Thoughts and Notes from NC

アメリカ東海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』 政教混濁の国アメリカ

先日アメリカ人の友人とメキシコ料理屋でビールを飲んでいた。そうしたら、彼の知人がたまたまいて、「おぉぉ、こんなところで会うなんて!」みたいな感じで盛り上がっていた。その知人としばらく雑談をしたのだが、どうもその知人は私の友人が通う教会の神父さんだった模様。

友人と食事をしていた際に、彼の知り合いにあって紹介をされたという何気ない日常の一幕ではあるが、「あぁ、アメリカ生活には、教会というコミュニティが深く根ざしているんだなぁ」と改めて確認する機会となった。

 

本日紹介する『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』は、アメリカの社会と政治に宗教がどのような影響を及ぼしているかを、俯瞰的にまとめた良書だ。

個人によって信仰の度合いに濃淡はあれど、本書によるとアメリカ人の85%はキリスト教徒だという。が、キリスト教徒といってもその中で、右派左派・保守革新などに別れており、福音派、バプティスト、メガチャーチ、プロテスタント、カトリックなど、様々な区分けがある。アメリカは、プロテスタントが主流であるが、カトリックと異なり中央で管理する組織がないため、分派が多くてとにかくわかりにくい。正直それぞれの特徴や違いは、アメリカに住んでいてもよくわからない。本書はそのあたりをわかりやすく説明してくれる。テーマそのものの複雑さ故に、少し読み応えがあったが、理解を深めることができた。

 

トランプ政権の政策やバイデンとトランプの大統領選などの、最近の出来事がふんだんに出てくるので、理解もしやすい。「大使館のエルサレム移転」はその一つの例だ。

「エルサレムをイスラエルの首都として認定し、大使館をテルアビブからエルサレムに移転する」というトランプの宣言は世界中で物議をかもした。イスラエル寄りのアメリカが遂に実行した外交政策の一つであり、「トランプ流政治」の代名詞だ。その賛否を論じるのは、私の力量を大きく超えるため、ここでは触れないが、本政策の実行は「キリスト教福音派」と「ユダヤ教信者」というアメリカ社会において無視できない影響力を持つ人たちの多くが長年指示してきた政策であることは、考える上で重要なポイントだ。

Pew Research Centerの統計によると、福音派はアメリカ人全体の25%を占める。ユダヤ教徒は全体の2%に過ぎないが、政治経済への影響力は人口比に対して非常に大きい。トランプが選挙公約としてかかげ、そのメインの支持基盤であるキリスト教福音派が推す政策を実行に移すというのは民主主義の理念にはそっている。

少し毛並みが違うだけで、日本の政治家で道路族や農林族という方々が、建設業界や農協の票を見込んで彼らの推す政策を実行することと、そう変わりはしない。自分たちの業界を豊かにするような政策を誘導する利権団体はアメリカにも勿論沢山あるが、それにプラスし宗教が大きな要素として入り込んでくるのが、アメリカ政治の複雑なところであり、その複雑さを理解する視点を本書は提供してくれる。

 

アメリカのノースカロライナの田舎道を車で走ると、果てしなく一本道が続き、家と家の間が20-30メートルくらいある風景をよく見る。果てしなく続く一本道の両脇には畑と牧場、車窓から見える生き物は馬と牛ばかりで、人が歩いているなんてことは殆どない。そんな一本道に、突如として立派なピカピカな教会が出現するというのは、どこの田舎町でもあること。「掘っ立て小屋しかないのに、なぜこんな立派な教会が!?」といつも驚かされる。

ニューヨークやロスなんてアメリカの中で例外であり、広大なアメリカはわが州だけでなく大体こんなもんだ。選挙カーで走ったところで一票もとれないだろうし、街頭演説をしたところで馬と牛しか聞いてくれない。そんな田舎町で人が多く集まるのは、ショッピングセンターか、教会くらいだ。選挙にいくかどうかもわからない人が集まるショッピングセンターよりも、釣れればごそっと票がとれる教会というのは、選挙の主戦場となるのは当然のことだ。

 

アメリカ合衆国憲法の第1修正条項で政教分離が保証されているものの、実際のところアメリカ政治は宗教と切っても切り離せない。政教分離とは名ばかりで、「政教混濁」といった様相を呈している。そんな、アメリカ社会と政治の重要な宗教という側面を理解する上で、本書は格好の良書なので、興味のある方は是非読んでみて頂きたい。

 

 

『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』 戦後政治はいかに終わったのか?

渡辺恒雄というと巨人に横綱審議委員というイメージが強く、一言で片付けてしまえば「老害」の日本代表のような印象が拭えない。が、それはマスメディアで作られた氏の一つの側面にすぎないことが『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』を読むとよくわかる。

本書は、人から勧めらた本なのだが、先述したイメージが強いせいもあり、本屋に平積みにされていても自ら手を伸ばすことはまずなかったが、意外な学びがありとても楽しめた。おすすめの本を薦めてくれる信頼のおける読書家というのは正に資産だ。

 

本書の視点は、メディアから見た戦後日本の民主主義の流れを追うというもので、その視点そのものは決して目新しいものではない。が、巨大のメディア企業のトップにたち、かつ政界の中枢の人間との繋がりが強く、自らもその影響力を政治に行使してきた渡辺恒雄の視点となると、がらりと色合いが変わる。

戦後の日本の政治を学ぶ上で、『戦後民主主義-現代日本を創った思想と文化』は良書で、私も度々読み返している。まとまりという意味では『戦後民主主義-現代日本を創った思想と文化』に軍配をあげるが、読み物としての面白さという点では断然『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』のほうが面白い。それぞれの政治のシーンに当事者として関わった渡辺の迫力がひしひしと伝わってきて、高い没入感をもって本の世界にはいっていける、そんな魅力が本書にはある。

 

中曽根康弘元総理というと2019年に亡くなった戦後日本の政治史を語る上でかかせない人だ。我々の世代にも馴染みの深いNTT、JR、JTという企業の民営化を実行に移し、ドラスティックに行政改革を進めた総理大臣だ。私が小学生の頃に総理大臣を務めており、小学生くらいになると自分の国の総理大臣の名前くらいはわかるようになるので、記憶にも残っている。

その中曽根総理と彼が総理になる四半世紀前から勉強会を開催し、それを支える立場に渡辺恒雄氏がいたというのは本書を読んで初めて知った。中曽根内閣が成立する過程から、総理として断行したこと、また敢えて取り組まなかったことなどが、赤裸々に語られる「第十一章 中曽根政権 戦場体験と現実主義」は本書の一番の読みどころだ。

 

本書は読み物として面白いし、勉強の格好の題材となるが、戦後政治を牽引した方々による、本書で語られる現代政治への評価については少し疑問が残る。「戦争体験の中で作られた人たちによる戦後政治」というのが、本書に通底するテーマだ。渡辺恒雄氏も中曽根康弘元総理も戦争経験者であり、「日本は二度と戦争をしない」という意志を国家の柱とし、それは正しかったし、成功したと思う。

今の政治は、プラグマティックだけでやって、支えになる思想や背景を固めていないから、糸の切れた凧のようにフラフラしているのではないか思います。そうならないようにするためには、私たちは根っこを作っていかなければならない。もう一度、戦争体験を持つ政治家たちが語った言葉を、根っこにしていく努力をすべきだと思います。

と本書では語られているが、私にはこの見方は「終焉を迎え、役割を終えた日本の戦後政治へのノスタルジー」のように感じられる。日本が、今後愚かで無謀な侵略戦争に舵をきるということは向こう100年で起こることはまずないだろう。これは、戦後の日本政治の勝利であり、大きな成果であり、戦争体験を持つ政治家たちの熱意と努力の結果だ。どうもありがとう。

が、第二次世界大戦以後、世界中で戦争がおこらなかった年は1年もない。グローバル化が進行し、国際情勢もますます複雑になっている。この国家の役割すら変容する現代において、第二次世界大戦の戦争経験というのは、参考にすらなれど、根っこにはなりえない。
戦争体験に重きを置くにしても、イラク戦争やロシアウクライナ戦争などの経験者の体験のほうが、より現代的であり、今後の思想や背景を固める上では大事だと思う。「日本は当事者としてこれらの戦争に関わっていないではないか」という批判はあろうが、米国に住む日本国民の立場からすると、日本国民自らの体験こそが大事という考え方が時代遅れのように感じられる。

 

私は「日本の戦後政治」はもう終わったと思っているが、どこで区切りを迎え、いつ新しい政治のフェーズに突入したのかは、現代に生きている我々には判断が難しい。時代の変遷をとらえる上で、一世代前を学ぶことは非常に大事であり、本書はそのための格好の題材だ。平成編も今後刊行されるとのことだが、きっとその中にも多くのヒントが隠されているだろう。次作を楽しみに待ちたい。

 

 

「くまのプーさん」のパブリックドメイン化から「Winny事件」を考える

先日、子供から「『くまのプーさん』のホラー映画ができたらしいよ」と聞いた。「なんじゃそりゃ?」と思ったが、どうやら「プー あくまのくまさん」という映画が公開されているようだ。

映画『プー あくまのくまさん』公式サイト

時が経ち、婚約者のメアリーとともに、100エーカーの森に戻ってきたロビンだったが、そこで目にしたのは血に飢え野生化してしまったプーとピグレットの異様な姿だった・・・

なかなか洒落がきいていて面白い。

くまのプーさんの著作権は2022年の1月に切れ、多くのクリエイターがディズニーにお金を払うことなく使うことができるパブリックドメインになった模様。くまのプーさんだって、元をたどればテディベアに着想を得た二次創作だ。創作活動した方の努力や創造性に敬意を払い、著作物に対する権利を保護して、より一層の創作活動を喚起することが、著作権法の目的であるが、あまり保護を強めすぎると既得権益者を守るだけになってしまう。著作物に対する保護を過度に強めすぎず、パブリックドメインを増やしたほうが、「プー あくまのくまさん」みたいな色々な創作物が世に出て、社会がもっと良くなるんじゃないか。

 

著作権法に関係した話としては、先日読んだ『Winny 天才プログラマー金子勇との7年半』は面白かった。

Winny事件の概要は下記の通り。

  • 天才プログラマー金子勇はWinnyというP2Pのファイル共有ソフトウェアを配布し、これが2003年頃に日本で爆発的に普及する
  • 金子勇はWinnyの開発・配布によって著作権侵害の蔓延を助長したという罪で逮捕・起訴され、一審では有罪判決を受ける
  • ソフトウェアを悪用した人間だけでなく、それを開発した人間を逮捕することは、殺人事件で使われた包丁の製作者を逮捕するようなものであり、著作権法や開発者の責任について議論が巻き起こる
  • 最終的には、検察の起訴内容の信憑性に疑問があり、金子勇が著作権侵害蔓延を意図して開発を進めたとは言えない、ということで地裁で無罪となる

本書は、金子氏の弁護士である壇俊光氏が弁護側の視点として裁判にかかった7年半の裁判の記録を刻々と記録したもの。金子氏の人柄に着目しながら、日本のネット文化の良い面にも光をあてた意欲的な作品となっている。弁護側の視点であるため、下記のように日本の警察、検察、裁判所という司法制度の在り方に対して、厳し目のポジションをとる。

  • 警察官や検察官が金子氏を騙して誓約書や調書をとり、無罪の金子氏の罪を作り上げ、何とか有罪にもっていこうとした
  • 京都地方裁判所も、中立的であるべき司法という立場でありなが、検察の肩を持ち、弁護団はアウェイでの試合を強いられた

Winnyを介して多くの著作権で保護されているコンテンツが、ユーザー間で適正な支払いなく共有されたことは事実である。だが、その問題点を開発者と一緒に解決するのではなく、開発者を無理やり逮捕することで解決しようという考え方に警察と検察がいきつき、それを止めることができなかったのはとても残念だ。

「ファイル共有ソフト=違法コピー」という視点で見るのではなく、「ファイル共有ソフト=クリエーターの創作物の配布チャネルの拡大」という視点でとらえ、副次的な影響としての違法コピーを制限する技術的、法的な枠組みを一緒に作るという発想に、司法も行政もマスコミを至れなかった。オープンソース、YouTubeやTwitterやFacebookなどのSNS、ブロックチェーンなどで日本が後塵を拝したのは、新しい潮流を見極め、よりよい社会を一緒に作り上げる機運に欠け、既得権益保持者に配慮し、出る杭をみんなで打つ社会的風潮の結果であろう。

一部で言われているような、「Winnyの技術は、ブロックチェーンにつながっており、その技術を大事にしていれば、日本のITにおけるポジショニングも変わっていたかもしれない」という見方は楽観的にすぎ、そんなに甘いものではないだろう。ただ、「出る杭を打ち、そこから生み出された芽を摘んで回る」こうした一つ一つの事例が、新しいものを創作する意欲を削ぎ、著作権法が目指す「文化の発展への貢献」を遠ざけていることは間違いない。

 

裁判の期間中、プログラム開発ができなかった金子氏。次の技術者の未来のために無罪を獲得することに力を注いだが、裁判後しばらくしてから心筋梗塞で亡くなってしまった。Winnyの技術が日本の現在のITの景色が変えたかどうかはわからないが、ネットワーク社会の明るい未来を信じた彼が生きて、もっと多くの仕事をしていれば、どんなものを生み出していたのだろう。その答えを知りようもないのは残念で仕方がない。心からご冥福をお祈りいたします。

「Students Demographics」から考える移民社会アメリカ

この6月にノースカロライナからカリフォルニアに引っ越すわが家。引越し先の住まいをどこにするかが、今の一番の家族の関心事。アメリカの家選びは、子供が学校に通う場合は、まずは学区選びから始まる。”Great!SCHOOL.org”というサイトは、アメリカの公立学校の情報が、学校ごとに非常にわかりやすくまとめられており、学区選びと学校選びにはかかせない情報源だ。

勉強の進捗具合、テストの点数、授業内容などの情報が10点満点で個別に評価されており、こういった得点の高い学校は、授業と生徒の質ともに良いので、なるべくそういう所にいれてあげたい、というのが親心。少なくとも総合得点が8点以上のところを私は探すようにしている。

そして、勉強面と同様に大事であり、最終的な決め手となるのが「 Student Demographics」という項目だ。要するに「民族・人種・ジェンダーなどの多様性」だ。いわゆるアジア系の移民である、わが家にとって、一定以上の学校の多様性が確保されていることは、差別を受けずに、子どもたちが交友関係を広げ、楽しく学校生活をおくるために、死活的に重要である。

ちなみに、私の娘が今通っている高校の統計が下記の通りである。いわゆる白人が半分以下であり、アジア系が3割を占めるので、ここの高校はかなり多様性が進んでいると言える。家の近くに米企業の研究開発機関の集積があり、そこで様々な人が働いていることが、この多様性の背景にある。

 

一方で、下記が引越し先の候補となっている高校の統計。地域柄、現在の娘の学校と比較すると、多様性の度合いは少し下がる。とは言っても、2020年の国勢調査での全米の白人比率は62%であるため、白人に偏っているというところは全くなく、悪くはない。

 

前職の上司に引っ越しをする上で助言を求めた際も下記のようなことを言われた。

いいか、ウェブサイトで校長が言っていることをうのみにしちゃいけない。彼らが”わが校は多様性を重視しています”なんて言ったところで、そんなことはくそったれだ。引越し先に出張の機会があったら、生徒の当校時間にその学校に行って、自分の目で確かめるんだ。白人の比率がどれくらいなのか、生徒たちの雰囲気はどんな感じなのかを、その目で見てみろ。8割以上が白人の高校になんか行ってみろ、お前さんの娘は友達なんて一人もできないぞ。

彼はインドからの移民であり、私よりずっと長くアメリカで生活をし、子供を育ててきているので、折にふれて相談をするのが今回も貴重な助言をえることができた。

先日、実際に出張の機会があり、彼の助言を受けて、候補となる高校に妻と一緒に行ってきた。当校時間というのは絶え間なく生徒が学校に入っていくし、授業開始前に雑談にふける生徒たちの雰囲気を感じることができる、絶好のタイミングで雰囲気をよくつかむことができ、良い判断材料をえることができた。

 

アメリカ生活が長いので、「Students Demographics」を確認するという発想はすっと受けれることができるのだが、よくよく考えてみると、これはアメリカで暮らす移民独特の発想な気する。長いアメリカでの生活の中で、自己防衛本能として

  • 可能な限り差別を受けない、快適な環境で暮らすにはどうしたら良いか?
  • 移民に対して肯定的な見方をする人と否定的な見方が混在する社会で、なるべく肯定的な見方をする集団に身を置くにはどうしたら良いか?

ということに常にアンテナをはっているのだろう。

 

先日読んだ西山隆行氏の『移民大国アメリカ』は、そんな自分の移民としてのアメリカ社会における立場を考える上で、様々な示唆を与えてくれる良書であった。

  • 米国政府の移民政策の歴史を俯瞰しつつ、
  • 民主党と共和党の党派を超えて政策見解の分かれるこの問題の争点を整理し、
  • 教育、社会福祉、犯罪などの様々な観点から、課題を炙り出しつつ、
  • トランプ現象の示唆するところを歴史的、政策的視点から見つめる

という盛りだくさんの内容だが、私事として皆周りにある問題を考え直すのに非常に良い機会となった。最後に本書から下記の引用をしたい。

アメリカン・ドリームを夢見てやってくる移民は、一方で共通の過去を思い起こさせ、アメリカの価値が優れていることを再確認させてくれる存在である。その一方で、移民は新しい社会問題を惹起し、時にアメリカの価値観を掘り崩す危険性を持つ存在と見なされてきた。

移民は、アメリカの文化を豊かにし、経済発展にも大きく貢献している反面、アメリカ文化をないがしろにし、アメリカ人から職を奪い、経済的なダメージを与えるという相反する性質を内在しているのは確かだ。だが、新しい土地に飛び込み、そこでチャレンジをするというのは、アメリカの価値観そのものであり、様々な問題は引き起こしつつも、そのものを否定することはできなく、揺れ動くアメリカの現状がよく描写されていると思う。アメリカに住む日本人の方には強くおすすめしたい良書だ。

 

『アメリカ政治講義』 大統領令から考えるアメリカ政治

アメリカに住んで10年にそろそろなるので、アメリカの政治の仕組みについてもっと勉強しないといけないなぁ、と思う今日この頃。なので、最近は、アメリカ政治に関する過去に読んだ本を再度見返したり、新しい本を読んだりしている。学ぶほどに、新しい発見があるのだが、最近学んだ中でも一番面白かったのは「大統領令」だ。アメリカの政治の特色をよく現している面白いテーマで、本エントリーではその学びを共有したい。

 

日本のニュースでも「バイデン大統領が大統領令を発令!」みたいな話がたまにでてくるのだが、不勉強で「大統領令ってそもそも何?」という質問にきちんと答えることができず、「大統領が特別に発令できる法律」みたいな間違ったイメージしか持っていなかった。今回『アメリカ政治講義』という本を手にとって勉強したのだが、この点について非常にわかりやすく簡潔にまとめられている。

 

本書で、解説されている大統領令に関するポイントは下記の通り。

  • アメリカ大統領というのは行政府の長であり、議員の長ではない。よってアメリカ大統領は立法権がないので、大統領令も法律ではない
  • アメリカは行政と立法の権限の分離がより厳格で、大統領は連邦議員ではないし、大統領が任命した閣僚も連邦議員の場合はその職を辞さないといけない
  • なので、大統領令というのは行政組織や完了に対して、「行政の指針」を示すものであって、法律を代替するものではない。

アメリカでは、行政と立法の権力の分立がよりはっきりしており、国会議員が閣僚も務める日本とは大きく構造が異なる。日本のように官僚が法案の作成に協力するということはあまりなく、法案はあくまで連邦議員が作成するとのこと。なので、大統領令というのは法律ではなく、あくまで立法の趣旨にそって行政を実施するための指針や優先順位を示すものだという。そういう視点でニュースを見たことがなかったので、これは非常に勉強になった。

 

バイデンが発令した大統領令の中で話題にかなりなったものとしてワクチン接種の義務化についての大統領令がある。私の勤めていた会社でも、ものすごく議論が起こり、それが故に会社を辞めた人も沢山いた興味深いトピックであり、かつ大統領令の定義と特色を考える上で格好の題材なので深掘りしてみたい。

バイデン米大統領、ワクチン接種義務化を連邦行政機関全職員や大企業従業員にも拡大へ

これだけ見ると、大企業の従業員に対してワクチン接種を義務化する法律のように見えるが、中身をみると実は違う。ポイントは、連邦行政機関全職員に対するものと大企業従業員に対するもので、それぞれ別々の大統領令がでていることだ。働く人にワクチンを義務化するだけなら、別に同じ大統領令でもよさそうなものだが、「行政の指針」である以上この2つはどうしても分けなければならない。どういうことかもう少し見ていこう。

まずは、連邦行政機関全職員に対する大統領令を見てみよう。

I have determined that to promote the health and safety of the Federal workforce and the efficiency of the civil service, it is necessary to require COVID-19 vaccination for all Federal employees, subject to such exceptions as required by law.

私は、連邦職員の健康と安全および公務の効率を促進するために、法律で定められた例外を除き、すべての連邦職員にCOVID-19のワクチン接種を義務づけることが必要であると決定した。

Executive Order on Requiring Coronavirus Disease 2019 Vaccination for Federal Employees

こちらはわかりやすい。連邦行政で働く人は安全と公務の効率性を保つためにワクチン接種をしないといけないとはっきり書いてある。これは行政府の長である大統領が、行政府で働くすべての人に指針をだすという構図で、民間企業で社長が従業員に職務規定をあらたに作ってワクチンを接種させるということと同じことだ。なお、最後に「法律で定められた例外を除き」と書いてあるのもポイントだ。即ち、これは法律を上書きするものではないことが明示されている。

 

それでは、次に大企業従業員のほうを見ていこう。ポイントは大企業の従業員というのは、行政府の長である大統領のレポートラインに入っているわけではない、という点だ。自分の組織ではない人間に対して、どうやってワクチンの接種を義務付けようとしているのだろう。もって回った言い方になっているので、少し長い引用になることは容赦頂きたい。読むのがかったるいという方は引用はとばして頂いても構わない。

in order to promote economy and efficiency in procurement by contracting with sources that provide adequate COVID-19 safeguards for their workforce, it is hereby ordered as follows:

Section 1.  Policy.  This order promotes economy and efficiency in Federal procurement by ensuring that the parties that contract with the Federal Government provide adequate COVID-19 safeguards to their workers performing on or in connection with a Federal Government contract or contract-like instrument as described in section 5(a) of this order.  These safeguards will decrease the spread of COVID-19, which will decrease worker absence, reduce labor costs, and improve the efficiency of contractors and subcontractors at sites where they are performing work for the Federal Government.  Accordingly, ensuring that Federal contractors and subcontractors are adequately protected from COVID-19 will bolster economy and efficiency in Federal procurement.

労働者に適切なCOVID-19保護措置を提供する供給者と契約することにより調達における経済と効率を促進するため、以下のように命令する。

第1項  第1項  本注文書は、連邦政府と契約する当事者が、本注文書の第5条(a)に記載される連邦政府の契約または契約に類似した手段において、またはそれに関連して業務を行う労働者に適切なCOVID-19セーフガードを提供することを保証することにより、連邦政府による調達における経済と効率を促進するものである。 これらの保護措置はCOVID-19の蔓延を減少させ、労働者の欠勤を減らし、労働コストを削減し、連邦政府のために作業を行っている現場での請負業者と下請け業者の効率を向上させるであろう。 したがって、連邦政府の請負業者と下請け業者がCOVID-19から十分に保護されることを保証することは、連邦調達における経済性と効率性を強化することになる。

Executive Order on Ensuring Adequate COVID Safety Protocols for Federal Contractors 

ポイントがいくつかあるが、日本のニュースでは大企業従業員(より厳密には従業員100名以上の会社)と報道されているが、厳密にはそうではなく「連邦政府との取引先」が対象となっている点をまず確認したい。これは別の見方をすれば、従業員が100名を上回っていても、連邦政府と取引のない会社に対しては大統領令は及ばないことを意味する。

そして、目的も連邦政府が取引を経済的かつ効率的に実施すること焦点があたっている。要するに、「反社会的勢力と関わりのある企業とは取引できないよ」、と言っているのと同様に、「連邦政府の基準を満たすコロナ対策をしていない業者とは政府は取引しないからね、別に取引しなくて良い方はそちらの勝手なのでどうぞご自由に」と言っているのだ。少し視点を変えると「連邦政府の職員は安全かつ効率的に行政業務を実施するために、安全基準を満たさない業者とは取引しないように」という行政指針と見ることができる。

また、連邦職員に対する大統領令は「Requiring Coronavirus Disease 2019 Vaccinatio for Federal Employees」と「連邦職員へのワクチン接種の要請」と銘打たれているのに対して、こちらのほうは「Ensuring Adequate COVID Safety Protocols for Federal Contractors 」と「連邦政府との取引業者への適切なコロナ保護措置の確認」というようにそもそも「ワクチン接種」という言葉すらない。要するに連邦職員に対する大統領令とは全く異なり、ワクチン接種というセーフガードを設けていない会社とは、効率性や連邦職員の安全性の視点から取引することはまかりならん、という行政府が取引をする下請け業者の選定基準を明確にした大統領令なのだ。

 

なので、

バイデン米大統領、ワクチン接種義務化を連邦行政機関全職員や大企業従業員にも拡大へ

というように、連邦職員と大企業従業員を併記することはどうなんだろう、と若干の疑問が私には残る。が、そうはいっても「大統領令」の狙いそのものはそこにあって、大統領の権限の範囲内で通達をだすという工夫をしているに過ぎないので、報道の仕方としては間違ってはいないだろう。

 

『アメリカ政治講義』は、その他に「州政府と連邦政府の位置づけ」や、「なぜ合”州”国ではなく、合”衆”国なのか」について非常にわかりやすく解説されており、アメリカ政治を理解する上で格好のテキストだ。本エントリーに「へぇ」と思われた方には、面白いと思うので是非手にとって頂きたい。

 

 

 

 

『人生を変える断捨離』 「片づけ」を通した自己実現

先日読んだ『日常に侵入する自己啓発』で整理・片付け術が自己啓発書の大きな一分野となっていることに驚いた。整理・片付けというと、もっとオレンジページ的な家庭向けの雑誌で特集を組むような内容であり、自己啓発との結びつきが私には正直イメージしにくかった。アメリカで流行っているので、近藤麻理恵氏の人生がときめく片づけの魔法』は、読んだことがあるのだが、それと双璧をなす、やましたひでこ氏の『人生を変える断捨離』は未読であった(勿論、断捨離という言葉は何度も聞いたことはある)。私事ではあるが、6月に米国の東海岸から西海岸に引っ越すことが決まった。家の片付けは早急に取り組まなければならない優先事項であるので、興味と実益を兼ねて手にとってみた。

 

本書の前半部分はモノを整理するにあたっての心構え、その思考プロセス、そして原理原則がきれいなのフレームワークに落とし込まれて語られていく。私は物欲はあまりないし、生来モノへの執着もあまりないため、それほど家が汚れているわけではない。なので、あまりこういった整理・片付け術を学んだことがなかったが、なるほどと勉強になることが多かった。筆者は下記の視点でモノを選び、手放していくことを推奨する。

  • 不要なモノ:あれば便利で、まだ使えるが、なくても困らないモノ
  • 不適なモノ:かつては大切にしたが、今の自分には合わないモノ
  • 不快なモノ:長年使っているけれど、違和感や不快感があるモノ

こういう視点で見てみると、確かに手放したほうが良いものは沢山ある。家がモノで溢れているわけではないし、家もかなり広いので、ずっととっておいたが、下記のようなものをこの際なので処分することとした。

  • 新品の文房具:使えるのでもったいない以外に保持する理由無し(不要)
  • キャノンの一眼レフカメラ:子供の運動会ももうないし、スマフォで今は十分(不適)
  • 昔から着ていたランニングウェア:最近購入したウェアと比べるとアガらない(不快)

前半部分は実用的なテクニックやモノを整理する考え方が簡潔にまとめられている。実践的で早速役立っている。モノを捨てるか否か判断する上で、わかりやすい基準があると片付けも捗る。そして、後半に入ると本書は一転して自己啓発書としての本領を発揮しはじめる。

 

端的に言うと、本書は後半部分を通して、「片付けを通して、どうやって自分の気持ちに正直になり、自分を取り戻し、自己実現と自己肯定をしていくか」というテーマを一貫して語っている。この視点は私には新鮮であった。私の周囲にいる人の多くは、受験や学校の勉強で自己肯定感を養い、仕事やキャリアアップを通して、自分の志向を見極め、自分と会社(広く言えば社会)とのあるべき距離を見定め、自己実現をしていくという人が多かった。勿論、私もそういう種類の人間だ。が、仕事やキャリアアップなどせずとも、モノを捨てれば自己肯定感を高め、自己実現ができる、という本書の主張は興味深い。それをきっかけとして人生を好転させているという例が本書では沢山紹介されており、自分の周りにはいないタイプが多かったので面白かった。

確かに、仕事への向き合い方と距離感というのは人によって濃淡がある。また、仕事で自己肯定感を高めたり、自己実現が叶わなかった人もいるだろう。本書は、仕事への取り組みが淡い人に片付けを通しての自己実現の機会を与え、仕事で思うように成果があがらない人へのセーフティネットになっているように見えた。

 

正直、私も妻も仕事やボランティア活動を通して、自己肯定感を養い、自己実現できているので、本書で人生が変わることはない。が、これだけバズワードとして広まっていることを考えると、日本人には考え方として受け入れやすく、取り組みやすいことは容易に想像できる。その場その場の購買意欲のみを刺激する広告やマーケティング活動で溢れている現代社会では、一度は目を通しておいた方が良い本だろう。なお、言語設定が日本語ではない私のブラウザで検索したところ、多くの中国語のサイトが表示されたので、中国でも流行っているのだろう。「断捨離」という三文字が中国人の感覚にも訴えかけるのだろう。近藤氏が「ときめき」を「Spark with Joy」と表現したように、うまい英語の表現があれば、コンセプトとしてアメリカでも流行りそうだ。

『日常に侵入する自己啓発』 自己啓発書が浮き彫りにする世相

夏の一時帰国における食に次ぐ楽しみは「本屋巡り」だ。平積みにされた本たちを本屋で眺めてまわると、必ず思わぬ本との出会いがある。勿論、Amazonのおススメ機能にもお世話にはなっているのだが、そこであるのは自分の好みに会わせた必然的な出会いが多い。本屋での本との出会いには不思議と「思いがけなさ」があり、自分の読書の幅を広げてくれる。

日本の本屋を巡っていると「自己啓発書」コーナーのスペースが年々広くなっている気がする。そして、「自己啓発書」は表紙がカラフルで目をひくデザインの本が多く、帯にも太字の大きめのフォントで推しワードがちりばめられているため、売場そのものが、良く言えば華やか、悪く言えば騒々しい作りになっている印象を受け、独特の雰囲気を持っている。

20代や30代の頃は「自己啓発書」をよく読んだものだが、最近はとんと読んでいない。意識的に対象から外しているわけではなく、昔ほど食指が動かないのだ。若い頃に読んだ内容が、自分の中の血となり骨となり、習慣として取り込めるものは取り込んでしまったので、これ以上のインプットに必要を感じていない、というのは理由の一つである。ただ、自分がそういう類の本から学ぶことは何もないほど、仕上がっているとも思えない。また、40代男性という自分の年齢とジェンダーをターゲットにした本も書店やAmazonに溢れている。一体、自分はなぜ「自己啓発書」を読まなくなってしまったのだろうか。

 

『日常に侵入する自己啓発』はそんな私の疑問にヒントを与えてくれる興味深い本であった。

タイトルに自己啓発という言葉が入っているが、本書は自己啓発本ではない。本書は、書店に溢れる「自己啓発書」が、現代社会の人々にどのように影響を与え、その日常にどのような影響を及ぼしているのかを研究した珍しい本だ。本書の立ち位置は、「自己啓発書」には、現代社会に生きる人たちが、

  • どのような不安に日々悩まされているのか
  • 仕事や生活の中で何に重きをおいているのか
  • そしてどのような人間になりたいと考えているのか

が投影されているというところにある。本書は、冒頭で理論的な枠組みを提示し、その後以下の4種類のタイプの自己啓発書について、分析を試み、社会の移り変わりと今の世相を浮き彫りにしようと試みている。

  • 男性向け年代別
  • 女性向け年代別
  • 手帳術(翻って時間と情報の管理術)
  • 整理・片付け術

勿論、それぞれのカテゴリーで様々な種類の「自己啓発書」が出版されているわけだが、時代ごとの公約数をとると確かに時々の世相を反映しており、筆者の試みは成功しているように見える。「男性向け年代別」では、「会社組織において他より卓越した成果をあげること」に主眼が置かれている。ジョブ型雇用という言葉が流行り始めているものの、メンバーシップ型雇用を前提とした書籍が多いということは、その移行もまだスタート地点ということを指す。一方で「女性向け年代別」では、「自分らしさを取り戻し、自己肯定感を高め、自分の人生を生きること」に焦点があてられている。これは「女性らしさ」という古いステレオタイプに苦しめられ、そこからの解放を求める女性が多いことの裏返しだろう。一方で、手帳術は仕事の卓越を追求する時間と情報管理術というのは一服して、より人生の目標の達成、自分らしさの実現に視点がうつっており、社会の進歩がみてとれる。整理・片付け術というのは私の馴染みのない分野ではあるが、整理整頓の技術論というのは一昔の話であり、本当に自分にとって大事なものを見つけるための手段に整理・片付け術が位置づけられているというのは非常に興味深かった。

 

上記のように本書の分析を見た上で、私が「自己啓発書」に食指が動かなくなった理由を考えると、私が日本社会に住んでいないことが大きいのではないかという思いに至る。私はそろそろ渡米して10年なので、仕事も生活もこちらのスタイルに染まりつつある感は否めない。会社組織の中で卓越を志向する人は少数であるし、メンバーシップ型雇用というのはとうの昔に崩壊しているし、何か他のことのために自分の人生を豊かさを犠牲にする人は少ないし、取り戻すも何もはじめから「自分らしさ」しかない奴が多い。なので、住んで仕事をしている環境がそうなので、それに適合するための行動を日常的に求められ、あえて本からそれらの缶が方や視点を学ぶ必要がないというのが正直なところだ。「環境」が人に及ぼす影響というのは本当に大きいと思う。

 

「自己啓発書」から距離をとっている人には本書はあまり参考にならないかもしれないが、「自己啓発書」を読み、何某かの学びを一度でも得たことがあるという方は、改めてそういう書籍との距離のとり方を考える機会となるため、本書を強くおすすめしたい。ただ、消費しやすく、お手軽に読める「自己啓発書」とは異なり、本書はアカデミックな研究色が強すぎて、私からすれば持って回った表現が多く、決して読みやすいとは言えない。例えば、「感情的ハビトゥス」という馴染みのない言葉が本書のキーワードでよくでてくる。私は「自分の心や体に馴染んだ習慣」と言い換えて読み進めたが、要点を説明する時に頻出する言葉なので、そこで一々私はつっかかってしまった。また、それぞれの章ごとに論点を

  • その習慣を身につけるための主目的(例:自分の夢を明確にし、実現に向かうための手帳術)
  • その習慣を身につけることで何が達成できるか(例:自分の夢の日常における優先順位をあげ、それへの取り組み姿勢を変える)
  • 既存の提唱されている考え方に挑戦しているか(例:目標不在で効率的な時間情報管理のみを追求した手帳術)
  • それがどのように社会に影響を与えたか(例:自分だけのオリジナル手帳ブーム)

ということがまとめられており、それはそれでわかりやすいのだが、上記4点について下記の用語が使われており、こちらも感覚的にすっと入ってこない。

  • 賭金=争点
  • 差異
  • 闘争
  • 界の形成

まぁ、私が最近読み応えのある格調高い本を読んでいないことが原因かもしれないが、「自分は自己啓っぽい本よく読むから、読んでみよー」という軽いトーンで読み始めると玉砕必死なので、その点だけ注意されたい。ただ、以下の5ワードだけでも事前に抑えたおけば、読みすすめるのはかなり楽になると思うので、手にとって頂きたい。

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