Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『日本ノンフィクション史』 ノンフィクションの3つの魅力

私はノンフィクションが好きだ。大宅壮一ノンフィクション大賞や開高健ノンフィクション賞は定期的にチェックし、琴線に触れたものは必ず読むようにする。だが、改めてノンフィクションの魅力は何かと問われると、「フィクションでは出せないリアリティや臨場感が、、、」みたいな感じにスッキリと言葉に落とし込むことができない。

本日紹介する武田徹氏の『日本ノンフィクション史』は、1970年代頃から認知され始めたノンフィクションの歴史について、その成立前夜まで遡り、各時代でどのような役割を果たし、進歩・発展し、そして今どのような限界と課題に対峙しているのかまとめる大作だ。

戦時の従軍記事やジャーナリズムの取材記事から派生し、単なる報告ではなく物語性を帯びた読み物として立ち上がり、社会な多様な面を描き出す道具立てとして発展していく様子が丹念に描かれている。『日本ノンフィクション史』という名に恥じない史実の克明な記録となっており、読み物としての面白みに欠く「重たい」箇所も多かったが、ノンフィクション好きは一読に値する。

 

本書の内容を振り返りながら、改めて考えてみた私にとってのノンフィクションの魅力をいくつか上げてみたい。

 

多様化した現代社会の見過ごされた事実、物語を救う道具として

複雑化した日本の社会が自己の実像を検証するために、あるいは生きかたの多様化した日本人が己の自画像を確認するために、 ものごとの内実を探り事実をして語らしめるノンフィクションという表現方法を求めるようになったのである。

『日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』

ニュースや雑誌記事というのは多様な現代社会を映し出す鏡ではあるが、その時間、紙面の制約からどうしても深掘りをすることに向かない。そして、現代社会に潜む様々な現実や課題というのは、深掘りをしてこそ初めて浮き彫りになるという類のものが多い。そこに焦点をあてるレンズというのがノンフィクションの一つの魅力だ。

国際霊柩送還士という仕事と国際化した社会ならではの死との向き合い方を問う佐々涼子氏による『エンジェルフライト 国際霊柩送還士 (集英社文庫)』、国家権力に潰された天才エンジニア金子勇の裁判闘争の過程を描きつつ、インターネット時代の潮流に乗ることに圧倒的な後塵を拝した日本社会の現実を問う『Winny 天才プログラマー金子勇との7年半』などはその好例だ。

世に認知されていない課題に焦点をあてるという取組はフィクションでも勿論可能ではないが、現在進行形の事象を迫力と具体性をもって描くことができるノンフィクションの方が私は道具立てとして優れていると思う。

 

同時代の異能、異才を描く伝記として

ベタではあるが、私自身がビジネスパーソンであるため、私は経営者の自叙伝が好きだ。凡人には及びもつかない発想力と実行力、種々の課題に果敢に立ち向かい、負けたり勝ったりしつつも通算では勝ち越す勝負強さ、丹念な描写から垣間見える人間臭さやユーモアなどに触れ、刺激を受けつつも、痛快なサクセスストーリーを純粋に読み物として楽しむことができる。

池井戸潤氏の書く『半沢直樹』のようなビジネス小説も手軽で好きだし、読み物としては面白いが、純粋なビジネスパーソンではない作家が描く経済・経営の世界から学ぶことは殆どない。ヤマト運輸の設立・成長のストーリーを描きつつ、自身の経営観を惜しげもなく開陳する小倉昌男氏の『小倉昌男 経営学』、沈没寸前の巨大企業IBMで数々の経営改革を断行し、死の淵から救ったルイス・ガースナー氏の『巨象も踊る』など、何度も読み返す名作が多い。経済ものではないが、佐藤優氏の『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫)』も、絶望的な東京地検の捜査・勾留にあって、それを学びの機会としつつ、時として楽しんでいるようにすら見える氏の常人離れした知性と胆力のほとばしりが感じられ、名作中の名作と思う。

ニュートンやエジソンも大変な偉人であり、教育効果を否定するものではないが、同時代の異能に触れるノンフィクションの名作が数多ある中、あえて大人になってから読もうと思えないというのが正直なところだ。

 

フィクションを時として超える空想とロマンを備えた物語性

「 最近の諸科学の光によつて照し出された現代の事実世界の秘密は、しばしば、人間の空想、想像の限りをつくして描き出された虚構よりも、 実ははるかに空想的であり、 浪漫的である」「 しかも他面、それらは虚構以上に空想的であり、 浪漫的であるにもかかわらず、 決してそれは、現実にありもしない事柄ではない」。
『日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで 』

「事実は小説よりも奇なり」というのは使い古された表現ではあるが、本書を読んで、私はノンフィクション作品の物語性に惹かれていると実感した。あまり、ノンフィクションを物語として今まで捉えていなかったのだが、改めて思い返してみると多くのノンフィクション作品を私は物語として読んでいることに気づいた。3~4ヶ月太陽が登らない漆黒の北極で極限の旅を敢行する角幡唯介氏の『極夜行 (文春文庫)』、福島原発の事故の現場を描いた門田隆将氏の『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 (角川文庫)』、旅紀行としての不朽の名作、沢木耕太郎氏の『深夜特急』など、それぞれが学びを提供してくれる名作ではあるが、物語としての秀逸さもあわせて際立っている。

が、この点については、本書はいくつかの対立する視点を提供してくれて面白かった。「物語性を帯びたジャーナリズム」というより、「記録性を欠き、商業主義を優先して、物語性を全面にだしたジャーナリスト風文学」がはびこっているのではないかと警鐘を鳴らしている。自分が作品を評価する際も参考としたい。

 

つい力が入って、自分の好きなノンフィクションの作品紹介が多くなってしまったが、改めてノンフィクションの魅力を再認識する良い機会となったし、名前に馴染みがあるもののあまりその功績を知らなかった大宅壮一氏が日本におけるノンフィクションというジャンルの立ち上げに如何に中心的な役割を果たしたのも学ぶことができた。同じくノンフィクション好きな方にオススメしたい。

『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』 老後に向けての貯筋

ここ数年の私のテーマは「老後に向けての貯筋」である。勿論、誤字ではない。金銭面の「老後に向けての貯金」は一定の目処がつきそうなので、健康面の準備を始めようという算段だ。若い時と同じライフスタイルでは歳を重ねるごとに筋肉は減るというのは定説。老後に向けて筋肉を貯蓄しつつ、継続的な筋量の上昇の見込めるライフスタイルを構築しようとしている。

「貯筋」活動の一環として、1年ほどウェブ経由のパーソナルトレーニングを受けた。そこで学んだ一番大きなことは「適切な食事管理」だ。勿論、筋トレの量と質は大事であるが、どんなに充実した筋トレをしたところで、筋量の増加が見込める食事をとらなければ何も意味はない。そういった指導のもと間食を含めてPFC(タンパク質、脂質、糖質)の管理をして2年ほど経つ。基本的には、脂質をなるべく抑え、体重の2倍をグラムに変換した量のタンパク質は最低限とるようにし、糖質も極端に抑えず、運動量に応じてきちんと摂取するように心がけている。当初は、食事の量を一々計測する私の行動は、「また、お父さん何かやっている」案件として家族から白い目で見られた。が、明らかに体を絞り、筋肉をつけ、肉体改造を着々と進める私の姿の影響か、他の家族も今は濃淡もあれど、同様の食事管理に勤しんでいる。

昔は「糖質オフダイエット」というマーケティングワードに踊らされ、糖質を極端に控えていたが、糖質を控えると私の場合は、運動時のパフォーマンスが格段に落ちる。特に散歩をしたり、走ったりする際に糖質が足りないと、とにかく足が重く、だるくなり、運動が苦行にしかならない。が、きちんと糖質を摂取すると、爽快感と共に走ることができ、それによってより距離を伸ばすこともできた。また、いくら「ぷち筋トレ」をしても一向にムキムキになる気配のなかった体型も、タンパク質と糖質をバランスよく摂取することにより、XSかSであった服のサイズが、Mが丁度良くなるようにビルドアップされてきた。そういう経験を通して、自分が食べ、体に取り込んだ食事内容が、どのように自分の身体能力に反映されるのか、ということにこの2年間意識を向けてきたが、手にした健康体よりも、その意識が一番の収穫であった。

 

『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』は、自分の身体を極限までに管理し、鍛え上げるアスリートたちが、自分の肉体、そして食事とどのように向き合うかを克明に描きあげたルポタージュ。

 

筆者平松洋子女史の本を読むのは初めてであるが、取材対象と真摯に向き合う姿勢、マスコミのヘッドラインには表出しない現代社会の一様を切り取る視点、そしてそれをプロの書き手ならではの卓越した表現力で描き出す手腕に驚きつつ、大変充実した読書体験をえることができた。

 

本書で取り扱われるスポーツは、相撲、プロレス、長距離ラン、ラグビー、サッカーと多岐に渡る。そして、その第一線で活躍する超一流のアスリートたちの、自らの肉体、そしてそれを構成する食事への真摯の向き合いようは、勿論私では到達できない領域であり、畏敬の念を覚える。が、その反面、私には眩しくもある彼らの鍛錬は、異次元というものでは決してなく、中年筋トレおじさんの日々の奮闘の延長線上にある、即ち程度の差こそはあれ、原理原則は同じであることがわかったのは大きな収穫であった。
プロレスのスター棚橋弘至選手の取材時の下記の一節がとても印象的だ。

食べている姿を見て、あっと思った。箸で鶏肉をつまむと、肉についている皮や脂肪をいちいち指で取り除いている。

『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』

プロレスラーの若手の寮の取材に、たまたま立ち寄った棚橋選手が若手の用意したちゃんこ鍋を食べるシーンだ。隆々とした肉体と派手なパフォーマンスで豪快なイメージのあるプロレスのスター選手が、鶏肉についてる脂肪をいちいち取り除いているというではないか。私は勿論脂質を抑えるために調理時に肉に付着する脂肪は取り除き、それが不可能なひき肉を使う時は一旦湯がいて脂肪を落とす。筋肉量も、運動量も桁違いのプロレスのスター選手が、ちまちまと脂肪をつまむという、そのギャップに驚かされつつ、繊細かつ徹底した食事管理を地道に続けることの重要性を改めて認識した。

 

一人辺り30~40人前の焼肉を食べた、というような豪快な逸話のつきない相撲の世界でも、様子はそれほど変わらない。丸々とした体躯が印象的な力士も、脂肪はあくまで稽古や取組の際の怪我を避けるための防護が目的であり、その下には筋肉がぎっちりつまっているという。力士は体重よりも骨格筋量をより注意して管理するという事実も非常に興味深い。一流力士は90から100キロほどの骨格筋量を保持し、体脂肪率は30%程度という。私の想像もできない骨格筋量であるが、ただ何でも食べているわけではなく、骨格筋量と適正な体脂肪率を維持するために、一流力士ほど厳密な管理を実施しているという。本書の第一章では押尾川部屋の取材を元に、その模様が克明に描かれている。「身体を作る」ためには、力士が自分自身で「身体と食事」の両方を自主的に管理することの重要性を説いた際の押尾川親方の下記のぼやきは、微笑ましくも、興味深い発言であった。

名古屋場所で名古屋に行って、コメダの喫茶店にみんなで行って甘いシロノワールとかソフトクリーム食べて喜んでいるようじゃだめです。あれは身体を作るためじゃなく、ただのリフレッシュ。

『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』

 

本書に描かれているのは、一流のアスリートのみが到達できる異世界の話ではない。自分の身体を構築する食事の重要性は、平等に誰にとっても変わらない。到達したい点がどこかというところの違いだけの話で、「自分で考えて食べる」、そして「身体と対話」することの重要性は、健康を志す以上常につきまとうテーマだ。「糖質オフダイエット」、「16時間断食ダイエット」などのトレンドに踊らされつつ、いまいち成果を実感できない人は、本書を是非手にとって欲しい。溢れ返る玉石混淆のダイエット情報から自らにあったものを選別するには、原理原則の理解が大事であることがわかるはずだ。さて、ブログも書き終わったし、「老後のための貯筋」に勤しむためにジムでも行くか。

『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』 日米の「親の愛情」の違い

2022年の日本の合計特殊出生率は1.26と過去最低とのこと。1989年に1.57という出生率がを記録し、「少子化」という言葉が広がってから、30年以上改善の兆しの見られない。本日紹介する『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』は、タイトル通り殆ど効果のみられない日本政府の少子化対策の何が間違えであり、なぜ失敗したのかを、社会学の視点からまとめあげている。筆者は「婚活」、「パラサイト・シングル」などの言葉を作り出した社会学者の山田昌弘氏。とらえどころのない社会的事象を端的かつ適切な言葉に落とし込むその能力で、日本の少子化の問題点を完結かつ明確にまとめあげているのは流石。

 

親の愛情と、世間体意識、そして、リスク回避意識の三者が結合して、少子化がもたられされていると考えられる。

その状況に対して、欧米型の少子化対策、つまり、女性が働きに出られればよい、とにかく子供が最低限の生活を送れればよい、という形での支援は「無効」なのである。

筆者は本書の要点を上記のようにまとめているが、日本とアメリカの両方で子育てをしている私には大変興味深い指摘であった。それぞれについて、一つづつ記事が書けそうなテーマであるが、本記事では「親の愛情」について焦点をあててみたい。

別に筆者は欧米の親が子供に愛情を持っていない、と言っているわけではなく、その愛情の注ぎ方に違いがあり、その違いが政策に対する反応の差を表しているという。もう少し細かく見ていこう。

筆者は、欧米では「子育て自体が楽しい、子供を育てることが自分自身の成長につながる」という子育ての過程に意味を見出す人が多いと筆者は分析し、それは私のアメリカでの経験とも合致する。”Family Time”は何にも増して重視されることであり、「週末は何をして過ごしたか?」というのは「週末に家族とどう過ごしたのか?」という質問とほぼ同義である。子供の学校への送り迎えは正当な遅刻早退の理由となり、仕事を優先して家族を蔑ろにするというのは軽蔑の対象にすらなる。ブリューワリーなどに言ってもビールを飲む場所なのに家族連れで溢れている。子供も退屈をしないように、子供向けのボードゲームや各種遊具が充実しているところが殆どだ。週末の稼ぎ時に、充実した”Family Time”が過ごせない場所は、集客ができないのだ。

一方で、日本並びに近隣の東アジア諸国では、「子供をよりよく育て、子供が社会から評価され、経済的に自立できる道を拓く」ことが、「親の愛情」であると本書では語られる。そうなると自ずと「なるべく良い大学に行くための環境整備」が「親の愛情」表現となり、育てた子どもの社会的評価が「子育ての楽しみ」となるという。それが故に、子どもが成人した後も自立がおぼつかなければ、それは「育てた親の責任」であり、「パラサイト・シングル」増加のような社会的傾向となってあらわれるわけである。「週末に家族とどう過ごしたのか?」という質問は、「どんな特別な"Family Time”を過ごしたか」ではなく、「どんな"家族サービス"をしたのか」という含みを持つことになる。即ち、子育てに伴うのは、「その過程の楽しみ」ではなく、「その過程の結果とそれへの責任」ということになる。

 

「待機児童を解消し、働く女性を支援する」であったり、「イクメンキャンペーンなどをうち、男性の育児参加をうがなす」という施策が有効でないとは思わないし、それはそれで大事である。だが、それらの政策は、見方によっては茨の道のように見える「子育て」に、躊躇する若者を飛び込ませるには明らかにパワー不足であった、との筆者の主張は頷ける。

 

文化的な要因については、変化に時間がかかるし、政策で変更しようにも限界がある。こればかりは若い世代が新しい価値観にふれて、自分にとってよりよい選択をしていくしかない。幸い、日本人はある方向に一度向かえば、そこに向かって変化をものすごい勢いで進めていく力と特質があるので、今後に期待したい(個人的には、海外に出てしまったほうが、手っ取り早く、個人の幸せは実現できると思うが)。

 

一方で政策的な面では何をすれば良いのか。本書は問題の分析は非常に明確であるのに、政策的な提言が皆無と言って等しい。これは私には不思議であった。何故ならば、本書を通読すれば有効な政策は一つしかないことは、誰の目にも明らかだからだ。それは何かといえば、「高齢者から若者世代への異次元の所得移転」だ。現在支給している年金を3割くらい減らし(30兆円ほどの財源確保)、高齢者への医療給付も3割ほど減らして(25兆円ほどの財源確保)、確保できた財源をこれから結婚をしていく20代、現在子育てをしている30代に思い切った支援をすれば、子どもを産むハードルは一気に低くなるだろう。金額はさておき「高齢者から若者世代への所得移転」については一切触れられていないのは、分析するのが仕事で具体的な解決策の提示は苦手という学者としての特質なのか、そんなことされては困るという60代半ばの方の都合なのか、それについての明言はさけ、本書を手に取った方の判断に任せたい。

『CHOOSE CIVILITY 結局うまくいくのは、礼儀正しい人である』 礼節こそ日本人の競争力

私はアメリカで10年近く仕事をしている。
「自己主張の強い人たちが多いアメリカで、私程度の英語力で仕事をやっていけるのだろうか」という不安は当初はあったが、気づいたら10年も経ち、幸いなことに今のところ何とか生き残ってやっていけている。勿論、一方的に自己主張を押し通そうとする人もいるし、部下は四半期のレビューのたびに昇給を求めてくるし、議論が白熱して言葉がきつくなることもある。が、仕事中の議論は、多くの場合は互いの立場や視点を尊重され、異なる見解が交差しても穏やかに進むことが多い。寧ろ、アジアパシフィック地域に人の方が、強く自己主張しないと通らないという懸念から、言葉も要求も強くなりがちというのは、渡米後の新鮮な発見であった。

 

読書好きな友人から『CHOOSE CIVILITY 結局うまくいくのは、礼儀正しい人である』を薦められ、手にとって見たのだが、礼節を重んじるアメリカの一流ビジネスパーソンに共通する事項がまとめられており、大変興味深かった。
「あぁ、それなりのポジションで活躍する人は、ビジネススクールなどでこういうこともきちんと学んでいるか、元々こういう態度が身についているんだろうな」と思わされる内容であった。

 

本書は、以下の3部構成からなっている。

  • 礼節は、なぜ私たちの人生を豊かにするのか
  • 礼節を重んじるための25個のルール
  • なぜ、現代においては礼節が軽んじられつつあるのか

メインとなるのは「礼節を重んじるための25個のルール」であり、数は多いものの、各項目は具体例とともにコンパクトにまとめられており、非常に読みやすい。「礼節」という原理原則論を扱うために、類書でとりあげらている内容との重複はもちろんたくさ んある。が、原理原則というのは、100回読んだところで損になるものでもなく、自らを省みるよい機会となるので、私は楽しんで読むことができた。

特に「ルール17 自尊心を持って自己主張する」は、自己主張をする上では、「強さ」ではなく、「やり方」が大切であることがコンパクトにまとめられており、職場でのコミュニケーションを考える上で改めて勉強になった。

自己主張することは、礼節の基本である「他者への敬意」と矛盾することにはなりません。自己主張とは、礼儀正しくていねいに発揮するべき対人関係スキルの一部です。
『CHOOSE CIVILITY 結局うまくいくのは、礼儀正しい人である』

職場では時として激しい議論になったり、営業成績の奪いあいになったりしてピリつくことはままある。が、どんなに「強い」主張であっても、礼節をもって、きちんとした理由をもってされた説明を打ち砕くことはできない。議論が緊迫すればするほど、その議論を結論に導くのはいつだって、原理原則論に従い、丁寧で敬意のある主張だ。外資系企業の日本法人で働いていると、なかなかこちらの主張が理解されずにいらつくことがよくある。でも、本社の人間は「日本のことが理解したくも、理解ができていない」だけなので、「強い」主張よりも、粘り強い丁寧な説明を重ねることが一番の近道であると思う。

 

日本人は自己主張が得意でないとよく言われるが、「礼節」については、他の国の人よりも体と心に染み付いている人が多いと思う。無理に自己主張の「強さ」に舵をきるのではなく、得意の「礼節力」を発揮することが、自身の強みを活かすことに繋がり、かつ主張に説得力をもたせる近道だ。得意の「礼節力」を存分にビジネスシーンで発揮するために多くの日本のビジネスパーソンに本書を手にとって欲しい。

 

なお、本書の冒頭で原題にある「CIVILITY」という言葉について、下記のように解説されている。

礼節(= Civility)という言葉の由来は、都市(= City)と社会( = Society)という言葉にあります。ラテン語で「市民が集まるコミュニティ」を意味する言葉「Civitas」から来ています。 Civitasは文明( Civilization)の語源でもあります。
礼節という言葉の背景には、都市生活が人を啓蒙する、という認識があるのです。都市は人が知を拓き、社会を築く力を伸ばしていく場所なのです。人は都市に育てられながら、都市のために貢献することを学んでいきます。 礼節とは「よい市民になること」「よき隣人であること」を指しているのです。
『CHOOSE CIVILITY 結局うまくいくのは、礼儀正しい人である』

「CIVILITY」という言葉を「礼節」とうまく訳したものだと思う。また、「よい市民になること」「よき隣人であること」を指している、という一節も「CIVILITY」という言葉の本質を示している。余談ではあるが、本書では自ら接する人にどのように「礼節」を重んじて接するか、については語られているが、よい市民としていかに「礼節」を発揮するかは語られていないのは、キリスト教的価値観で面白い。自らが接する隣人に対してはアメリカ人は日本人以上に「礼節」を重んじるが、「よき市民」として「礼節」を発揮する人は驚くほど少ない。学校のカフェテリアの床はゴミだらけ、スーパーでカートはカート置き場に戻されずに駐車場に散乱し、公共のトイレが流されていないなんて日常茶飯事だ。都市の発展に貢献するために「よき市民」となるための礼節本を誰かに書いて欲しいものだ。

『黙殺』 立候補者・被選挙権の平等を考える

「97%対3%」、本日取り上げる『黙殺』はこんな数字の紹介から始まる。これは何の数字かというと「2016年に実施した東京都知事選挙の際に、民放テレビ4社の看板ニュース番組が立候補者たちの報道に割いた時間の割合だという。21人の東京都知事選挙の立候補者を主要3候補(小池百合子、増田寛也、鳥越俊太郎)とそれ以外の18人に分けると前者に97%、後者には何と3%しか割かれなかったという。一人あたりの平均を求めると何と194倍の差がある*1

本書『黙殺』の筆者、畠山理仁氏は、民放テレビ局や大手新聞社に属さないフリーランスのライターであり、全ての立候補者の主張を可能な限り平等に有権者に伝えることを信念に20年以上の選挙取材の続けてきた。

 

本書は、その畠山氏の取材結果の集大成であり、主要メディアに取り上げられない「無頼系独立候補(筆者は泡沫候補という言葉を使わず、立候補者を敬意を込めてこう呼ぶ)たちの心の叫びであり、そして日本の民主主義の健全性を立候補者の視点で考える貴重な機会を提供してくれる政治哲学書だ。

 

「一票の格差」は、日本で戦後に民主的な選挙システムが始まった当初から議論が重ねられてきた。選挙区民の一人ひとりの投票の価値をなるべく平等にすることが、民主主義における平等にあり方ということで、最高裁でも違憲判決がでるなど、その格差を是正すべく監視是正の制度がある程度機能している。「一票の格差」は大事であり、選挙権を持つ人たちを平等に扱うことに何ら疑問は思わない。

だが一方で、本書『黙殺』を読むと、被選挙権の平等確保、格差是正、候補者の取り扱いの平等性については驚くほど関心が払われていないと気付かされる。同じ被選挙権を持ち、同額の供託金を払っているにも関わらず、時として200倍近い報道格差にさらされる「無頼系独立候補」の被選挙権の平等性は守られているのか。そこには大きな疑問が残る。

 

本書によると東京都知事選にでるための選挙の供託金は300万円だという。本書では、この巨額の供託金を捻出するために借金までして、選挙後にその借金返済に四苦八苦する候補者が紹介されている。日本の選挙の供託金はOECD諸国では断トツで高額らしく、ドイツ、フランス、アメリカ、イタリア、カナダは無料、日本がモデルにしたイギリスですら国政選挙の供託金は8万円ほどだという*2。金銭的にゆとりがある、もしくは組織的なバックアップがある人しか選挙に出馬することができないというのは、被選挙権の平等という点で大きな疑問が残る。

 

また、「選挙ポスター」というのも不平等の温床だ。本書によると東京都知事選挙の都内の掲示板の数は全部で1万4163箇所というとんでもない数だ。これら全ての掲示板にポスターを貼ることができるのは、その印刷代を負担できる資金力と全てにはる人員をようする組織力をもった候補者だけだ。掲示板全てを廃止しろとは言わないが、せめて紙のポスターを貼る掲示板は今の1割くらいにして、電子掲示板を設置したり、掲示板削減によってカットできたコストを使って、電車の電子広告枠を活用するなど、被選挙権の平等を確保するために費用をもっと使うべきだろう。

 

本書で紹介される「無頼系独立候補」はアクの濃い筋金入りの変人揃いだ。注目を集めるために奇行に走る人間も少なくない。政策もまともなものもあるが、「東京を恋愛特区にする」などよくわからないものの少なくない(現東京都知事の公約花粉症ゼロも噴飯もので大差ないが)。そうは言っても、殆どの候補者は多額の供託金を払い、人生をかけて真剣に取り組んでいることは本書から強く伝わってくる
日常生活において、学級委員なりPTAなどの役割に立候補をしてくれる人というのは昔からわれわれ一般市民の行動力からすると貴重な存在ではなかったのか。集団のために我が身を投げ出す熱意を持った人で社会は支えられている。被選挙権の平等のために、また民主主義社会において貴重な勇気と行動力をもった貴重な立候補者を、社会はもっと大事にするべきなのではないか、少なくともそういう人たちの声にもっと真剣に耳を傾けるべきではないか、本書はそんなことを考える機会を与えてくれる良書であった。勉強になるだけでなく、読み物としても物語性があり面白いので、興味を持った方は是非手にとって頂きたい。

*1:なお、NHKではこの割合は54 %対46%、一人あたり7倍の様で縮小しているとのこと

*2:選挙供託金制度の違憲性について

『目的への抵抗』 遊び、適当、過剰を追求する勇気

人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。

『目的への抵抗』 ~P.3~

「目的志向」という考えが全盛のこの世の中において、「人間が自由であるためには目的に縛られないことが大事」という、一見すると真逆の考え方から始まる國分功一郎先生の『目的への抵抗』を本日は紹介したい。

 

本書の魅力は、「目的への抵抗」というテーマについて、「コロナ禍の不要不急の外出規制」という直近の題材を扱っている点と、それに対する哲学者の視点がわかりやすく紹介されている点がある。哲学というのは私にはあまり縁のない分野であったが、國分先生の本は非常にわかりやすく、いつも勉強させてもらっている。小難しい哲学書の引用をわかりやすい日本語で解説してくれるだけでなく、日常生活にぐっと近づけて説明してくれるのでとても親しみがもてる

 

少し本の内容にはいる。「目的への抵抗」というテーマと「コロナ禍の不要不急の外出制限」がどのように結びつくのか。以下、簡単に論旨を箇条書きにしたい。

  • コロナ蔓延を防ぐために多くの国で「不要不急の外出制限」が政府によって求められ、多くの方がそれに従い外出制限をした。
  • 「国民の命を守るため」という目的によって、法の制限を超えて政府が国民に外出制限を求めるという手段が正当化されたが、「政府がその権利を超えて国民の生活制限をする」という事実そのものに意を唱える人は少なかった。
  • 目的というものは、こうも簡単に手段を正当化し、人間の自由を奪い去る脅威となりうる。「安全で健康で幸せな社会生活」という目的を実現するために、それに即した活動や行動を求められることは「ある程度」は受け入れなければならない。
  • 一方で、人生を楽しむためには、気のおけない友人と呑んで語らったり、趣味に打ち込んだりする、目的に縛られず、必要の枠を超えた活動や行動も同様に大事である。この「目的志向」全盛の世の中においては、手段は目的のために簡単に正当化されてしまうが、時としてそれに抵抗することが自由のためには重要である。
  • 「必要を超えた移動制限」を多くの方が違和感なく受け止めたが、この特定の目的のための強烈な不自由をかくも大勢の人が容易に受け入れてしまったことには注意が必要だ。目的というものは、する側もされる側も気づかないような形でのマイルドな支配を、全体主義とは異なる形で招き入れる可能性もある。
  • 目的や必要を超えたところに人生の楽しさがあり、目的のために手段を正当化するという論理に時として抵抗することをもって、人間は自分の自由をも守ることができる

 

多くの方が違和感なく受け入れた「コロナ禍の不要不急の外出制限」を、目的・手段・それらからの自由という切り口で整理してみせたのが面白かった。コロナ禍の真っ只中、私は自由の国アメリカにいた。マスクをつけない、ワクチンを接種しない層というのは日本よりアメリカの方が圧倒的に多かった。マスクの着用を求める学校に反対派の保護者と生徒がマスク無着用で押しかけ、すったもんだするなんていうニュースがタイムラインでよく踊った。「コロナ禍の不要不急の外出制限」を違和感を持って受け入れなかった人たちを、当時の私は煩わしく思っていただが、そういう層が一定数いるというのも、それはそれで健全なのかもしれない。また、自分自身の自由ために「目的に抵抗」する際は、それなりの心構えと覚悟も必要であることを認識できた。

 

私たちは、民主主義と資本主義という大きな物語の中で暮らし、その目的に即した活動を日々求められ、その恩恵も享受しつつ、同時に不自由も簡単に受け入れている。「目的への抵抗」というテーマは、その仕組の中であっても自分らしい人生を送る上での、大事な知恵だと思う。「目的志向」全盛の世の中だからこそ、必要の枠を超えた遊び、適当、そして過剰を勇気をもって追求することは、楽しい人生を送る上ではかかせない。力不足で本書の論旨や魅力をどこまで伝えることができたか、疑問が残るが、興味を持たれた方は是非本書を手に取って頂きたい。

『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』 政教混濁の国アメリカ

先日アメリカ人の友人とメキシコ料理屋でビールを飲んでいた。そうしたら、彼の知人がたまたまいて、「おぉぉ、こんなところで会うなんて!」みたいな感じで盛り上がっていた。その知人としばらく雑談をしたのだが、どうもその知人は私の友人が通う教会の神父さんだった模様。

友人と食事をしていた際に、彼の知り合いにあって紹介をされたという何気ない日常の一幕ではあるが、「あぁ、アメリカ生活には、教会というコミュニティが深く根ざしているんだなぁ」と改めて確認する機会となった。

 

本日紹介する『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』は、アメリカの社会と政治に宗教がどのような影響を及ぼしているかを、俯瞰的にまとめた良書だ。

個人によって信仰の度合いに濃淡はあれど、本書によるとアメリカ人の85%はキリスト教徒だという。が、キリスト教徒といってもその中で、右派左派・保守革新などに別れており、福音派、バプティスト、メガチャーチ、プロテスタント、カトリックなど、様々な区分けがある。アメリカは、プロテスタントが主流であるが、カトリックと異なり中央で管理する組織がないため、分派が多くてとにかくわかりにくい。正直それぞれの特徴や違いは、アメリカに住んでいてもよくわからない。本書はそのあたりをわかりやすく説明してくれる。テーマそのものの複雑さ故に、少し読み応えがあったが、理解を深めることができた。

 

トランプ政権の政策やバイデンとトランプの大統領選などの、最近の出来事がふんだんに出てくるので、理解もしやすい。「大使館のエルサレム移転」はその一つの例だ。

「エルサレムをイスラエルの首都として認定し、大使館をテルアビブからエルサレムに移転する」というトランプの宣言は世界中で物議をかもした。イスラエル寄りのアメリカが遂に実行した外交政策の一つであり、「トランプ流政治」の代名詞だ。その賛否を論じるのは、私の力量を大きく超えるため、ここでは触れないが、本政策の実行は「キリスト教福音派」と「ユダヤ教信者」というアメリカ社会において無視できない影響力を持つ人たちの多くが長年指示してきた政策であることは、考える上で重要なポイントだ。

Pew Research Centerの統計によると、福音派はアメリカ人全体の25%を占める。ユダヤ教徒は全体の2%に過ぎないが、政治経済への影響力は人口比に対して非常に大きい。トランプが選挙公約としてかかげ、そのメインの支持基盤であるキリスト教福音派が推す政策を実行に移すというのは民主主義の理念にはそっている。

少し毛並みが違うだけで、日本の政治家で道路族や農林族という方々が、建設業界や農協の票を見込んで彼らの推す政策を実行することと、そう変わりはしない。自分たちの業界を豊かにするような政策を誘導する利権団体はアメリカにも勿論沢山あるが、それにプラスし宗教が大きな要素として入り込んでくるのが、アメリカ政治の複雑なところであり、その複雑さを理解する視点を本書は提供してくれる。

 

アメリカのノースカロライナの田舎道を車で走ると、果てしなく一本道が続き、家と家の間が20-30メートルくらいある風景をよく見る。果てしなく続く一本道の両脇には畑と牧場、車窓から見える生き物は馬と牛ばかりで、人が歩いているなんてことは殆どない。そんな一本道に、突如として立派なピカピカな教会が出現するというのは、どこの田舎町でもあること。「掘っ立て小屋しかないのに、なぜこんな立派な教会が!?」といつも驚かされる。

ニューヨークやロスなんてアメリカの中で例外であり、広大なアメリカはわが州だけでなく大体こんなもんだ。選挙カーで走ったところで一票もとれないだろうし、街頭演説をしたところで馬と牛しか聞いてくれない。そんな田舎町で人が多く集まるのは、ショッピングセンターか、教会くらいだ。選挙にいくかどうかもわからない人が集まるショッピングセンターよりも、釣れればごそっと票がとれる教会というのは、選挙の主戦場となるのは当然のことだ。

 

アメリカ合衆国憲法の第1修正条項で政教分離が保証されているものの、実際のところアメリカ政治は宗教と切っても切り離せない。政教分離とは名ばかりで、「政教混濁」といった様相を呈している。そんな、アメリカ社会と政治の重要な宗教という側面を理解する上で、本書は格好の良書なので、興味のある方は是非読んでみて頂きたい。

 

 

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