アメリカ暮らしと外資系のはなし

外資系企業に勤めて三十年、アメリカに移住して十余年。外資系企業での仕事から、日々の暮らし、読書や社会のことまで。

「ゲリマンダー」で父親とした恥じた話

アメリカの中間選挙はいよいよ次の火曜日にせまった。中間選挙関連のニュースを追っているのだが、その中でひっかかっていたのが共和党によるゲリマンダー。これは、自分の政党に有利になるように選挙区割りを変更するという政治手法、アメリカ政治のえげつないところをよく表している。

このゲリマンダーであるが、ニュースで耳にした時から結構なパワーワードだと感じていた。非常に稚拙な視点で申し訳ないが、初めの2文字の語感がどうしても気になってしまう。みんな、表立って言わないだけで、「ん!?、『ゲリ』マンダー?」と思う方は少なくないのではないだろうか。

 

娘が日本に本帰国し、現在は妻と18歳の息子と私の3人暮らし。男性比率が高くなってしまったせいか、日ごろの会話の品位も少なからず落ちてしまった。このゲリマンダーを息子に言ったらきっと狂喜乱舞するに違いないと思いつつ、妻を交えてあまり下品な会話をするのは自重すべきだ。私の妻はコーラスクラブに所属しており、火曜日の夜は練習で不在。火曜日の夕方は息子と二人で晩御飯の準備をするので、これは絶好の機会と話題を振ってみた。

 

今度アメリカの中間選挙があるが、共和党が自分たちに有利になるように選挙区割りを変更しているんだけど、それを何て言うか知っている?

息子は政治への関心は低い。間違いなく「いや、全然わかんない」という答えが返ってくるであろうと思っていたのだが、

あぁ、それ授業でやったよ、うわぁなんだっけなぁ!?

という予想外の息子のリアクション。

 

彼は現地校の選択科目でGovernmentの授業をとっている。きっと、時事性があるので、教師がカバーしたのだろう。が、あの耳に残るパワーワードを聞いて、18歳とは言え男子である息子が覚えていないというのも不思議だ。必死に思い出そうとする息子は

うーん、ちょっとノート見ていい?

と、あろうことか、授業のノートを取り出し、復習まで始めるではないか。「ゲリマンダー!わっはっは」と、盛り上がるつもりだった私にとって想定外の展開だ。そして、該当箇所を見つけた息子。

 

あ!あった!そうだぁ、Gerrymandering(ジェリィーメェアンダリング)だ。

と、私には真似できないきれいなアメリカン・イングリッシュで発音するではないか。えっ!?「ジェリー」なの?そう言えば英語版のニュースも基本NotebookMLに投げて音声解説させていたので、Native発音を全く聞いてなかった。おまけに、授業で実際にプリントを使って選挙区割りの演習をやったようで、そのプリントの説明をする始末。

 

そして、ひとしきり私に説明をした後に、

ところで、Gerrymanderingがどうかしたの?お父さん?

ともっともな質問をする息子。もう、現地校できちんと政治の勉強をしていた息子に感服し、そんな雰囲気でなくなってしまったが、仕方がないので、日本語だとゲリマンダーって言うんだぜ、みたいな話をしたところ

へぇ、そうなんだ、サラマンダーの「ゲリ」版みたいな感じ?

と、レベルを落として、話しを合わせられる始末。

 

息子は現地校の授業でアメリカの選挙制度や仕組みをきちんと勉強し、演習までしているというのに、私と言えば50歳を超えたいい大人であるにも関わらず「ゲリマンダー、わっはっは」と息子と盛り上がろうと画策する体たらく。父親として大いに恥じ入った。

 

それにしても、アメリカに暮らしていると、そのカタカナ英語はないだろぉ、と首をかしげることがよくある。ThemeとかAllergyとかかなり違うし、以前住んでいたRaleighは日本語表記がなぜか「ローリー」で、どうしてもなじめず未だに「ラーレー」と日本語でも言ってしまう。
これは言葉が違えば起こってしまう仕方ことないことだと、今まで目くじらをたてることはなかった。しかし、今回ばかりは恨まずにはいられない。せめて「ジェリーマンダー」だったら、こんな恥ずかしい思いをしなくてもすんだのに、おのれ。

『日本人が知らないアメリカ』12年住んでもつかみきれないアメリカ

アメリカに住んでみると、自分が持っていた「アメリカのイメージ」というのはいかに表面的だったのかを思い知らされる。西海岸のテック企業、ウォールストリートの金融街、ハンバーガとピザなど自分が象徴的と思っていたことは、多様なアメリカのほんの一側面にしかすぎなかったことを、日々実感している。もちろん、私など実際に3か月以上住んだことがある州は3つだけで、訪れたことのある州も15州程度。12年住んでいるが、まだほんのさわりにしか触れていない。

 

  • 日常的に通っているレストランの従業員に普通に不法移民がいたり

  • 職場での結構な塩対応を受けて「あれ、人種差別!?」と感じたり

  • 逆に学校の先生に問い合わせしたら人種差別主義者と誤解されたり

  • トランプ大統領当選を受けて、近所の人が「Welcome to Red Empire!!」という看板をかかげたり

ささいな日常のワンシーンから、ステレオタイプとは異なるアメリカの別の一面を、生活実感を通して感じることができるのは、大変な面ももちろんあるが、母国を離れてこそできる得難い体験だ。

 

それらの「典型的なアメリカのイメージ」の奥にある、肌触りのある生のアメリカを「B面のアメリカ」と称して紹介するYouTube動画「BACKSTAGE AMERICA」は、私が毎回欠かさずに見ている数少ないYouTube動画だ。『福音派』を上梓し、一躍脚光を浴びるようになった立教大学文学部教授加藤喜之氏とジャーナリストの竹下隆一郎氏がMCを務め、政治や宗教に限らず、食や音楽など多岐にわたるテーマでアメリカを解剖している。「あぁ、わかるわかる!」ということもあれば、「それは知らなかったなぁ」と目から鱗が落ちることもあり、毎回見逃せない。

 

そして、つい先日その「BACKSTAGE AMERICA」を土台とした『日本人が知らないアメリカ』が出版された。番組の再構成という形をとっているが、聞き流すYouTube動画と異なり、文字媒体としてあらためてインプットすると、理解が深まったり、動画視聴時には流していた部分が目にとまったり新しい発見があった。

 

最近はアメリカ政治を語るキーワードとして、ポストリベラリズムやテック右派などの新しい切り口がでてきている。だが、こういうものって別にポッとでてきたわけではなく、本書で語られるB面のうねりとして必然的に表出したものなので、ただニュースを見たり、本を読むだけでは、どうしても腹落ちしない部分がある。

例えば、ポストリベラリズム論者は、「アメリカの古き良き地域コミュニティの崩壊」という問題点をよく指摘する。

  • 朝の子供の登校時に、小学校の前の通りでプロ並みの切れ味で交通整理をする保護者のお父さん(仕事は!?)、とか

  • 近所の野球グラウンドの脇に大量の車が駐車され、朝から日よけのテントをはって、折り畳み椅子で固まって談笑しながら、子どもの野球を応援するお父さんとお母さん、とか

そういうシーンを日常的にみてきた私は、アメリカの地域コミュニティの価値というものを生活実感として感じてきた。一方で、最近そういうものが徐々に廃れてきているという実感も実はあり、ポストリベラリズム論者の懸念もよくわかる。

 

本書は、そんな日本で生活しているとわかりにくい、手触りのあるアメリカを色々な切り口で紹介を試みる稀有な本だ。今までメディアで断片的にしか語られてこなかったアメリカを学ぶ格好の入口となるだろう。『日本人が知らないアメリカ』というのは、いかにもなタイトルではあるが、読んでみるとこれ以外のタイトルは確かに思い浮かばない。

細々とB面のアメリカを発信している個人としては、こういう良書が日本で出版され、多くの方に読まれるのはとても嬉しいことだ。本自体も対談形式をとっていて読みやすい。「最近のアメリカって変だな!?」と感じている人にとっては、直接の答えではないが、それらを考えるための思考の切り口がちりばめられているので、ぜひ手にとって頂きたい。

『日本の定番料理10の謎』 家族をつなげるわが家の麻婆豆腐

「少し寒くなってきたから、肉じゃがでも作ろうかなぁ」、本日紹介する『日本の定番料理10の謎』は、そんな料理心がくすぐられる本だ。

 

本書は、肉じゃが、ハンバーグ、豚肉生姜焼き、から揚げ、ポテトサラダ、麻婆豆腐、魚の炭火焼き、パスタ、チャーハン、みそ汁という10の料理を日本の定番料理と位置付ける。アメリカ暮らしが長い身には郷愁をくすぐられる料理ばかりだ。

定番料理たちのレシピだけでなく、NHKの『きょうの料理』で何年頃から紹介され始めたかという共通の尺度で時代背景を描いているのも面白い。単なるうんちく本ではなく、それらの料理が定番になるにいたった時代背景もあわせて説明され、料理を軸とした文化論という視点も展開されている。

 

麻婆豆腐、チャーハン、パスタは日本料理なのか、などの野暮な疑問を持つ方もいるかもしれない。が、アメリカに住んでみると「日本のチャーハンやパスタが食いてーな」と思うことはよくあるし、麻婆豆腐ですら、こちらの町中華的な中華料理屋の麻婆豆腐は、日本のものとは趣がことなる。なので、これらは日本の食卓の風景の定番と呼ぶにふさわしいと海外在住者としては思う。

 

妻の作る麻婆豆腐はわが家の定番料理の一つだ。昨年の夏に、日本に本帰国した娘がアメリカに「一時帰国」した際のリクエストの一つが麻婆豆腐だった。翌日、妻が張り切って大量に作ったせいか冷蔵庫に結構な量の麻婆豆腐が残っていた。
その日の夕方に息子の日本人の友達がわが家に遊びにきていて、その友人のお母さんが体調を崩してしまったのでその日の晩御飯は自分が作らないといけない、と言うではないか。家族ぐるみでつきあっているので、「それなら、これをもっていって一品にしなさい」と残り物の麻婆豆腐を渡した。
晩御飯の際に冷蔵庫を開けた娘が「あれ!?麻婆豆腐は?」と聞くので、「あっ、きてた〇〇君にあげちゃった」と私が伝えた際の、ただでさえ大きい目をかっと開いた娘の驚愕とも怒りともとれる「何ごと!?!?」という表情は忘れられない。事情を説明し、なら仕方ないと納得した娘であったが、娘のわが家の定番料理への深い愛着を感じた瞬間であった。娘に少し申し訳ないと思いつつも、「あぁ、普段食卓にでる麻婆豆腐はあなたにとって、おふくろの味だったのね」とわが家の家庭料理が離れて暮らしている家族の思いをつなぐ土台になっていることが嬉しかった。

 

本書には

  • ハンバーグのたねを粘り気がでるまでこねる必要はあるのか

  • 肉の下味に酒をいれると、火を通してもふんわりするのはなぜか

  • から揚げの揚がり具合に小麦粉と片栗粉の差はどう影響するか

などの、私のような理屈っぽい料理好きにはたまらないうんちくがこれでもかとばかりに紹介されており、楽しめる。ここであげられる定番料理はそれぞれの家庭で作り方が色々あるだろうが、これらのうんちくを見ながら少しアレンジを加えてみたり、自分の家のレシピに自信と理解を深めるなどの楽しみ方もできる。

 

筆者は、自分で料理をすることをこう評す。

料理をしなくても生きていける現代において、あえて自分で作ること。それは、自分の食べたいものを誰にも委ねないという、ささやかな自立です。何事もままならない時代、料理には少しだけ人を自由にする力がある。僕はそんな風に思っています。

母国を離れてままならない生活の自由度を少しでも増すため、家族そして自分のためにアメリカのキッチンに立ってきた私の心にぶっささる名言であった。

料理への向き合い方は人それぞれだが、日本の食卓の定番としてあげられた10の料理についての物語をみれば、誰にでも琴線にふれ、思いを致すことが一つでもあるだろう。料理が好き、食べるのが好きという方々にはぜひ手に取って頂きたい。

アメリカで日傘をさし「無敵のおとうさん」になる

日本でも男性の日傘がだいぶ浸透してきた。私も、この夏の一時帰国では躊躇なく大いに日傘を使い、不快指数を下げることができた。私の住む北カリフォルニアは、夏は暑いときは40度くらいの気温に達するが、湿度が非常に低く、木陰にはいるとぐっと快適さが増す。なので、湿度が高い日本より気温は高いが、からりとしたカリフォルニアの夏でこそ、日傘はその最大パフォーマンスを発揮するのではないかという思いに至る。

 

アメリカで日傘を使うことの唯一の問題と言えば、誰も日傘を使っている人がいないことだ。そもそも、雨が降ってもパーカーのフードなどでしのいで傘を使わない人たちなので、晴れているのに傘をさすという発想はないのだろう。

 

わが家は休みの日に家族で散歩をするのが習慣だ。38~40度に気温が達するなかでもこの習慣は変わらない。もちろん、一番気温の高い日中は避け、午前中に散歩をすることが多いが、それでも36度くらいにはすでになっている。ただ、日陰に入ってしまえばこちらのものなので、私は日傘を周囲の目など気にせず使っていた。

 

散歩をしていると色々な人とすれ違う。パジャマで平然と外を歩くおばさん(パジャマっぽい恰好ではない、まごうことなきパジャマだ)、上裸でジョギングをする男性、大音量で気持ちよさそうに中国語で歌を歌いながら闊歩するじいさん、本当にそれぞれだ。周囲の目よりも自分がどうしたいかに皆軸足をおいている。そんな中、なぜ周りを慮って日傘なしで、この刺すような日差しの中を歩かないといけないのだ。

 

妻・娘・息子は日本でいつも使っていた日傘をアメリカでは一切使わない。周囲の目を気にしてのことだろうし、それもわかる。特に、人の目が気になる年頃の娘や息子はなおさらだろう。わが家は息子が通う高校のそばに住んでいるので、息子が日傘を使っているのを見られたら「パラソルマン」なんてあだ名がつけられかねない。私は彼らのスタイルは否定しないが、彼らも私がアメリカでも日傘をさすことを否定しない。

 

それでもある日、灼熱の日差しが照り付ける中、交差点で信号待ちをしている時に、涼し気に日傘で日差しを防ぐ私に息子がついに

お父さんは、周りの人の目は気にならないの?

という質問をする。私の性格を知っている息子には自明のことだろうが、あまりの暑さに、ついそんな疑問がもれてしまったのだろう。

あぁ、お父さんは気にしない。人目を気にせずにパジャマや上裸で歩いている奴らに、遠慮しても仕方ないからね。

そんな、私の一言に対して娘と息子は

お父さんは「無敵の人」だ、、、

とひそひそ話していた。

 

私の理解では、「無敵の人」というのは、「失うものがないゆえに、逮捕も怖くなくなり、行動の歯止めがきかなくなった人」というものだと私は理解している。きっと子供たちは、変わった人に見られるという自分たちにとって怖いものを気にせずに、暑さを回避するという目的にまい進できる私のことを、「無敵の人」のニュアンスに重ねて言ったのだろう。かくして、私はこの夏に日傘をさすことを通して「無敵のお父さん」になってしまった。

 

でも、何だかんだ言って日焼けを一番気にする21歳の娘は、折にふれて私の日傘の下によく入ってきていた。娘と相合傘をするのは、父親として悪い気はしない。でも、娘さん、周囲の目としては「日傘を使う上に、おっさんと相合傘している若い娘」と見られるので、まだ「日傘をさしている若い娘」のほうがよいんでないかい?とつい思ってしまう。が、さす側とちょっと入る側の間に横たわる大きな溝をまだ超えられない娘の心も父親として受けとめよう。娘よ、大いにお父さんの日傘の中で涼むがよい。

トランプがどうして支持されるのかではなくて、トランプにすらどうして民主党は負けたのか、という話

日本の報道のトランプ大統領の発言、政策を見て、「アメリカ人はどうしてあんな大統領を選んだんだろう」と未だに腑に落ちない日本の方は多いと思う。この話は視点を変えて、「最近の民主党がトランプに負けるほど支持を失ってしまったの何故か?」というように見ると、もう少し現実が立ち上がってくる。

本日紹介する『アメリカ民主党失敗の本質』は、トランプにすら負けてしまう民主党の姿を浮き彫りにする力作だ。 

 

ざっくり本書の要点を最初にまとめてしまうと

民主党は自分たち庶民を代表し守ってくれる党ではなく、自分たちを高みから文化的に評価する高学歴の人たちの党になったしまった

とアメリカの庶民から思われてしまったことが民主党離れの主要な要因だ。

 

労働者から高学歴エリートへの乗り換え

民主党は元々労働者を中心とするアメリカの庶民が支持基盤であったが、クリントン・オバマ政権の辺りからウォール・ストリートの金融機関やグローバル大企業の意向を重んじる高学歴エリートのための政策をとり始める。この政策転換は金融やIT産業の発展に寄与し、アメリカ産業の推進を加速する効果を上げる。

だが、その結果として巨額の富をえたエリートに大きな累進課税を課して分配することはしなかったし、キャピタルゲインの税率を下げたりして、富の集中と格差の拡大に有効な施策はうてなかった。

日本で評価の高いオバマも、リーマンショックの対応の際に、金融機関は迅速で手厚い支援で救済したのに、サブプライムローンで苦しむ庶民には煩雑で厳格な基準に基づく救済策のみを展開し、「エリートを助け、庶民を放置した」という印象を一部に残した。クリントンとオバマ両政権下で、富の格差の拡大に歯止めがかかるどころか、加速してしまったのは、「庶民のための党」という看板を下ろした等しい。

 

文化的急進主義者へのおもねり

 もっと残念なのが、移民排斥、人種差別、LGBTQ、環境問題などの文化的な側面に対する民主党のスタンスだ。かつて労働者の代弁者であった民主党は、今は文化的急進主義的な権利保護団体からも多くの支援と影響を受けている。では、ここでいう急進主義というのは下記のような主張をする人たちだ(もちろん、濃淡はかなりある)。

  • 移民の強制送還や国境管理は人種差別であり、ICEは廃止すべきだ

  • BLMの流れからも警察制度そもそもが人種差別的なのだから警察予算は削減すべきだ

  • 生物学的性別より、本人が自分の性をどう認識するかを優先し、トランス女性の女性スポーツへの参加を広く認めるべきだ

  • 化石燃料の使用を短期間で大幅に廃止し、経済成長を極端に鈍化してでもゼロにするように舵を切るべきだ

選挙で資金的にも、人的にも支援をしてくれるものだから、少なくない民主党議員が、この手の急進的な団体の援助を受け、法律や予算の面で彼らの主張を政策に反映させている。トランプに敗れたカマラ・ハリスも、不法入国を刑事罰としないという案に以前は明確に賛成していた。

もちろん、これらの意見は多くのアメリカ人を代表するものではない。殆どのアメリカ人は濃淡はあれど、不法移民にも一定の権利保護は必要ではあるが、入国管理や必要に応じての強制送還は必要だと考えてるし、トランスジェンダーだからといって進学や就職で差別をしてはいけないが、女性スポーツへの参加については未解決の課題が多すぎると考えている。腹落ちしない小難しい理屈をこねくり返して極端に触れてしまった文化的急進主義者が台頭し、政策に影響を与え始めた状況に疑問を感じたり、息苦しさを覚えている人は多いのだ。

 

ヒラリー・クリントンのトドメの一言

このような下地がある状態でのトランプとヒラリー・クリントンの大統領選は、歴史的に振り返ってみれば、民主党にとっては正に最悪の組み合わせだった。高学歴エリートで文化的リベラリズムが漂うヒラリー・クリントンに対し、ポリコレ無視でずけずけものを言うトランプに「なくはないかな」と思った労働者層は少なくないだろう。

 

そして、そこに

トランプを支持する半分は嘆かわしい人々

というヒラリー・クリントン発言だ。

 

これを聞いて

民主党は自分たち庶民を代表し守ってくれる党ではなく、自分たちを高みから文化的に評価する高学歴の人たちの党になったしまった

と思い、トランプへの投票を決意した労働者層はかなりいるはずだ。これは小池百合子の「排除します!」と同じかそれ以上の威力で票を消し飛ばした政治史に残るパワーワードだ。

 

トランプは原因ではなく結果

「トランプは原因ではなく結果」と言うのはよく聞くが十分に理解されていない。本記事の内容に沿って言えば、

アメリカ国民は、トランプが良いから大統領として選択したのではなく、民主党が高学歴高所得のエリートのための政策を推進し、高みから自分たちを文化的道徳的にご立派に評価する人たちになってしまった結果として、共和党に票が流れた

と解釈することができる。

道徳心の高い立派なポリコレ警察が徘徊し、息苦しい中で、

宗教色が強いから、職場ではMerry Chrisimasって言わないようにって言ったのは誰だ?12月25日はクリスマスじゃないか!俺はHappy Holidayなんて言わないよ。クリスマスを祝いたい人は遠慮しなくていいよ、どうどうと言おうじゃないかMerry Chrisimasって!

とか言ったら、日本で「ふてほど」が流行ったように人気がでるだろう。

 

2026年の中間選挙まで1か月をいよいよきった。公平性を保つため言えば、筆者たちはバイデン政権は上記の点については、それなりに軌道修正をしてきたと評価はしていた。が、いかんせんおじいちゃん過ぎてタイミングが悪かったし、長年蓄積した悪いイメージを振り払うには、素振りなしで打席にたった代打のカマラ・ハリスでは力不足だった(公平性のために言えば、誰が代打にたっても無理だっただろう)。

この中間選挙で力強く自分たちの間違いを正した中長期目線の力強いメッセージを発信できるか、イラン戦争で勝手に自滅しているトランプ政権に追い打ちをかけるだけの短期策に打って出るか、どちらにでるだろう。今のところは、共和党があまりにも押すだけで倒れそうなので、後者によっているように見えるが1か月注目していきたい。

「福音派」って言葉が今ひとつ腹落ちしないわけー『キリスト教でたどるアメリカ史』

長いこと住んでいたノースカロライナではよく見て、カリフォルニアではあまり見ないモノと言ったら、大きな教会だ。もちろんカリフォルニアにも教会はあるのだが、規模と存在感が違う。ノースカロライナでは街の至るところに大きく立派な教会があり、田舎道を走っていたら「なんでこんな田舎に、こんなピカピカの教会が???」と驚くほど見事な教会が突如として現れたりしたものだ。アメリカの郊外はどこもこんなものなのか、と当時は思っていたが、カリフォルニアに住んでみるとどうも雰囲気が違う。きっと、バイブルベルトのど真ん中に位置するノースカロライナ、そして近接する南部諸州が特異なのかもしれない。州が変わると別の国に移動したかのようにがらりと雰囲気が変わるのがアメリカの面白いところだ。

 

森本あんり氏の『キリスト教でたどるアメリカ史』は、現代のアメリカ社会をキリスト教という思考軸を通して眺める上で、基本的な知識と視座を提供してくれる名著だ。

 

植民地時代から第二次世界大戦までを中心に、アメリカ、そしてそのキリスト教社会がどのように発展してきたのかを、大きな時代の流れとして示してくれる。理想の宗教社会の形成を目指したピルグリムやピューリタンから、アメリカ建国前後にアメリカ的プロテスタントがどのように勃興し、南北戦争に至る奴隷制という人種・政治的問題を前に、宗派がどのように分裂・複雑化していったかが詳細に描かれている。アメリカの歴史の変化には、常にキリスト教の変化があり、その2つが相互に影響を与え合って歴史を形成している様がありありと描かれていて、大変読みごたえがあった。

 

そしてその後さらに、産業化や都市化による貧富の差の拡大、そしてダーウィンの進化論を例とした科学の発展などを受け、アメリカのプロテスタンティズムがどのように変容し、現代アメリカで話題になっている福音派や宗教右派などのバックボーンの一端となったのかを垣間見せてくれる。

 

本書を読めば、「福音派 = トランプ支持者」という単純なラベリングでは、現代アメリカを読み解くことはできないことが理解できると思う。「福音派」という言葉が今一つ腹落ちしないという日本の方も多いと思うが(正直私も未だに広く複雑すぎてとらえ難い)、それは宗派を超えた福音派という信仰傾向が、人種、教育、地域、支持政党などの他の多種多様な要素と絡み合っており、そこだけをキレイに切り出して一般化することが難しいからだ。

 

最近、話題になっているアメリカキリスト教の本と言えば、立教大学の加藤善之氏の『福音派』だが、こちらは主に戦後に焦点があたっている。『福音派』を読まれた方には、セットとして森本あんり氏の『キリスト教でたどるアメリカ史』も強くお勧めしたい。

目標と仕組みの先にあるもの――行動がアイデンティティを変える

期待をはるかに上回る数値をだす体重計を前に「今度こそ痩せる!」と何度ジム通いを始め、何度気付いたらジムに行かなくなるというサイクルを繰り返したことだろう。そんな、私も最近は、

  • 食事管理を徹底し、日々の摂取カロリーとPFCを測定し、

  • ジムに通いつつも、ホームジムも構築し、日々トレーニングに励む

なんてことが日常生活の一部になり、「トレーニーの端くれ」と自分のことを思えるようになってきた。

何事においても目標は大事だ。だが、目標とそれに向けての努力が成功を約束してくれるわけではない、ということは自分のダイエット遍歴から経験則として言える。目標とそれに向けての努力以外にどんなピースが必要なのだろうか。

 

「仕組み」より大事なもの

「意志力よりも仕組みが大事」というのは、最近言い尽くされている言葉だ。もちろん、仕組みの重要性は理解している。私の筋トレも、ホームジムを作っていつでもトレーニングできる環境を作ったことや、食事管理をしやすくするために3人暮らしのダイニングキッチンのキッチンスケールを4台常備し、いつもで食べるモノの量を測定できる環境を作ったことは、今の日常を形作るうえでは重要な要素だ。ただ、目標がきっかけを作るだけなのと同様に、仕組みや環境は行動の起点を作るに過ぎない。では、もう一つ足りないものとは何か。

 

アイデンティティの変化こそが本当の鍵

最近読んだ『ジェームズ・クリアー式複利で伸びる1つの習慣』という本にその鍵となる考えが書いてあった。

 

本書は、全世界で三千万部を売った大ベストセラーで(多分邦題のだささから日本ではそれほど売れていないと思われる)、人生を変えるのは大きな決断ではなく、積み重ねた日々の習慣であるという考えに基づき、悪い習慣をいかに断ち、良い習慣をいかに構築するかの方法を語った名著だ。そして、本書では「本当の行動変化は、アイデンティティーの変化である」と説く。「何を達成したいか?」では習慣は変えにくく、「どんな人になりたいか」に焦点をあてたアイデンティティの結果としての習慣こそ、真に定着する習慣なのだという。

少し、理屈っぽくなったので、私の例に戻す。以前の私は、「痩せるために基礎代謝をあげるために筋肉をつけたい」、「筋肉をつけるために、筋トレを週に3-4回はする」、「筋トレを週に3-4回するためにジムの会員になるだけでなく、ホームジムも作る」というステップをへて筋トレに取り組んでいた。
が、今はそんなまどろっこしい思考プロセスやステップを踏まない。あるのは「私はこれでもトレーニーの端くれである」、「だから今日もトレーニングをする」というアイデンティティに基づく習慣があるのみだ。

 

アイデンティティベースの習慣がなぜ強いのか

社会人として働いていると会食が入ったり、出張が入ったり、体調を崩したりして、折角築きかけた身体を鍛える習慣が断ち切られる出来事にことかかない。そして、気付いたらジムからは足が遠のき、家のダンベルはほこりをかぶり始める、という経験をした人は多いはずだ。
が、「私はトレーニーの端くれである」というアイデンティティは強い。会食がない日はまた筋トレができる、出張先でも息抜きにホテルのジムで汗を流す、体調が戻ったらまた元気に筋トレができて嬉しい、など習慣の鎖を断ち切る突発事項に左右されにくくなるのだ。

 

まとめ

目標は大事だ。「痩せたい」という目標がなければ、そもそも私は筋トレを始めていなかった。そして、それを続けやすくする仕組みや環境も大事だ。ホームジムも4台のキッチンスケールも、今の習慣を作るうえで大いに役立った。

ただ、振り返ってみると、目標も仕組みも、それだけではまだ十分ではなかったように思う。

「痩せるために筋トレをする」から、「私はトレーニーの端くれだから筋トレをする」へ。このアイデンティティの変化が起きてから、筋トレは達成すべき目標のための手段ではなく、日常生活の一部になった。

もちろん、私のトレーニーとしてのレベルなど大したものではない。ただ、レベルよりも私にとって大事なのは、自分自身がそういう人間だと思うようになったことだ。

目標は行動を始めるきっかけをくれる。仕組みはその行動を楽にしてくれる。しかし、その行動を繰り返すことで「自分はこういう人間だ」という認識まで書き換わったとき、習慣は初めて自分の一部になる。

散々ダイエットとジム通いに挫折してきた私にとって、『複利で伸びる1つの習慣』で一番腑に落ちたのは、習慣とは単に行動を変える技術ではなく、自分が何者であるかを少しずつ作り変えていくプロセスなのだ、ということだった。名著なので多くの方に是非手に取って欲しい。

 

Creative Commons License
本ブログの本文は、 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 非営利 - 継承)の下でライセンスされています。
ブログ本文以外に含まれる著作物(引用部、画像、動画、コメントなど)は、それらの著作権保持者に帰属します。