Thoughts and Notes from NC

アメリカ東海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『FACTFULLNESS』 データに基づいてコロナ禍を読みといてみる

2020年もあと一月で終わろうとしている。2020年のビジネス書ランキングで常に上位を維持している『FACTFULLNESS』は気にはなっていたが、今一つ食指が動かず手にとってこなかったが、やはり話題のビジネス書は目を通しておいたほうがよいだろうという若干後ろ向きな姿勢で本書を読みはじめた。私は、新卒でコンサルタント会社に入り、「事実と事実でないものを区別した上で、事実を元にして判断をする」ということは徹底的に叩きこまれた。なので、本書の「思い込みを排し、データや事実を基に物事を読み解く」というテーマそのものに目から鱗が落ちることはなかったが、一方で「事実というのは、組み合わせ方や光の当て方次第で、間逆の判断を導き出しうる」ことも知っているので、本書で紹介されている、陥りがちな罠(分断本能、ネガティブ本能、直線本能、恐怖本能、過大視本能、パターン化本能、宿命本能、単純化本能、犯人探し本能、焦り本能)にはまらないように、事実に如何に接して、如何に真実に近付くかという10のルールは非常に勉強になった。

 

 

 危機が差し迫っていると感じたら、最初にやるべきなのはオオカミが来たと叫ぶことではなく、データを整理することだ。

『FACTFULLNESS』 第10章 焦り本能

本書では、感染症の危険性についても触れられており、筆者が存命であれば、このコロナ禍で揺れる世界を事実というスポットライトで照らしてくださったことであろう。が、筆者は執筆中に残念ながら亡くられている。残された我われにできることは、本書でえた知見を元に事実やデータを整理し、それらに基き、このコロナ禍の世界を読みといていくことだと思う。幸いにもコロナの感染状況についてはウェブ上で、信じられないくらい詳細なデータにアクセスすることができる。なので、今年のビジネス書ランキングの上位に位置している本書をあらためて激賞するよりも、年末に日本への帰国を予定しているので、帰省予定の東京と、私の住むノースカロライナとウェイク郡の事実とデータを本書の教えの通り整理してみたい。

 

東京都

ノースカロライナ州

ウェイク郡

人口

13,999,568

10,488,084

1,111,761

感染者数

37,355

336,775

26,464

検査数

770,231

4,929,602

-

死亡者数

468

5,035

285

感染率

0.27%

3.21%

2.38%

検査数/人口

5.50%

47.00%

-%

感染者死亡者率

1.25%

1.50%

1.08%

人口死亡率

0.00%

0.05%

0.03%

     

11月22日時点

       

非常に基本的なデータであるが、これはスタート地点としてはなかなか面白い。こうやってデータを眺めるだけで、新しい発見もあれば、新な疑問もわいてくる。頭に浮かんだ考察を徒然なるままに書いてみたい。

  • ノースカロライナは東海岸の片田舎であり、広いアメリカの中でもさびれているほうかと思いこんでいたのだが、何と州別の人口ランキングで全米9位ということが判明。なお、東京より人口が多いのはニューヨーク、フロリダ、テキサス、カリフぉリニアとのこと。
  • 感染者数はニュースなどでよくとりあげられるが、やはり人口に対する感染率をみないと状況がみえてこない。わがウェイク郡は州都ラーレーがあるのでノースカロライナの中では、金融都市シャーロットがあるメクレンバーグ郡と並ぶいわゆる都市部だ。ノースカロライナ全体の感染率と比べると3割ほど低いので比較的良いほうではあるが、同じ規模のメクレンバーグ郡は感染率が4.3%と高いので一概と都市部と田舎間の格差という単純化はできないようだ。
  • これらと比較すると感染拡大が心配されているものの東京の感染率は驚異的に低い。夜の街に繰り出すなどの羽目を外さなければ、こちらよりは安全そうだ。日本のニュースなどを見ると街や駅には人が溢れており、ソーシャルディスタンスが器をつけなくても保てるウェイク郡とは人口密度が違うので感覚とあわないが、ここまで感染率が違うと明らかにリスクは東京のほうが低いと判断できる。
  • 一方で検査数/人口について言うと、これまた驚くべき差がでている。東京の検査数は人口に対して少なすぎるように見えるが、一方でノースカロライナの検査数の多さには驚かされる。勿論、1人が複数回受けているケースも多々あるので、半数近くの人が検査を受けているわけではないものの、私も帰国前にドライブスルーで検査をうけてみようと思う。これらの数字からは、東京には隠れコロナ感染者が一定数いて、実はもっと感染しているのではないかという懸念がある。
  • また、感染者死亡者率も興味深い。わがウェイク郡は医療体制が非常に整っているので死亡率をおさえることができていると推測できる。また、東京と死亡者率に大差がないことを考えると、東京の感染者数は検査数は低いものの、そんなに間違っていないのではないかと推測できる。

 

本書は読み物として勿論面白いし、勉強になるが、実際に10のルールをちらちらと見ながらデータと事実を掘り下げていくと、新たな疑問が広がっていき、真実にぐいぐいと近付く感覚がえられる。人種別、年齢別の感染率、クラスターの発生率など他にも興味深いデータが沢山あるので、本書を参考にしながらデータをもう少し見ていきたい。

『いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。』 自分と向き合う時間を作る

ステイホーム生活が始まってからわが家では朝礼を朝食を食べながら毎日実施している。日ごとに子供も含めて担当の家事が決まっているので、その日の家事の内容を確認したり、夜の電話会議の予定を全員と共有したり、週末に皆で決めた晩ごはんのメニューを確認したりしている。私の一日は朝の家事と朝礼をし、朝食をとるという「家族と向き合う」ことから始まる。

 

子供のオンライン授業は7時30分から始まり、私は大体朝の7時から8時の間にその日の一番初めの会議が始まる。世界各地の地域ヘッドクォーターが仕事のカウンターパートであるので、アジアパシフィックにあわせて全体会議は朝の7時から始まることが多いし、インドにオフショアセンターがあり、日常業務の多くを助けてもらっているので、そのチームと打ち合わせをすると7時か8時くらいが最適な時間となる。朝一の会議が終わると、そのまま数珠つなぎのように会議詰めの時もあれば、大量に来ているメールやチャットをこなす作業時間がとれることもあれば、役員からテキストが来て緊急対応で午前中がつぶれる、なんてこともよくあり、午前中の残りの時間は「仕事や同僚と向き合う」時間だ。

 

子供たちは授業は開始の時間は同じなのに、娘の昼休みは10時30分から始まり、息子の昼休みは11時30分から始まる。なので、妻は娘と昼ご飯を食べ、私は息子と昼ご飯を食べる。料理が好きだが、昼食の準備にあまり時間をとるわけにはいかないので、準備時間は10分以内と決めている。授業が終わると息子からLINEが入るので、YouTubeを見て腹筋と視力回復体操を15分ほどして、ちゃちゃっと昼ご飯を作って、息子と一緒に食べる「家族と向き合う」時間がしばしある。

 

昼ご飯が終われば、仕事に戻り、ひたすら「仕事や同僚と向き合い」、時間がとれたら休憩がてら息子と散歩に言って「家族と向き合う」時間をしばし過す。夜に会議がはいることもあるが、基本的には午後の5時30分くらいにはなるべく業務を終え、少し休憩しつつ、散歩やランニングや筋トレなどの運動をし、少し「自分の時間」を過す。

 

ステイホーム生活が始まってから晩ごはんの支度は家族ですることにしており、午後6時15分が開始の時間となっている。家族で分担をして三品作り、風呂に入って、家族で夕食をとるという「家族と向き合う」時間を過ごす。晩ごはんを食べ終わると子供はテレビを観るか、自室に戻るかするので、夜の会議が無い時は、軽くワインでも飲みながら「妻と向き合う」時間を過ごす。私の生活はこんな感じで、仕事が忙しくて大変に思うこともあるが、家族との時間をたっぷりとれているので、満足している。

 

『いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。』は、『ずっとやりたかったことをやりなさい。』の続編で、自分らしい自分だけの人生を歩むための多くの示唆を与えてくれる自己啓発書だ。モーニング・ページ、アーティスト・デート、ソロ・ウォーキング、メモワールという4つの手法が紹介され、どうやって「自分のやりたいことを見つけ、実戦していくか」について、様々な事例と共に紹介されている。正直、私は20〜30代の頃に自己啓発書はたっぷり読んだので、最近は殆ど読まない。「アメリカで家族と楽しく過ごす」という「やりたかった」ことを謳歌しているので、特に自分探し系の自己啓発書は「結構でございます」という感じだったのだが、中田敦彦のYouTube大学で紹介されているのを見て、妙に気になって手にとってみた。

 本書を読んで、改めて自分の一日を上記のようにまとめてみて気付いたことがある。私は「自分と向き合う」時間を殆どとっていないのだ。ランニングをしている時など、走りながら自分の頭の中の雑念がはらわれる感覚が覚えることはあるが、意識的に自分と向き合ったり、内省することがいつからか殆ど無くなっていることに気付いた。

 

本書を読みながら、本書で推奨されるモーニング・ページというものをやり始めてみた。これは、朝一に、ノートに自分の頭の中に浮かんだことを徒然なるままに2ー3ページ書くという作業なのだが、本書ではそういう言い方はされていないが、これは朝一で自分と向き合う時間を作りましょう、という行為なのだ。直観的に今の自分に必要だなとは感じたが、実際に初めて見ると思ったよりも効果が高い。ノートに書かれることの殆どは自分が今気になっていることであり、気になっているということは大体は懸念事項であったり、何がしかのアクションをとらないと薄々認識しているものだ。そういうことを言語化し、内省し、可視化すると、それを一つ前に進めるためのアイデアが浮かんだり、アイデアを実現するためのアクションが浮かんだりする。そういうアクションは大体が、着手するのに躊躇する面倒なことなのだが、書き出すという行為を通して「これはやらんとあかん」と自分を説得することができているため、モーニング・ページをやる前よりも物事がぐいぐい進んでいる気がする。

 

今はまだ第一段階として、頭の中のゴミの整理をして、出発に向けてチューニング作業をしている状況であり、「ずっとやりたかったこと」に創造的に取り組むという段にいたっていないが、他の手法も試して次のステージに進んでいきたい。コロナ禍で仕事や家族との向き合い方を今一度考えているという方も多いと思うが、本書はそのとっかかりと具体的な方策を与えてくれる良書だ。今一度自分と向き合い、自分の人生について考えないといけないと、少しでも思っている方にはおすすめの一冊だ。

『未完の資本主義』 現代資本主義を問う新しい視点

本書『未完の資本主義』は、国際ジャーナリストの大野和基による、世界的に話題を集める知識人へのインタービュー記事である。

 

ポール・クルーグマンやトーマス・フリードマンという大家から、デヴィッド・グレーバーやルトガー・ブレグマンなどの気鋭の学者・ジャーナリストがずらっと名を連ね、この混沌とした現代社会を捉える多様な視点が一冊で味わえお得感の溢れる一冊である。「資本主義はテクノロジーの変容にあわせて、どう変化して、どう進化していくのか」というのが本書の一貫したテーマである。最近読んだ本の資本主義論といういうと、行き過ぎたグローバリゼーション、過剰な格差社会、歯止めのかからない地球温暖化と気候変動という負のテーマが多かったが、本書は経済学のみでなく人類学な歴史学などの様々な角度から現代資本主義を問う視点が紹介されており、「そんな見方があるのかぁ」と目から鱗のおちる瞬間の多い良書である。

 

世界の知の巨人7名というのは少し言い過ぎな感があるが、どの対談も示唆に溢れ、再読の上、いくつかの原典にあたりたいと知的好奇心を刺激するものが多かった。『続・善と悪の経済学 資本主義の精神分析』の著書であるトーマス・セドラチェックは精神分析のアプローチを使って現在の資本主義や経済学を問うというその斬新さが特に面白かった。セドラチェックの自身を精神科医として、「経済学」を患者として診療するという取り組み方は突飛ではあるが、「数字で説明できない現実から目を背けて偽り、数字で説明可能なものしか見ようとしない傾向は自閉症気味である」であるとか、「経済成長することが自然な状況であり、経済成長せずとも経済は機能するという大前提を見逃して制度設計しているのは誤りである」というのは私にとっては興味深く、新しい視点であった。また、労働環境も改善され、かつ子供ですらインターネットにアクセスしあらゆる情報をえることができる、この平等な社会にマルクスが生きていたら、彼はマルクス主義を主張したであろうか、という問いは斬新で面白かったので、以下引用する。

二〇〇年前なら、恐らく私はマルクス主義者になっていたでしょう。小さい子供が(過酷な労働で) 死んでいたからです。その一方で、もしマルクスがいまの時代に生きていたら資本主義国に住みたいと思うかどうか。これは興味深い問いであるといえます。現代の資本主義国なら(マルクスの目指していたような、誰にとっても) とても快適な生活ができますが、彼の思想とは離れています。では、彼は中国や北朝鮮のような共産主義国に住みたいと思うでしょう 。

 

なお、AMAZONでは、著者がポール・クルーグマンとして掲載されているが、これは適切ではない。これでは、クルーグマンがフリードマンやセドラチェックと対談したかのように見えてしまうが、クルーグマンは7人の対談相手の1人にすぎない。日本人にとって馴染みの深いクルーグマンを前面に押し出したい出版社の気持ちはわからなくもないが、本書の価値は一番手として口火をきるクルーグマン以降の論稿にあると私は思う。伝統的な経済学から距離をおいた新しく、かつ注目を集める視座に多く触れることができるので、本ブログの読者の方には特にオススメの一冊だ。

『流浪の月』 「ラベル付け」と「無知」

昨年受講した会社の管理職研修でTilt365という自己評価を実施した。物事を考えたり、意思決定をする際に何に重きを置くのかについて、アイデアとデータを縦軸に、結果と人間関係を横軸にとり、自分が四象限のどこに分類されるのかを把握し、それぞれのグループの特性を理解し、効果的にコミュニケーションや協働するにはどんなことを考慮したほうが良いのか、という考え方を整理してくれるよくあるフレームワークだ。この手の自己評価や研修は何度か受けたことがあるが、何気に企業研修の中では一番盛り上がる。効果的なコミュニケーションの糸口が研修を通じて学ぶことができたという痛快さというよりむしろ、複雑怪奇な人間を単純な四象限に落とし込み「分類」することによってえられる安堵感からきているように感じる。多種多様なバックグラウンドを持つ人の多いアメリカで仕事をしていると、まさかと思うような認識の齟齬は日常茶飯事だし、意図せず地雷を踏んで起爆するのもよくあることなので、人に「ラベル付け」ができ、その行動パターンをわかった気になると、ほっとしてしまうのだろう。こういう研修に参加すると人間というのは「分類」や「ラベル付け」がしたい生き物なんだなぁ、といつも思う。

 

2020年本屋大賞の大賞受賞作品『流浪の月』を娘が読んでみたいというので、買ってあげたところ、面白かったというので私も読んでみた。

流浪の月

流浪の月

  • 作者:凪良 ゆう
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: Kindle版
 

 「家内更紗ちゃん誘拐事件」という過去の少女誘拐事件の当事者である佐伯文と家内更紗という二人の主人公の織りなす物語。事件当時19歳であった文には「少女誘拐事件の加害者であるロリコン野郎」というラベルが貼られ、当時9歳であった更紗には「少女誘拐事件の被害者となった可愛そうな女の子」というラベルが貼られているが、当事者二人は全く異る認識をもっている。が、世間の下した分類というのは、当事者であっても抗えない程の強烈な粘着性があり、そのラベル剥がしを諦め、自分を押し殺して静かに暮らす二人。そんな二人が再び交差することにより、周囲が二人の意に反してざわつき出し、物語が展開していく。本屋大賞らしい伏線が丁寧に回収されていく巧みなストーリー展開、自分の内面を言葉で表現できないマイノリティの声なき声を卓越した筆致で拾っていく表現力、デジタルタトゥーなど世相を色濃く反映した扱う題材のポップさ、ムラ社会のしきたりに沿わない人を容赦なく罰する日本社会へのアンチテーゼ、そして自分の理解を超える対象にわかりやすい「ラベル付け」をして、自分の心の平静を保つ人間の性が見事に活写されており、読みどころが多いだけでなく、色々なシーンを読後にぱらぱらと眺めたくなる余韻の長い良作であった。

 

本書には、安易な「ラベル付け」をする人が多く登場するが、基本的に悪意がある者は非常に少ないし、寧ろ善意に満ちた人が多い。読者にとって「悪人」というラベルが貼られる登場人物であっても、認めざるをえない五分の理や、それらの人物がよってたつ「社会の常識」があり、白と黒がはっきりする勧善懲悪の人物設定にしていないところは筆者の工夫だろう。が、それが故に浮き彫りになるのは、善意や悪意の問題よりも、人びとの多様性に対する「無知」こそが、分断を生み出す根源だということだ。多少の善意など「無知」であることの弊害の前では何の価値もないし、寧ろ善意に溢れる「無知」こそが最も性質が悪いという警鐘のようにも聞こえる。

 

全国の書店員が選ぶという「通」さが本屋大賞の売りであったと思うのだが、ここのところ既に売れている作家が名を連ねることが多く、今一つ食指が動かなかった。が、本書は秋の夜長にぱらぱらと何冊かの他のノミネーション作品も読んでみようかなぁ、と思わされるような良書であった。筆者の他の作品も読んでみたい。

『現代語訳 論語と算盤』 成功や失敗なんて単なる残りカス

アメリカに移住し、アメリカ企業の日本人の全くいない仕事環境にどっぷり浸かって七年近くなる。家族や私生活を大事にする同僚や上司の姿勢に多くを学んだし、形式よりも合理性を重んじるスタイルは私の肌にあっているし、常に付加価値を出そうと前のめりになっている人たちと働くことは刺激になっている。会社から価値を認められなければ一ヶ月前の通知で、いつでも職を失う可能性がある厳しさはあるが、思いっきり仕事をするに適した環境であると思う。

 

一方で、そういう環境である故に、同僚や部下と接して「疲れる」こともよくある。まず、肩書と給料にものすごく拘る(固執する?)点だ。全員が良くも悪くも常にキャリアアップの機会を貪欲に追求しているので、部署間の人材の引き抜きは日常茶飯事だし、中長期ではなく、短中期的に昇進・昇給の見込みがなければ、キャリアアップの機会のないポジションと見切りをつける人が結構多い。

また、実績として掲げることのできる「成果」を欲しがる人が多いので、日常業務に加えてそういう種まきも一緒にしてあげないと、今の仕事を「退屈な仕事」と判断し、もっとエキサイティングな仕事を求めて、せっせと転職並びに社内異動活動に精を出す人も多い。

「肩書や給料というのは、自分の成した仕事の結果としてついてくるものである」とか、「成果につながる仕事というのは口を開けていて自然に与えられるものではなく、自ら会社やお客様のためになることを考え抜き、今のポジションで自分が何をできるかを熟慮した上で自ら紡ぎ出すものである」とか、そういう原則論を言うと、その場では「その通りだ!」という人が多いのだが、朱に交われば朱くなるではないが、目先の昇進、昇給、華やかに見える仕事に目移りしてしまいがちな人がやはり多い。

良いところも一杯あるのだが、キャリアップの香りが常にする職場づくりをするのは性に合わないし、やっぱり「疲れる」のだ。

 

さて、前置きというか、愚痴が長くなったが、本日紹介する『現代語訳 論語と算盤』は、そんなアメリカのキャリアアップ万歳という雰囲気に食傷気味の私の心を癒やしてくれる良書であった。利益を追求するための算盤勘定も勿論大事であるが、社会の基本的な道徳を基盤の上で築いた富でなければ、長続きはしないし、そもそも素性の悪い富に価値なんてないんだ、という渋沢栄一の原理原則論は、心地よいだけでなく、裏打ちされた実績があるだけに非常に説得力がある。

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

  • 作者:渋沢栄一
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: Kindle版
 

 

目から鱗の落ちるような名言や勇気の湧く至言に満ちた良書であったが、一番心に響いた箇所を以下引用させて頂く。

成功や失敗というのは、結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなものなのだ。現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことだけを眼中に置いて、それよりももっと大切な「天地の道理」を見ていない。彼らは物事の本質をイノチとせず、カスのような金銭や財宝を魂としてしまっている。人は、人としてなすべきことの達成を心がけ、自分の責任を果たして、それに満足していかなければならない

 成功することがゴールというのが常識とかした現代において(渋沢の現代と我々の住む現代は無論異なるが)、成功や失敗というのは残りカスにすぎないのに、そんなことばかり気にしてどうするんだ、という言葉は心に響いた。目先の成功や失敗をカスとまで言い切るその懐の深さがなんとも気持ち良い。道議に従い、自分がなすべきことをするために全力を尽くすことが一番大事であり、結果として成功することもあれば、失敗となることもあるが、個々の成功失敗は大局観を持ってみたらカスみたいなもので、生涯を通じて大義を果たすために邁進することだ大事だ、という言葉はあくせくと日々の業務に追われて、疲れた言葉にエネルギーを与えてくれる。

 

日本資本主義の父と言われる渋沢栄一のこの名著を何故今まで手にすることがなかったのか正直疑問を感じるが、本書は「現代語訳」と銘打っているだけあり、表現が平易で非常に読みやすい。一部、女性の活用などについては、当時としては先進的であったのだろうが、今見ると「えっ、渋沢先生??」と首を捻るところもあるが、まぁ、それもご愛嬌というものだ。まだ読んでないという人には強くお勧めしたい一冊である。

『フェルマーの最終定理』 たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさ

17世紀のフランスの裁判官であるピエール・ド・フェルマーは「3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理について「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」というメモ書きを残してこの世を去る。本日紹介する『フェルマーの最終定理』は、その17世紀に打ち立てられたフェルマーの最終定理が、1995年にイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズによって完全に証明されるまでを描いたサイエンス・ノンフィクションだ。350年近く数学書殺しとして誰にも証明することができなかった最大な難問がついに証明されるというそのドラマチックな題材、17世紀に飽き足らず紀元前5世紀のピタゴラスにまでさかのぼる筆者サイモン・シンの壮大なスケール感、証明はできないが素人にも理解できる数論という世界の神秘性、数学の天才たちの常人には想像も及ばない渾渾と溢れ出る才能とその浮世離れした行動の痛快さ、そして過去のスーパーヒーローの残した技を巧みに操り、最終的に見事なあわせ技でラスボスをやっつけるアンドリュー・ワイルズの少年漫画の主人公的な格好良さ、など読みどころが満載で、数学の難しい知識がなくてもとても楽しめる良書であった。

フェルマーの最終定理(新潮文庫)

フェルマーの最終定理(新潮文庫)

 

 

上述の通り、本書は読みどころ満載で、紹介したい内容に溢れているが、全てをあげると本エントリーは天文学的な長さになってしまい、かつ読者もそれは求めていないことは容易に想像できるので、数学の天才たちの格好良さにここではフォーカスをあてたいと思う。ワイルズがいよいよフェルマーの最終定理に挑もうという本書最大の読みどころ「第六章 秘密の計算」は以下のようなフレーズから始まる。

問題解決のエキスパートは、相矛盾する二つの資質をそなえていなければならないー

たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさである。

 仕事で難解な問題解決に取り組んでいる人であれば、この想像力としぶとさの重要性はわかっているであろうし、そしてまたその2つを一つの人間が同時に持ち合わせていることは稀有であることも知っていると思う。私の今の上司は、どちらかと言えば絶え間なく「こういうやり方はどうだろう、ああいうやり方はどうだろう」と旺盛な想像力からアイデアをどんどん出すタイプの人で、私はどちらかという実現性も踏まえてじっくり考え、粘り強くやり抜くタイプなので、今の上司とは補完関係にありうまくやっている。そういう風に役割分担をしているのはもちろん互いの向き不向きもあるが、私は「しぶとくじっくり考える」が故に、やたらめったら自分の想像力からでてくる湧き上がるアイデアを熟慮していたらやってられないので、想像力に少し蓋をしていることは正直あると思う。なので、理屈としては一人の人間がその資質を兼ね備えているのが良いというのはわかるが、それは資質以上に実行に移すのが難しいということがわかるので、壁にぶち当たりながらも、湧き上がるアイデアの一つ一つをじっくり考え、正規の大難問の解決を前に進めていくワイルズの格好良さが、読んでいて本当に気持ちよかった。そういう作業を振り返ったワイルズの下記の言葉も奮っている。

新しいアイディアにとどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。 

 ワイルズは、このフェルマーの最終定理に取り組むために、屋根裏部屋に一人こもって研究を何と6年間も続けたという。共同研究が主流の現代数学において、一人でこの問題に取り組むというのは非常に珍しいことのようだが、高度に知的なこの活動を黙々と一人で取り組むことができたのは、その資質ももちろんあるだろうが、数学が好きで好きで仕方がないということも端々から伝わってきて、そのなんというか特殊性、というか浮世離れした変態性も読み物としての本書の魅力をあげている。

 

読み物としてももちろん面白いが、仕事で問題に直面し行き詰まっている方などは、途方も無い問題に挑戦し、信じがたい重圧の中で凄まじい行き詰まり方をしつつも、最後は大技を決め、問題を見事解決するワイルズの姿に刺激をうけること請け合いなので、強くおすすめしたい。

 

『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』 外国語習得の羅針盤

本屋に行けば英語学習の方法論を著した本、並びに参考書は棚に溢れ返り、インターネット上にも同様のコンテンツは検索すらしきれないほど氾濫しており、正に情報の濁流と言っても過言ではない。豊富なコンテンツや情報技術の発達による新しいツール群は、学習者をより素早く目的地に連れて行ってくれる整備された道路となりうる反面、その莫大な情報量は学習者を隘路に迷い込ませるに危険性もはらんでいる。下記のグラフ*1のように、日本人の国際的な英語能力が相対的に下がっていることを見ると、他国と比較して、その恩恵を日本人が受けていないことは残念ながら明らかである。

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書籍やブログにあふれる英語勉強法のコンテンツというのは、英語による意思疎通ができるようになった人の経験談であることが多い。私自身も自分の経験を元にした自説を何度か本ブログにあげているが、自分の経験がそのまま他者に適用できることのほうが少ないだろうとは思っており、100人読んでくれて、1人くらい本当に参考になってくれる人がいれば良いな、くらいに正直思っている。外国語の習得の成功要因というのは一つに絞り切れるような単純なものでなく、複数の要因が複雑にからみあっていることが殆どで、受け手側に自分にあった内容を適切に選択するというリテラシーが求められ、それは決して簡単なことではない。

 

今回紹介する『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』は、外国語学習そのものを学問として研究している白井恭弘氏に著書であり、情報の波にのまれ溺れかけている学習者がその波をかき分け、正しい方向を見つけるための視点を提供してくれる良書だ。敢えて強調するが、本書はわかりやすい英語勉強のための学習指南書ではない。本書を読んだからといって、「よし、明日からこういう勉強を試してみよう」という行動に繋がるような直接的な答えは一切でてこない。ただ、色々な勉強法を試したり、続かなかったりして、もがいている人たちが、ふと立ち止まり、外国語を学習するという行為とは一体どういうことなのかと科学的に考えるきっかけを与えてくれ、そのからみあう要素の複雑さを理解すると共に、自分がどの要素でつまづいているのかを考えるフレームワークを提供してくれる。

 これまでの研究から、どういう学習者が外国語学習に成功するかを予測する最も重要な要因は、三つあると言われています。

 1 学習開始年齢

 2 外国語学習適性

 3 動機付け

『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』

 本書は上記の3つ外国語学習の成功要因をあげており、各要素について個別の章をもうけて深掘りをしている。面白いのは筆者の主観的な見解は可能な限り省かれており、「子供の方が外国語学習のスピードは速い」という一般論についてさえも、学術的な実験や論文を必ず裏づけとして提示されていることだ。

本エントリーを読んでいる方は、学習開始年齢の旬を過ぎてしまった方だと思うので、三つの重要な成功要因の一つに年齢があげられていることに落胆されるかもしれない。が、この開始年齢という要因も、環境や動機などの要素から分離独立してその効果の絶対性を裏付ける研究成果はないことが本書を読むとわかるので、萎えずに「外国語学習適性」と「動機付け」の箇所まで読み進めていってほしい。

 

MLATは四つの異なったタイプの能力を測るように作成されています。それは

 1 音に対する敏感さ

 2 文法に関する敏感さ

 3 意味と言語形式との関連パターンを見つけだす能力

 4 丸暗記する能力

の四つです。

適正については膨大な研究があり、大久野研究を積み重ねた結果、MLATなどの適性テストによって測られた適性が、教室での外国語学習の成否をある程度的確に予測することがわかっています。
『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』

適性について触れる第3章「どんな学習者が外国語学習に成功するか」は本書における一番の読みどころで、外国語学習における自分の弱みと強みを把握するレシピが提供されており、自己評価に基づいた適切な学習方法を選択するための多くの示唆が提供されている。他のあらゆる能力と同様に、外国語学習についても得意、不得意、才能のあり無しが存在する。が、本書では「適性」をもう二段階くらい深堀りしてくれるため、自分の強みと弱みを学術的な裏付けに基づいて把握することができる。

私は在米生活が7年近くになるので、それなりに英語を聞き取ることができる。が、家族と接していて「音に対する敏感さ」は非常に低いということは薄々と自覚していた。7年近くアメリカで生活をしている子供たちには流石に耳で勝てないが、仕事で日々英語を使っている私の方が妻よりも全体的なヒアリング能力は長けている。が、「RとL」や「SとTHとZ」などの個別の音の聞き取り能力だけを比べると、妻のほうが「耳」は良い。適性という点で、あちゃぁ、と思う反面、そこを補う勉強方法に力をいれれば、もう一伸びできるということで、非常に上記の枠組みは参考になった。

 

本書は、繰り返しになるが、上記の様に「外国語学習」という巨大な怪物を、因数分解し、その個別要素の相関性などを学術的に解き明かしてくれる。英語の勉強に手詰まり感がある方は、新たな勉強方法に着手する前に、本書を手にとれば、「日本の教育でカバーされている箇所はどの部分」で、「自分が独学で取り組んできた要素はどの部分」で、「自分が学習の目的を達成するために取り組まなければならないことは何なのか」を考えることができる。そういう意味で、本書は外国語習得のための羅針盤ということができると思う。外国語の習得に四苦八苦している方には参考になると思うので、手にとって頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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