Thoughts and Notes from NC

アメリカ東海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『世間ってなんだ』 「社会」で幸せに生きる方

私はアメリカに住んでかれこれ10年近くになる。今までこちらで色々な日本人とお付き合いしてきたが、馴染んでいる人もいれば、あまり馴染まずに苦労している方もいる。勿論、言語の壁というは低くはないが、「こちらの生活は無理!」と思う方は言語プラスアルファで文化的に乗り越えることのできない壁にぶつかる場合がほとんどだ。私の経験上、2つのことを諦めることができれば、こちらでの生活は楽しいものになるし、それができない人は英語がどんなに堪能でもこちらで暮らすことはできないだろう。その諦める(考え方を改めるべきとも言うことができる)2つのこととは

  • 言わずとも自分の気持ちや要望を察して欲しいという想い
  • お客「様」として自分のことを大切に扱って欲しいという期待

である。稀に「まぐれ!」という形で自分の気持を汲んでもらったり、大切な顧客として扱われることもあるが、そういうシーンは「今日はラッキーな日だったなぁ」と思うくらいの頻度でしか訪れない。上記の考え方を改め、

  • 自分の要望を丁寧に相手に伝える
  • サービスの提供者と受益者という対応な立場で敬意をもって相手と接する

という2つのことができれば、逆に息苦しさを感じることのない快適な生活が待っている。

 

そんな違いについて考えていたら、この夏に日本に一時帰国した際に、ユニクロの新宿西口店であった出来事について思い出した。私は3階のメンズフロアの会計の列にいた。そのフロアはセルフレジとなっており、購入する服をレジのボックスにいれると、一気にスキャンされて支払いまで一気に進めるという、アメリカの感覚でいうと近未来的なレジシステムを整備した店舗だ。私の前は50代後半くらいのおじさんだったのだが、おぼつかない足取りでセルフレジまで進み、立ち往生している。

「あぁ、使い方がわからないのかな?」

と思ってみていると、おじさんはそれまでの不安げな雰囲気を吹き飛ばすように激昂して、

「なんだ!これは!?どうやるんだ!?」

と待機している店員を怒鳴りつけて、呼びつけるではないか。

かけよった若い女性店員が

「こちらにお品物を入れてください」

と丁寧に対応し、

「購入のお品物はこちらでよろしかったでしょうか」

などパネルに表示された内容の確認を求めたり、タッチパネルの操作方法をやさしくガイドするも、おじさんは

「なんだ、どうするんだ!」

ととにかく画面が遷移するごとに、怒りを爆発させている。

そして、店員の女性が

「有料となりますが、ショッピングバッグはご入用でしょうか?」

と聞くと、おじさんは

「なんだ、袋に金とるのか、いらないよ!」

とその日の最頂点の怒りをしめし、会計を済ませると商品をつかみとって、肩を怒らせながら下りエレベーターへと進んでいった。その店員が少し悲しそうな顔をしながら、「次のお客様こちらにどうぞ」と案内するので、「大変ですね、お疲れさまです」と声をかけるくらいしか私はできなかった(ので、この文章を書いている)。

おじさんはきっと

  • 自分がわからなそうなのを察し、自分が恥を感じないような対応をしてかったし、
  • お客「様」なのだから、セルフレジではなく、店員に会計をして欲しかったし、
  • 店員が丁寧におじぎをし、自分を神様扱いするというサービスも無料で受けたかった

のだと思う。

 

先程のアメリカであきらめるべきことにあてはめてみれば、

  • 自分は機械が苦手なので、会計を手伝って欲しいという要望、もしくは対人のレジで会計をしたいという要望を伝え、
  • 自分へのサポートを丁寧にしてくれる店員に敬意をもって接する

ということをすれば、おじさんも店員も気持ちよかったと思う。

 

別にアメリカのやり方のほうが正しいなんて言うつもりはない。ただ、日本は経済が先細っており、諸外国と比較し購買力が下がっているのは、全員が認識しなければならない事実だ。そうするとサービスに対価を払うか、モノの値段を維持する代わりに微に入り細に入りのサービスをあきらめざるをえなくなる。今でも百貨店で買い物をすれば、造形美とも言うべき洗練されたおじぎをしてもらえるし、買い物袋に10円払ってもらうなんてみみっちいことは言わずに、そのサービスと袋代すべてを製品の販売価格に無言で含めてくれる。そういうゆとりがある人は、引き続きそういうサービスを享受する生活をすればよいけど、良いものを少しでも安く買いたいという人は、考え方をあらためたほうが日本で幸せ暮らすことができると思う。

 

今週、鴻上尚史さんの『世間ってなんだ』という本を読んだ。

鴻上さんは、「世間」と「社会」を下記のようにすっきり定義している。

  • 世間:自分の関係のある人たちで構成され、気持ち・情・思いやりが行動規範
  • 社会:自分とは関係ない人たちで構成され、法律と規則が行動規範

そして、彼は日本人は「世間」での振る舞い方には長けているが、「社会」とどのように向き合えばよいのかわからず、「社会」に「世間」の行動規範を求めるので、自粛警察やモンスタークレーマーのような人が横行してしまう、と嘆く。

お得意様でもないのに、「世間」レベルの気持ちや思いやりを無料のサービスとしてどこでも受けることができるというのは、それ自体が特別な状態であることに全員が気づく必要がある。今までは、経済が先細る中でも、わずかな資源をそういった無料のサービスに全振りしてきたのだろうが、それも限界に達している。割高なお金を払って無料のように見えるサービスを百貨店などで享受するか、「社会」との付き合い方を身につけるか、の2択を今後は日本の消費者は求められるだろう。

 

日本人は、「世間」の人相手に「腹芸」とか「根回し」とかの訓練をたくさん受けるのですが、「社会」に生きる人に対して、穏やかに「自分の要望を語る」ということに、慣れていないのです。

『世間ってなんだ』

本書には、上記のようなわかりやすい言葉で、「世間」と「社会」の区別をつけて、「社会」で幸せに暮らすための金言が溢れている。より暮らしやすく、幸せな「社会」を作っていくために、多くの日本に住む方に読んで頂きたい。

『何とかならない時代の幸福論』 社会への信頼と幸せな社会

先日、子どもたちが通う補習校で、コロナ禍以後初めて運動会が開催された。久し振りの大規模イベントであったため、運営の方々の苦労と努力は計り知れないものがあったことは簡単に想像できる。当日は晴天に恵まれ、大きなトラブルもなく、生徒たちも久し振りの運動会を大いに楽しんだようで、とても良いイベントとなった。

が、その裏側で一つだけ悲しい出来事があった。幼稚部の生徒の種目で親子ダンスというものがある。その名の通り、保護者と生徒でダンスを踊るという愛くるしい種目だ。北米でも中規模の当校では、保護者にも先生になって頂くというケースがよくあるのだが、幼稚部の子供を持つ先生が今年は複数いた。競技時間はそれこそ10分程度なので、その時間のみ競技に参加をしたいという要望が当の先生からあがったのだが、運動会中は業務時間内であるため、どうしても親子競技に参加をする場合は丸一日有給をとらないといけないという意見がでた。その件について、色々話をしたのだが結果として、

  • 授業料を払っているのに子供を先生がみてくれないという親からの批判
  • 勤務時間中なのに業務外のことをする先生がいることへの他の先生からの不満
  • 10分がよければ1時間はどうなんだという疑問

などが起こることを慮って、結局当の先生方は親子競技への参加は叶わなかった。

 

  • 場合によっては10分くらい業務から抜けることを許容するほうが、働きやすい職場になるのにどうしてそうできないのか
  • より多くの人が幸せになることよりも、何故あらゆる角度からの批判に対処することを優先させてしまうのか

そんなことが気になり、もやもやしている中、ブレイディみかこさんと鴻上尚さんの『何とかならない時代の幸福論』を読んだ。その中に丁度、私の感じたもやもや感をきれいに整理してくれる言葉を見つけた。

「周囲の人たちがきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えは、あまりにも社会への信頼が足りない。確かに日本にはそういうところは、あるような気がします。

『何とかならない時代の幸福論』

これは、日本に大型の台風が到来した際に、ホームレスが避難所に入るのを役所の人から断れた、という出来事を二人で語っている際にでてきた言葉だ。その出来事を英国のニュースでみたブレイディさんの息子が、

  • ホームレスを追い返した担当者自身は別に受け入れても良いんじゃないかと思ったに違いない
  • だけど、周囲の人たちや役所の上役がそれを許さないということを忖度して、追い返したのではないか
  • その出来事から「日本人は社会に対する信頼が足りないんじゃないか」と思った

というエピソードが紹介されていた。

勿論、真相はわからないが、「周囲がこういうネガティブな反応を示したらどうしよう、それを回避するためにこうしておこう」という力が日本では働きやすいというのは確かだと思う。

  • たかだか10分くらい抜けることは多くの人がきっと許容してくれるに違いない
  • 「そういう事情なら私がその間に子どもたちを見てますよ」と言ってくれる保護者がいるに違いない
  • 先生たちからも「じゃぁ、その間私がまとめて生徒を見てますよ」という申し出があるに違いない
  • よしんば不公平感を口にする先生がいても「その程度は許容できる職場のほうが働きやすいじゃないですか」と声をあげる先生がいるに違いない
  • 「10分がよければ1時間はいいのか」という疑問がでたとしても、「どうすれば皆がより幸せになれるのか」という生産的な議論をすることで解決できるに違いない

という信頼がなかったのが、きっと今回私が望むような形に落ち着かなかった原因なのだろう。当の議論をしている際に、そういうことをきちんと言語化できたら、違う形にできたのではないかと、自分の見識と知性の足りなさを悔やむばかりである。

 

本書ではコロナ禍の自粛警察についても色々語られており、「幸せ」に背を向けて我慢をして、その我慢を人にも強要する、という「不幸せ」な選択を安易にしてしまうことについて、大いに疑問が寄せられていた。その一方で、誰もが自粛警察をよく思っているわけではなく、そういう日本人の気質に対して疑問を呈する声も多くあがり、より議論が深められていることについて、前向きな意見もだされていた。

アメリカでは、生徒たちが辟易とするくらい人種差別問題に対して授業をしているのに、未だに”Black Lives Matter”みたいな問題が起こる。が、その度に大きな議論が巻き起こり一歩一歩社会が成熟に向かって歩みを進めているとみることもできる。当補習校もそういう道を歩んでいるのだと理解し、もっと色々学習をして見識を深めなければと思いを新たにした。

『Au オードリー・タン 天才IT相の7つの顔』 台湾の推進する「デジタル民主主義」

オードリー・タン、その名前や彼女の功績は何度も耳にしたことがあった。35歳の若さで台湾のデジタル担当大臣に就任し、コロナ禍でマスクの供給が逼迫する状況で、マスクの在庫管理・供給管理システムを迅速に作り、問題を一気に解決した人物として名高い。「天才」、「最年少閣僚」などのキャッチーな経歴はよく耳にするが、その凄さに本質的に迫る記事や本は読んだことがなかったので、今回『Au オードリー・タン 天才IT相の7つの顔』を手にとってみた。

 

 

本書を読んでみて、「成程、こりゃすごい」と一番感銘を受けた点は、彼女は「オープンソースソフトウェの開発というソフトウェア産業で起きた問題解決のイノベーションを、政治に適用してきちんと実績にあげた」ということだ。

政治の世界というのは、何かにつけて旧態依然としている。未だに答弁で利用するのに大量の紙を使用しているし、会議をするのに全員が一同に対面で介するという前近代的なことを大規模にしているし、新しい発想を生み出すために多様性の重要性が語られる世の中で男性老人に権力が過度に集中している。このやることなすことイノベーションとは最もかけ離れた世界に、ソフトウェア産業を牽引した手法を鮮やかに活用するというのは驚くべきことだ。

有名なマスクの管理システムでも、民間の一個人の作成したマスクマップを土台として活用し、自身の参加するコミュニティに開発への参加を促し、政府が保有する薬局の住所情報とマスクの配布・在庫数を公開して自由な開発を促進し、運営のために政府の予算もつけて、薬局版マスクマップをリリースしてのけた。

彼女が土台となったマスクマップの存在を認知したのは2020年2月3日夜であり、デジタル担当大臣として2月4日には薬局情報の公開と予算などの構想について首相の承認を取得して、2月5日には政府の情報を公開して、初版の薬局マスクマップをリリースしたのは2月6日朝というのは驚愕のスピードだ。開発速度が3−4日というのはソフトウェア開発の世界では珍しい話ではないが、政府の保持する薬局の住所情報などの公開も含めて政府のシステムをそのスピードで構築・展開したというのは例がないだろう。

 

勿論、政府システムの開発に限らず、6000以上のエアボックスによる空気の室のモニタリング設備の導入、タピオカミルクティー王国の台湾におけるプラスチック製ストロー使用の禁止、など民間と政府の連携を通した様々な施策にその実績はあらわれている。

「政治」に携わると言えば、何か壮大なことをしているかのように聞こえるが、実際のところ政治は「人々の問題の処理」である。たとえ単純に地域の事柄に関心があるだけであっても、地域を愛する友人たちが集まり、共に問題解決にあたれば、それは人々が政治に携わったことになるのだ。

『Au オードリー・タン 天才IT相の7つの顔』

政策と言うと如何にも仰々しく聞こえるが、彼女はそれに対する気負いは一切ない。

  • 様々なチャネルから共有される問題やその解決へのアイデアをきちんと選別し、
  • その問題や解決方法に関わる情報をガラス張りに公開し、
  • その問題解決へ意欲のある人に適切に参加を促し、
  • 政府の各機関の機能に応じて、タスクを割り振るというコーディネーションをする

このステップを踏めさえすれば、古い官僚機構を横断しているがゆえに店晒しになった社会課題が、官僚組織の縦割りを乗り越えて、解決されていくという政治的コンセンサスが台湾では形成されているように見える。そして、その中心的な役割を担い、必要なイネーブルメントをしているのがオードリー・タンなのだ。

そういう意味で台湾のデジタル担当大臣というのは、日本のデジタル省のように行政手続きのデジタル化を進めるという次元の機能(それはそれで勿論大事であるが)に留まらない。それを2〜3歩進めて「民意の把握から、社会課題解決に向けての民衆の力の結集をデジタル技術を最大限活用して進める」という「デジタル民主主義」の推進を担う機能があるように理解した。この形というのは、既得権益者による構造的なロックインで身動きがとれなくなった日本の民主主義とは当然異なるし、衣食住足りた金持ちが公益に興味をもって意欲的に社会貢献するという資本主義によって主導されたアメリカ型の民主主義とも異なる独自の魅力を放っている。

 

本書で紹介される各種のエピソードから、彼女がIQ180以上の紛うことなき天才であることは明らかであり、天才の逸話というのはわれわれ凡人から見るとなかなかに興味深いものは確かにある。また、35歳の最年少閣僚という話も、老人ホームさながらの日本の内閣を見ると、まばゆいばかりで、興味をそそる。が、本書の魅力は台湾で現在推進されている「デジタル民主主義」の力を実感できることにある。成田悠輔氏の『22世紀の民主主義』を興味深く読んだ方は、その実現の片鱗がみてとれるので是非おすすめしたい。

『ウクライナ危機後の世界』 ロシアのウクライナ侵攻後の世界を読み解く

2月から始まったロシアウのクライナへの侵攻を端に発した戦争は終わる気配を見せない。どのような終結を見せるかは未だ不透明であるが、この戦争がどのような形を迎えるのかで国際秩序は大きく変るということだけは確かだ。一方で、世間の雰囲気にこの戦争に対する中弛み感があるのは否めない。アメリカのニュースは、FRBの利上げとインフレ抑制政策や中間選挙の動向により多くの時間がさかれるようになっているし、日本のニュースも、国葬問題から岸田政権の支持率低下と国内問題に多くの時間が割かれている。私自身も当初は関心を高く持って注視したり、ウクライナのNPOに寄付をしていたりしたが、最近はアンテナが下がってきている感が否めない。その理由を考えるに、見通しが不透明で膠着状態が長く続いていることに原因があると思う。その不透明感が少しでもぬぐえればと思い、『ウクライナ危機後の世界』を手にとってみた。

本書は、国際ジャーナリストの大野和基氏が「現代の知の巨人」ともいうべき人へのインタビューをまとめたもので、各氏の高い視座による現状の理解と将来への展望がコンパクトにまとめられている良書。刻々と変わる情勢とその複雑性を考えると、一人の著書の分厚い本を時間をかけて読むより、多くの現代の知性の多角的な視点に触れることのほうが、勉強になる。

 

本書が面白いのは、現状の理解と将来への展望への見方が「現代の知の巨人」と言われる人の中でも一定ではなく、そして時に対立していることが見てとれることだ。例えば、この戦争を「民主主義と権威主義の対立」という枠組でみることへの是非があげられる。ラリー・ダイアモンドはこの戦争を「民主主義と権威主義の対立」という軸でとらえる。

ロシアによるウクライナ侵攻もまた、権威主義国による民主主義国への攻撃に他ならないのです。その目的は、ウクライナに西側の民主主義国との提携を諦めさせることにあります。・・・<中略>

この戦争でウクライナが勝つことが非常に重要なのです。ウクライナ一国だけの問題ではなく、その勝敗如何によって世界秩序の趨勢が民主主義と権威主義のどちらに傾くかが賭けられているのです。

『ウクライナ危機後の世界』 〜ラリー・ダイアモンド〜

ラリー・ダイアモンドは過去15年間のうちに民主主義は衰退傾向にあり、今や世界の人口の半分以上は非民主主義国に住んでいるという。そして、この戦争は民主主義と権威主義の戦いの分水嶺であり、ウクライナの勝利は権威主義の侵攻に楔を打ち込み、民主主義の再活性化への狼煙となると力を込めて語る。

 

それに対して、ユヴァル・ノア・ハラリは逆に中国やロシアのような権威主義国を破壊するために民主主義国が結束すべきという考えは間違えであるとはっきり述べている。

この戦争は、単に民主主義対権威主義の問題ではありません。私たちは権威主義国に対して結束するのではなく、武力侵攻に対して結束するべきです。私はもちろん民主主義国に住みたいですが、権威主義国も必要です。世界を権威主義国対民主主義国に分断することはよいことではありません。権威主義国がすべてロシアのように行動すると考えるのは間違いです。 

『ウクライナ危機後の世界』 〜ユヴァル・ノア・ハラリ〜

ハラリはここ数十年を振り返ってみても、隣の国に突然武力侵攻するというのは国際標準とはかけ離れたものであり、それは多くある民主主義と権威主義に共通してみられる傾向であると述べる。権威主義の大国と言えば中国であるが、ハラリは中国も1979年にベトナム侵攻を行って以来隣の国に武力侵攻していないのだから、ロシアと中国を一つの陣営に一括りにしてはならないと強調する。

 

ハラリの主張の方に私はより強い説得力を感じる。その一方で、香港や台湾の主権を筋を通しながらも侵食し、虎視眈々と自国の権威を香港と台湾に適用しようと試みる中国と、ロシアとウクライナの民族的かつ歴史的な一体性主張しながらウクライナの主権を自国の権威と武力で侵害するプーチンのロシアは、成熟度は遥かに違えど、同一の危険性をはらむ。また、民主主義はしょうもない民意に振り回されて迷走しがちな反面、武力侵攻や核攻撃という越えてはならない一線をこえないための抑止力は働くが、権威主義の国は上に立つものの思想とパーソナリティで抑止力がきかないという構造的な問題を抱えるのも事実だ。

 

そんなあれやこれやが頭にうかぶ中で、政治学者でありながら、民主党の政府高官を勤めたジョセフ・ナイの下記の現実的かつバランス感覚のとれた視点もとても勉強になる。

西側諸国も、軍事的には中国を牽制しつつも、中国と協力すべき分野が多くあることを認識しなければなりません。・・・<中略>中国との緊張関係、競走関係があることは事実ですが、これを新な冷戦だと考えてはなりません。国際社会のルールづくりの場に、中国が加わるようにしていく必要があるのです。

『ウクライナ危機後の世界』 〜ジョセフナイ〜

まぁ、中国とは相容れない部分も勿論あるし、その危険性を決して軽視はできないが、だからこそロシアと一括りにせず、こちら側のルール作りにうまく巻き込みながら、取り込んでいこうや、という戦略的な視点は面白い。

 

3氏のそれぞれの主張と立場の違いを以上紹介したが、同じ問題を語らせても、こんなに色々な視点がでてくるものかと、他にも様々な論点が語られており、ひと粒で10度くらい美味しい良書であった。

若干読み応えはあるものの、各章はコンパクトにおさまっており、各氏の主張が小難しい専門用語を使わず平易にまとめられている。今のロシア・ウクライナ情勢をニュース以上に深堀してみたいという方には強くおすすめしたい。

 

 

 

『ヒルビリー・エレジー』 自由の国アメリカに内在する階級社会

『ヒルビリー・エレジー』というと、前々回の大統領選挙でトランプ旋風が巻き起こった際に話題になった本だ。「ヒルビリー」というのは、アメリカ南部の貧しい白人労働者階級の人びとを指す言葉で、同じエスニシティでありながらもアイビーリーグの大学出身のエリート白人層と黒人やヒスパニック以上に対局をなす人びとだ。一般的には、トランプ旋風の原動力となったのは、そういう白人の労働者階級層からの票と言われており、そういう意味では現代アメリカの顔と言っても過言ではない。本書が話題になった理由は、ヒラリー・トランプの大統領戦の頃に出版されたというタイミングだけではない。「ヒルビリー」は大学教育まで受ける人が殆どいないため、その文化、特性、民族的背景などが、活字として起こされることが今迄なく、メディアの中では未開拓の原住民的位置付けであったから、というのは興味深い理由の一つだ。要するに、「ヒルビリー」については知っている人は沢山いるが、それについて出版する知性を持った人は殆どいなかった、ということらしい。

 

筆者のJ・D・ヴァンスは、「ヒルビリー」の出身であり、

  • 物心ついた頃には両親が離婚しており、母親と一緒に暮らすも、
  • 母親の相手がとっかえひっかえ代わり、高校生になるまで父親と呼んでよいのかどうかもわからない人が5名ほどおり、
  • 母親は看護師でありながら、薬物中毒者であるため、高校生の時に、母親から職場の抜き打ち検査を切り抜けるために、「クリーンな尿」を求められ、
  • とても母親の元では暮らせないため、祖母や叔母に世話になりながら、住まいや学校を転々として暮らし、
  • 将来についての希望が全く見出せず、よければ肉体労働で日銭を稼ぐ、うまくいかなければ生活保護をえる、最悪薬物中毒となり野垂れ死ぬ、というくらいの将来の展望しか描けない、

という青春時代を送る。

が、大学進学を断念して、海兵隊に入ることをきっかけに人生の転機を迎え、オハイオ州立大学という州で一番の大学を優秀な成績で卒業するだけでなく、イェール大学のロースクールを卒業して、法律事務所に就職するという「ヒルビリー」のアメリカンドリームを実現し、本書の執筆をするに至る。

 

筆者のサクセスストーリだけ見ると、チャンスが平等に与えられる国としてのアメリカの素晴らしさと社会的な流動性の高さに目がいってしまうが、筆者の主張は真逆であることが本書の面白いところだ。即ち、筆者は「ヒルビリー」について言えば、その社会的階級からの脱出は構造的に難しくなっており、他の階級の文化的な障壁もあいまって、流動性の低さは「ヒルビリー」の努力不足より、社会制度にあると指摘しているのだ。

 

筆者は、自分が特別な能力を持っている人間だとは思っていないし、また特別な幸運に恵まれたとも考えていない。本書の中でも自身の経験から、

  • 自分の選択になんか意味はないという思い込みを捨て、将来への展望をきちんと思い描くこと
  • 自分が敗者であり、生活が劣悪であることの責任は自分ではなく、政府にあるという考えを改めること
  • 一生懸命働くことの大切さを口にする割には、最後は自分以外の何かのせいにして、勤労から逃げることをやめること

などの、典型的な「ヒルビリー」ができていない、「当たり前のことを当たり前にやることの大切さ」を本書で説いている。それでも筆者は「自分でもできたことは他のヒルビリーでもできるべきだ」という安易なベキ論に走らない。むしろ、借金まみれで家計はいつも自転車操業、片方の親がいないなんて当たり前だし、両方いたとしてもどちらかは薬物中毒者、悪ければ両方共薬物中毒者なんて状況で、どうやって将来に明い展望を描き、ステップアップできるのだと、「ヒルビリー」にもよりそう。

 

イェール大学のロースクールを卒業し、そこから得られる特権によって法律事務所で職を得て、家族と幸せに暮らしながらも、どこか居心地の悪さと、自分の能力や経験をはるかに上回る高待遇への違和感がうまく表現されているところが本書の一番の読みどころだ。筆者の住んできた世界では、仕事の面接ではスーツを着なければならないこと、スパークリングウォーターは上質な輝く水ではなく炭酸水であること、合成皮革と本革は違うこと、靴とベルトは色と素材をあわせなければならないなど、誰も知らないし、教えてくれなかったという。本書では、そういった一つ一つの文化的相違が階級間の格差を生み出していることを実体験を元にコミカルに描かれている。そう、筆者が描いているのは、自由と機会の平等の国であるアメリカにも、確かに存在する階級社会の現実であり、そしてその本当の現実を上流階級の人間が気付く機会すらないという、アメリカの分断と格差の現実なのだ。

 

アメリカ社会というと、やれテスラだとか、やれGAFAMだとか、先進的できらびやかなところにばかり注目が当たりがちだ。だが、南部ノースカロライナの田舎道を走り、客層の悪いファーストフードに入り、隣の車に「バイデンはタリバンの子分」ステッカーが貼ってあったり、店員の太ったおばちゃんがアイラブトランプTシャツを誇らしげに着ていたりするのを見ると、国際的には知られていないアメリカ国民の現実が見える。彼らは、アメリカのマイノリティでは決してなく、大統領を生み出すうねりを起こすくらいの人数で構成される確固とした社会階級なのだ。400ページを超える大作で読み応えはあるが、「ハーバード式◯◯術」みたいな本に食傷気味な方は、より知見を深めることができるので是非おすすめしたい。

 

『社会という荒野を生きる』 同僚のプールハウスでビールを飲みながら家族と人生について考える

週末に、同僚の家に家族で招かれ、夕食を食べに行った。少し郊外にあるものの、7,500平方メートルという広大な敷地に、400平方メートルくらいのメインの建屋という豪邸。そして、家を購入後に新設したジャグジー付きのプールの脇に、さらに追加で建てたプールサイドの2階建てのセカンドハウスがあり、その外の大きなソファーで、軽食をつまみながらビールを飲み、談笑するというゴージャスなセットアップ。ガレージは3台車がはいる大型のもので、その一台分のスペースにトラクターのような芝刈り機があり、プールハウスにもガレージがあり、こちらにはセーリングボートが2艘鎮座。夕食はプールサイドでシーフードをボイルして、プールハウスで白ワインを飲みながら、むしゃむしゃ食べるという、洗練はされていないが贅沢な楽しい夕餉。いやぁ、圧巻で家族で良い経験をさせてもらった。

 

子どもたちからは「お父さんも、頑張って!」と檄を飛ばされたわけだが、その同僚は職位で言えば私より一つ上であるものの、給与に家のサイズの差ほどの差はないと思う。「7,500平方メートルの敷地を買おう」とか、「余っているスペースにジャグジー付きのプールとプールハウスを建てちゃおう」というスケール感はお金の問題に関係なく私にはない。また、セーリングボートのボディにヤスリをかけて、ペンキをぬって週末を過ごそうという趣味や余暇への並々ならぬ意欲も私からは絞ってもでてこない。勿論、育った国と環境の差はあると思うが、それ以上に「自分が暮らす家とそこでの家族との時間を最高のものにしよう」ということへの気合の入れ方の違いを見た。私もアメリカに来てからは、家族との時間を今まで以上に大事にし、週末も平日も家族と多くの時間を過ごし、その生活にとても満足している。が、きっと彼の場合は「大事にしている」なんて生易しいものではないのだろう。それそのものが人生の目的であり、そのために激務やストレスに負けずに仕事を頑張るという原動力になっているのだ。

 

そんな風に先週末を反芻している傍ら、宮台真司氏の『社会という荒野を生きる』を読んだ。「仕事よりプライベートを優先する若者が増え、若者の企業への忠誠心が下がっている」という時流の背景を問われた時、右肩上がりの経済は親の代でとっくに終了し、終身雇用も壊れていく中で忠誠心が下がるのは極めて自然、という極めて自然な回答をしたが、その後が面白かった。では仕事より優先したプライベートの時間に何をするのかこそが大事であり、「個人のスキルアップ」、「趣味に興じる」、そして「自分の本拠地を作る」という時間の過ごし方があり、その3点目こそが一番大事であると説く。

 

仕事は仕事として、「自分のホームベース=本拠地、つまり出撃基地であり帰還場所であるような場所を、ちゃんと作ろうじゃないか」という方向です。典型的には家庭や地域です。

『社会という荒野を生きる』

この「自分のホームベース=本拠地、つまり出撃基地であり帰還場所であるような場所」というのはうまく言語化したものだと思う。が、親がそういう場所を家庭に作っていなかったり、地域のコミュニティ活動に勤しむ姿を見てない日本の若者には、きっと想像が難しいんじゃないかと思う。核家族化が進み、親が長時間労働を強いられ、家族の時間が少ない中で育った世代には、家庭が出撃基地であり帰還場所というのは肌感覚としてつかみにくい。一方でアメリカで生活をしていると、前出の同僚のように「自分の本拠地」作りに人生をかけて取り組んでいる人、それが言語化されずとも肌身に染みついている人が本当に多いので、宮台氏の言葉はすっと入ってくる。

アメリカに来たばっかりの頃は、日本の長時間労働の癖が抜けずに、だらだらオフィスにいがちの私に、「お前はアメリカに来たばっかりなんだから、もっと早く帰って、家族と時間を過ごしなさい」と上司によく説教された。きたばかりのアメリカで仕事でまずは認められ、生活に先立つお金の心配を除いてこその家庭生活であろう、と当時は思ったりした。が、あれは今から思うと「きちんとアメリカので本拠地をまず築いて、その次に仕事に取り組むのが順序である、揺るぎない本拠地無くして、仕事のエネルギーなど湧くかね」という価値観に基く、上司の心遣いだったようにも思える。

 

というように、楽しかった週末を思い出し、家族や仕事や人生について考えながら、その考えをさらに深めるために、「また、遊びにいっちゃおう」と決意するのであった。

『調理場という戦場』 斉須正雄氏のプロフェッショナルとしての矜持

「仕事論」というのはビジネス書の中でも人気ジャンルだ。私も多くの「仕事論」の本を読んできて、今の自分の血となり骨となった本も多い。それらの本の著者を思い返してみるとビジネスパーソンや経営者が殆どだ。やはり、自分と近い分野で働いている方の「仕事論」というのは、わかりやすいし、直接利用可能な考え方が紹介されている場合が多い。

 

しかし、「仕事論」の本というのは、内容が似たものが少なくない。勿論、それぞれの本ごとに個性はあるのだが、ある量を読むとどうしても「どこかできいたことがある話」が多くなってくる。また、書いている方の職業がビジネスパーソンと経営者に偏っているので、内容がかぶりがちだ。なので、数冊読むと「ま、もういいかな」という感じになり、ここ数年そういう本は読んでこなかった。

 

本日紹介する『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須正雄の仕事論』は、そんな私が久し振りに手にとった「仕事論」本だ。

「コート・ドール」という三田にある日本を代表するフレンチのオーナーシェフである筆者。若い頃にフランスに渡り、戦場のような調理場を渡り歩き、日本のフレンチの匠と言われるまでに登り詰めた。「フレンチの匠」というと、芸能人気取りでテレビやマスコミへの露出度の高いイメージが何となくあったが、斉須氏は徹底した現場主義。マスコミの取材やテレビへの出演などのイレギュラーなことが入ると、調理に影響がおよぶため、全て断っていると言う。

 

本書は、フランスに単身わたった修業時代から、日本で「コート・ドール」を立ち上げ、軌道にのせて、日本一の名店と呼ばれるまでの軌跡が描かれている。淡々としながらも熱量の高い言葉に溢れており、日々真剣勝負で仕事に対峙するプロフェッショナルとしての凄みを感じる。勿論、筆者はレストランオーナーであり、経営者であるわけだが、その心意気はいつもその日のお客様のために真摯に皿に向き合う一料理人としてのもので、その誠実な人柄が行間から伝わってくる。

 

アイデアを思いつくことはとても大切ですが、そこからがリーダーの仕事になるのです。アイデアが一だとしたら、そのアイデアが使えるか使えないか見わけることに一〇ぐらいの力がいるような気がします。

そして、最も大切な「アイデアを実用化できる生産ラインを作ること」には、一〇〇ぐらいの力を必要とすると感じています。
アイデアは、実用化なしでは生きられない。

やれたかもしれないことと、やり抜いたことのあいだには、大河が流れている。

『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須正雄の仕事論』

筆者は、新しいメニューを考案する際に、既存の手法やセオリーに囚われない自由な発想を大事にしつつも、チームでその料理を提供できることを一番重視している。戦場のように忙しい調理場で、他の料理を並行して作りながら、その新しい料理も責任をもって作ることができるかどうかが鍵だという。どんなに美味しい料理でも、他のことをすべて放っぽりださないとできない料理は単なるシェフの自己満足だと一刀両断する。スタッフが力をあわせれば無理なく生産できるライン作りまでが、クリエイターの仕事である、という筆者の姿勢にその仕事への誠実さを垣間見た。上の思いつきのアイデアで振り回されて悪戦苦闘する日々を送る会社員は、その清涼感に心を洗われることだろう。

 

12年間のフランス修行をおえて、自分の店の評判を日本一の名店とまで高めても、筆者は浮き足立つことは一切ない。スピードレースに興じず、自分のできることとやるべきことを一つ一つこなして、地道に前に進むことの大切さを「幸運」という言葉を使って筆者は下記のように表現する。

「これは、夢のような幸運だ」と思っているうちは、その幸運を享受できるだけの力が本人に備わっていない頃だと思うんですよ。幸運が転がってきた時に「あぁ、来た」と平常心で拾える時には、その幸運を掴める程度の実力が宿っていると言えるのではないでしょうか。

『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須正雄の仕事論』

日本一と言われながらも、地に足をつけて、その日来てくれたお客様に最高のおもてなしを提供することに注力する筆者。地道に困難を乗り越えながら、転がってくるべくしてころがってきた「幸運」を淡々活かしながら、今に到達したプロフェッショナルの格好よさが光る。

 

本書は、一料理人としての筆者の矜持に満ちている。一般的な「仕事論」の本に食傷気味な人、少し違った角度から自分の仕事の姿勢を見直しみたい人、プロフェッショナルの物語に浸るのんびりとした読書体験を楽しみたい人、そんな方々に是非おすすめしたい一冊だ。

 

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