Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『来たるべき民主主義』 哲学者の語る温かく優しい民主主義の未来

夏といえば、アメリカに住むわが家にとっては日本への一時帰国の季節だ。昨年は、コロナ禍で帰国を見送ったので、この夏は久しぶりの日本への帰国だ。東京都の小平市は私の帰省先だ。東京都の多摩地区で育ち、大学まで多摩圏内で過ごした私は、小平市に滞在していると、「あぁ、帰ってきたな」とやはりホッとする。

 

その小平市で道路建設をめぐる住民投票が実施され、話題になったというのは知っていたが、あまり詳細は把握していなかった。ひょんなことから、『暇と退屈の倫理学』の著者で哲学者である國分功一郎氏が、小平市在住であることとその当の住民投票運動に深く関わっていたことを知る。國分氏が小平市の住民投票での経験から『来たるべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』という本を上梓しており、住民にとって身近な市井の問題を題材に、民主主義を語っているというので、これは帰省前に一丁読んでおくかと手にとった。

 

國分氏の持ち味は、複雑なコンセプトをわかりやすい明快な言葉でずばっと現代風に切り取ってくれるところだ。そんな筆者にとって、自らが当事者として関わった小平市都道328号線の住民投票の経緯をわかりやすく説明するなどお手の物。ぼんやりとした「そんなことをやっていたらしい」という状態から、ことの経緯と問題点が正確に理解し、住民と地方自治体の両当事者の立場を把握するところまで一気にもっていってくれる。これは流石といったところ。

 

そして、アカデミックな内容を手触りと実感のある言葉でわかりやすく説明するという特技を活かし、その住民投票を題材に民主主義のあり方を考える土台を読者の頭の中にどしっと築いてくれる。「民主主義」自体が私の最近のテーマなので、ホッブス、ルソー、ドゥルーズ、デリダという政治哲学の論理の要点が噛み砕いてい説明されている本書は今までの勉強のまとめの機会となった。勿論、それだけでなく、小難しい政治哲学の考え方を通して、市井の実際の問題を考えるという筆者の思考の形跡を学ぶことができる、というのも本書のおすすめポイントの一つだ。なお、そういった思考プロセスを学ぶには、『哲学の先生と人生の話をしよう』という國分氏の別著も強くおすすめできる。こちらは他愛もない人生相談をアカデミックな香りも漂わせながら、鋭い切り口でずばずば切っていくという軽い読み物であるが、楽しく読めるだけでなく多くの学びもあるのであわせてお勧めしたい。

 

本書で紹介されるどの内容にしても、筆者以上に要点をまとめて書く能力は私にはないので、気後れして内容にはあまりここまで触れてこなかったが、一点だけ私の一番の学びを紹介させて頂きたい。筆者は、本書の後半部分で、法による強い統治の効いた社会よりも、多くの制度が整えられた創意工夫に溢れた社会を、民主主義の行く先として指し示している。少し噛み砕いて説明したい。

法というのは「〜してはいけない」と人の行為を制限することによって、社会に統治をもたらす。「盗んではいけない」、「殺してはいけない」というものだ。社会を豊かにするためには、最低限のルールは必要であるが、「〜してはいけない」という制約だけでは、残念ながら豊かな社会を形成することができない。現在、ロシアや中国がインターネットによる情報の取得を制限していることからも伺える。

それに対して、制度というのはそれによって可能になる行為の数が増えることになる。結婚制度や所得制度というのは、幸せな家庭をを築いたり、豊かな生活をするための手段を実現するものだ。なので、少ない法を土台として、多くの制度がある社会には自由と創意工夫が持たらされ、より豊かになることができるという。

筆者は本書を通して、立法権を主体とした現在の議会制民主主義に疑念を呈したり、選挙によって選ばれることのない地方自治体の職員が強い行政権を保持していることに、疑問を呈している。が、それらの立法権や行政権を制限するのではなく、住民投票のような制度をより多く設けるという提言を全体を通して行っている。私はそこに温かく優しい民主主義の形をみた。

 

以上、本書の魅力を語ってきた。現在地方自治体と対立し、住民投票などの手段を検討している方には参考になるので是非読んで頂きたいし、また「民主主義」という言葉は知っているが、ぼんやりしてよくわからないという中学生や高校生にも是非手にとってほしい。筆者の示す温かく優しい民主主義は若者に多くの希望を与えてくれるだろう。

『アメリカ大統領選』 アメリカの政治の3つのトリビア

アメリカの大統領選というのは4年に一度のお祭だ。昨年の日本における自民党総裁選もかなり盛り上がったが、アメリカの大統領選というのはあの比ではない。職場では政治の話題というのは極力避けられる傾向にあるが、大統領選の時期だけは抑えきれずに政治の話題があがることが多い。普段から民主党支持なのか、共和党支持なのかという政治的な立場をはっきりさせることの多いアメリカ。先日も、運転中に前方の車に目をやると「BAIDEN MAKING THE TALIBAN GREAT AGAIN(バイデンはタリバンを再び偉大にする)」というステッカーが貼られており、思わず苦笑いしてしまった。そんな国に住んでいるので、「もう少しアメリカ政治について勉強しなければ」を前から思っていたのだが、アメリカの投票権をもっていないので(私は永住権は持っているが、市民権は持っていない)食指が今ひとつ動こなかった。が、先日読んだ『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか アメリカから世界に拡散する格差と分断の構図』でエンジンがかかり、今週は『アメリカ大統領選』という本を読んでみたのだが、非常に勉強になったので紹介したい。

本書は、アメリカ政治の中心となる大統領制と大統領選の仕組みを解説しながらも、その選抜プロセスや政権交代の実際に迫りながら、アメリカ政治全体の特徴を浮き上がらせようという良書。タイトルこそ大統領選にフォーカスをあてているものの、どちらかと言うと政治家と市井の人間の立場の両面からアメリカ政治全体をわかりやすく解説している「アメリカ政治基礎」という言うにふさわしい本だ。本エントリーでは、本書で解説されているアメリカ政治の仕組みの中で、私が「へぇ、日本とこんなところが違うんだ」と思ったことを紹介していきた。

 

アメリカでは事務次官から局長級までの官僚組織を大統領が直接指名できる

日本の政治では、内閣総理大臣が各大臣を任命し、その人事に政権発足の際には注目が集まる。大臣や副大臣は政治が任用するわけであるが、そのカウンターとなる官僚組織の事務次官やその下の局長というのは各省庁の裁量で決定され、巨大の権限が付与されている。官邸主導という言葉が最近は使われるようになったが、巨大の官僚組織の人事はきっちり各省庁が握っているので、政治主導で物事を進めようとしても官僚からの抵抗にあい、進まないということが日本ではよくある。

一方で、アメリカでは官僚組織のトップである事務次官だけでなく、局長級のポストまで就任した大統領が直接指名するというのだから驚きである。それらのポジションも、基本的には官僚組織の内部から任命するのではなく、外部からの登用が殆どというのだから驚きである。なので、大統領選があって、大統領が新しくなる度に、官僚組織のトップがごっそり入れ替わる、別の見方をすれば前政権の事務次官と局長は職を失うというのは非常に興味深い。

よって、日本のように首相の言うことを面従腹背で官僚がなかなか聞かないということは起こらず、自分に機会を与えてくれた大統領の実現したい政策の実現に向けて高い忠誠心をもって官僚が動いてくれるというのがアメリカ政治のダイナミズムのようだ。勿論、大統領の任期にあわせてメンバーががらっと変わるので長期的な視線で政策をうちずらい、という欠点はある。

 

アメリカでは与党であっても、野党であっても議員は頻繁に造反する

現在の日本は自公の連立政権である。内閣総理大臣がと通そうとする法案や政策に対して、自民党員263名はおろか、公明党員の32名が反対して票を投じないということは滅多におこらない。が、アメリカでは大統領が進めようとする政策に対して、その大統領の政党の議員が普通に反対票を投じて、造反するのは日常茶飯事だというから驚きだ。最近のわかりやすい例で言うと、共和党のトランプ大統領が進めようとしていたオバマケア撤廃法案を共和党多数の上院で可決に持ち込むことができなかった、というのは興味深い。

これには2つの構造的な要因がある。まず、よく知られている通り、アメリカ大統領というのは実質的には国民の民主的な直接投票によって選出される。日本のように与党議員の投票によって選ばれるわけではないので、自然と大統領の自政党に対するグリップというのは弱くなってしまう、ということがある。また、日本では、党総裁が自党の公認候補の決定権を持つため、党国会議員の党総裁への忠誠は非常に強い。ところがアメリカでは、大統領はこのような権限は与えられておらず、公認候補というのは党執行部ではなく党員に与えられているという。なので、「党執行部に逆らうやつは公認しないぞ」というプレッシャーから各政治家は開放されているわけだ。今の自民党で同じ仕組みを当てはめて考えると、安倍政権は存在せずに石破茂氏が総理大臣になっていたし、岸田政権ではなく河野太郎政権になっていたことになるだろうし、もっと言えば小泉進次郎政権が発足する可能性が高いということになる。うーん、良し悪しではあるな。

 

「小さな政府」を支持するのは、「リベラル」ではなく「保守」

「リベラル」と「保守」という言葉はアメリカ政治を語る上で欠かせない単語だ。が、私はどうもこの区分けがしっくりこずに、混乱することが多い。一般的に「リベラル」は民主党で「保守」は共和党だ。経済政策を見ると、「保守」の共和党は、政府の規制強化や増税による福祉政策の充実に反対の立場をとる。こういった政策は私の中では新自由主義やリバタリアンとリンクし、「リベラル」というラベル付けがしっくりくるのだが、社会福祉の充実を看板政策にかかげている民主党が「リベラル」なのでいつも混乱してしまう。

本書曰く、この「リベラル」という言葉遣いはヨーロッパとは逆の使い方だから、しばしば混乱をきたすという。考え方としては、福祉政策を充実させ、人々の基本的な経済的自由を確保させるという意味で「リベラル」という言葉を使っているらしいが、私にはやはりわかりにくい。もともと共和党が「リベラル」という特色を打ち出していたらしいが、フランクリン・ルーズベルトがニューディール政策を打ち出して福祉政策を推し進めた時に、自らを「リベラル」と呼び始め、その語法がメディアと国民の間ですぐに浸透してしまったことがきっかけらしい。おのれ、ルーズベルト。

 

以上、3点ほどアメリカ政治の3つの「へぇ」を紹介させて頂いた。本書は、大上段に構えてアメリカの政治構造を解説するというものではなく、大統領選の現場や市井の人間に焦点をあてて「アメリカの民主主義」を丸ごと捉えようという良書だ。アメリカ在住の人で政治に興味のある方は読んだら絶対に面白いと思うし、アメリカ政治に興味があるが難しそうでどうもなぁ、と思っている方には強く薦めたい。

アメリカ社会は分断も二極化もされていない

アメリカ社会の分断は深刻な状況にまで至っている

 

こういった言説はドナルド・トランプがヒラリー・クリントンを破り、大統領に就任して以降、お決まりのものとなっている。広がり続ける経済格差、健康保険加入者の減少、未だにくすぶる人種差別、などの様々な社会問題を抱えるアメリカ。保守とリベラルの対立激化に伴う「アメリカ社会の分断」により、これらの事態は悪化の一途を辿る、という悲観論がメディアでお馴染みのストーリーだ。

 

だが、こういったホラーストーリーは、アメリカ社会で8年ほど生活をしている市井の人間の肌感覚とは大きく異る。私は、現地の企業で働き、現地のコミュニティで過ごし、子どもたちは現地の学校に通っているが、いわゆる「分断」を強く感じたことはないし、それが深刻なレベルにまで深まっていると言われても、「別の国の話をしているのかな?」とまで思ってしまう。近所を散歩すれば見ず知らずの人でもフレンドリーに話しかけてくるし、学校では多くの保護者のボランティアが子どもたちのために学校運営に協力してあたるし、見知らぬ人であっても困っていれば多くの人が手を差し伸べるし、社会的な意義のある活動に対しては大きな寄付や支援が集まるという「つながり」は未だ健在だ。

 

「二極化したアメリカ社会」なんて言い方をされることもあるが、アメリカ社会は「二極化」というような単純な言葉で真っ二つに分けれるほど単純にはできていない。人種や民族が多様なことは勿論、地域間の異なりも非常に大きい。昨年はボストン、ロサンゼルス、マイアミ、オーランド、などいくつかのアメリカの都市に旅行をしたが、それぞれの都市はとても同じ国とは思えないくらい、あらゆる面で全く異なる装いをしており驚かされたものだ。所得格差は「二極化」の文脈で取り沙汰されることが多いが、それは何となくわかりやすいからそう言われているだけだろう。金持ちの中にも保守もいれば、リベラルもいるし、貧乏人の中にも共和党支持もいれば、民主党支持もいる。経済格差は一つの対立軸ではあるが、その一つの軸を持って二極にわけることができるようにはアメリカ社会はできていない。

 

なんで、市井の人間には殆ど感じられない「社会の分断」がこんなに取り沙汰されているのか長年疑問であったが、『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』はその疑問に簡潔に答えてくれる良書だった。Kindle Unliminted本なのだが、つまらないタイトル釣りの本が残念ながら多いKindle Unliminted本の中で、たまにある大当たりの本であった。

 

民主主義社会におけるアイデンティティの分断は、選挙のマーケティング技術の発展によってもたらされている。

『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』 はじめに

本来であれば、社会の分断が社会問題を引き起こし、それを政治的に解決するための民衆の代表を選ぶというのが、民主主義の求める選挙のプロセスだ。が、本書はそれが全く逆になっていると指摘する。即ち、選挙の票集めのために、無いはずの分断が知識人や政治主導で定義され、その定義された分断に基づいて民衆にアイデンティティをラベル付けして、自政党への投票に駆り立てる、というのが実情だと言う。トランプ支持者を白人、低所得、低学歴、肉体労働の男性、というラベル付けをして、それ以外の層の支持を取り付けようとした民主党の選挙戦略が例示されており、これはわかりやすい例だろう。

学者は新しい対立軸を生み出すことで自分の仕事を作り、メディアはその対立軸を普及させることにより注目やPVを稼ぎ、政治家は自身の生き残りのために、ないはずの対立軸に乗っかる、というのが、現代アメリカ政治の実情であると筆者は一刀両断し、それは私の肌感覚とも合致するところが大きく、とても興味深かった。日本も対岸の火事であればありがたいのだが、小泉郵政選挙で「改革派」対「抵抗勢力」というわかりやすい対立軸で票集めに大成功した小泉政権以後その傾向が強まっているという。

 

アイデンティティの分断に限らず、グローバル化の進行や仮想通貨の普及に伴う国民国家のあり方の変容まで本書の扱う射程はかなり長い。参議院選挙も夏に近づいていることもあり、マスメディアからウェブのメディアまで様々な雑多な選挙メッセージにされされることが予想される。本書は、自分の立ち位置や視座を保つための視点を多く提供してくれる良書であるため、一読をお勧めしたい。

ウクライナ情勢を読み解く上でおさえておきたいウクライナ史8選

「ウクライナの歴史をおおざっぱでも良いので理解したい」

ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、そういう興味を持った人は多いだろう。

 

おおざっぱに歴史を理解する際に誰もがまずは参照するのがウィキペディア。『ウクライナ』の項目にその歴史がまとめられている。非常によくまとまっているのだが、初心者の私にはハードルが高かった。馴染みのないスラブ系の名前の連発と文献ごとの表記違い(ハールィチ・ヴォルィーニ大公国とハーリチ・ヴォルイニ公国など)にあえなく玉砕。

 

困った時は本に頼れ、ということで『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を手にとる。アマゾンのレビューを見る限り、「ウクライナの歴史をおおざっぱでも良いので理解したい」という私の希望を満たすには本書が最適解のように見えた。「面白くて2日で読み終えた」というレビューもあったので、軽い気持ちで読み始めたが、これがかなりの読み応え。二郎系ラーメンとカルボナーラ大盛りを一度に食べるくらいの重たさで、かなりウクライナ筋が鍛えられた。

筆者は黒川祐次氏。外交官で、ウクライナ大使を勤めていたというのだから日本で一番のウクライナ通かもしれない。複雑な外交問題を政治家にブリーフィングするという仕事柄からか、外交官の方は混みいった内容をわかりやすく説明する能力に長けていると私は思う。本書も、よくまとまっており、わかりやすい表現が心掛けられているので、とっつきやすい。が、ウクライナ史がとにかく複雑でとらえにくいのと、「ヤロスラフ」とか「フメリニツキー」とか、ページをたぐる度に忘れてしまう慣れない名前に、苦心することになる。

 

そんな感じでウクライナ史と格闘している私。難しくて手こずっているということを散歩をしながら娘にこぼしたら、「で、おとうさん、細かいことはおいといて、わかりやすく説明するとどんな感じなの?」という残酷な質問を受ける。もう、通史を説明するのは能力的にも無理なので、苦し紛れに高校生の娘が興味を持ちそうな、「へぇ」という項目をいくつかあげたらそれなりに興味と理解を示してくれた(多分)。

 

本エントリーでは初学者の私が『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を通読して、「へぇ、そうなんだぁ」と思い、現在のロシアによるウクライナへの侵攻をより理解するために重要と感じたウクライナの歴史を8点、紹介していきたい。

  • ウクライナは「千年の歴史がある国」かどうか問題
  • 「タタールのくびき」とウクライナ
  • コサックダンスはウクライナのダンスだった
  • ウクライナの語源の問題、「辺境地帯」なのか「土地・国」なのか
  • 1000年越しに「ウクライナ人民共和国」樹立するも3年の命
  • ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言の裏側
  • クリミアは誰のもの問題
  • ウクライナの独立宣言と六度目の正直

なお、諸説ある内容もあるので、細かい間違いは大目に見ていただきたい。

 

ウクライナは「千年の歴史がある国」かどうか問題

「ウクライナの歴史を遡る場合は、どこまで遡ればよいのか」、これは史実的にも政治的にもややこしい問題だ。一番大事な焦点をあげるとすれば、「キエフ・ルーシ公国(キエフ大公国)をウクライナの祖先とみなすかどうか」という点になる。

「キエフ・ルーシ公国」は9世紀後半に北欧のバイキングによって作られた国だ。最近馴染みのある「キエフ」という言葉がついており、現在のウクライナの首都のキエフを中心とした国なんだから「そりゃウクライナの祖先でしょう」というのがウクライナの見方

が、この「キエフ・ルーシ公国」は13世紀半ばにモンゴルに攻められ崩壊してしまう。ウクライナの土地は色々な経緯を経てリトアニアとポーランドに併合され、国の形としては消滅してしまう。その間もその一部であった「ロシア公国」は細々とながら生き残るので、「国が一旦消滅しちゃったんだから、「キエフ・ルーシ公国」を継承したのはロシアであって、ウクライナっていうのは無理があるでしょ」というのがロシアの見方。

「キエフ・ルーシ公国」の後継者争奪戦というのが、ウクライナとロシアの歴史認識を考える上で重要な要素となるので頭にいれておきたい。

 

「タタールのくびき」とウクライナ

「タタールのくびき」というのは高校生の頃、世界史でやったので言葉としては頭に残っていたが、それって何だっけというのが私の世界史の知識レベル。タタールというのはモンゴルの民族で、ロシア近辺の諸国がモンゴル帝国の拡大に伴って傘下に入ってしまい、税金をカツアゲされるという13世紀半ばからの250年くらいのことを「タタールのくびき」という。スラブ系の人にとっては、モンゴルにしてやられた屈辱の期間ととらえられているようだ。

このモンゴルの侵攻がきっかけとなって、

  • 「キエフ・ルーシ公国」の崩壊にあわせて、単一のルーシ民族はロシア、ウクライナ、ベラルーシに分化してしまう。
  • ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれの独立した言語ができ、この頃から「ウクライナ」という地名が登場する。
  • とは言っても、国としては「キエフ・ルーシ公国」はモスクワ大公国、ポーランド王国とリトアニア大公国に分割され、三百年くらいウクライナは国としては日の目をみない

という感じに民族としては残るものの、国としてはウクライナは消滅してしまう民族主義やナショナリズムというのは、ウクライナとロシアの関係を考える上ではかかせない。単一のロシアという国が、単一のウクライナという国を侵略している、という単純な構図ではないことが、歴史を学ぶと見えてくる。

 

コサックダンスはウクライナのダンスだった

「あぁ、それロシアじゃなくてウクライナだったんだ」という発見が最近いくつかあるが、その中で私にとって大きいものはチェルノブイリとボルシチとコサックだ。コサックというとユニークなダンスと兵隊が強そうという浅薄なイメージしかなかったのだが、14世紀半ばからの空白の3世紀を経て、ウクライナ勢力を国として表舞台におしあげる、ウクライナの強キャラだった模様。空白の3世紀に終止符をうち、ウクライナのナショナリズムを高めるというわかりやすい活動をしてくれたのがコサックなのだ。現在のウクライナの善戦に、この武闘集団のコサックの血筋をみてとれなくもない。

ただ、コサックが「ウクライナ公国」というものでも作ってくれていればわかりやすいのだが、武力を背景にしたヘトマンという自治政府作る(”国”が学校公認の”部活”で、”自治政府”は”同好会”みたいな理解でよいと思う)にとどまる。そして、最終的には四方八方敵に囲まれているという難しい状況から、17世紀半ばにロシアと条約を結んでその保護下に入るという選択をし、ロシアへの併合の大きな一歩を踏んでしまう。これが、ソビエト崩壊に伴う1990年のウクライナの独立宣言までの長い道程のはじまりとなる。

 

ウクライナの語源の問題、「辺境地帯」なのか「土地・国」なのか

歴史千年問題と同様にウクライナの語源もロシアとウクライナで大きく見方が異る。ウクライナを縦に流れるドニエプル川両岸に広がるあたりを「ウクライナ」という言葉で呼ぶようになったのは、コサックが頭角をあらわした頃らしい。

ロシアの学説では、ポーランドやリトアニアから見て辺境という点で、ウクライナは「辺境地帯」という意味なのだというのが定説の模様。コサックの自治国家を取り込むあたりから、「小ロシア」という更に失敬な名前で呼び始めるあたりに、ロシアのウクライナを下にみた意識をみることができる。

もちろん、「いやいや、辺境地帯なんていうのは変な後講釈で、そんな呼び方を自分たちでするわけないでしょう」というのがウクライナの立場。言葉そのものが使われ始めたのは一二から十三世紀くらいで、当時の文献を読み込めば「土地」とか「国」という解釈が妥当である、というのがウクライナ学説。

名前一つとっても、立場によって諸説あるのでややこしいことこの上ない。

 

1000年越しに「ウクライナ人民共和国」樹立するも3年の命

前説の長すぎる映画というか、なかなか餡に到達しない肉饅かのようなウクライナの歴史だが、20世紀初頭の第一次世界対戦と二月革命による帝政ロシアの崩壊を受けて、ついて「ウクライナ人民共和国」というわかりやすい国の形が歴史の舞台に初登場する。だが、この「ウクライナ人民共和国」は3年と短命であるというオチがつく。「1000年待たせて3年かい!?」という不要なツッコミをしてしまいたくなるが、国民国家としてなかなか成立しなかった、できなかったという点も頭にいれておきたい。

その後「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」が設立されるが、実質的にはソ連に支配された一行政区という地位に甘んじる。

 

「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言の裏側

プーチンが「ウクライナを非ナチ化する」と発言したことを受けて、「あいつ頭おかしくなったんじゃねぇか」と思った人は私だけではないはずだ。ウクライナはユダヤ人が昔から多く住んでいるし、ゼレンスキー大統領自身もユダヤ人であるし、第二次世界大戦でナチスドイツは90万人近いウクライナのユダヤ人を殺している事実からも、「ウクライナを非ナチ化する」というのは支離滅裂である。

独ソ戦争の主戦場は正にウクライナであり、占領されたり、押し返したりの激しい攻防で史実上最も多くの死者がでた戦争だ。多くのウクライナ人はソビエト連邦としてドイツと戦ったが、その反面ウクライナ蜂起軍という組織がソビエト連邦とも戦ったという点は興味深い。当時ウクライナはスターリンの「とんでも共産主義政策」のお陰で350万人もの餓死者がでるは、大量の知識人は粛清されるはで、「もうあなたの下ではやってられません」というモードだったとことは容易に想像できる。ドイツの侵攻をうけて、「これに乗じて独立しちまえ!」というウクライナ民族主義者がソビエト連邦にも銃を向けたという構図だ。

歴史は勝者が作っていくので、闘いにかったソビエト連邦は「ウクライナ蜂起軍などのウクライナ民族主義者はナチの手先」というプロパガンダを戦後にうっており、プーチン発言の背景にはこういう史実があるのだろう。だからと言って「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言に説得力を感じるものではないが、そういう歴史的背景はおさえておきたい。

 

クリミアは誰のもの問題

2014年にロシアがクリミア侵攻をしたのは記憶に新しい。マスコミは2014年のそのワンシーンだけを切り取り、そこに到る歴史を紹介することは殆どないので、ロシアの傍傍若無人さだけが、際立っている。ここでは、少し射程範囲をひろげてクリミアの歴史を切り取ってみたい。

  • キエフ・ルーシ公国の支配下にあったが、13世紀中頃のモンゴル侵攻によって、交易による収入が見込める「おいしい」場所であったクリミアはモンゴルの直轄領となる
  • 14世紀半ばにクリミア汗国として独立し、イスラム系の国となり、18世紀後半までその地を支配するが、帝国ロシアのエカチェリーナ2世によってロシアに併合される。クリミアをタタールから取り戻したのはロシアである、というのは大事な点だ。
  • ロシア革命、第一次世界大戦などを経て、ソビエト連邦の一部になり、ロシアにとっては暖い大事な保養地となる。第二次世界大戦終わりにヤルタ会談が開催されたり、ソビエト崩壊寸前に保養していたゴルバチョフが拘束されたりと、歴史の節目に登場機会が多い。
  • 20世紀半ばにスターリンからバトンを受けたフルシチョフにより「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」として懐柔策の一貫でウクライナに委譲される。当時クリミアの人口の7割はロシア人が占めており、将来ウクライナが独立することなど毛頭考えていなかったフルシチョフの人気取りのための行政措置であった。

クリミア侵攻はロシアが傍若無人というトーンで語られることが多いが、上記の通り歴史を振り返ると「兄弟の盃を交したのだから信頼の証として大事なクリミアを渡したが、盃を返すというならクリミアも返してくれよ」というロシアの気持ちも私はわからなくもない。

 

ウクライナの独立宣言と六度目の正直

ウクライナの独立宣言は20世紀に入って6回もなされているという。第一次世界大戦の直後から第二次世界大戦の終戦間際までの間に初めの5回がなされたが、いずれも長続きせず、鳴かず飛ばずで終る。民族主義の高まりとロシアの弾圧と粛清、そして近隣諸国からのちょっかいという紆余曲折をへながら、ソビエト連邦崩壊に伴い、晴れて1990年にウクライナの独立は成就される。

ここまでみると大変ドラマチックな歴史ではあるが、その反面この独立は「棚ぼた的でめでたさも中くらい」と本書では辛口に評している。「建国の父」的な英雄や独立運動を象徴するヒーローの不在が、その「棚ぼた」感の源泉と思われる。盛りに盛った建国ストーリーなど胡散臭さを私は覚えるが、ハラリ的に国家という虚構を作り上げるためには、わかりやすい象徴が必要なのだろう。

 

以上、現在のロシアによるウクライナへの侵攻をより理解するために重要と感じたウクライナの歴史を8点、を紹介させて頂いた。何度も読み直して、かなり短くしたのだが、意図せず大作となってしまった。タイトルに釣られて読み始めた人の大半は既に離脱してしまったことは容易に想像できるが、最後まで読み通して頂いた方にはお礼を申し上げたい。

 

ウクライナの歴史を振り返って思うのは、

  • ユーラシア大陸の中心という地政学的な重要度が高さと、ヨーロッパの穀倉と呼ばれるほど豊饒な大地を持つその魅力から、北からはロシア、西からは欧州諸国、南からはモンゴルやオスマン帝国と四方八方敵だらけという苦難な道を歩むことになった。
  • 何度となくウクライナ民族として国家の樹立を試み、チャンスは幾度と無く訪れたものの、ナポレオン級の英雄が現れなく、ソビエト連邦崩壊に伴い遂に独立した国民国家を樹立することになったが、これは「ごっつぁんゴール」というより、ウクライナ民族の熱意の勝利とみたい。
  • 武力や民族弾圧に苦しんだ苦難の歴史であったが、民主的な国民国家が主制を占める現代社会は、ウクライナの国家独立を盤石なものにする好機であり、ゼレンスキー大統領にはこれを乗り越え是非「ウクライナの英雄」になって頂きたい

というあたりだろうか。というわけで、「頑張れゼレンスキー大統領!」というエールを送って本エントリーをしめたい。

「好きなことを仕事にする」ために必要なこと

私は仕事が嫌いではない。若干前近代的ではあるが、仕事の高いハードルを超えた時の達成感というのは格別であるし、仕事を通して築いた人脈というのはかけがえのない資産だ。また、培ってきた専門性を活かしながら成果を出すのは楽しくもある。だが、「好きなことを仕事にしている」かと聞かれれば、決してはそうは言えない。というのも、今の仕事に面白みを見出すことはできているが、それそのものが好きであるわけではないからだ。「好きなことを仕事にする」というよりも、「自分が得意でお金を稼げる」ことをやりつつ、その良いところを見つけて付き合っているという方が正しい。「好きなことを仕事にする」ことができればそれが一番よいが、最近はそうでなくても良いか、という気持ちになっている。生活の糧をえるためには、いずれにしても嫌いや苦手とも付き合っていかなければならないからだ。

 

「好きなことを仕事にする」という字面はそもそも誤解を招きやすい。というのも、この言葉の響きから、好きなことだけをして、嫌いなことはしなくても良いというようなイメージを人に与える。だが、これは残念ながら全く違う。「好きなことを仕事にする」ためには、それを成り立たせるための多くな好きなこと以外をやらなければならない。その中には当然自分の苦手や嫌いも入っている。「好きなことを仕事にした」もののそれが続かない人は、この点についての誤解があるのではないだろうか。

 

先日、佐藤友美さんの『書く仕事をしたい』を読んだ。「書いて生きるには文章力”以外”の技術が8割」という言葉で帯が飾られている通り、ライターという仕事の「書く以外の仕事」について網羅的かつ具体的に解説がされている。

  • ライターは、どんな生活をして、どのくらいの稼げるのか
  • 取材の仕方や企画の立てから、売り込みをして仕事を取る方法
  • 編集者との付き合い方からスケジュールの管理の仕方
  • 書く仕事で生きていくことについてのもろもろ

など、とにかく筆者の「ライターとしての生存戦略」が余すところなく開陳されている。「さすがライター!」というわかりやすい表現で、頭にすっと入ってくる構成は見事で、300ページというボリュームを一切感じることがなかった。

 

本書は、ライターという仕事に興味のある人だけでなく、「好きなことを仕事にしたい」と思っている若者には是非読んで頂きたい。本書では、「書く」という自分が好きなことを仕事にするために、「書く」以外の8割の技術を総動員して、生き残ってきた筆者の姿が生々しく描かれている。これを読めば、「好きなことを仕事にする」ためには、そのために嫌いや苦手なことにもそれ以上に取り組んでいかなければならないという現実が理解できる。

 

 

書く仕事がしたい

書く仕事がしたい

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これまでたくさんの書き手の卵さんたちにあってきましたが、書き始めることはできても、書き続けられない人が辞めていきました。

依頼される仕事だから、書きたいものだけを書くわけではありません。対象をどう好きになるか。どう面白がるか。どう愛するのか。それができないと書き続けられないのです。

『書く仕事をしたい』

筆者はライターという仕事をするにあたり、書く技術は「上手くて、面白い」というレベルに達していなくても十分に成り立ち、「間違っていなく、わかりやすい」が満たされれば十分という。それよりむしろ、書きたいものだけを書くわけでない中で、「書き終える」ということを続けることの方がずっと大事ととく。全体の2割を占める「書く」ということにおいてさえも、書きたいものだけを書けるわけではないのだから、他の8割については言うまでもない。

 

人生百年時代と言われており、「好きなことを仕事にする」ということは今後ますます注目されていくだろう。それそのものは良いことだと思うし、私自身も細く長く働くために、なるべく多くの時間を「好き」に使えるような仕事の仕方を模索していきたい。が、趣味の範囲でやるなどの場合はさておき、生計をためるためにはそれなりの時間を自分の嫌いや苦手にも振り分けなければならない。「好きなことを仕事にする」ために、「嫌いや苦手にも果敢に取り組む覚悟」を持つこと、それが「好きなことを仕事にする」ために必要なこと、と私は考える。

 

 

 

仕事で伸び悩むおっさんが筋トレにはまる話

40〜50代の男性の中で筋トレ熱が高まっている、という話は以前から耳にする。その理由としては、

  • 「働き改革」の成果として余暇の時間が増えた
  • 大きな出費や初期投資なく気楽に始めることができる
  • 人生100年時代に向けて健康意識が高まっている

など様々な理由があげられている。かくいう私も最近筋トレに力をいれている。道具を揃えていくのも、金銭的にゆとりのある40〜50代の趣味の醍醐味だ。ダンベルや懸垂バーなどのちょこちょこした道具に加え、先程トレーニングベンチをぽちったところで、なかなか楽しんでいる(勿論、家族の白い目にさらされつつも了承はちゃんとえた)。

 

実際に筋トレをしてみると、なぜこんな地味なことが40〜50代の男性が好むのかわかる。上記にあげたことは勿論そうなのだが、一番の理由は、

  • 自分の脳力の伸びや可能性を実感したい

というところにある気がする。

 

40代というのは働き盛りの年だ。それなりに大きな仕事を任され、周囲との信頼関係もきちんとあり、若手を育成する機会にも恵まれる。20代と30代で培った経験を最大限に活かしながら、最も良い仕事ができる年代だとわれながら感じている。が、その反面ピークに差し掛かり、伸び悩みを感じる時期でもある。勿論、身を粉にして働いたり、学習をすれば、まだまだ伸びる余地も十分にある。が、25年近く研鑽してきた仕事の能力というものに、さらに磨きをかけてさらに高みを目指すというのは簡単ではない

  • 自分の強みを一旦崩して再構築する
  • 全く経験のない領域の勉強をして芸風を広げる
  • 得意をさらに突き詰めて磨きに磨きをかける

勿論、これらは可能であるし、そうやっている人も沢山いることは承知している。が、ここから更に上を目指すというのは時間も相当かかるし、仕事により多くのリソースを振り分ける修羅の道なのだ。繰り返すが25年もの時間をかけて培ってきたものを、さらにグレードアップするというのは並大抵なことではない。

 

私自身は、修羅の道を突き進む強者ではなく、今までの財産を活かしながら仕事をして、仕事以外の人生の充実を追求していくほうが合っている。なので、最近は夜遅くまで働いたり、土日にも仕事をするという生活からは足を洗い、家族とより多くの時間を過ごすようにしており、充実した生活を送っている。

 

が、仕事を通して成長と自己実現をある程度してきた人にとって、自分の成長が止まるというのは物足りなくもあるし、怖い思いもあるそこで筋トレである。今まで筋トレをしてこなかった人が一日に1時間筋トレをする習慣を身につけると、効果は目に見えて現れる。見た目だけでなく、回数や負荷が増すというわかりやすい指標があるため、自分の成長を実感しやすい。さらにタンパク質や炭水化物の量などを定量的にコントロールするという数値管理の要素は私には仕事柄もあって馴染みやすい。一日1時間の努力で伸ばすことができる余地は仕事では限られているが、筋トレであればかなりの自分の可能性を感じることができる。自分への投資としてはコスパが良い上に、仕事以上に投資をふんだんにしないといけない健康領域であるため、ついつい時間をそちらに使ってしまう。同年代でハマる人がいるというのもよく分かる。

 

本エントリーでは、仕事で伸び悩むおっさんが筋トレにはまる理由をかなり自分目線で語らせて頂いた。当ブログの読者は私と同年代の方が多いと思われる。他の視点などがあれば皆さま是非共有ください。

 

 

『保健所の「コロナ戦記」』 コロナ禍二年間の軌跡と一筋の希望

このコロナ禍で否応なく「保健所」に注目が集まっているが、本日紹介する『保健所の「コロナ戦記」』は、保健所管理職としてコロナ第一波から、最前線で獅子奮迅の働きをしてきた関なおみさんの独白。東京都に住む方は必読とも言えるオススメの本だ。

 

特に、

  • そもそも今までの人生で保健所にお世話になったことが一度もない
  • このコロナ禍で、病院だけでなく保健所がこれほど注目を集めている理由がよくわからない
  • そう言われてみると保健所がそもそも何をしてくれる所なのかよくわからない

というような人には強く薦めたい。また、

  • コロナ関連で保健所に連絡をしたが、けんもほろろでムカついている

という人にも是非読んで頂きたい。制度としての善し悪しはさておき、保健所がキャパオーバーしているのは医療も含めた制度の問題で、そこで働いている人の問題ではない。理由が理解できれば、人というのは多少なりとも感じたストレスを減らすことができるものだ。

 

本書は、国内で初めての感染者が発見される第1波から、デルタ株が大流行する第5波までの都下の保健所、並びに都庁感染症対策課で起きたリアルを描いたノンフィクション作品だ。コロナ禍の最前線で戦う保健所職員の日々の苦闘と健闘が息遣いを感じるほどのリアルさで伝わってくる一方で、そういう自分たちの姿をどこか客観視しながらコミカルさも交えた軽い筆致で描き、単なる現場職員の愚痴で終わらせることなく多くの人に届けたいという筆者の思いを感じる。例えば、保健所に勤める管理職の公衆衛生医師として、管理職としての事務業務は勿論、マスコミ対応、都議会対応など、医師業務以外の仕事に追われる心情を下記のように描いている。

公衆衛生医師も、とあるフリーランスの医師のように、医師免許がなくてもできる仕事はいっさい「致しません」と言えればいいが、都庁や特別区の保健所では非常に難しい。

『保健所の「コロナ戦記」』 第三章 第3波 12月から2021年3月まで

これはテレビ朝日の某人気医療系ドラマからひいてきていると思われる。単に組織に対する不平不満を開陳するのではなく、ちょいちょいとこの手の小ネタを挟んでいるので、新書にして416ページというボリュームを感じさせることなく、すいすいと読みすすめることができる。

 

また、政治家なり、医師会なりを呪いたくなる気持ちになる環境で働きながらも、そういう方々への恨み節もあまりないことも本書の魅力だ。まぁ、今の東京都知事は、自分を批判する人間は、定年退職を迎えて外郭団体にいる人間であろうと粛清するという御人であるから、その点には筆者は細心の注意を払ったであろうことは推察できる。事実に忠実で客観的でありつつ、他者を批判しないという姿勢を貫いているので、大作の戦記ながらも重たくなりすぎていないのが良い。筆者の豊かな感情表現を随所に散りばめることにより、読み物としての魅力をあげながらも、人への恨みつらみが前面にでていないのは筆者の人柄だろう。

が、そんな筆者でも、下記のように都下で働く職員としての苦悩がたまに滲みでているところに、くすっと笑わされてしまう。そんな良識人の本音も本書の魅力の一つだと思う。

都知事が発言するたび、プレス発表する度に、殺到する都民からの問い合わせや、マスコミ取材、開示請求対応も大きな負担となった。

 『保健所の「コロナ戦記」』 最終章 残された課題

 

いくつか本書の読みどころを紹介してきたが、本書の一番の読みどころは、と聞かれれば、この時期に2020年1月から始まったこのコロナ禍を振り返ることができるということをあげたい。世界中のそれぞれの方々が、それぞれの生活の大きな変更を余儀なくされたこの2年間。残念ながら、我々はこいつとしばらく付き合っていかなければならないし、本書で語られていないオミクロン株で今はてんやわんやなわけであるが、2年間というのは振り返るに十分かつ丁度よい区切りのように読後に感じた。

中国のとある地域で「原因不明の謎の肺炎」が発生したらしいという状態から、検査方法が確立し、それが改善・普及し、感染者を追跡するプロセスとシステムも整備され、療養受入先も政治主導で少しづつ増えていき、ついにはワクチンが開発され、大々的に摂取が進んでいった。その間の血のにじむような現場の苦労は本書であますことなく語られているが、改めて振り返ってみると、われわれ人類はこの2年間で随分と大きな成果をあげたことは間違いない。もちろん、政治に疑問や不満はあるものの一歩一歩着実に進んでいることは高く評価しなければならない

本書を読んで、この2年間を振り返って持つ読後感は人それぞれだと思う。ある方は現在進行形で続く災難を再認識し暗澹たる気持ちを覚えるかもしれないし、他の方は療養施設の駅弁や空弁のような無意味な打ち上げ花火があげるために振り回される現場職員に思いを馳せて憤りを覚える方もいるかもしれない。が、私は2年間という短い期間でここまであげてきた成果に、一筋の希望をみたし、超えていかなければならない山はまだあるものの、きっと乗り越えていけるだろうという確信に近い感覚も覚えた。自分たちなら、そしてこういう人となら乗り越えていける、そんな勇気を与えてくれる、力強い戦いの軌跡が描かれている本書を是非多くの方に手にとって頂きたい。

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