Thoughts and Notes from CA

アメリカ在住、外資系企業歴30年の日本人会社員。 アメリカでの生活、海外での子育て、外資でのキャリア構築、そして現地に暮らして見えてきたアメリカ政治のリアルまで、日々の体験を通じて気づいたことをゆるく発信。 グローバルに挑戦する日本人が、少しでも勇気を持てるような発信を目指しています。

『プロジェクトリーダーの仕事』 プロジェクトが現実と向き合う瞬間にすべきこと

難しいプロジェクトに関わった人間が4、5人集まり、本書の内容をネタに酒を飲み始めたら、話が尽きずに一晩中飲める、『プロジェクトリーダーの仕事』はそんな本だ。筋の通った理論、プロジェクトの現場に渦巻く苦闘や葛藤、そしてゴールを実現するリーダーとしての心が描かれ、語りどころに事欠かない一冊。

 

著者、吉橋徹氏は総合商社を退職後、コンサルティング会社に勤め、30年近くプロジェクトマネジメントの専門家として数々の巨大グローバルプロジェクトを日米を股にかけて手掛けた百戦錬磨。肩書と経歴だけ聞いてもイメージが沸かないという方も、「第1章 背景」を数ページ読めば、筆者の豊富な経験がおのずと立ち上がってくる。そんな経験者にしか描けない迫力が本書には溢れている。ページを手繰るたびに、「あるよなぁ」という実務上はまりがちなプロジェクトのシーンのオンパレードで、息つく間もなく356ページの大作を読み終わってしまった。

 

プロジェクトが実行フェーズに入ると、計画時点では想定していなかった出来事、たとえば、要件の解釈がずれる、関係者の期待が変わる、前提条件が崩れる、外部環境が動くことなどが、必ず起こります。不確実性のないプロジェクトは存在しません。
重要なのは、不確実性を「例外」や「トラブル」として扱わないことです。実行フェーズにおける不確実性とは、プロジェクトが現実と向き合い始めた証拠であり、むしろ自然な状態なのです。

『プロジェクトリーダーの仕事』 第6章 実行

プロジェクトというものは、なかなか当初のスケジュール通りには進まない。想定外の要件がでたり、チームのパフォーマンスが思った通り出なかったり、そもそも初めのスケジュールに無理があったり、当初の想定が崩れて、徐々に「こりゃ無理だな」というk空気だけが蔓延していくプロジェクトが何度あったことか。筆者は、プロジェクトの不確実性を「プロジェクトが現実と向き合い始めた証拠であり、自然なこと」とし、そこで必要なのはトラブル対応ではなく、変化した状況を直視し、判断を引き受け、その更新された判断に基づいて実行を重ねていくことだという。

 

私の話になるが、勤め先で経営指標の一部を刷新するという緊急プロジェクトが立ち上がり、昨年の10月頃から従事していた。そして、そのプロジェクトは、恥ずかしながら絵に描いたような崩壊をたどっている。
新CEOの号令で新年度に間に合わせるべく1月半ばから稼働という無理筋なスケジュールがひかれ、「いや、無理じゃね」という空気感の中でプロジェクトは開始。案の定、予定通りに作業は終わらない。そして「新経営指標の新年度展開」というゴールは、「第一四半期が終わるまでになんとかすれば良いんじゃない?」と自然に醸成された空気に置き換わっていった。そして、7割近く進んだあたりから、終了の宣言のないまま、リソースが自然消滅的にはがされ、未完了の3割には、今も蓋がされたままになっている。
本書の言葉を借りれば、プロジェクトが現実に向き合い始めた時に、状況を直視して判断を更新できなかったのだと思う。管理型PMは存在していたが、「判断を引き受けるリーダーシップ」が発揮できなかったのだ。
「あぁ、このプロジェクト開始当初に本書を読んでいれば」と、正座で猛省している。

 

そして、上記のような『プロジェクトリーダーの仕事』の真髄があますことなく描かれていることにプラスして本書の魅力となっている点は、単なる方法論の解説ではないところだ。かなりの紙面が割かれた「COLUMN」や「ここだけの話」には、筆者の生きた経験が凝縮されている。こういう欄には自分の華々しい成功体験を書きたくなるものだが、本書で紹介される多くは苦い失敗談だ。単に正論を振りかざすだけでなく、正論を実現する際の痛みや苦労もあわせて描かれており、現実を直視してきた経験者のみが醸し出せる迫力がある。苦しみながらプロジェクトを推進するリーダーにきちんと寄り添ってくれる。

 

本書に通底するメッセージは、現代のプロジェクトは単なるタスク・進捗管理をしているだけでは成功に導くことができないということだ。覚悟とオーナーシップをもった判断を積み重ねる役割を、誰かが引き受けなければ、複雑なプロジェクトの本当のゴールは達成できない。「判断を引き受ける」という定量的な指標には表れにくい原則の重要性が、数々の失敗や葛藤と共に描かれているからこそ、本書のメッセージは心に刺さるのだと思う。

 

冒頭の繰り返しになるが、難しいプロジェクトの経験者が集まり、本書をネタに酒を飲み始めたら、話が尽きることはないだろう。『プロジェクトリーダーの仕事』は、そんな一冊だ。多くの方に手にとって頂きたい。

531ページの課題図書に取り組む息子のはなし

531ページの課題図書で終わった息子

学校から帰ってきた息子が「お父さん、終わったわ、、、」とため息混じりにこぼす。

どうも、授業の課題図書で渡されたのが、『All the light we cannot see』という原書で531ページの大作である、という。本を読むのがそれほど得意ではない息子にはなかなか骨が折れるだろう。

調べてみると『すべての見えない光』と言うタイトルで日本語訳もでており(訳本は文庫版は720ページ)、ピューリッツァ賞(フィクション部門)を受賞し、Netflixで映像もされている話題の本のようだ。

まぁ、親として骨を拾ってやるか、と言う気持ちで私も読んでみることにした(勿論、私は日本語で)。

 

『すべての見えない光』

第二次世界大戦末期のフランスが舞台。盲目のフランスの少女マリーとドイツの青年兵であるヴェルナーの運命が戦時中に数奇な形で交錯するという歴史小説。

時間軸と登場人物が交錯しながら物語は進行していく構成。初めは繋がりのない糸が徐々に一点に収束するように描かれる精緻な立体建造物のような作品。一方で読ませるだけでなく、余白や余韻をもうけ、解釈の幅を読者に委ねている点も心にくい。読みごたえはあったが、なるほどとうなづく名作であった。

 

この時期に大著を読ませるアメリカの公教育

本書の内容も大変興味深かったが、私はこれだけの大作を高校2、3年生に読ませるアメリカの公教育のあり方により関心を持ってしまった。

授業の構成は、課題図書を読むために生徒に4週間与え、残りの1-2週間でグループワークでリサーチやディスカッションをし、グループで発表をするというプロジェクト形式。

多感な高校生にこういう分量も読み応えもたっぷりの名作を読ませ、様々な読みの解釈を議論で深めて、まとめさせるというのは、豊かな学びの機会になるだろう。その反面、生徒は読書そのものに相当時間をとられ、読みどころたっぷりの本作を一つの発表でグループワークでまとめるという別の難しい課題への取り組みも求められる。生徒は大変ではあるが、読書力だけでなく、考える力を養うよい授業だと思う。

 

受験勉強に明け暮れていた私の話

それにしても、高2-3年の時期にじっくり名著と1カ月向き合うというのは学校授業としては贅沢な時間の使い方だ。高校2年と3年と言えば、私は大学受験に明け暮れ、現代文の問題集に取り組み、古文や漢文の文法を詰め込んでいた時期だ。以前『娘の勧めで読んだ『絶望死のアメリカ』に垣間見るトランプ人気の背景』という記事を書き、受験勉強中の娘が予備校講師から本書を勧められた、という話を書いたら、「こういう本を受験生に薦めることができる予備校講師って、なんかすごいな。同じくらいに購入する娘さんもすごい。」というコメントを頂いた。娘がこの大著を受験勉強中に読んだのは、帰国入試のからくりがあるわけだが、このコメントは大学受験勉強中の殆どの日本の高校生はじっくりと読書に向き合う時間がないことを、よく物語っている。

 

でも、最後は本人次第

まぁ、とは言え息子に話を聞いたところ、「年度末の期末試験が差し迫ったこの時期に、こんな500ページ超の本を読ませるなんて」と殆どの生徒は不満たらたららしい。先生も、あっけらかんと「みんな、読んでる?良い本でしょ?」と軽いタッチで話しかけ、生徒の不評を買っているらしい。実は単なる読書好きのおばさんで、練りに練られた教育プランでもないのかな?という気もしてくる。まぁ、息子とその同級生諸君、与えられた課題をどのように自分の糧にするかは自分たち次第だ。Good Luck!

風邪の診療代が9万円でほっとした話

風邪の診療代が9万円

3月半ばくらいからのど風邪をひいてしまい、1週間以上床にふせっていた。はじめの3日ほどはベッドから動けず、治る兆候も一切なかったので、意を決して土曜日にUrgent Care(緊急医)にかかることに。

 

細菌検査と抗炎症剤の注射をしてもらい、強めの抗炎症薬の処方してもらった。その後はひたすらベッドで安静にし、散歩などをするまでに回復するのに、受診から1週間近くかかった。身体が元気になると、「あぁ、あの診療はいくらかかったのだろう」とお金のことが気になりはじめる。

 

そして、やってきた請求書の金額は約$560、日本円でおよそ9万円。日本であれば、フルコースの人間ドッグが受診できる金額。これは20分ほどの医師による診療と検査の値段である。なかなかの破壊力だ。ところが、私はその請求書を見て

あぁ、結構安かった。$1,000くらいはかかっても仕方ないと思っていたから「許された」って感じだなぁ。

などと感じてしまったのだ。もう、アメリカ生活に慣れ過ぎて、感覚がマヒしてしまっている。

 

9万円の対価で得たもの

振り返ってみると、Urgent Care(緊急医)に行き、高額な支払いをしたことで私は下記の3つのことをえていた。

  • 体調不良の原因調査(ウィルス性の咽頭炎と診断)と専門家に診てもらうという安心感

  • 市販薬より強い処方薬をえることのできる処方箋

  • 緊急医にかかったことによる仕事を罪悪感なく休む免罪符

 

最後の点は今回気づいた。アメリカの職場で「Urgent Care(緊急医)に行った」というのは、日本で言うところの「入院した」と同等くらいの威力を持つパワーワードなのだ。職場の全員が医療費の高さを知っているので、「医者に行った」と言うと

(Are you that sick to have to spend so much?) Oh my god, take care
(そんなに多額の支出をする位、具合が悪いのか)なんてこった、お大事に

となり、仕事がしばらく免除されるのは、新しい発見であった。

 

ゆとりがあるものが得ることができる特権

アメリカでは、医療というのは公共サービスではなく、市場取引される商品なのだ。私は今回9万円の支払いをすることで、「医者に行った安心感」、「仕事を休む正当性」、「処方薬購入の権利」という3つを購入したのだ。

 

わが家は幸いなことに生活にゆとりがあり、詳述しないがHSAなどを活用している関係で、医者にいくことができなくもない。ただ、風邪をひいて$560というのは、生活がかつかつの人にはかなり厳しいだろう。

 

アメリカの医療費はそれほど高く、今や「贅沢品」となってしまっている。今の勤め先は健康保険が充実していないので、なおさらダメージが大きい。市場に値決めを委ねているアメリカの医療市場が、こんなに機能をしていないのは、まさに「市場の失敗」の好例である。アダム・スミスを呼び出して、「お前さん、『見えざる手』とかほざいたよな」と、こんこんと問いつめたい。

 

健全な先進国への憧れ

先日、サンデルとピケティの『平等について、いま話したいこと』という対談本を読んだのだが、下記のようなことが書いてあった。

アメリカの保健医療制度を考えてみてください。長年にわたって莫大なお金が注ぎこまれてきました。かつては医療費がGDPの一〇%、一五%と言われていました。それがいまは一八%で、もうすぐ二〇%に迫る勢いです。その見返りとして平均寿命や基礎的な健康統計はどうなりましたか? 結果は実にひどいものです。
『平等について、いま話したいこと』

 

医療が商品化されることで、健康的な生活を送る安心感や職場を気兼ねなく休む権利まで、支払い能力が高いものに許された特権になっているのがアメリカの現状だ。もちろん、市場競争の結果として生まれている先進的な医療技術や、低所得者向けの医療保険制度であるメディケイドの存在など、認めるべき一定の成果もある。だが、「20分の診療で9万円、それすら安いと感じてしまう感覚」が常態化している社会は、健全な先進国の姿とは思えない

補習校における「家庭学習」の肝

毎週出される大量の宿題と金曜日の夜の追い込まれた親子の阿鼻叫喚。これはよく見る補習校に通う家族の金曜日の夜の風景だ。
多くの欧米の在外子女は補習校に通っている。補習校は大抵、土曜日にだけ開校され、その1日で日本のカリキュラムにキャッチアップをするという荒業だ。当然、週に一度の登校でキャッチアップできるわけもないので、「家庭学習」が中心に据えられる。

ところが、「家庭学習が大事」と言われながらも、その「家庭学習」の要点が保護者に教えられることはあまりない。

 

音読聞いてあげたり、宿題でつまったところを教えてあげればよいんでしょ

くらいの理解の方が多いし、私もそんな理解だった。が、ここが大事なのだから、補習校の保護者はもっと「家庭学習」への解像度を高めるべきだ。私自身も、試行錯誤を重ねながら、その核心をつかんだのは、私の子どもが「家庭学習」の世話にならなくてよくなった学年くらいであった。なので、この記事では、補習校に通うお子さんの保護者のために、補習校生徒保護者経験13年の私の経験を踏まえて、「家庭学習」の肝を語りたい。

 

そもそも、「無理ゲー」

現地校に通いながら、週に一日の補習校で日本のカリキュラムにキャッチアップするというのは、そもそも「無理ゲー」だ。

単純に二か国のカリキュラムを同時並行で進めるのは物理的にボリュームがでかい。おまけに、英語か日本語のどちらかが得意でなければ、片側の負荷は通常より大きくなるわけだから、少なく見積もっても2.5倍は難しい。

別に無理だと言っているわけではない。日本であれば「家庭学習」でのサポートをそれほど必要としない子どもも、自ずと親の助けになる、という現実を理解する必要があるのだ。

 

「家庭学習」の肝は「因数分解」

ずばり、「家庭学習」の肝は「因数分解」だと私は思う。と言っても、数学の因数分解をじっくり教えましょう、ということではない。言いたいのは、やらないといけないことを、子どもが着手できるレベルまで、分解してあげましょう、ということだ。

例えば、宿題を例にとろう。補習校の宿題の量は膨大だ。勉強ができ、ゆとりがある子は、「宿題ちゃんとやんなさい」と言えば、期日以内に宿題を終わらせることができる。が、色々いっぱいいっぱいで、何から手をつけたらよいのかわらないという子どもに、「宿題ちゃんとやんなさい」とだけ言っても、膨大な宿題を前に子どもは何から始めれば良いのかイメージできず、途方に暮れてしまう

宿題をちゃんとやるには、下記のステップが必要だ。

  • 宿題の内容を確認する

  • 計画を立てる

  • 実際に取り組む

  • 進捗を確認する

  • 必要に応じて計画を見直す

繰り返すが勉強ができる子は手取り足取り教えなくてもできる。が、勉強が習慣づいていなかったり、ついていけない子は、膨大な宿題を前に終了までのイメージをつくることができず、着手できるところに到達しない保護者は子どもの代わりに算数ドリルをやることはできないが、ここの「因数分解」は助けてあげることができる。まずは、子どもが努力を開始できるところまで連れていってあげることが必要だ。

どのくらい助けが必要かは、もちろん子供による。「宿題の計画作成」を例にとろう。子どもによっては、下記のようなざっくりした内容でもきちんとできる。

  • 火曜日までに国語完了

  • 木曜日までに算数完了

  • 漢字テストの勉強は基本毎日

一方で、下記のようなレベルまでにおとしてあげないといけない子どもも多いだろう。

  • 国語のワーク P.10-15は日曜日の9時から11時

  • 算数ドリルは1日2ページを16時~17時

  • 漢字テストの練習と間違えた問題の書き取り10回は17時~17時30分

これは子育て全般に言えることだが、子どもの代わりに親がしてあげられることは少ない。親ができることは、目の前の階段の一段が高すぎて子どもが登れないときに、細かい階段を作ってあげて、初めの一歩を踏み出すサポートをすることだけだ。

もちろん、階段を登る過程でつまずくこともある(例えば、算数ドリルのある問題がどうしても解けない)。そこで、子どもが親に助けを求めたら、手を差し伸べてあげればよい(算数の問題ならどうやって解けばよいのかヒントをあげる)。が、私から言わせれば、ここは「家庭学習」の肝ではない。子どもが助けを求めた時に手を差し伸べるのは、正直さほど難しくない。一番大事なのは、子どもが彼らの努力を開始できる段階まで、彼らが直面する問題を細かく「因数分解」してあげることなのだ。

 

子どもの状況をとにかくよく見てあげる

こうやって、努力すればできる段階まで、親が手伝ってあげても、もちろんできないこともある。むしろ、初めの頃はできないだろう。が、決めたことをやらない全ての原因を子どもの怠慢とみなしてはいけない。きっと、子どもなりの下記のような色々な事情があるのだ。

  • 実はまだ着手できるほど細かくない

  • 着手してはみたが、歯が立たなかった

  • クラブの活動などが忙しく、集中力が保てない

  • ただ、面倒くさいから先延ばしにしている

もちろん、最後のケースの場合は、親がやるまでに指導しなければならない。これは、手間がかかるし、思い通りにいかずストレスがかかる。が、この大変さに対処するために、他の要因をなるべく取り除くことが大事だ。

子どもの状況にあわせて、子どもが努力できる状態を作ってあげることができるのは、優秀な家庭教師でも頼まない限り親だけだ。そして、そこまで子どもに情熱と愛情をもってあげられるのも親だけだ。ぜひ、お子さんの状況をしっかり観察して、何に躓いているのかをじっくり見てあげて欲しい。

 

保護者にとっての補習校の活用方法

冒頭に言ったが、やっぱり海外で、週一の補習校で日本のカリキュラムをこなすというのは、構造的に「無理ゲー」なのだ。が、どんな難しいゲームもそれなりに攻略方法さえ抑えれば、クリアできないことはない。そのために必要なのは保護者同士の情報共有と連携だ。
補習校というのは、子どものためでもあるが、そんな在外子女の教育に悩む保護者のためのものでもある。ぜひ、海外での子育てに悩む方は一人で抱えずに、同じゲームをクリアしようとしている同士の保護者に助けや助言を求めて欲しい

この「無理ゲー」の難しいところは、「こうすればクリアできる」という決まった答えがないことだ。ゲームのキャラクターとは異なり、子どもは一人ひとり違い、ある子どもにあてはまったやり方が他の子どもに当てはまるわけではない。だが、画一的な解決策がなかったとしても、似通った状態の子どもというのはどこかにおり、誰かしら同じ問題に直面しているものだ。ぜひ、保護者のネットワークを活かして、他の保護者にも助言や助けを求めて欲しい。それこそが「コミュニティスクール」である補習校の強みである。

 

最後に

どれだけ参考になったかは分からないが、いくつか「家庭学習」を充実させるための要点を私の経験から共有させて頂いた。何度も言うようであるが、これは誰でもできる簡単なことではない。この記事を読んだところで、引き続きうまくいかないこともあると思う。それでも、親ができることは、子どもに寄り添って一緒に一歩一歩進むことだけだ。一人で抱え込まずに色々な方に相談をしながら、子どもが乗り越えるための手助けを愛情を込めてしてあげてして頂きたい。Good Luck!

本の要約はなぜ頭に残らないのか - AIとYouTube時代の『バカの壁』

450万部の大ベストセラー『バカの壁』

養老孟司氏の『バカの壁』は、新書で450万部も売れた大ベストセラーだ。本離れが進む状況で、今後この記録が塗り替えられることはないだろう。

 

最近、読書の幅を広げて新書に手を伸ばし始めた息子が読んでいたので、私も遅ればせながらてに取ってみた。
人は、自分の理解できる範囲で世界を捉えてしまいがちな、「わかった気になりやすい」生き物だ。筆者は、自分の理解を疑わずに思考を止めてしまう有様を「バカの壁」と表現している。
このパワーワードを強力な武器として、450万部も新書を売ったのは驚異的だ。また、「売れている本はそれなりに面白いだろう」というある種の「バカの壁」に囚われて、私も本書をまんまと手に取ってしまった。

 

「わかったつもり」という思考の罠

本書は、真実というものはより深淵で、捉えどころがないという前提にたつ。その上で、五感を研ぎ澄まし、様々なことを体験して、自分に培われた直感や社会的な背景を総動員しようやく近づくことができるという立場をとる。一見まとまりに欠くと感じる読後感も、「バカの壁」とは何かということをじわじわ浮き立たせる筆者の狙いなのかもしれない。

 

本の要約動画が頭に残らない理由

本書を読みながら、YouTubeの本の要約動画が、なんで頭に残らないのかが腑に落ちてきた。
良書というのは、筆者が伝えたいことを、歴史的背景や様々な事実や視点とともに、多角的に捉えて、その主張を浮き上がらせる。これは言わば筆者の思考や人生の追体験である。

一方で、AIの要約やYouTubeの解説動画というのは要点がよくまとまっており、「わかった感じ」にさせてくれる。その反面、筆者の思考や人生の追体験という、主題を浮き上がらせるプロセスを大幅に省いてしまっているから、どうしても理解が浅くなってしまうのだろう。そういう点で、これらの現代的なツールは、新たな「バカの壁」を生み出す装置であると、きっと養老先生はご立腹であろう。

とは言っても本の要約チャンネルが悪いと言っているわけではない。それをきっかけに原書を読んでみるという人は多いだろう。また、自分の読んだ本の要約動画をみて、さらに多角的な視点を得るという使い方もできる。ただ、お手軽さを求めて要旨を動画を通してさくっと得ようとしても、その単発の動画からの知的インプットは少なくなりがちだ。

 

容易な評価を許さない手ごわい本

正直、私は本書が450万部も売れるほど評価される理由はよく分からない。が、本書が恐ろしいのは、その私自身の評価が「バカの壁」に囚われているのではないか、と自問を迫る構造を備えている点だ。
安易な評価を許さず、読み手に常に「自分の理解が十分か」を問いかける。この姿勢を読み手が読後に備えるならば、本書は良い本だという言えるだろう。「わかりやすさ」が最も求められる現代に再注目されて良い本だと思う。

 

現代版『バカの壁』のススメ

が、お年寄りの説教臭さと時代にそぐわないジェンダー感などが若者への別の「壁」となってしまうだろう。なので、現代的な文脈への焼き直し版があると若い人は手にとりやすいだろう。そして、その作業をやるのに意外と適切なのは「AI」であることは、何とも皮肉なことである。

イラク戦争を経験した退役軍人のリーダーシップ研修を実際に受けた話

先日、退役軍人が講師を務めるリーダーシップ研修に参加する機会があった。アメリカは、日本よりも退役軍人が民間企業で働くケースが圧倒的に多い。そして、軍はアメリカ最大のリーダーシップ養成機関と言われており、退役軍人が記したリーダーシップ論の書籍が多く刊行されているだけでなく、そういう研修も非常に充実している。

 

講師はイラクやアフガニスタンに従軍していた経験豊富な退役軍人。会社員にとって最悪のシナリオは自身の解雇や部下の解雇だが、軍人にとっての最悪のシナリオは自身や部下の死である。リーダーが示す方向性が人の生き死にに関わる極限の状態で、磨かれたリーダーシップ論は目から鱗が落ちるものが多く、また聞いたことがあるような話であっても、新鮮な視点で再度学びなおすことができた。

 

色々、勉強になったが、特に印象に残ったものを3つまとめたい。

 

頑張るリーダーが陥る”Performance Dependency”の罠

講師はイラク戦争に従軍し、大きな危険を伴う輸送作戦の指揮をとっていた。部下を失うことへの恐れから、一日に2回行われる輸送作戦に37日間、休むことなく毎日同行したという。そんな時に、自分の上官から下記のような指摘を受ける。

If your leadership requires you to be present for the team to work well, you’re building dependence.
The true measure of leadership is not how well the organization functions when you are present, but how well it functions when you are absent.
安全や効率性のために君がその場にいることが必要なら、それはリーダーシップではなく、君への依存を生んでいるだけだ。
リーダーとして本当に重要なことは、君がいる時に組織がどう動くかではない、君がいない時にどう動くかなんだ。

 

この言葉は結構「がーん」と来た。というのも月初の一番忙しい時にリーダーシップ研修なんてものに参加させら、私は休み時間の度にちょこちょこ進捗を確認したり、場合によっては短い会議をチームとしているところだった。あれ、これって言われている”Performance Dependency”じゃない?とドキッとしたのであった。

そして、講師はこう続けた。

Instead of proximity-based leadership, we needed preparation-based leadership.
常駐型のリーダーシップではなく、準備ベースのリーダーシップが求められている。

 

つまり、常にリーダーが現場にいることで成立する組織ではなく、必要な準備とトレーニングによって自律的に動ける組織を作ることが真のリーダシップなのだ、と。耳の痛い話であった。

 

リーダはそこにある「力を方向付ける人」

Leadership doesn't create the energy. It just directs it.
リーダーシップというのは「力を生み出すこと」ではない。そこにある「力を方向付けること」だ。

アメリカのIT企業は上昇志向の強い人間の集まりだ。その中でも若い人はとにかく上にいこう上にいこうという意識が強い。が、若ければ若いほど、そのやる気が空回りすると面倒だ。明後日の方向を深堀りしたり、独自の判断で優先順位を変えたり、やる気がバックファイヤーして会社批判に向かったりと難しい人も多いし、疲れる。

 

そんな中でチームを率いているので、すでに存在しているエネルギーを正しい方向に導くのが役割である、という言葉は心に響く。

 

元気一杯の上昇志向の強い若者たちのエネルギーを、良い方向に導いてあげないと。

 

誰かに語られる「物語」になる

講演者は最後を下記のように締めた。

When you notice potential, name it.
When you see someone hesitating because of authority, or someone who simply needs a chance, decide whether you are willing to spend your credibility on them.
Because years from now, someone will tell a story about you. You may never know when that story is written.
Be the leader who shows up in that story.
Be on someone’s Mount Rushmore.

When that moment that matters comes—
be ready.
誰かの可能性に気づいたなら、それを言葉にしてあげてください。
もし誰かが権威を前にひるんだり、チャンスを必要としているなら、自らの信頼の貯金を投資すべきか、常に見極めようとしてください。
いつか誰かが「あなたの物語」を語るかもしれない。あなたはそれを知ることがないかもしれなくても。
誰かの「物語」に登場するようなリーダーになってください。
誰かの人生に刻まれるような存在であってください。

そんな大事な瞬間のために、リーダーとして常に準備をしてください。

これ以上私が多くを語るのは野暮だが、リーダーシップというものは連鎖するものだということを再認識させられる、素晴らしい講演だった。

 

最後に、”Pay it Forward"

イラクやアフガニスタンでの緊迫した経験、そしてそこから紡ぎ出されるリーダーシップ論には、やはり独特の重みがある。

 

今回の研修を通じて、リーダーの役割は自分がすべてを背負うことではなく、組織が自律的に動く環境を整え、人の力を正しい方向に導くことなのだと改めて感じた。

そしてもう一つ。


リーダーシップも、誰かから受け取ったものを次の人へ渡していく “Pay It Forward” の連鎖なのだ。私も自分が良い年なので、受けたものを次の人に渡さなければ。

 

官民の人材の行き来が盛んなアメリカならではの、非常に示唆の多い研修だった。

 

「国語力」はまだ取り戻せる 帰国入試というヒント

『誰が国語力を殺すのか』

アメリカで子育てをする人にとって、子供の日本語力、国語力をいかに育むかは大きなテーマだ。

 

そんな国語力について語った『誰が国語力を殺すのか』という興味深い本を読んだ。本書は現代日本の世相を丁寧に読み解きながら、国語力の低下の原因に迫る意欲作だ。

 


私は自身の日本での経験とアメリカでの子育て経験から日米の両方の教育形式を知っている。本書で語られる内容は、日米比較という面でも示唆に富む。特に日本のゆとり教育について多くの頁が割かれている。「授業時間が減って学力を下げた」みたいなザクっとしたイメージしか持っていなかったが、この箇所は非常に勉強になった。

 

本書では「ゆとり教育」の要点が、下記のように整理されている。

ゆとり教育の目玉は次の三つだった。
1、授業時間の縮減(完全週五日制、年間七〇単位削減)
2、教育内容の厳選(高度内容の削減、「総合的な学習の時間」、絶対評価、選択教科の拡大)
3、国際化への対応(小学校での外国語教育、中高で「話す・聞く」に重点)

 

意外なことに、この整理を読んで私は

あっ、これは私がいつも思っている、日本の教育のここを直して、アメリカの教育のあそころを取り入れればよいのに、という点をよくカバーしているじゃないか。

と感心してしまった。

 

一言で言えば「詰め込みからの脱却」であり、方向性としては正しい。今高校に通う息子は、先日まで高校の選択授業で何を選ぶのか大いに悩んでいた。その悩みの幅は「デジタルアート」から「陶芸」まで幅が広い。高校のこの選択教科のことを「Elective」というのだが、「選択教育の拡大」というのはそれを見越したものだろう。日本の大学受験で、5教科6科目をがっつり詰め込んで、文字通り受験戦争を潜り抜けた私としては、思考力や表現力に軸足を移し、多様性をはぐくもうという意図はわかるし、納得感も高い。

 

では、何が問題だったのか。

 

変わらなかった大学入試

小学校から高校までのカリキュラムは変わりながら、大学入試制度がほとんど変わらなかったことが、意図通りにことが進まなかった一番の原因だろう。

 

どれだけ、思考力や表現力と掲げても、出口の大学受験が従来型の知識偏重試験である限り、学校も塾も、そして家庭もそちらに向かわざるをえない。

 

学歴重視で「良い大学に入ることが成功への手堅い道」という市場原理がある以上、入試が変わらなければ現場は変わらない。

 

ゆとり教育は、方向性としては新しかったが、高等教育機関である大学が変わることができず、結果として「単なる授業時間の削減」になってしまったことが残念だ。

 

アメリカの大学のように、高校の成績と基礎学力レベルと個人の経験と資質を問う受験形式にすれば、違った道が見えたに違いない。

 

娘の帰国入試で感じたこと

昨年の春から大学生になったわが家の娘。日本に戻って帰国入試に挑んだ。その内容は私の経験した大学入試と異なり、英語・面接・小論文が中心。

受験勉強として中心になるのは、

  • 予備校で薦められる大量の推薦図書の読書

  • 課題文を読んでの小論文作成

  • 各大学学部の志望動機と希望研究内容の記述

  • 日本の受験英語のお作法の学習

という感じ。最後はご愛敬であるが、私が経験した詰込み型受験勉強と比較して、はるかに「考えさせられる」入試となっている。

 

正直、離れて暮らしていたこの大学受験の時期が、私の人生の中で娘から最も相談を受けた期間であった。

 

「こういう方向まとめたいんだけど、この点がうまく言語化できない」
「読んでいる本のこの記述が、言葉の意味はわかるが、腹落ちしない」

 

もちろん、私だって正解を提供できる質問ばかりではない。が、娘に伴走して、彼女が自分の頭で咀嚼し、自分の言葉を紡ぐことくらいは手伝うことができる。

そんな「考えさせられる」受験をしている娘の姿を見て、私は「いいなぁ、自分も高校3年生の時にこういう受験をしたかった」とひそかに思ったのであった。

 

「ゆとり教育」が悪かったのか

「ゆとり教育」には非常に残念ながら「失敗」というハンコが既に押されてしまっている。文部科学省主導で、再度この方向に舵を切るのは難しいだろう。日本が「詰込み教育」を変える機会を逸してしまったのは痛恨の極みだ。

 

過程を変えようとしたが、最終着地点である大学が変わらなかったので失敗に終わってしまった。もう次の手は最終着地点の形を変えるしかないのではないか。

 

大学受験で問う内容を、知識量ではなく、考え、書き、語る力を見る。

娘の帰国入試を通して、「日本の受験だって一部でこれやってるんだから、もっとこういう枠を拡大すればいいんじゃないか」と思ってしまう。

 

本書は、ゆとり教育をやり玉にあげるのではなく、「子どもたちにどんな教育を提供してあげれば良いのか、そのために政府、学校、家庭で何ができるのか」を多角的に問う。お子さんがいる方々にはぜひ手にとって頂きたい一冊だ。

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