Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

世界を旅する心で転職活動を考える

私の転職・移住歴

私は日本で20年働いた後、アメリカに移住してアメリカで10年働いている。転職は日米でそれぞれ1回ずつした。勤めていた会社が、日本でもアメリカでもIBMに買収されてしまい、買収と統合の荒波にももまれたきた。
今までの海外移住、転職、買収などの経験から、「住んでいる国を変えること」と、「勤めている会社を変えること」は、結構似ているものなんじゃないかと思っている。
海外移住をすると、国をリードする政治家や政治システムが変わり、文化も異なり、住んでいる人もがらりと変わり、収入や福祉制度や使用言語ももろもろ変わる。
一方で、転職や別会社に統合されてみると、勤め先の経営者や経営方針は変わるし、企業文化も異なるし、一緒に働く人も変わり、給与や福利厚生や社内の主要言語も変わったりすることもある。転職と海外移住は、両方とも大きな環境変化であり、類似点が多いのだ。

自由を求めて:私の選択

私は生まれた日本という国を離れ、アメリカに住んで、自分の人生をより自由に生きることができている。また、幸いなことに勤め先にも恵まれ、自分の性分にあった自由な中くらいの外資系企業で仕事をしてきた。IBMという巨大企業に2度も買収されてしまったので、そこから脱出すべく、自分の選択として日本でもアメリカでも転職をした。なお、IBMは素晴らしい会社だと思うし、勉強も沢山させてもらったが、私にとっては一生勤める会社ではなかった。
この資本主義社会においては、住んでいる国と同じくらい、勤める会社っていうのは私には重要な選択だ。今やグローバル企業は一つの国より大きな力を持ちえ、会社が変われば文化も雰囲気も一緒に働く人も180度変わりうる。私にとってそのマグニチュードは住む国を変えるくらい大きかった。それだけ、勤める会社が自分の人生にもたらすインパクトは私には大きいのだ。

転職の可能性:新たな文化との出会い

私は、自分のアメリカ移住経験を開陳し、海外移住に興味を持っている人の少しでも参考になればと思い、こんなNOTEをつらつらと書き連ねている。でも、住んでいる国を変えるなんてハードルが高すぎる、という人が多いのもわかる。海外移住というのは人生のオプションに全くないという人もいるだろう。
でも、海外移住までしなくても、転職によって異なる文化、異なるリーダー、異なる人たちと人生を織りなすことも可能だ。少なくとも、現状に某かの不満があったり、閉塞感を感じている人には、転職は検討すべき、人生における重要な選択肢だと思う。
仕事に重きを置かなくたって、資本主義社会を生きる上で、少なくとの会社員には勤め先が与える自分への影響は大きい。

海外旅行は、転職活動に実は似てる

「知らない土地に行って、知らない文化や人に触れてみたい」という理由で海外旅行をする人は多いだろう。私も海外旅行好きだからよくわかる。
私は、転職活動をしたことがない人は、海外旅行をする感覚で転職活動してみることをすすめたい。なぜなら、転職活動は、「知らない環境に行って、知らない企業文化や人に触れる」ことができるからだ。別に海外旅行に行ったからってその国に移住しなくてよいように、転職の面接を受けたからって、その会社に転職しなくても良い。転職活動は海外旅行くらい気軽にできるもののはずだ。相手に選ばれるだけでなく、自分自身も選び取る力をもっている台頭な関係なのだから何も臆することはない。
転職活動をすると、否が応でも自分のキャリアや仕事観と向き合うことになる。それは自分の人生を振り返るようなものだ。そういう自問自答をしながら、「この人たちと仕事したいな」って思える会社を探すのが転職活動だ。面接で触れた人たちと仕事を楽しくするイメージができたら、その会社の企業文化は自分にあっていると考えてよいと思う。海外旅行をする感覚で、是非気軽に転職活動をしてみて頂きたい。

出会いと環境が人生を形作る

移住や転職が私にもたらした変化を色々あるが、一番大きかったのは何と言っても「人」だ。前の環境では全くいなかったタイプの人との出会いは、良きにつけ悪しきにつけ私の人生に新しい彩りを与えてくれた。そして、新しい「人」との出会いは、ロールモデルの発見にしても、反面教師との対峙にしても、自分に成長の機会を与えてくれる。
「人間は環境の奴隷」だ。自分が気づかないうちに、人というのは残念ながら環境によって多くの制約に縛られ、そして影響を受けている。もし、現状に不満があったり、閉塞感があるならば、「環境」を変えるというのは、最も有効な手段の一つだ。なので、世界を旅するような心で転職活動をして知らない会社を覗いてみれば良い
私自身は転職や移住を通して、「この人との出会いのない自分の人生は想像できない」というような素晴らしい出会いに幸いなことに恵まれた。転職というワードが気になって本記事を読んている方が、転職活動や転職を通して、そういう出会いを見つけ、新しい人生の扉をひらくことができたら、これほど嬉しいことはない。

「言葉」が紡ぐ、わが家の文化

夕食支度時のひとこま

わが家は夕食の支度を家族全員でする。支度中は、それぞれが自分の担当の料理をするのに黙々と手を動かす。ある日の夕方、冷蔵庫をあけて息子が鶏肉料理の担当であった私にこう問いかけた。

おとうさん、「チキ肉」だす?(夕食支度中の息子)

黙々と夕食の支度をする家族全員の手が一瞬止まる。「チキ肉」???

と、鶏肉のことか?頼む、、、。(夕食の下ごしらえ中の私)

「あっ!」と自分の間違えに気づいた息子。そして、息子も含めて家族全員が爆笑。言い間違いは誰しもがすることではあるが、「チキン」と「鶏肉」という組み合わせの妙と、「チキニク」というコミカルな音韻が生み出すユーモアにより、素晴らしい新語が誕生した瞬間であった。しばらく、わが家で「チキ肉」がブームとなったのは言うまでもない。

 

カタカナ英語に対する娘のもやもや

一方で、日本の大学進学に向けて勉強中の娘は、日本で使われる横文字カタカナ英語が気になるらしい。

プライオリティ、アジェンダ、コンセンサスとか、優先順位、議題、合意でよくない?(カタカナ英語にもやもやする娘)

意味は一緒なのだからあえて英語でなくても良い、という気持ちはわかる。が、「コンフィデンシャル」、「フィージビリティ・スタディ」、「コンティンジェンシー」のような日本語で言ったほうが早そうなカタカナ英語や、「リスケ」、「キャパ」、「コンペ」のような短縮されて新語となったものも、市民権をえたと言ってもよいだろう。「ローンチされた」みたいに、私には「あうんのブレス」的なルー大柴ギャグと大差ないように感じられるものもあるが、これも国際化が進む時代の流れだろう。

 

『はじめての言語学』

黒田龍之助氏の『はじめての言語学』は、厳密で専門用語の多いイメージのある言語学を、わかりやすく紐解き、事前知識なしで入り口にたてるようにガイドをしてくれる良書だ。本書の中で、いわゆる「ことばの乱れ」について言語学者のスタンスを示しており、面白かった。

言語学は、言葉遣いの間違いを指摘することや、それを矯正することを目的としているのではない。現実をしっかりと観察していくのが基本姿勢である。
「ことばの乱れ」というものが取り沙汰されたら、言語学者の反応はふつうのそれとはむしろ逆である。学校文法にはない新しい現象に、喜んで飛びつくはずだ。
『はじめての言語学』

言語学者の視点では「ことばの乱れ」というものは存在しないという見方が私には新鮮であった。筆者は、言語について考える時、それは時とともに変化していくことは大前提であると語っている。
また、言葉はシニフィアンとシニフィエに分かれるという言語学の基礎もなかなか興味深かった。シニフィアンは訳すとなれば「記号の形」であり、例えば「合意」と「コンセンサス」のような表記を指す。シニフィエは「記号の意味」であり、「多様な意見の提示や議論を通し、関係者間の意見一致がはかられた状態」のような意味を表す。
シニフィアンが異なれば、異なる語感や印象が生まれるので、シニフィエが同じであっても別の言葉と言語学的には解釈はできるだろう。

なので、過度なカタカナ英語は私も鼻にはつくが、おおらかな心で接して、相手の個性を尊重はしてあげたいと思う(友達になりたいかどうかはさておき)。

 

「言語」を通じた家族の成長

私は、「チキ肉」のような独特の言い間違えに触れたり、「もやもやするカタカナ英語」について子どもと話すことが好きだ。何故かと考えるに、そこには日常の一コマ以上の意味合いがあって、英語と日本語の両方に触れる子供たちの成長を感じさせ、「アメリカに住んでいる日本人家族」としてのわが家の「文化」を育んでいるからだろう。言語を通じて、これからも子どもの成長を見守り、豊かな家族の時間を楽しんでいきたい。

「言葉」が紡ぐ、わが家の文化

夕食支度時のひとこま

わが家は夕食の支度を家族全員でする。支度中は、それぞれが自分の担当の料理をするのに黙々と手を動かす。ある日の夕方、冷蔵庫をあけて息子が鶏肉料理の担当であった私にこう問いかけた。

おとうさん、「チキ肉」だす?(夕食支度中の息子)

黙々と夕食の支度をする家族全員の手が一瞬止まる。「チキ肉」???

と、鶏肉のことか?頼む、、、。(夕食の下ごしらえ中の私)

「あっ!」と自分の間違えに気づいた息子。そして、息子も含めて家族全員が爆笑。言い間違いは誰しもがすることではあるが、「チキン」と「鶏肉」という組み合わせの妙と、「チキニク」というコミカルな音韻が生み出すユーモアにより、素晴らしい新語が誕生した瞬間であった。しばらく、わが家で「チキ肉」がブームとなったのは言うまでもない。

 

カタカナ英語に対する娘のもやもや

一方で、日本の大学進学に向けて勉強中の娘は、日本で使われる横文字カタカナ英語が気になるらしい。

プライオリティ、アジェンダ、コンセンサスとか、優先順位、議題、合意でよくない?(カタカナ英語にもやもやする娘)

意味は一緒なのだからあえて英語でなくても良い、という気持ちはわかる。が、「コンフィデンシャル」、「フィージビリティ・スタディ」、「コンティンジェンシー」のような日本語で言ったほうが早そうなカタカナ英語や、「リスケ」、「キャパ」、「コンペ」のような短縮されて新語となったものも、市民権をえたと言ってもよいだろう。「ローンチされた」みたいに、私には「あうんのブレス」的なルー大柴ギャグと大差ないように感じられるものもあるが、これも国際化が進む時代の流れだろう。

 

『はじめての言語学』

黒田龍之助氏の『はじめての言語学』は、厳密で専門用語の多いイメージのある言語学を、わかりやすく紐解き、事前知識なしで入り口にたてるようにガイドをしてくれる良書だ。本書の中で、いわゆる「ことばの乱れ」について言語学者のスタンスを示しており、面白かった。

言語学は、言葉遣いの間違いを指摘することや、それを矯正することを目的としているのではない。現実をしっかりと観察していくのが基本姿勢である。
「ことばの乱れ」というものが取り沙汰されたら、言語学者の反応はふつうのそれとはむしろ逆である。学校文法にはない新しい現象に、喜んで飛びつくはずだ。
『はじめての言語学』

言語学者の視点では「ことばの乱れ」というものは存在しないという見方が私には新鮮であった。筆者は、言語について考える時、それは時とともに変化していくことは大前提であると語っている。
また、言葉はシニフィアンとシニフィエに分かれるという言語学の基礎もなかなか興味深かった。シニフィアンは訳すとなれば「記号の形」であり、例えば「合意」と「コンセンサス」のような表記を指す。シニフィエは「記号の意味」であり、「多様な意見の提示や議論を通し、関係者間の意見一致がはかられた状態」のような意味を表す。
シニフィアンが異なれば、異なる語感や印象が生まれるので、シニフィエが同じであっても別の言葉と言語学的には解釈はできるだろう。

 

「言語」を通じた家族の成長

私は、「チキ肉」のような独特の言い間違えに触れたり、「もやもやするカタカナ英語」について子どもと話すことが好きだ。何故かと考えるに、そこには日常の一コマ以上の意味合いがあって、英語と日本語の両方に触れる子供たちの成長を感じさせ、「アメリカに住んでいる日本人家族」としてのわが家の「文化」を育んでいるからだろう。言語を通じて、これからも子どもの成長を見守り、豊かな家族の時間を楽しんでいきたい。

州が変われば道義も変わる、道義が変われば法律も変わる

「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~

年末年始の休暇中に小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~』を読んだ。

ご自身がフィールドワークをされているタンザニアの経済を丹念な現地での取材を元に考察されており、興味深かった。タンザニアのビジネスの要点をかいつまむと下記の様な感じ。

  • 小規模の個人ビジネスをいくつか兼業しながら生計をたてている人が多く、短期の利益の最大化に焦点があたっている

  • 事業規模ではなく、仲間内のネットワークがリスクヘッジとなり、その時に余裕がある人がない人を助けるという互助形態で成り立っている。

  • 知的財産や著作権のようなグローバル資本主義のルールは適用されないインフォーマル経済が無視できない規模になっている。

総じて、「Living for Today(今日を楽しく生きる)」に人々のフォーカスはあたっている。「将来の幸せ」のために今を我慢したり、約束事で縛られることも自分自身が人を縛ることも嫌う民族性があるようで、宇宙人の話を聞いているようでなかなか面白かった。中でも心に引っかかったのが、「適法性よりも、仲間内での道義性が重視される」という点。なので、違法コピーなどは国際ルールには反しているが、道義的には彼らにとっては問題ないので、タンザニアでは平然と行われている。所変われば道義も変わり、道義が変われば行動も変わるということが見て取れた。

州が変われば道義も変わる

この6月にアメリカ南東部のノースカロライナ州から西部のカリフォルニアに引っ越した私。「アメリカ合衆国」という国名の通り、アメリカは独立した州の集合体であり、同じ国なのに州ごとに違うものだと色々なことに驚かされている。現代社会の「道義」の一つである環境意識もかなり異なり興味深い。ノースカロライナでは、家にあるゴミ箱は普通ゴミとリサイクルゴミだけなのだが、カリフォルニアはそれらに加えてコンポストゴミがある。日本で暮らしている人にはイメージつきにくいかもしれないが、ゴミ箱というのは下記のサイズだ。もちろん、これは共有ではなく一家庭分であり、なかなかのサイズで結構場所をくう。

左から普通ゴミ、リサイクル、コンポスト

市から、「ダンボールについてはリサイクル率は85%ですが、プラごみについては30%だから頑張りましょう」みたいな通知分が郵送されてきたりして環境意識が高い。街中を走る車のテスラ率も高く、粗大ごみの処理にかかる値段もかなり高く、ノースカロライナとは大きく異なる。

道義が変われば法律も変わる

カリフォルニアに引っ越してきて、初めに一番驚いたことはコストコにウィスキーなどのハードリカーが売っており、さらに日曜日の午前中でもハードリカーも含めアルコールが購入できることだ。何に驚いているかわからない方も多いと思うが、ノースカロライナではハードリカーは州の運営するABCストアでしか購入することはできず、一般的な食料品店ではお酒はビールやワインしかおいていない。さらに、日曜日の午前中はアルコール類を一般的な食料品であっても一切購入することができない。日曜日の昼からホームパーティがあり、そこにお酒を持参するとなると前日に購入をしないといけない。
ノースカロライナは南部諸州で、平均的なアメリカの州と比較するとキリスト教信者がいまだに多く、キリスト教の安息日にあたる日曜日は、「酒なんて買ってないで教会に礼拝にいきなさい」という感じなのだろう。これは建国前に設立された「ブルー法(Blue Laws)」の名残らしいが、プロテスタントによって建国された伝統的なアメリカの価値観が色濃く反映されている。一方で、より前衛的な州であカリフォルニアでは、こんな規制は時代遅れとばかりにさっさと緩和されている。州によって「道義」も異なり、それに伴い「法律」まで異なるのは州政府の力の強いアメリカ政治の特色だろう。

州ごとの違いは、不便か、快適か

別の州に引っ越してみると、自動車免許はとりなおさないといけないし、前の州で取得した医者の診断書は効力を発揮しないしで、不便はそれなりにある。日本の感覚では「同じ国なのになんで?」ということが多い。自動車免許の筆記試験など、異なる次元でカリフォルニアのほうが難しく、同じ国でこんなに難易度に差があっていいのか、という感じ。
が、その反面、同じ国民が住んでいるのに、文化や風習の違い、そして法律まで違ったりするので、新しい新鮮な発見があり、楽しむこともできている。引っ越すことにより、国名に何故「合衆国」と入っているのか、より強く実感することができた。今後も州ごとの違いについても紹介していきたい。

アメリカ企業リストラの現実、イベント実施か雇用確保か?

アメリカ企業と聞くとレイオフ、首切りというイメージを持つ方もいるだろう。解雇規制が厳しい日本企業と異なり、アメリカの殆どの州では理由なく従業員との雇用契約を解消することができる。理由も告げられず、予告なくぶった斬られるなんて話はあまり聞かないが、先日「やっぱおっかねーな」と思ったことがあったので、共有したい。

アメリカ企業でよくある問題

私はFP&A(財務企画部)という会社の財務資源をどういう風に配分するかを決める部署に勤めている。先日、FP&Aの事業部長である私の上司と彼の部屋で会議をしていたら、製品事業部長が部屋に入ってきて不満をぶちまけた。彼のポイントは

  • 担当製品の認知度向上のために、来四半期にホテルを使ったマーケティングイベントの企画申請をした

  • 予算の確保は今四半期の会社業績によるため、来四半期にならないと実施の可否は判断できないと財務企画部から差し戻された

  • ホテルを使ってのイベントはどんなにギリギリまで待ったって60日前には会場をおさえないといけないので、今判断できなければ困る

これは上場アメリカ企業あるあるなのだが、売上の目標達成が「カタイ」と使える経費に見通しがつきやすいのだが、売上が目標を下回る可能性があると、利益率を確保するために短期的にコントロールのききやすいマーケティング費用は保留になりがちなのだ。四半期という短期の業績への投資家からのプレッシャーのきつい上場しているアメリカ企業でよく起こる問題だ。

 

ぶちギレる製品事業部長への対応

その辺りの事情やホテルへのキャンセル手続きの可能性の検討などの押し問答となったが、遂にぶちギレた製品事業部長が強い語調で

激昂する製品事業部長:
ホテルのイベントの準備にどれだけ時間がかかるかくらい分かるだろう!
そんなことも分からないと言わせないぞ。さっさと承認してくれ!!

 

「困ったなぁ、あんただって業績が渋いと出るお金も渋くなっちゃうことくらいわかるだろう」と内心思いつつ、返答に困っていると、私の上司が助け舟を出してくれた。

私の上司:
わかった、そこまでいうならホテルの予約を進めるといい。

 

これは意外な返答であった。強く言われたからって、簡単にオッケーを出すなんて彼らしくない。「ようやくわかったか、この杓子定規の石頭どもめ」と言った感じで微笑む相手にさらに私の上司が続けて言ったのは、いかにも彼らしい厳しい言葉だった。

私の上司:
但し、今期売上が達成できなければ、イベント分経費を削らないといけない。そうだな君の部署であればシニアエンジニア2人分くらいの経費になるか。なので、今期売上がいかなかった時に備えて、クビを切るエンジニアの名前を2人考えておいてくれ。今期の売上が目標に到達したら何事もなくイベントをでき、人も減らさなくて良い、おめでとう。だが、未達の場合は2名人員を君の部署は失うことになる。会場をおさえるかどうかは、君の判断次第だ。じゃ、この話はこれで終わりかな。腹が決まったら連絡くれ。

ひぃー、我が上司ながら厳しい!理屈は通っているけど、私はとてもそこまでは言えない。勿論、相手の笑顔は憮然としたものに一変し、ドアをバタンと閉めて去ってしまった。私の方を見て肩をすくめる上司。「やっぱこえーな、この人」と気が引き締まった。

 

それでも解雇はなるべく避けたい

なお、私の上司は別に血も涙もないわけではない。期末になると彼からの数字に対する重圧は半端ないのだが、その時にいつも切々と言うのが

私の上司:
いいか、こんだけ数字がへこんでみろ。どれだけRIF(Reduction in Fotceの略、いわゆるリストラのこと)しないといけないか分かるか。私はそれはしたくないんだ。

ということ。アメリカ企業は容赦なく首を切るというイメージの方もいるかもしれないし、正直容赦がないこともたまにはある。但し、多くの場合はそこに躊躇もあれば、残る側にも痛みはある。なるべく解雇しなくて済むようにできる限りの努力はする。が、新陳代謝をある程度重ねて、筋肉質な身体を維持しないと、厳しい競合との戦いに勝てずに、従業員共倒れか、誰かにパクリと買収されて結局その人たちにリストラされてしまうことも皆知った上での苦しい決断なのだ。

まぁ、投資家の期待に応えることが優先されすぎ、従業員が犠牲になりやすいというのは、アメリカ資本主義の行き過ぎたところではあるが、それはまた別の話で。

 

まとめ

  1. アメリカ企業の雇用契約の厳しさ:
    アメリカのほとんどの州では雇用契約を理由なく解消することが可能であり、会社都合で職を失うということも時として起こりうる。

  2. 四半期ごとの財務圧力とその影響:
    アメリカの上場企業では、四半期ごとの業績に対する投資家からのプレッシャーが強く、売上が目標に達しない場合、利益率を維持するためにマーケティング予算が凍結になったり、時として人員削減が行われる。

  3. 解雇を避ける努力とその複雑さ:
    経営陣にとっても人員削減というのは苦渋の決断であり、企業の上層部も解雇を望んでいないし、解雇対象外の従業員や外部からの買収から身を守る手段でもある。

『ChatGPTエフェクト』 ホワイトカラーが生き残る分水嶺

2023年もいよいよ終わりに差し掛かっている。今年を振り返り、最も注目を浴びた技術といえば、ChatGPTを筆頭とした生成AIだろう。ChatGPTはユーザ数が公開2ヶ月で全世界で1億人を超えるという正に爆発的な拡大をみせた。

 

私がChatGPTを使い始めたのは今年の2月くらいからで、友人から「英文の報告書などの作成時間が革命的に早くなるから試してみたほうが良い」という勧めを受けて手をつけた。意味が通る英語は苦なく書けるが、

  • 役員報告に適した表現で簡潔な英文をまとめたり
  • 数単語しか使用できないプレゼンテーションの見出しや箇条書きをインパクトのある表現でまとめる、

というは私はとても苦手だった。が、ChatGPTで自分の書いた英語について、

  • Can you revise the following updates to be more executively friednly?
  • Could you review and refine the following bullet points for the CFO's presentation deck to make them more concise and impactful?

という風にお願いすると、ものの5秒で私が1時間かけても書けないであろう、美しい表現に仕立ててくれるではないか。今となってはChatGPTは私の欠くことのできない仕事のパートナーだ。

 

そんなChatGPTを一人のユーザとしてではなく、より俯瞰的な視点で理解をしたいと思い、本日紹介する『ChatGPTエフェクト』を手に取ってみた。最新の技術トレンドを深く理解するのはいつの時代も容易ではない。社会に大きな変化をもたらすような技術のおぼろげながらでも全体像をつかむためには、多角的にその技術を捉えることが必要だ。

 

本書は、ChatGPTに関する包括的な現状分析を提供してくれる。この本は、開発者、開発会社の経営者、一般ユーザー、学術的な専門家、そして利用企業の経営者といった、さまざまな立場からChatGPTの影響を総合的に論じている。全体観としては、総花的でまとまり欠く点があることは否めないが、時間をかけてまとめあげるよりも、鮮度の高い情報をできる限りまとめて世に発信しようという出版側の意図は理解できる。本書を通して、ユーザもそうでない方も、ChatGPTの現在の地位とその将来の可能性について、より高い解像度をもってイメージをすることができるだろう。

 

そんな様々な視点からChatGPTと生成AIの可能性を評価する本書は、ChatGPTへの取り組み方が下記の2つの層に分かれることを示している。

  • ChatGPTの可能性を積極的に探求し、実践的な利用を試みる人々
  • まだよく理解していなく、距離を置いている人々が大多数

この二極化した反応というのは、しばらくの間は続き、両者の適応の差というのはどんどん大きくなっていくだろう。

私はいつも同じことを言うんですが、課題は何かとか、懸念は何かとか言わずに、どんどんやればいいんです。日本にまん延している空気感なのですが、課題を挙げて、何か分かったような気になって、実際には行動しない。それでは意味がないです。黎明期の技術に課題があるのは当たり前ですし、その課題をすぐ乗り越えていくわけです。

『ChatGPTエフェクト』

AIの話になると必ず名前のあがる東京大学大学院の松尾豊教授は上記のように語る。私がChatGPTを触った時に直感したのは、

「ChatGPTを活用して、自分の仕事の仕方を再構築した人間とそうでない人間の間でホワイトカラーでは圧倒的な生産性の差が出る、これはえらいことだ」

ということだ。

初めて触れて以降、日常業務で私は毎日活用している。実際に使ってみると、

  • こちらの意図を汲み取ってくれず、的外れの回答をする
  • 自身持って答えている癖に、実際には内容が間違えている

ということは決して少なくない。これをもって「時期尚早」、「やっぱり使えねぇおもちゃだな」と評価をする人がいるのもわからなくはない。が、上記にあげた問題点というのは、正直自分の部下に仕事を振った際にも常に起きうることだ。

私は米国で仕事をして長く、アメリカ人の部下にも、インドのオフショアチームにも日常作業や各種分析作業を振ったりしている。できあがった成果物をレビューした際に、言ったはずの作業指示が理解されていないなんてことはアメリカとインドの両方のチームでよく起こることだ。

  • ちゃんと説明したはずなのに伝わっていない
  • 自分の指示の出し方のどこが悪かったのか

そういう失敗と反省を繰り返しながら、

  • アメリカ人には数学的なステップはより細かめに説明をしたり
  • インド人には期限とその時点における成果物イメージを具体的に伝える

などの工夫をそれぞれに対してして、成果の品質があげてきた。ChatGPTについても同じことで、ChatGPTが得意な仕事を、期待通りに実施してくれるように適切に指示することは、マネージャとしての私の力量なのだ。

ポテンシャルや成長性を考えると「こいつ使えね~」と切り捨てることなど、私にはとてもできない。ChatGPT をマネージャとして使いこなすための課題を日々解決していくことこそが、ホワイトカラーとしての重要な資質であり、それは人を相手にしていることと殆ど変わらない。そういう意味で私はChatGPTは今後ホワイトカラーが生き残るための分水嶺になりうると感じている。

 

本日紹介した『ChatGPTエフェクト』は、

  • 生成AIの分野に如何に巨額の投資がされ、今後各社が競い合うようにしてイノベーションを加速度的に進めていく機運を感じさせ、
  • アーリーアダプターとして積極活用する企業が、果敢にどのような挑戦をし、その適応を進めているかという現状をリアルに描写する

その現状と概要を理解するために格好の書だ。既に活用を始めている方も、名前くらいは聞いたことがある方も、現状を理解するためには格好の書なので、是非手にとって頂きたい。

『黒い海 船は突然、深海へ消えた』 とある海難事故から見るジャーナリズムの本質

2008年6月、太平洋上で漁船「第五十八寿和丸(すわまる)」が突如として沈没。4名が死亡し、13名が行方不明となる大きな海難事故がおきる。国の調査報告は高波での沈没と結論付けられているが、3名の生存者並びに救援にあたった僚船の乗務員の証言とは食い違う点が多い。

伊沢理江さんの『黒い海 船は突然、深海へ消えた』は、この「第五十八寿和丸(すわまる)」沈没の謎にせまる渾身のノンフィクション。今年の大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作品であるが、ここ数年の受賞作品と比較しても、群を抜いて面白かった。淡々とした語り口の中からも、真実に迫ろうという筆者のとてつもない熱量が伝わってくる正に力作だ。

 

 

本書は事故現場のシーンからスタートする。朝からの天候不良のため漂泊を始める「第五十八寿和丸(すわまる)」、「大したシケでもないのに、もうけもんだと」とつかの間の休息を楽しむ漁船の日常、それが一変する船への衝撃、そしてあっという間の沈没劇と息をつく間もない展開が描かれる。事故中に九死に一生をえた3名の生存者の証言から、その奇跡の生還劇が生々しく描かれ、読み手も海に飲まれるような感覚に見舞われる迫力の描写。読み手を冒頭から一気に本書の世界に引き込む圧巻の筆力だ。

 

本書の前半部分では、「第五十八寿和丸(すわまる)」の創業主である酢屋商店の事故後の様子、そして帰らぬ人となった17名の遺族の様子などが描かれる。家族や大事な仲間を不慮の事故で失った方たちの悲しみは計り知れない。だが筆者がその中でさらに描くのは、はっきりした事故原因が不明という状況にさらに苦しめられる遺族や酢屋商店の人々の姿だ。行方不明の13名の多くは海底に沈んだ「第五十八寿和丸(すわまる)」の中に閉じ込められたままであろうが、沈没船の調査が行われることはなく、遺体の回収も真相の救命もままならない。以前読んだ『エンジェルフライト 国際霊柩送還士 (集英社文庫)』に

涙を止めようとは思っていない。国際霊柩送還の仕事とは、遺族がきちんと亡くなった人に向き合って存分に泣くことができるように、最後にたった一度の「さよなら」を言うための機会を用意することなのだ。
『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』

というくだりがある。遺体に執着し、亡き人に対する想いを手放すことができないというのが、人間を人間たらしめる感情であり、きちんとしたお別れをすることが、消えることのない悲しみに向き合う上で大事なことだ、と語られていた。「波による転覆」という運輸安全委員会の報告と、生存者や救援にあたった人たちとの証言との隔たりは大きい。その「真相究明とは程遠い報告書」と「この報告書で事故を打ち切りにしようという国の態度」は、遺族が家族を失った悲しみと向き合うことを妨げ、遺族たちをさらに苦しめる。

 

後半部分の主人公は二人。一人目は、真相をつきとめるために、暗中模索で取材を重ね、一つ一つ前進していく筆者自身。二人目は、事故後の経営難に加えて、東関東大震災による原発事故に立ち向かう酢屋商店社長の野崎哲氏だ。守秘義務を掲げて情報公開を渋る国と事故から10年以上経ってしまった月日に苦しめられ、なかなか思うように取材が進まないながらも少しずつ前進していく筆者と、主力船である「第五十八寿和丸(すわまる)」を失い経営難のところに、原発事故が起きて福島県漁連会長としても国と東電と戦う野崎氏。先の見えない暗闇の中を賢明に進み続ける二人の姿が交差しつつ、描かれる様子は圧巻。少しずつ事件の全体像が明らかになる中、二人の主人公がどのような決断をしていくのかについては、是非本書を手にとって、確認して頂きたい。

 

筆者の巧みな表現力と集めた事実を物語と組み立てていく能力は卓越しており、それらは本書の読みどころの一つだ。が、本書を「描写に長けている物語」以上に「ノンフィクション作品」として輝かせているのは、単に「数値のとれるニュース価値の高い記事を書く」だけの昨今のマスコミからは失われた、光のあたっていない社会の事象を照らし、社会に問題提起をするというジャーナリズムの本質だろう。

社会の出来事を掘り起こして記録に残すという営み、つまり、事実のかけらを拾い集めてつなぎ合わせるという作業には、おそらくタイミングというものがある。どんなに重要な出来事であっても、そのタイミングを逃せば真実には半永遠的にたどり着けない。ジャーナリストを職とする私は日々、それを感じていた。

『黒い海 船は突然、深海へ消えた』

立ちはだかる取材の壁につきあたり、失われた時間への焦燥感にかられ、常人ならばとっくに諦めているであろう状況にも、あの手この手で前に進む筆者。それを支えるのは、「事実のかけらを拾い集め記録に残す」ことへのプロのジャーナリストとしての高い使命感だ。絶望的な状況の中でも一筋の光と希望を求めて進んでいく筆者にエールを送りながら読み進める。私は本書をそんな読み方をし、その中で「あぁ、自分はこういうノンフィクション作品を読みたかったんだ」と自分の中の一つのノンフィクション観を発見することができた。

ノンフィクション好きな方が本書にどんな評価をされるのかは結構気になるところ。より多くの方にこの名作を読んで頂きたい。

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