Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『いま中国人は中国をこう見る』 成長を続ける中国のリアル

アメリカの研究機関が「中国と言われて、一番始めに頭に浮かぶのは?」という問いを通して、アメリカ人がもつ中国に対するイメージの調査をしている。

  • 検閲や人民統制などの人権問題
  • 世界の工場や高い経済成長などの経済力
  • 独裁国家や全体主義という政治システム

案の定、人権問題、経済力、政治システムというのが質問に対するアメリカ人の答えのトップ3としてあがってきた。このイメージは日本人が持つものとかなり近いのではないだろうか。即ち、多くの民主主義国家が同様の見方をしていると見ることができる。

 

私は、中国人の同僚が沢山いる。アメリカで永住権をとっている人もいれば、今現在中国に住んでいる人もいる。彼らと仕事をしていて、人権問題を抱えた独裁国家の圧政に悩む悲痛さを感じたことは一切ない。誰もが、礼儀正しく、きちんと誠実に仕事をこなし、極めて常識的な感覚を備えている。「中国ってどんな国?」と聞かれた湧くイメージとは全く異なる彼らに接すると、本音のところでは中国の方々は自分の国や政治について、どのような考えを持っているのだろう、という興味が湧いている。

 

本日紹介する『いま中国人は中国をこう見る』は、そんな疑問を見越してか、タイトル通り「いま、中国人が中国をどう見ているのか」ということを惜しげもなく紹介してくれる。

本にも旬があるが、本書は今が正に読み頃である。扱っている題材も「コロナを抑え込んだかに見えたが、感染が再拡大し、自身の打ち出したゼロコロナ政策とその是非に揺れる中国」、「中国におけるZ世代と年配層の意識の差」など、フレッシュな話題と視点がてんこ盛りである。

 

内容について2つほど興味深い視点を紹介したい。

1つ目は、「このコロナ禍を通して、中国人の民主主義の先進国に対するイメージに大きな変化があった」という点だ。経済成長を続け、今や世界第2位の経済大国になった中国。1位と2位と順位は近いものの、そうは言っても世界のナンバーワンであるアメリカに対して、ある種の憧れをもっていた中国人は多かったようだ。が、このコロナ禍を受けて、その憧れが失望に変わり、民主主義の仕組みについても市井の人から大きな疑問がおこるようになったという。

アメリカのコロナの死者数は既に100万人を超えている。一方で中国の現在の死亡者数は5千人を少し超えるくらいだ。実際にはもう少し多いのではないか、という疑念はあるものの、感染者数、死亡者数ともに他国と比べて圧倒的に少ないことは疑いもない。それは、かなり強硬な行動制限や政府の規制の成果であることは明らかだ。賛否両論は勿論あるが、国民の政府のコロナ対策への評価は全般的に極めて高く、コロナ政策を通して支持基盤が圧倒的に強くなったというから興味深い。

アメリカに代表される民主主義国家は、法整備や合意形成に時間をとられているうちにあっという間に感染拡大してしまった。その一方で、トップダウンの政策で厳しい行動制限を課して、世界で一早く封じ込めに成功したことを目の当たりにし、描いていた民主主義への憧れのイメージががらがらと崩れ去った中国人が多い、というのはなかなか興味深い。とある中国人の政府とその政治システムへの評価が面白かったので、下記の通り引用する。

日本では、中国政府は国民のことなど考えず、何事も強引に推し進めるというイメージを持っている人がいるかも知れませんが、政府は、この政策は国民からある程度支持されるだろうとわかっているから、やっているのです。<中略>

選挙で政権を選択するという政治制度が実質的に存在しない中国では、かえって世論の支持を得られなければ、政府の正当性について国民から認められない、ということだ。

 

上記に加えて、中国のZ世代は、中国製品に「安かろう悪かろう」ではなく、「中国製は、格好良く、デザインがよく、世界で一番オシャレ」というイメージを持っているという話も興味深かったので、紹介したい。

現在の中高年くらいの中国人は、日本製の製品に対して未だにある種の憧れを抱いているが、若いZ世代は真逆のイメージを持っているらしい。というのも、Z世代を主要な顧客層とする現在の中国の新興ブランドの経営者たちは、欧米への留学や旅行経験が豊富で、世界のトレンドに対して敏感であると共に、中国の若者の心をつかむマーケティング手法も熟知しているという。また、中国製は品質が悪いというのも今や昔の話で、世界の工場として世界中の企業の製造を引き受けたノウハウが蓄積されており、高品質な製品を作り出す土台が形成されているという。

また、中国人は価格に対する感度が日本人とは違うという。日本人は良いものであっても安値でお買い得であることにこだわりがちだが、今の中国人は良いものは高くて当然であり、高いお金を支払うという文化があるようだ。最先端のトレンドへの感度と高い製造技術、そして価値あるものに高値を払う成熟した消費者が、中国企業をより強くしているという評価は、私には驚きでありつつも、非常に納得がいくものであった。スマフォ決済が隅々まで浸透し、今や世界のデジタル経済を牽引する中国は、侮るどころか、これから追いかけなければならない存在である。

 

本書で紹介される中国人の声は、都市部の最先端の人々に限ったものでは決してない。正に市井の人々の生の声であり、現代の中国社会を投影している。勿論、現在の中国の政治システムに対する不満や不安も合わせて紹介されており、いまの中国のリアルを理解するには絶好の良書だ。本書を読めば、中国の経済成長が人口増にだけ支えられているわけではないことがわかり、学んだり、参考にできる部分が沢山あるはずだ。

日本人が考える中国人の幸福は、ネットに習近平氏の悪口を堂々と書けることかもしれませんが、私たちはそうは思いません。

毎年収入が上がって生活が安定し、去年よりも今年、今年よりも来年はもっといい生活が送れること、これが中国人にとっていちばんの幸せなんです。

硬直して機能不全だらけの日本の民主主義と低迷と衰退の渦中にある日本経済を考える示唆にあふれているので、是非多くの方に手にとって頂きたい。

『結局、炭水化物を食べればしっかりやせる』 脱なんちゃって低糖質ダイエットすすめ

健康志向の高まりを受け、健康系のパワーワードを製品に入れるというのは、デフォルトになりつつある。その中で「低糖質」、「糖質オフ」、「ロカボ」というのは近年最も目につく売り文句であり、もはやバズワードと言っても過言ではない。いつの時代から「白米」は悪者になってしまったかもはやわからないが、最近の「糖質」を目の敵にする食品メーカーのマーケティング熱は尋常ではない。

 

そんな時代の流れに逆らうような勇気ある良書、『結局、炭水化物を食べればしっかりやせる』を紹介したい。本書の要点をかいつまむと、

  • 「糖質・炭水化物」を食べると太りやすくなるというのは誤解であり、「糖質・炭水化物」はむしろ脂肪にはなりにくい
  • 「糖質・炭水化物」は減らせば体重は少しは下がるが、体の水分量が一時的に落ちただけであり、脂肪は実際には減っていないのでダイエットにはならない
  • 運動量を上げれば、「糖質・炭水化物」は自ずと消費でき、きちんと運動のエネルギーである「糖質・炭水化物」を摂取して、運動をきちんとするのが健康的なダイエットである
  • 減らすべきはむしろ「脂質」であり、「脂質」の摂取量に注意を向けずに、なんとなく「糖質・炭水化物」だけを減らすのは誤りである

という感じである。

 

 

私も実は、「低糖質」という世の中の流れに乗っかって、夕食ではご飯ものは極力食べず、朝もジューサーを買ってスムージーなどを飲み、昼間もサラダチキンと野菜というような食生活が習慣づけてきた。確かに、「糖質」を絞ると「絞りはじめ」は、「おっ!?」という感じで体重が落ちる。が、2キロくらいで下げ止まり、それ以上下げることがなかったので、本書の内容は納得できた。また、私はランニングをするのだが、「糖質」を抑えめにすると正直バテるのが早い。ある距離を超えるとがくっとペースが落ちて、体が途端に重くなり、足が前にでなくなる。体のグリコーゲンが枯渇した中で無理やり足を進めても、とても気持ちのよいランニングにはならず、苦心していた。

 

実は最近、パーソナルトレーナーに指導を受けながら、体全体の筋肉を増やそうと勤しんでいる。そのため、「低糖質」生活をすっかり脱却して、現在は一日300g〜350gを目安にせっせと「糖質・炭水化物」をとっている。朝は、白米を食べ、昼は蕎麦やうどんを食べ、夜も白米かパスタを食べている。それだけでなく、間食にみかん、バナナ、クラッカー、焼き芋などを取り込む「高糖質」、「糖質オン」、「ハカボ(?)」生活を送る毎日だ。まずは、体全体をバルクアップして、筋肉と脂肪をつけて、そこから脂肪だけを絞っていこうという作戦の中の現在は増量期だからだ。「高糖質」生活の良いところは、何と言っても運動が気持ちよくできることだ。走っても、筋トレをしても、前以上に「粘り」がでて、気持ちの良い汗を長くかけるのが心地よい。しっかり「脂質」を抑え、運動をしている限りに追いては、正直「よっしゃ、今日は「糖質」をかなり多めに摂れたぜ!」という日でも体重はなかなか増えてくれない。一方で、「あちゃぁ、今日は脂質多めになっちゃたな」という日の次の日の計量では、如実に体重増がみてとれる(私は20%を目安にしている)。

 

ケトジェニックダイエットくらい極限まで糖質を抑え、脂質をその分計画的にとるのであれば話は別であるが、何となく「低糖質」や「糖質オフ」をうたった食品を食べても、体を絞ることはできない。「低糖質」や「糖質オフ」商品を見たら、成分表の「脂質」量もチェックしてみると良い。多少糖質を抑えたところで、糖質と同量くらいの「脂質」が入っていたら、ぶっちゃけダイエット効果はないどころか、マイナスだと思う。「糖質」にのみ注意を払い、「脂質」に注意を向けないというのは本末転倒であり、「なんちゃって低糖質」なのだ。

にもかかわらず「低脂質」・「ローファット」をうたっている商品は、「低糖質」・「ローカーボ」と比較すると非常に少ない気がする。それは、おそらく万人が「美味しい」と感じる味を「低糖質・低脂質」で実現するのは難しいからだと思う。なので、本当は「脂質」を抑えないといけないとしりつつも、比較的美味しさを維持しやすい「低糖質・中脂質」製品が世にあふれているのだろう。もう一度繰り返させて頂くが、「低糖質」や「糖質オフ」商品を見たら、成分表の「脂質」量も是非チェックして頂きたい。「脂質」が「糖質」より高かったり同等だったりしたら、ダイエット食品としての意味はないので、そっと棚に戻すことをおすすめしたい。

 

健康的な生活の送り方は、それぞれにライフスタイルにあわせたものでなければならない。なので、それは人それぞれで「これなら全ての人に大丈夫」なんてやり方は絶対にない(私が書いたことも必ず読んだ方に当てはまるとは限らない)。なので、自分で学習をして、自分の体に問いかけながら、すこしづつ自分なりに健康的なライフスタイルを作っていくことだ一番大事だ。この「低糖質」や「糖質オフ」のマーケティングの嵐を乗り越えるための素養を身につけるために、『結局、炭水化物を食べればしっかりやせる』は絶好の学習書なので、健康志向の皆様には是非手にとって頂きたい。

『会計と経営の七〇〇年史』 人と物語からみる会計・経営史

本日紹介するのは『会計と経営の七〇〇年史』。あまりに重厚なタイトルで思わず尻込みしてしまいそうになるが、ご安心頂きたい。やれ貸方だの、やれ借方だのの会計知識は、本書を楽しむ上では一切必要はない。エピソードと人物の織り成す面白おかしいストーリーを中心に、会計と経営の700年の進化をわかりやすく紹介する良書だ。

 

いや、「進化をわかりやすく紹介」というのも少し硬すぎるからかもしれない。簿記や株式会社や証券取引所の生い立ちを振り返りつつ、会計と経営の歴史の主要登場人物である彼らが、一体どういうキャラクターで、どんな困難を乗り越えて、どうやって成長してきたのかをわかりやすく教えてくれる、という表現の方が正しいだろう。本書を読んだ後に私が一番始めに浮かんだ薦めたい読者は、わが家の中学生と高校生の子供たちだ。大人も勿論勉強になり、楽しめる本であるが、会計や経営に馴染みのない中高生には本書を強くお勧めしたい(というか、私も中高生の頃こういう本を読みたかった)。

 

本書で中心に据えられるのは「簿記・株式会社・証券取引所・利益計算・情報開示」の5つであるが、株式会社の内容を少し紹介してみよう。こういった言葉を理解する上で多くの人が参照するのはWikipediaであろうが、Wikipediaの「株式会社」のページは、11もの項目からなる長文が下記の冒頭から始まる。

株式会社(かぶしきがいしゃ)は、細分化された社員権(株式)を有する株主から有限責任の下に資金を調達して株主から委任を受けた経営者が事業を行い、利益を株主に配当する、「法人格」を有する会社形態の1つであり、社会貢献と営利を目的とする社団法人である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/株式会社

「株式会社」の内容がわかっていれば、理解はできるが、中学生や高校生は勿論のこと、初学者は玉砕必死である。確かにその特徴を過不足なく簡潔にまとめているが、お世辞にもわかりやすい説明とはいえない。一方で、本書では株式会社が生まれたオランダの当時の状況を振り返りつつ、下記の通り解説する。

株式会社は、画期的でユニークなアイデアでした。なにせ、返済しなくてもいい資金調達の方法を編み出したのですから。借りた金は返さないといけませんが、出資してもらうのであれば返済義務がありません。その形式を作るために、「会社のオーナーは株主である」という理屈が作られました。

この株式会社を「返す必要のない金を集める仕組み」という思い切りつつも、本質的な部分を捉えて、すばっと解説する様は読んでいて心地よい。この「短期で資金を借り入れて、都度都度返済するなんて、とてもやってられないじゃん、お金を出してくれる人はオーナーってことにして、儲けたお金を分けるってことで手をうとう」という当初の意図を、それが生まれた歴史的背景とともに説明されているので、私も改めて腹落ちする内容が多く、とても勉強になった。また、子供たちに「株式会社とはなんぞや」という話をする時に、こういう説明をしてあげれなくて不甲斐なかったと反省しきりであった。

 

本書のもう一つの魅力は、理論や仕組みの説明より、「人物」を全面にだしたことだろう。会計と経営というと、とかく無機質な説明ばかりがされがちな内容である。でも実際はそれらが発明されるに至っては、それが生み出された時代特有のチャレンジがあり、それらに打ちのめされた人々やブレイクスルーを起こす魅力的な人々と彼らの「物語」があったはずだ。「会計と経営」の教科書で、とかく補論として扱われがちな「人物」と「物語」に焦点をあてるという筆者の狙いは、わかりやすさや読みやすさをあげるだけでなく、仕組みの本質的な理解を促す効果も果たしている。

株価操作やインサイダー取引が横行する証券市場に、より適正なルールをもたらし、誰でも参加しやすい場とするために、1934年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が設立される。設立当時のルーズベルト大統領が、初代にSEC委員長にジョセフ・パトリック・ケネディという当時インサイダー取引でボロ儲けしていた人物を登用するわけだが、その理由がふるっている。

「泥棒を捕まえるためには、泥棒が一番だ」

 

漫画のような話ではあるが、これが辺り公正で透明な証券市場をつくるための制度改革が進み、アメリカの証券取引所はその経済の成長の基盤となるわけである。私の一番のお気に入りのエピソードはこの話なのだが、是非皆さんにも自分のお気に入りのキャラクターとその武勇伝を見つけて頂きたい。

 

わが家の高校生の娘は、現在選択科目で「会計」を受講している。その授業で銀行勘定報告の突合(Bank Reconciliation)などを課題で作成している。小切手が未だに日常生活で使われる米国では、納得の内容ではあるが、細かい技術論や手続き論が先行して、「小切手ってそもそも何者で、それを突合するというのはどういうことを目的としているんだっけ?」というところまで理解が至ってないのではないかと思う。「ルネッサンスのイタリアで、どのような時代背景から小切手が発明されたのか」という「物語」は、理解を深めるだけでなく、会計の勉強に楽しさを加えてくれると思う。「会計」は資本主義社会において、当面は必須知識として不動の地位を維持し続ける。なので、より多くの若者に本書を読んでもらい、彼らが生き抜く資本主義社会の素養の基礎を身につけてほしい。

 

 

 

『来たるべき民主主義』 哲学者の語る温かく優しい民主主義の未来

夏といえば、アメリカに住むわが家にとっては日本への一時帰国の季節だ。昨年は、コロナ禍で帰国を見送ったので、この夏は久しぶりの日本への帰国だ。東京都の小平市は私の帰省先だ。東京都の多摩地区で育ち、大学まで多摩圏内で過ごした私は、小平市に滞在していると、「あぁ、帰ってきたな」とやはりホッとする。

 

その小平市で道路建設をめぐる住民投票が実施され、話題になったというのは知っていたが、あまり詳細は把握していなかった。ひょんなことから、『暇と退屈の倫理学』の著者で哲学者である國分功一郎氏が、小平市在住であることとその当の住民投票運動に深く関わっていたことを知る。國分氏が小平市の住民投票での経験から『来たるべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』という本を上梓しており、住民にとって身近な市井の問題を題材に、民主主義を語っているというので、これは帰省前に一丁読んでおくかと手にとった。

 

國分氏の持ち味は、複雑なコンセプトをわかりやすい明快な言葉でずばっと現代風に切り取ってくれるところだ。そんな筆者にとって、自らが当事者として関わった小平市都道328号線の住民投票の経緯をわかりやすく説明するなどお手の物。ぼんやりとした「そんなことをやっていたらしい」という状態から、ことの経緯と問題点が正確に理解し、住民と地方自治体の両当事者の立場を把握するところまで一気にもっていってくれる。これは流石といったところ。

 

そして、アカデミックな内容を手触りと実感のある言葉でわかりやすく説明するという特技を活かし、その住民投票を題材に民主主義のあり方を考える土台を読者の頭の中にどしっと築いてくれる。「民主主義」自体が私の最近のテーマなので、ホッブス、ルソー、ドゥルーズ、デリダという政治哲学の論理の要点が噛み砕いてい説明されている本書は今までの勉強のまとめの機会となった。勿論、それだけでなく、小難しい政治哲学の考え方を通して、市井の実際の問題を考えるという筆者の思考の形跡を学ぶことができる、というのも本書のおすすめポイントの一つだ。なお、そういった思考プロセスを学ぶには、『哲学の先生と人生の話をしよう』という國分氏の別著も強くおすすめできる。こちらは他愛もない人生相談をアカデミックな香りも漂わせながら、鋭い切り口でずばずば切っていくという軽い読み物であるが、楽しく読めるだけでなく多くの学びもあるのであわせてお勧めしたい。

 

本書で紹介されるどの内容にしても、筆者以上に要点をまとめて書く能力は私にはないので、気後れして内容にはあまりここまで触れてこなかったが、一点だけ私の一番の学びを紹介させて頂きたい。筆者は、本書の後半部分で、法による強い統治の効いた社会よりも、多くの制度が整えられた創意工夫に溢れた社会を、民主主義の行く先として指し示している。少し噛み砕いて説明したい。

法というのは「〜してはいけない」と人の行為を制限することによって、社会に統治をもたらす。「盗んではいけない」、「殺してはいけない」というものだ。社会を豊かにするためには、最低限のルールは必要であるが、「〜してはいけない」という制約だけでは、残念ながら豊かな社会を形成することができない。現在、ロシアや中国がインターネットによる情報の取得を制限していることからも伺える。

それに対して、制度というのはそれによって可能になる行為の数が増えることになる。結婚制度や所得制度というのは、幸せな家庭をを築いたり、豊かな生活をするための手段を実現するものだ。なので、少ない法を土台として、多くの制度がある社会には自由と創意工夫が持たらされ、より豊かになることができるという。

筆者は本書を通して、立法権を主体とした現在の議会制民主主義に疑念を呈したり、選挙によって選ばれることのない地方自治体の職員が強い行政権を保持していることに、疑問を呈している。が、それらの立法権や行政権を制限するのではなく、住民投票のような制度をより多く設けるという提言を全体を通して行っている。私はそこに温かく優しい民主主義の形をみた。

 

以上、本書の魅力を語ってきた。現在地方自治体と対立し、住民投票などの手段を検討している方には参考になるので是非読んで頂きたいし、また「民主主義」という言葉は知っているが、ぼんやりしてよくわからないという中学生や高校生にも是非手にとってほしい。筆者の示す温かく優しい民主主義は若者に多くの希望を与えてくれるだろう。

『アメリカ大統領選』 アメリカの政治の3つのトリビア

アメリカの大統領選というのは4年に一度のお祭だ。昨年の日本における自民党総裁選もかなり盛り上がったが、アメリカの大統領選というのはあの比ではない。職場では政治の話題というのは極力避けられる傾向にあるが、大統領選の時期だけは抑えきれずに政治の話題があがることが多い。普段から民主党支持なのか、共和党支持なのかという政治的な立場をはっきりさせることの多いアメリカ。先日も、運転中に前方の車に目をやると「BAIDEN MAKING THE TALIBAN GREAT AGAIN(バイデンはタリバンを再び偉大にする)」というステッカーが貼られており、思わず苦笑いしてしまった。そんな国に住んでいるので、「もう少しアメリカ政治について勉強しなければ」を前から思っていたのだが、アメリカの投票権をもっていないので(私は永住権は持っているが、市民権は持っていない)食指が今ひとつ動こなかった。が、先日読んだ『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか アメリカから世界に拡散する格差と分断の構図』でエンジンがかかり、今週は『アメリカ大統領選』という本を読んでみたのだが、非常に勉強になったので紹介したい。

本書は、アメリカ政治の中心となる大統領制と大統領選の仕組みを解説しながらも、その選抜プロセスや政権交代の実際に迫りながら、アメリカ政治全体の特徴を浮き上がらせようという良書。タイトルこそ大統領選にフォーカスをあてているものの、どちらかと言うと政治家と市井の人間の立場の両面からアメリカ政治全体をわかりやすく解説している「アメリカ政治基礎」という言うにふさわしい本だ。本エントリーでは、本書で解説されているアメリカ政治の仕組みの中で、私が「へぇ、日本とこんなところが違うんだ」と思ったことを紹介していきた。

 

アメリカでは事務次官から局長級までの官僚組織を大統領が直接指名できる

日本の政治では、内閣総理大臣が各大臣を任命し、その人事に政権発足の際には注目が集まる。大臣や副大臣は政治が任用するわけであるが、そのカウンターとなる官僚組織の事務次官やその下の局長というのは各省庁の裁量で決定され、巨大の権限が付与されている。官邸主導という言葉が最近は使われるようになったが、巨大の官僚組織の人事はきっちり各省庁が握っているので、政治主導で物事を進めようとしても官僚からの抵抗にあい、進まないということが日本ではよくある。

一方で、アメリカでは官僚組織のトップである事務次官だけでなく、局長級のポストまで就任した大統領が直接指名するというのだから驚きである。それらのポジションも、基本的には官僚組織の内部から任命するのではなく、外部からの登用が殆どというのだから驚きである。なので、大統領選があって、大統領が新しくなる度に、官僚組織のトップがごっそり入れ替わる、別の見方をすれば前政権の事務次官と局長は職を失うというのは非常に興味深い。

よって、日本のように首相の言うことを面従腹背で官僚がなかなか聞かないということは起こらず、自分に機会を与えてくれた大統領の実現したい政策の実現に向けて高い忠誠心をもって官僚が動いてくれるというのがアメリカ政治のダイナミズムのようだ。勿論、大統領の任期にあわせてメンバーががらっと変わるので長期的な視線で政策をうちずらい、という欠点はある。

 

アメリカでは与党であっても、野党であっても議員は頻繁に造反する

現在の日本は自公の連立政権である。内閣総理大臣がと通そうとする法案や政策に対して、自民党員263名はおろか、公明党員の32名が反対して票を投じないということは滅多におこらない。が、アメリカでは大統領が進めようとする政策に対して、その大統領の政党の議員が普通に反対票を投じて、造反するのは日常茶飯事だというから驚きだ。最近のわかりやすい例で言うと、共和党のトランプ大統領が進めようとしていたオバマケア撤廃法案を共和党多数の上院で可決に持ち込むことができなかった、というのは興味深い。

これには2つの構造的な要因がある。まず、よく知られている通り、アメリカ大統領というのは実質的には国民の民主的な直接投票によって選出される。日本のように与党議員の投票によって選ばれるわけではないので、自然と大統領の自政党に対するグリップというのは弱くなってしまう、ということがある。また、日本では、党総裁が自党の公認候補の決定権を持つため、党国会議員の党総裁への忠誠は非常に強い。ところがアメリカでは、大統領はこのような権限は与えられておらず、公認候補というのは党執行部ではなく党員に与えられているという。なので、「党執行部に逆らうやつは公認しないぞ」というプレッシャーから各政治家は開放されているわけだ。今の自民党で同じ仕組みを当てはめて考えると、安倍政権は存在せずに石破茂氏が総理大臣になっていたし、岸田政権ではなく河野太郎政権になっていたことになるだろうし、もっと言えば小泉進次郎政権が発足する可能性が高いということになる。うーん、良し悪しではあるな。

 

「小さな政府」を支持するのは、「リベラル」ではなく「保守」

「リベラル」と「保守」という言葉はアメリカ政治を語る上で欠かせない単語だ。が、私はどうもこの区分けがしっくりこずに、混乱することが多い。一般的に「リベラル」は民主党で「保守」は共和党だ。経済政策を見ると、「保守」の共和党は、政府の規制強化や増税による福祉政策の充実に反対の立場をとる。こういった政策は私の中では新自由主義やリバタリアンとリンクし、「リベラル」というラベル付けがしっくりくるのだが、社会福祉の充実を看板政策にかかげている民主党が「リベラル」なのでいつも混乱してしまう。

本書曰く、この「リベラル」という言葉遣いはヨーロッパとは逆の使い方だから、しばしば混乱をきたすという。考え方としては、福祉政策を充実させ、人々の基本的な経済的自由を確保させるという意味で「リベラル」という言葉を使っているらしいが、私にはやはりわかりにくい。もともと共和党が「リベラル」という特色を打ち出していたらしいが、フランクリン・ルーズベルトがニューディール政策を打ち出して福祉政策を推し進めた時に、自らを「リベラル」と呼び始め、その語法がメディアと国民の間ですぐに浸透してしまったことがきっかけらしい。おのれ、ルーズベルト。

 

以上、3点ほどアメリカ政治の3つの「へぇ」を紹介させて頂いた。本書は、大上段に構えてアメリカの政治構造を解説するというものではなく、大統領選の現場や市井の人間に焦点をあてて「アメリカの民主主義」を丸ごと捉えようという良書だ。アメリカ在住の人で政治に興味のある方は読んだら絶対に面白いと思うし、アメリカ政治に興味があるが難しそうでどうもなぁ、と思っている方には強く薦めたい。

アメリカ社会は分断も二極化もされていない

アメリカ社会の分断は深刻な状況にまで至っている

 

こういった言説はドナルド・トランプがヒラリー・クリントンを破り、大統領に就任して以降、お決まりのものとなっている。広がり続ける経済格差、健康保険加入者の減少、未だにくすぶる人種差別、などの様々な社会問題を抱えるアメリカ。保守とリベラルの対立激化に伴う「アメリカ社会の分断」により、これらの事態は悪化の一途を辿る、という悲観論がメディアでお馴染みのストーリーだ。

 

だが、こういったホラーストーリーは、アメリカ社会で8年ほど生活をしている市井の人間の肌感覚とは大きく異る。私は、現地の企業で働き、現地のコミュニティで過ごし、子どもたちは現地の学校に通っているが、いわゆる「分断」を強く感じたことはないし、それが深刻なレベルにまで深まっていると言われても、「別の国の話をしているのかな?」とまで思ってしまう。近所を散歩すれば見ず知らずの人でもフレンドリーに話しかけてくるし、学校では多くの保護者のボランティアが子どもたちのために学校運営に協力してあたるし、見知らぬ人であっても困っていれば多くの人が手を差し伸べるし、社会的な意義のある活動に対しては大きな寄付や支援が集まるという「つながり」は未だ健在だ。

 

「二極化したアメリカ社会」なんて言い方をされることもあるが、アメリカ社会は「二極化」というような単純な言葉で真っ二つに分けれるほど単純にはできていない。人種や民族が多様なことは勿論、地域間の異なりも非常に大きい。昨年はボストン、ロサンゼルス、マイアミ、オーランド、などいくつかのアメリカの都市に旅行をしたが、それぞれの都市はとても同じ国とは思えないくらい、あらゆる面で全く異なる装いをしており驚かされたものだ。所得格差は「二極化」の文脈で取り沙汰されることが多いが、それは何となくわかりやすいからそう言われているだけだろう。金持ちの中にも保守もいれば、リベラルもいるし、貧乏人の中にも共和党支持もいれば、民主党支持もいる。経済格差は一つの対立軸ではあるが、その一つの軸を持って二極にわけることができるようにはアメリカ社会はできていない。

 

なんで、市井の人間には殆ど感じられない「社会の分断」がこんなに取り沙汰されているのか長年疑問であったが、『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』はその疑問に簡潔に答えてくれる良書だった。Kindle Unliminted本なのだが、つまらないタイトル釣りの本が残念ながら多いKindle Unliminted本の中で、たまにある大当たりの本であった。

 

民主主義社会におけるアイデンティティの分断は、選挙のマーケティング技術の発展によってもたらされている。

『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』 はじめに

本来であれば、社会の分断が社会問題を引き起こし、それを政治的に解決するための民衆の代表を選ぶというのが、民主主義の求める選挙のプロセスだ。が、本書はそれが全く逆になっていると指摘する。即ち、選挙の票集めのために、無いはずの分断が知識人や政治主導で定義され、その定義された分断に基づいて民衆にアイデンティティをラベル付けして、自政党への投票に駆り立てる、というのが実情だと言う。トランプ支持者を白人、低所得、低学歴、肉体労働の男性、というラベル付けをして、それ以外の層の支持を取り付けようとした民主党の選挙戦略が例示されており、これはわかりやすい例だろう。

学者は新しい対立軸を生み出すことで自分の仕事を作り、メディアはその対立軸を普及させることにより注目やPVを稼ぎ、政治家は自身の生き残りのために、ないはずの対立軸に乗っかる、というのが、現代アメリカ政治の実情であると筆者は一刀両断し、それは私の肌感覚とも合致するところが大きく、とても興味深かった。日本も対岸の火事であればありがたいのだが、小泉郵政選挙で「改革派」対「抵抗勢力」というわかりやすい対立軸で票集めに大成功した小泉政権以後その傾向が強まっているという。

 

アイデンティティの分断に限らず、グローバル化の進行や仮想通貨の普及に伴う国民国家のあり方の変容まで本書の扱う射程はかなり長い。参議院選挙も夏に近づいていることもあり、マスメディアからウェブのメディアまで様々な雑多な選挙メッセージにされされることが予想される。本書は、自分の立ち位置や視座を保つための視点を多く提供してくれる良書であるため、一読をお勧めしたい。

ウクライナ情勢を読み解く上でおさえておきたいウクライナ史8選

「ウクライナの歴史をおおざっぱでも良いので理解したい」

ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、そういう興味を持った人は多いだろう。

 

おおざっぱに歴史を理解する際に誰もがまずは参照するのがウィキペディア。『ウクライナ』の項目にその歴史がまとめられている。非常によくまとまっているのだが、初心者の私にはハードルが高かった。馴染みのないスラブ系の名前の連発と文献ごとの表記違い(ハールィチ・ヴォルィーニ大公国とハーリチ・ヴォルイニ公国など)にあえなく玉砕。

 

困った時は本に頼れ、ということで『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を手にとる。アマゾンのレビューを見る限り、「ウクライナの歴史をおおざっぱでも良いので理解したい」という私の希望を満たすには本書が最適解のように見えた。「面白くて2日で読み終えた」というレビューもあったので、軽い気持ちで読み始めたが、これがかなりの読み応え。二郎系ラーメンとカルボナーラ大盛りを一度に食べるくらいの重たさで、かなりウクライナ筋が鍛えられた。

筆者は黒川祐次氏。外交官で、ウクライナ大使を勤めていたというのだから日本で一番のウクライナ通かもしれない。複雑な外交問題を政治家にブリーフィングするという仕事柄からか、外交官の方は混みいった内容をわかりやすく説明する能力に長けていると私は思う。本書も、よくまとまっており、わかりやすい表現が心掛けられているので、とっつきやすい。が、ウクライナ史がとにかく複雑でとらえにくいのと、「ヤロスラフ」とか「フメリニツキー」とか、ページをたぐる度に忘れてしまう慣れない名前に、苦心することになる。

 

そんな感じでウクライナ史と格闘している私。難しくて手こずっているということを散歩をしながら娘にこぼしたら、「で、おとうさん、細かいことはおいといて、わかりやすく説明するとどんな感じなの?」という残酷な質問を受ける。もう、通史を説明するのは能力的にも無理なので、苦し紛れに高校生の娘が興味を持ちそうな、「へぇ」という項目をいくつかあげたらそれなりに興味と理解を示してくれた(多分)。

 

本エントリーでは初学者の私が『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を通読して、「へぇ、そうなんだぁ」と思い、現在のロシアによるウクライナへの侵攻をより理解するために重要と感じたウクライナの歴史を8点、紹介していきたい。

  • ウクライナは「千年の歴史がある国」かどうか問題
  • 「タタールのくびき」とウクライナ
  • コサックダンスはウクライナのダンスだった
  • ウクライナの語源の問題、「辺境地帯」なのか「土地・国」なのか
  • 1000年越しに「ウクライナ人民共和国」樹立するも3年の命
  • ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言の裏側
  • クリミアは誰のもの問題
  • ウクライナの独立宣言と六度目の正直

なお、諸説ある内容もあるので、細かい間違いは大目に見ていただきたい。

 

ウクライナは「千年の歴史がある国」かどうか問題

「ウクライナの歴史を遡る場合は、どこまで遡ればよいのか」、これは史実的にも政治的にもややこしい問題だ。一番大事な焦点をあげるとすれば、「キエフ・ルーシ公国(キエフ大公国)をウクライナの祖先とみなすかどうか」という点になる。

「キエフ・ルーシ公国」は9世紀後半に北欧のバイキングによって作られた国だ。最近馴染みのある「キエフ」という言葉がついており、現在のウクライナの首都のキエフを中心とした国なんだから「そりゃウクライナの祖先でしょう」というのがウクライナの見方

が、この「キエフ・ルーシ公国」は13世紀半ばにモンゴルに攻められ崩壊してしまう。ウクライナの土地は色々な経緯を経てリトアニアとポーランドに併合され、国の形としては消滅してしまう。その間もその一部であった「ロシア公国」は細々とながら生き残るので、「国が一旦消滅しちゃったんだから、「キエフ・ルーシ公国」を継承したのはロシアであって、ウクライナっていうのは無理があるでしょ」というのがロシアの見方。

「キエフ・ルーシ公国」の後継者争奪戦というのが、ウクライナとロシアの歴史認識を考える上で重要な要素となるので頭にいれておきたい。

 

「タタールのくびき」とウクライナ

「タタールのくびき」というのは高校生の頃、世界史でやったので言葉としては頭に残っていたが、それって何だっけというのが私の世界史の知識レベル。タタールというのはモンゴルの民族で、ロシア近辺の諸国がモンゴル帝国の拡大に伴って傘下に入ってしまい、税金をカツアゲされるという13世紀半ばからの250年くらいのことを「タタールのくびき」という。スラブ系の人にとっては、モンゴルにしてやられた屈辱の期間ととらえられているようだ。

このモンゴルの侵攻がきっかけとなって、

  • 「キエフ・ルーシ公国」の崩壊にあわせて、単一のルーシ民族はロシア、ウクライナ、ベラルーシに分化してしまう。
  • ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれの独立した言語ができ、この頃から「ウクライナ」という地名が登場する。
  • とは言っても、国としては「キエフ・ルーシ公国」はモスクワ大公国、ポーランド王国とリトアニア大公国に分割され、三百年くらいウクライナは国としては日の目をみない

という感じに民族としては残るものの、国としてはウクライナは消滅してしまう民族主義やナショナリズムというのは、ウクライナとロシアの関係を考える上ではかかせない。単一のロシアという国が、単一のウクライナという国を侵略している、という単純な構図ではないことが、歴史を学ぶと見えてくる。

 

コサックダンスはウクライナのダンスだった

「あぁ、それロシアじゃなくてウクライナだったんだ」という発見が最近いくつかあるが、その中で私にとって大きいものはチェルノブイリとボルシチとコサックだ。コサックというとユニークなダンスと兵隊が強そうという浅薄なイメージしかなかったのだが、14世紀半ばからの空白の3世紀を経て、ウクライナ勢力を国として表舞台におしあげる、ウクライナの強キャラだった模様。空白の3世紀に終止符をうち、ウクライナのナショナリズムを高めるというわかりやすい活動をしてくれたのがコサックなのだ。現在のウクライナの善戦に、この武闘集団のコサックの血筋をみてとれなくもない。

ただ、コサックが「ウクライナ公国」というものでも作ってくれていればわかりやすいのだが、武力を背景にしたヘトマンという自治政府作る(”国”が学校公認の”部活”で、”自治政府”は”同好会”みたいな理解でよいと思う)にとどまる。そして、最終的には四方八方敵に囲まれているという難しい状況から、17世紀半ばにロシアと条約を結んでその保護下に入るという選択をし、ロシアへの併合の大きな一歩を踏んでしまう。これが、ソビエト崩壊に伴う1990年のウクライナの独立宣言までの長い道程のはじまりとなる。

 

ウクライナの語源の問題、「辺境地帯」なのか「土地・国」なのか

歴史千年問題と同様にウクライナの語源もロシアとウクライナで大きく見方が異る。ウクライナを縦に流れるドニエプル川両岸に広がるあたりを「ウクライナ」という言葉で呼ぶようになったのは、コサックが頭角をあらわした頃らしい。

ロシアの学説では、ポーランドやリトアニアから見て辺境という点で、ウクライナは「辺境地帯」という意味なのだというのが定説の模様。コサックの自治国家を取り込むあたりから、「小ロシア」という更に失敬な名前で呼び始めるあたりに、ロシアのウクライナを下にみた意識をみることができる。

もちろん、「いやいや、辺境地帯なんていうのは変な後講釈で、そんな呼び方を自分たちでするわけないでしょう」というのがウクライナの立場。言葉そのものが使われ始めたのは一二から十三世紀くらいで、当時の文献を読み込めば「土地」とか「国」という解釈が妥当である、というのがウクライナ学説。

名前一つとっても、立場によって諸説あるのでややこしいことこの上ない。

 

1000年越しに「ウクライナ人民共和国」樹立するも3年の命

前説の長すぎる映画というか、なかなか餡に到達しない肉饅かのようなウクライナの歴史だが、20世紀初頭の第一次世界対戦と二月革命による帝政ロシアの崩壊を受けて、ついて「ウクライナ人民共和国」というわかりやすい国の形が歴史の舞台に初登場する。だが、この「ウクライナ人民共和国」は3年と短命であるというオチがつく。「1000年待たせて3年かい!?」という不要なツッコミをしてしまいたくなるが、国民国家としてなかなか成立しなかった、できなかったという点も頭にいれておきたい。

その後「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」が設立されるが、実質的にはソ連に支配された一行政区という地位に甘んじる。

 

「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言の裏側

プーチンが「ウクライナを非ナチ化する」と発言したことを受けて、「あいつ頭おかしくなったんじゃねぇか」と思った人は私だけではないはずだ。ウクライナはユダヤ人が昔から多く住んでいるし、ゼレンスキー大統領自身もユダヤ人であるし、第二次世界大戦でナチスドイツは90万人近いウクライナのユダヤ人を殺している事実からも、「ウクライナを非ナチ化する」というのは支離滅裂である。

独ソ戦争の主戦場は正にウクライナであり、占領されたり、押し返したりの激しい攻防で史実上最も多くの死者がでた戦争だ。多くのウクライナ人はソビエト連邦としてドイツと戦ったが、その反面ウクライナ蜂起軍という組織がソビエト連邦とも戦ったという点は興味深い。当時ウクライナはスターリンの「とんでも共産主義政策」のお陰で350万人もの餓死者がでるは、大量の知識人は粛清されるはで、「もうあなたの下ではやってられません」というモードだったとことは容易に想像できる。ドイツの侵攻をうけて、「これに乗じて独立しちまえ!」というウクライナ民族主義者がソビエト連邦にも銃を向けたという構図だ。

歴史は勝者が作っていくので、闘いにかったソビエト連邦は「ウクライナ蜂起軍などのウクライナ民族主義者はナチの手先」というプロパガンダを戦後にうっており、プーチン発言の背景にはこういう史実があるのだろう。だからと言って「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言に説得力を感じるものではないが、そういう歴史的背景はおさえておきたい。

 

クリミアは誰のもの問題

2014年にロシアがクリミア侵攻をしたのは記憶に新しい。マスコミは2014年のそのワンシーンだけを切り取り、そこに到る歴史を紹介することは殆どないので、ロシアの傍傍若無人さだけが、際立っている。ここでは、少し射程範囲をひろげてクリミアの歴史を切り取ってみたい。

  • キエフ・ルーシ公国の支配下にあったが、13世紀中頃のモンゴル侵攻によって、交易による収入が見込める「おいしい」場所であったクリミアはモンゴルの直轄領となる
  • 14世紀半ばにクリミア汗国として独立し、イスラム系の国となり、18世紀後半までその地を支配するが、帝国ロシアのエカチェリーナ2世によってロシアに併合される。クリミアをタタールから取り戻したのはロシアである、というのは大事な点だ。
  • ロシア革命、第一次世界大戦などを経て、ソビエト連邦の一部になり、ロシアにとっては暖い大事な保養地となる。第二次世界大戦終わりにヤルタ会談が開催されたり、ソビエト崩壊寸前に保養していたゴルバチョフが拘束されたりと、歴史の節目に登場機会が多い。
  • 20世紀半ばにスターリンからバトンを受けたフルシチョフにより「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」として懐柔策の一貫でウクライナに委譲される。当時クリミアの人口の7割はロシア人が占めており、将来ウクライナが独立することなど毛頭考えていなかったフルシチョフの人気取りのための行政措置であった。

クリミア侵攻はロシアが傍若無人というトーンで語られることが多いが、上記の通り歴史を振り返ると「兄弟の盃を交したのだから信頼の証として大事なクリミアを渡したが、盃を返すというならクリミアも返してくれよ」というロシアの気持ちも私はわからなくもない。

 

ウクライナの独立宣言と六度目の正直

ウクライナの独立宣言は20世紀に入って6回もなされているという。第一次世界大戦の直後から第二次世界大戦の終戦間際までの間に初めの5回がなされたが、いずれも長続きせず、鳴かず飛ばずで終る。民族主義の高まりとロシアの弾圧と粛清、そして近隣諸国からのちょっかいという紆余曲折をへながら、ソビエト連邦崩壊に伴い、晴れて1990年にウクライナの独立は成就される。

ここまでみると大変ドラマチックな歴史ではあるが、その反面この独立は「棚ぼた的でめでたさも中くらい」と本書では辛口に評している。「建国の父」的な英雄や独立運動を象徴するヒーローの不在が、その「棚ぼた」感の源泉と思われる。盛りに盛った建国ストーリーなど胡散臭さを私は覚えるが、ハラリ的に国家という虚構を作り上げるためには、わかりやすい象徴が必要なのだろう。

 

以上、現在のロシアによるウクライナへの侵攻をより理解するために重要と感じたウクライナの歴史を8点、を紹介させて頂いた。何度も読み直して、かなり短くしたのだが、意図せず大作となってしまった。タイトルに釣られて読み始めた人の大半は既に離脱してしまったことは容易に想像できるが、最後まで読み通して頂いた方にはお礼を申し上げたい。

 

ウクライナの歴史を振り返って思うのは、

  • ユーラシア大陸の中心という地政学的な重要度が高さと、ヨーロッパの穀倉と呼ばれるほど豊饒な大地を持つその魅力から、北からはロシア、西からは欧州諸国、南からはモンゴルやオスマン帝国と四方八方敵だらけという苦難な道を歩むことになった。
  • 何度となくウクライナ民族として国家の樹立を試み、チャンスは幾度と無く訪れたものの、ナポレオン級の英雄が現れなく、ソビエト連邦崩壊に伴い遂に独立した国民国家を樹立することになったが、これは「ごっつぁんゴール」というより、ウクライナ民族の熱意の勝利とみたい。
  • 武力や民族弾圧に苦しんだ苦難の歴史であったが、民主的な国民国家が主制を占める現代社会は、ウクライナの国家独立を盤石なものにする好機であり、ゼレンスキー大統領にはこれを乗り越え是非「ウクライナの英雄」になって頂きたい

というあたりだろうか。というわけで、「頑張れゼレンスキー大統領!」というエールを送って本エントリーをしめたい。

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