Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

便乗して岡田女史に釣られてみる

岡田女史の釣り記事(その1その2)で、結構盛り上がっている模様。盛り上がりに花をそえているのは「釣り場の解説師」切込隊長。普段は岡田さんの釣りっぷりを揶揄し、釣られている諸氏に実況解説を加えるというのが彼のスタンスだが、今回は釣られサイドに本格的に身を投じている(その1その2)。思うところをぶちまけてやるかという気持ち半分、「お前ら、どうせ釣られるなら、このくらいやらなきゃだめだぜ!」というユーモア半分という印象を受けたが、大変楽しませてもらった。便乗して微力ながら私も釣られてみたい。

映画試写会、ドラマ完成披露会に参上する芸能レポーター

映画やドラマの完成披露試写会で、映画やドラマの宣伝をしたい芸能人に、全然関係ないゴシップネタを芸能レポーターがふり、話すネタの綱引きを繰り広げるというのはよくあるシーンだが、今回のインタビューからはそれにかなり近い印象を受けた。インタビュー記事に対して「結局何が言いたいのかわからなかった」というコメントがよせられているが、インタビューする側とされる側の意図が全く異なり、全くかみ合っていないのだから当たり前だ。まぁ、三流芸能レポーターのようなインタビューをするほうもするほうだが、間違ってそういう方からの依頼を受けてしまったほうもしまったほうなので、今後注意されたし。

「釣り」の定義とそのスペシャリスト岡田女史

今回の記事からは、ざっと拾い読みしかしないユーザのリアクションをかき集めて記事への注目度を集めようという岡田さんの釣り師としての力強い意図が感じられる(まぁ、今に始まったことではないが)。自分の中で「釣り」という言葉の定義がかなりクリアになったのでその点は収穫。
サブタイトルだけを拾い読みすると「日本のウェブはバカと暇人のもので、アメリカのものと比べると劣ったモノでとてもがっかり」と梅田さんが強調しているように見え、見事にそれに釣られた人が多数。実際は、「釣り」の下地作りのために岡田さんがそこに誘導し、そういう印象をうけるように構成しているにすぎない。『“Twitter事件”の真相 日本のネット空間の「悪いところ」とは』なんてタイトルの付け方も東スポ顔負けで、恐れ入る。拾い読みユーザのアイキャッチを徹底的にしようというテクニックが満載の記事で、そういう意味での岡田さんの「釣り」の専門性、スペシャリティが強くうかがえる。まぁ、品位が伴っていないので、そこにプロフェッショナリズムは一切感じないけれど。

「好き嫌い」と「良い悪い」

ツールに過ぎないんだし、ツールに良いも悪いもないはずが、日本は英語圏より悪いという文脈で来たのだから、そりゃ論理的な回答は導き出せないわな。

と、隊長は言っているが、別に「良い悪い」とか、「優れている劣っている」という話を梅田さんがしているわけではない。彼のスタンスは、『自分の好みとして、ウェブにはこうなって欲しいという願望や期待は確かにある、でもそれはあくまで好みなので善悪・優劣として断定するものではない、で自分の好みに日本のウェブに近くなって欲しかった願望や期待が満たされなくて個人的に残念』というだけの話。沈黙していたのは単に「日本のウェブはアメリカと比べて悪くて、劣っている」というように誘導しようとする岡田さんに困っていただけではないだろうか。

「それは僕の好みだ」と結論。好き嫌いを言い始めたら終わっちゃうだろ、議論が。「だって俺、やだったんだもん」で終わりじゃねーか。

だから、早く本の話にいきたくて、議論を早く終わらせたかったということだろう。

「下の人」をバカにしているのは誰か?

梅田さんのメッセージは「上の人」向けのモノが結構多く、敷居が高いと感じている人がいるのは周知の事実だし、この記事で強調するまでもない。まぁ、でもそれは梅田さんに限った話ではないし、勝間和代さんでも、山本真司さんでも敷居が高いと感じる人もいれば、低いと感じる人もいるわけで、上とか下ではなく、個々人の敷居や気合いにあわせて、参考にする対象を選べばよいだけだろう。そもそもメッセージを発信している方は、対象となる層を意識こそすれ、そこにミートしない人を「下の人」なんてあまり思っていないものだと思う。上とか下とか強調したって、反発して反応する人がでてくるくらいで、そんな議論をしたって何も生まれない。この記事の問題なのは、その反発と反応が生まれやすいことにつけこんで、「上の人」、「下の人」という区分けをことさら強調していることだ。単に「少し言っていることは敷居が高いなぁ」程度に思っている人を、「上から目線で語られてまっせ」とたきつけて、釣ろうというしていることにもっとみんな気付くべきだ。そういう視点でみれば、本当の意味でバカにしているは誰なのかは一目瞭然ではないだろうか。

優れた事業なんてものは強烈な主観で作るもんじゃないのか

ここまで書いたついでに、梅田さんの主張につっこませて頂くと、下記には違和感を覚える。

日本語圏のネット空間において、ユーザーが100万人とかいるはてなの取締役であると。そうすると、日本語圏のネット空間について、何かネガティブなことを語るということは、「おまえは自分の利用者を批判するのか」というコメントがあったわけ。・・・<中略>
そこが原点になって何か問題が起きたときに、直接的に利用者に対して「君たちがこういう使い方をしているのは良くない」と主観でものを言うのは、はてなの取締役を辞めるまでしないということを、あの事件の時に思ったんですよ。

はてなユーザーが100万人といったって、所詮たかだが100万人で、ネット空間の人工の比率でみれば微々たるものだ。もっと言えば、ブックマークやトラックバックだって精々1000件くらいなもので、米俵の中の1粒程度と言っても過言ではない。“Twitter事件”なんていったって、はてな界隈ではそれなりのマグニチュードがあったかもしれないが、日本全体でみれば震度1くらいで、こんなことは殆どの人は知らないのが現状だと思う。確かに、粘着質あふれる反応を受けると当事者にとっては、体感震度はかなり高いのは事実だが、さらっと流して、はてなの取締役なんて肩に力をいれず、もっとカジュアルに色々発信してもいいんではないだろうか(まぁ、これは私の願望や期待です、はい)。
また、そもそも事業なんて、その企業に関わる人間の主観的な強烈な思い入れがあって始めて形になるものなんだから、直接的に利用者にもの申すのは積極的にすべきだし、私はそれがid:jkondoとかと異なっていたって構わないと思う。利用者だって、過敏な反応する人が一部にいるのは事実だが、ある発言にへこたれて、利用しているウェブサービスを変えるほど柔な人間ばかりではない。一歩ひいたポジションゆえの他のはてな社員への遠慮というものもあるかもしれないが、はてな社員から「兄貴、あまり外で発言するのは控えて下さい」と言われているわけではないのだろうから(これは推測)、遠慮なく外向きに発言してもよいのではないか。以前のはてななら、そういったことに対する侃々諤々の社内の議論も含めて社外にさらす勢いがあったが、最近は臓物までさらす異常さがなりをひそめ、端から見てるモノとしては少し物足りない。

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