機後の世界』 〜ラリー・ダイアモンド〜

ラリー・ダイアモンドは過去15年間のうちに民主主義は衰退傾向にあり、今や世界の人口の半分以上は非民主主義国に住んでいるという。そして、この戦争は民主主義と権威主義の戦いの分水嶺であり、ウクライナの勝利は権威主義の侵攻に楔を打ち込み、民主主義の再活性化への狼煙となると力を込めて語る。

 

それに対して、ユヴァル・ノア・ハラリは逆に中国やロシアのような権威主義国を破壊するために民主主義国が結束すべきという考えは間違えであるとはっきり述べている。

この戦争は、単に民主主義対権威主義の問題ではありません。私たちは権威主義国に対して結束するのではなく、武力侵攻に対して結束するべきです。私はもちろん民主主義国に住みたいですが、権威主義国も必要です。世界を権威主義国対民主主義国に分断することはよいことではありません。権威主義国がすべてロシアのように行動すると考えるのは間違いです。 

『ウクライナ危機後の世界』 〜ユヴァル・ノア・ハラリ〜

ハラリはここ数十年を振り返ってみても、隣の国に突然武力侵攻するというのは国際標準とはかけ離れたものであり、それは多くある民主主義と権威主義に共通してみられる傾向であると述べる。権威主義の大国と言えば中国であるが、ハラリは中国も1979年にベトナム侵攻を行って以来隣の国に武力侵攻していないのだから、ロシアと中国を一つの陣営に一括りにしてはならないと強調する。

 

ハラリの主張の方に私はより強い説得力を感じる。その一方で、香港や台湾の主権を筋を通しながらも侵食し、虎視眈々と自国の権威を香港と台湾に適用しようと試みる中国と、ロシアとウクライナの民族的かつ歴史的な一体性主張しながらウクライナの主権を自国の権威と武力で侵害するプーチンのロシアは、成熟度は遥かに違えど、同一の危険性をはらむ。また、民主主義はしょうもない民意に振り回されて迷走しがちな反面、武力侵攻や核攻撃という越えてはならない一線をこえないための抑止力は働くが、権威主義の国は上に立つものの思想とパーソナリティで抑止力がきかないという構造的な問題を抱えるのも事実だ。

 

そんなあれやこれやが頭にうかぶ中で、政治学者でありながら、民主党の政府高官を勤めたジョセフ・ナイの下記の現実的かつバランス感覚のとれた視点もとても勉強になる。

西側諸国も、軍事的には中国を牽制しつつも、中国と協力すべき分野が多くあることを認識しなければなりません。・・・<中略>中国との緊張関係、競走関係があることは事実ですが、これを新な冷戦だと考えてはなりません。国際社会のルールづくりの場に、中国が加わるようにしていく必要があるのです。

『ウクライナ危機後の世界』 〜ジョセフナイ〜

まぁ、中国とは相容れない部分も勿論あるし、その危険性を決して軽視はできないが、だからこそロシアと一括りにせず、こちら側のルール作りにうまく巻き込みながら、取り込んでいこうや、という戦略的な視点は面白い。

 

3氏のそれぞれの主張と立場の違いを以上紹介したが、同じ問題を語らせても、こんなに色々な視点がでてくるものかと、他にも様々な論点が語られており、ひと粒で10度くらい美味しい良書であった。

若干読み応えはあるものの、各章はコンパクトにおさまっており、各氏の主張が小難しい専門用語を使わず平易にまとめられている。今のロシア・ウクライナ情勢をニュース以上に深堀してみたいという方には強くおすすめしたい。

 

 

 

『ヒルビリー・エレジー』 自由の国アメリカに内在する階級社会

『ヒルビリー・エレジー』というと、前々回の大統領選挙でトランプ旋風が巻き起こった際に話題になった本だ。「ヒルビリー」というのは、アメリカ南部の貧しい白人労働者階級の人びとを指す言葉で、同じエスニシティでありながらもアイビーリーグの大学出身のエリート白人層と黒人やヒスパニック以上に対局をなす人びとだ。一般的には、トランプ旋風の原動力となったのは、そういう白人の労働者階級層からの票と言われており、そういう意味では現代アメリカの顔と言っても過言ではない。本書が話題になった理由は、ヒラリー・トランプの大統領戦の頃に出版されたというタイミングだけではない。「ヒルビリー」は大学教育まで受ける人が殆どいないため、その文化、特性、民族的背景などが、活字として起こされることが今迄なく、メディアの中では未開拓の原住民的位置付けであったから、というのは興味深い理由の一つだ。要するに、「ヒルビリー」については知っている人は沢山いるが、それについて出版する知性を持った人は殆どいなかった、ということらしい。

 

筆者のJ・D・ヴァンスは、「ヒルビリー」の出身であり、

  • 物心ついた頃には両親が離婚しており、母親と一緒に暮らすも、
  • 母親の相手がとっかえひっかえ代わり、高校生になるまで父親と呼んでよいのかどうかもわからない人が5名ほどおり、
  • 母親は看護師でありながら、薬物中毒者であるため、高校生の時に、母親から職場の抜き打ち検査を切り抜けるために、「クリーンな尿」を求められ、
  • とても母親の元では暮らせないため、祖母や叔母に世話になりながら、住まいや学校を転々として暮らし、
  • 将来についての希望が全く見出せず、よければ肉体労働で日銭を稼ぐ、うまくいかなければ生活保護をえる、最悪薬物中毒となり野垂れ死ぬ、というくらいの将来の展望しか描けない、

という青春時代を送る。

が、大学進学を断念して、海兵隊に入ることをきっかけに人生の転機を迎え、オハイオ州立大学という州で一番の大学を優秀な成績で卒業するだけでなく、イェール大学のロースクールを卒業して、法律事務所に就職するという「ヒルビリー」のアメリカンドリームを実現し、本書の執筆をするに至る。

 

筆者のサクセスストーリだけ見ると、チャンスが平等に与えられる国としてのアメリカの素晴らしさと社会的な流動性の高さに目がいってしまうが、筆者の主張は真逆であることが本書の面白いところだ。即ち、筆者は「ヒルビリー」について言えば、その社会的階級からの脱出は構造的に難しくなっており、他の階級の文化的な障壁もあいまって、流動性の低さは「ヒルビリー」の努力不足より、社会制度にあると指摘しているのだ。

 

筆者は、自分が特別な能力を持っている人間だとは思っていないし、また特別な幸運に恵まれたとも考えていない。本書の中でも自身の経験から、

  • 自分の選択になんか意味はないという思い込みを捨て、将来への展望をきちんと思い描くこと
  • 自分が敗者であり、生活が劣悪であることの責任は自分ではなく、政府にあるという考えを改めること
  • 一生懸命働くことの大切さを口にする割には、最後は自分以外の何かのせいにして、勤労から逃げることをやめること

などの、典型的な「ヒルビリー」ができていない、「当たり前のことを当たり前にやることの大切さ」を本書で説いている。それでも筆者は「自分でもできたことは他のヒルビリーでもできるべきだ」という安易なベキ論に走らない。むしろ、借金まみれで家計はいつも自転車操業、片方の親がいないなんて当たり前だし、両方いたとしてもどちらかは薬物中毒者、悪ければ両方共薬物中毒者なんて状況で、どうやって将来に明い展望を描き、ステップアップできるのだと、「ヒルビリー」にもよりそう。

 

イェール大学のロースクールを卒業し、そこから得られる特権によって法律事務所で職を得て、家族と幸せに暮らしながらも、どこか居心地の悪さと、自分の能力や経験をはるかに上回る高待遇への違和感がうまく表現されているところが本書の一番の読みどころだ。筆者の住んできた世界では、仕事の面接ではスーツを着なければならないこと、スパークリングウォーターは上質な輝く水ではなく炭酸水であること、合成皮革と本革は違うこと、靴とベルトは色と素材をあわせなければならないなど、誰も知らないし、教えてくれなかったという。本書では、そういった一つ一つの文化的相違が階級間の格差を生み出していることを実体験を元にコミカルに描かれている。そう、筆者が描いているのは、自由と機会の平等の国であるアメリカにも、確かに存在する階級社会の現実であり、そしてその本当の現実を上流階級の人間が気付く機会すらないという、アメリカの分断と格差の現実なのだ。

 

アメリカ社会というと、やれテスラだとか、やれGAFAMだとか、先進的できらびやかなところにばかり注目が当たりがちだ。だが、南部ノースカロライナの田舎道を走り、客層の悪いファーストフードに入り、隣の車に「バイデンはタリバンの子分」ステッカーが貼ってあったり、店員の太ったおばちゃんがアイラブトランプTシャツを誇らしげに着ていたりするのを見ると、国際的には知られていないアメリカ国民の現実が見える。彼らは、アメリカのマイノリティでは決してなく、大統領を生み出すうねりを起こすくらいの人数で構成される確固とした社会階級なのだ。400ページを超える大作で読み応えはあるが、「ハーバード式◯◯術」みたいな本に食傷気味な方は、より知見を深めることができるので是非おすすめしたい。

 

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