Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『流浪の月』 「ラベル付け」と「無知」

昨年受講した会社の管理職研修でTilt365という自己評価を実施した。物事を考えたり、意思決定をする際に何に重きを置くのかについて、アイデアとデータを縦軸に、結果と人間関係を横軸にとり、自分が四象限のどこに分類されるのかを把握し、それぞれのグループの特性を理解し、効果的にコミュニケーションや協働するにはどんなことを考慮したほうが良いのか、という考え方を整理してくれるよくあるフレームワークだ。この手の自己評価や研修は何度か受けたことがあるが、何気に企業研修の中では一番盛り上がる。効果的なコミュニケーションの糸口が研修を通じて学ぶことができたという痛快さというよりむしろ、複雑怪奇な人間を単純な四象限に落とし込み「分類」することによってえられる安堵感からきているように感じる。多種多様なバックグラウンドを持つ人の多いアメリカで仕事をしていると、まさかと思うような認識の齟齬は日常茶飯事だし、意図せず地雷を踏んで起爆するのもよくあることなので、人に「ラベル付け」ができ、その行動パターンをわかった気になると、ほっとしてしまうのだろう。こういう研修に参加すると人間というのは「分類」や「ラベル付け」がしたい生き物なんだなぁ、といつも思う。

 

2020年本屋大賞の大賞受賞作品『流浪の月』を娘が読んでみたいというので、買ってあげたところ、面白かったというので私も読んでみた。

流浪の月

流浪の月

  • 作者:凪良 ゆう
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: Kindle版
 

 「家内更紗ちゃん誘拐事件」という過去の少女誘拐事件の当事者である佐伯文と家内更紗という二人の主人公の織りなす物語。事件当時19歳であった文には「少女誘拐事件の加害者であるロリコン野郎」というラベルが貼られ、当時9歳であった更紗には「少女誘拐事件の被害者となった可愛そうな女の子」というラベルが貼られているが、当事者二人は全く異る認識をもっている。が、世間の下した分類というのは、当事者であっても抗えない程の強烈な粘着性があり、そのラベル剥がしを諦め、自分を押し殺して静かに暮らす二人。そんな二人が再び交差することにより、周囲が二人の意に反してざわつき出し、物語が展開していく。本屋大賞らしい伏線が丁寧に回収されていく巧みなストーリー展開、自分の内面を言葉で表現できないマイノリティの声なき声を卓越した筆致で拾っていく表現力、デジタルタトゥーなど世相を色濃く反映した扱う題材のポップさ、ムラ社会のしきたりに沿わない人を容赦なく罰する日本社会へのアンチテーゼ、そして自分の理解を超える対象にわかりやすい「ラベル付け」をして、自分の心の平静を保つ人間の性が見事に活写されており、読みどころが多いだけでなく、色々なシーンを読後にぱらぱらと眺めたくなる余韻の長い良作であった。

 

本書には、安易な「ラベル付け」をする人が多く登場するが、基本的に悪意がある者は非常に少ないし、寧ろ善意に満ちた人が多い。読者にとって「悪人」というラベルが貼られる登場人物であっても、認めざるをえない五分の理や、それらの人物がよってたつ「社会の常識」があり、白と黒がはっきりする勧善懲悪の人物設定にしていないところは筆者の工夫だろう。が、それが故に浮き彫りになるのは、善意や悪意の問題よりも、人びとの多様性に対する「無知」こそが、分断を生み出す根源だということだ。多少の善意など「無知」であることの弊害の前では何の価値もないし、寧ろ善意に溢れる「無知」こそが最も性質が悪いという警鐘のようにも聞こえる。

 

全国の書店員が選ぶという「通」さが本屋大賞の売りであったと思うのだが、ここのところ既に売れている作家が名を連ねることが多く、今一つ食指が動かなかった。が、本書は秋の夜長にぱらぱらと何冊かの他のノミネーション作品も読んでみようかなぁ、と思わされるような良書であった。筆者の他の作品も読んでみたい。

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