「ウクライナの歴史をおおざっぱでも良いので理解したい」
ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、そういう興味を持った人は多いだろう。
おおざっぱに歴史を理解する際に誰もがまずは参照するのがウィキペディア。『ウクライナ』の項目にその歴史がまとめられている。非常によくまとまっているのだが、初心者の私にはハードルが高かった。馴染みのないスラブ系の名前の連発と文献ごとの表記違い(ハールィチ・ヴォルィーニ大公国とハーリチ・ヴォルイニ公国など)にあえなく玉砕。
困った時は本に頼れ、ということで『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を手にとる。アマゾンのレビューを見る限り、「ウクライナの歴史をおおざっぱでも良いので理解したい」という私の希望を満たすには本書が最適解のように見えた。「面白くて2日で読み終えた」というレビューもあったので、軽い気持ちで読み始めたが、これがかなりの読み応え。二郎系ラーメンとカルボナーラ大盛りを一度に食べるくらいの重たさで、かなりウクライナ筋が鍛えられた。
筆者は黒川祐次氏。外交官で、ウクライナ大使を勤めていたというのだから日本で一番のウクライナ通かもしれない。複雑な外交問題を政治家にブリーフィングするという仕事柄からか、外交官の方は混みいった内容をわかりやすく説明する能力に長けていると私は思う。本書も、よくまとまっており、わかりやすい表現が心掛けられているので、とっつきやすい。が、ウクライナ史がとにかく複雑でとらえにくいのと、「ヤロスラフ」とか「フメリニツキー」とか、ページをたぐる度に忘れてしまう慣れない名前に、苦心することになる。
そんな感じでウクライナ史と格闘している私。難しくて手こずっているということを散歩をしながら娘にこぼしたら、「で、おとうさん、細かいことはおいといて、わかりやすく説明するとどんな感じなの?」という残酷な質問を受ける。もう、通史を説明するのは能力的にも無理なので、苦し紛れに高校生の娘が興味を持ちそうな、「へぇ」という項目をいくつかあげたらそれなりに興味と理解を示してくれた(多分)。
本エントリーでは初学者の私が『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を通読して、「へぇ、そうなんだぁ」と思い、現在のロシアによるウクライナへの侵攻をより理解するために重要と感じたウクライナの歴史を8点、紹介していきたい。
- ウクライナは「千年の歴史がある国」かどうか問題
- 「タタールのくびき」とウクライナ
- コサックダンスはウクライナのダンスだった
- ウクライナの語源の問題、「辺境地帯」なのか「土地・国」なのか
- 1000年越しに「ウクライナ人民共和国」樹立するも3年の命
- 「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言の裏側
- クリミアは誰のもの問題
- ウクライナの独立宣言と六度目の正直
なお、諸説ある内容もあるので、細かい間違いは大目に見ていただきたい。
ウクライナは「千年の歴史がある国」かどうか問題
「ウクライナの歴史を遡る場合は、どこまで遡ればよいのか」、これは史実的にも政治的にもややこしい問題だ。一番大事な焦点をあげるとすれば、「キエフ・ルーシ公国(キエフ大公国)をウクライナの祖先とみなすかどうか」という点になる。
「キエフ・ルーシ公国」は9世紀後半に北欧のバイキングによって作られた国だ。最近馴染みのある「キエフ」という言葉がついており、現在のウクライナの首都のキエフを中心とした国なんだから「そりゃウクライナの祖先でしょう」というのがウクライナの見方。
が、この「キエフ・ルーシ公国」は13世紀半ばにモンゴルに攻められ崩壊してしまう。ウクライナの土地は色々な経緯を経てリトアニアとポーランドに併合され、国の形としては消滅してしまう。その間もその一部であった「ロシア公国」は細々とながら生き残るので、「国が一旦消滅しちゃったんだから、「キエフ・ルーシ公国」を継承したのはロシアであって、ウクライナっていうのは無理があるでしょ」というのがロシアの見方。
「キエフ・ルーシ公国」の後継者争奪戦というのが、ウクライナとロシアの歴史認識を考える上で重要な要素となるので頭にいれておきたい。
「タタールのくびき」とウクライナ
「タタールのくびき」というのは高校生の頃、世界史でやったので言葉としては頭に残っていたが、それって何だっけというのが私の世界史の知識レベル。タタールというのはモンゴルの民族で、ロシア近辺の諸国がモンゴル帝国の拡大に伴って傘下に入ってしまい、税金をカツアゲされるという13世紀半ばからの250年くらいのことを「タタールのくびき」という。スラブ系の人にとっては、モンゴルにしてやられた屈辱の期間ととらえられているようだ。
このモンゴルの侵攻がきっかけとなって、
- 「キエフ・ルーシ公国」の崩壊にあわせて、単一のルーシ民族はロシア、ウクライナ、ベラルーシに分化してしまう。
- ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれの独立した言語ができ、この頃から「ウクライナ」という地名が登場する。
- とは言っても、国としては「キエフ・ルーシ公国」はモスクワ大公国、ポーランド王国とリトアニア大公国に分割され、三百年くらいウクライナは国としては日の目をみない
という感じに民族としては残るものの、国としてはウクライナは消滅してしまう。民族主義やナショナリズムというのは、ウクライナとロシアの関係を考える上ではかかせない。単一のロシアという国が、単一のウクライナという国を侵略している、という単純な構図ではないことが、歴史を学ぶと見えてくる。
コサックダンスはウクライナのダンスだった
「あぁ、それロシアじゃなくてウクライナだったんだ」という発見が最近いくつかあるが、その中で私にとって大きいものはチェルノブイリとボルシチとコサックだ。コサックというとユニークなダンスと兵隊が強そうという浅薄なイメージしかなかったのだが、14世紀半ばからの空白の3世紀を経て、ウクライナ勢力を国として表舞台におしあげる、ウクライナの強キャラだった模様。空白の3世紀に終止符をうち、ウクライナのナショナリズムを高めるというわかりやすい活動をしてくれたのがコサックなのだ。現在のウクライナの善戦に、この武闘集団のコサックの血筋をみてとれなくもない。
ただ、コサックが「ウクライナ公国」というものでも作ってくれていればわかりやすいのだが、武力を背景にしたヘトマンという自治政府作る(”国”が学校公認の”部活”で、”自治政府”は”同好会”みたいな理解でよいと思う)にとどまる。そして、最終的には四方八方敵に囲まれているという難しい状況から、17世紀半ばにロシアと条約を結んでその保護下に入るという選択をし、ロシアへの併合の大きな一歩を踏んでしまう。これが、ソビエト崩壊に伴う1990年のウクライナの独立宣言までの長い道程のはじまりとなる。
ウクライナの語源の問題、「辺境地帯」なのか「土地・国」なのか
歴史千年問題と同様にウクライナの語源もロシアとウクライナで大きく見方が異る。ウクライナを縦に流れるドニエプル川両岸に広がるあたりを「ウクライナ」という言葉で呼ぶようになったのは、コサックが頭角をあらわした頃らしい。
ロシアの学説では、ポーランドやリトアニアから見て辺境という点で、ウクライナは「辺境地帯」という意味なのだというのが定説の模様。コサックの自治国家を取り込むあたりから、「小ロシア」という更に失敬な名前で呼び始めるあたりに、ロシアのウクライナを下にみた意識をみることができる。
もちろん、「いやいや、辺境地帯なんていうのは変な後講釈で、そんな呼び方を自分たちでするわけないでしょう」というのがウクライナの立場。言葉そのものが使われ始めたのは一二から十三世紀くらいで、当時の文献を読み込めば「土地」とか「国」という解釈が妥当である、というのがウクライナ学説。
名前一つとっても、立場によって諸説あるのでややこしいことこの上ない。
1000年越しに「ウクライナ人民共和国」樹立するも3年の命
前説の長すぎる映画というか、なかなか餡に到達しない肉饅かのようなウクライナの歴史だが、20世紀初頭の第一次世界対戦と二月革命による帝政ロシアの崩壊を受けて、ついて「ウクライナ人民共和国」というわかりやすい国の形が歴史の舞台に初登場する。だが、この「ウクライナ人民共和国」は3年と短命であるというオチがつく。「1000年待たせて3年かい!?」という不要なツッコミをしてしまいたくなるが、国民国家としてなかなか成立しなかった、できなかったという点も頭にいれておきたい。
その後「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」が設立されるが、実質的にはソ連に支配された一行政区という地位に甘んじる。
「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言の裏側
プーチンが「ウクライナを非ナチ化する」と発言したことを受けて、「あいつ頭おかしくなったんじゃねぇか」と思った人は私だけではないはずだ。ウクライナはユダヤ人が昔から多く住んでいるし、ゼレンスキー大統領自身もユダヤ人であるし、第二次世界大戦でナチスドイツは90万人近いウクライナのユダヤ人を殺している事実からも、「ウクライナを非ナチ化する」というのは支離滅裂である。
独ソ戦争の主戦場は正にウクライナであり、占領されたり、押し返したりの激しい攻防で史実上最も多くの死者がでた戦争だ。多くのウクライナ人はソビエト連邦としてドイツと戦ったが、その反面ウクライナ蜂起軍という組織がソビエト連邦とも戦ったという点は興味深い。当時ウクライナはスターリンの「とんでも共産主義政策」のお陰で350万人もの餓死者がでるは、大量の知識人は粛清されるはで、「もうあなたの下ではやってられません」というモードだったとことは容易に想像できる。ドイツの侵攻をうけて、「これに乗じて独立しちまえ!」というウクライナ民族主義者がソビエト連邦にも銃を向けたという構図だ。
歴史は勝者が作っていくので、闘いにかったソビエト連邦は「ウクライナ蜂起軍などのウクライナ民族主義者はナチの手先」というプロパガンダを戦後にうっており、プーチン発言の背景にはこういう史実があるのだろう。だからと言って「ウクライナを非ナチ化する」というプーチン発言に説得力を感じるものではないが、そういう歴史的背景はおさえておきたい。
クリミアは誰のもの問題
2014年にロシアがクリミア侵攻をしたのは記憶に新しい。マスコミは2014年のそのワンシーンだけを切り取り、そこに到る歴史を紹介することは殆どないので、ロシアの傍傍若無人さだけが、際立っている。ここでは、少し射程範囲をひろげてクリミアの歴史を切り取ってみたい。
- キエフ・ルーシ公国の支配下にあったが、13世紀中頃のモンゴル侵攻によって、交易による収入が見込める「おいしい」場所であったクリミアはモンゴルの直轄領となる。
- 14世紀半ばにクリミア汗国として独立し、イスラム系の国となり、18世紀後半までその地を支配するが、帝国ロシアのエカチェリーナ2世によってロシアに併合される。クリミアをタタールから取り戻したのはロシアである、というのは大事な点だ。
- ロシア革命、第一次世界大戦などを経て、ソビエト連邦の一部になり、ロシアにとっては暖い大事な保養地となる。第二次世界大戦終わりにヤルタ会談が開催されたり、ソビエト崩壊寸前に保養していたゴルバチョフが拘束されたりと、歴史の節目に登場機会が多い。
- 20世紀半ばにスターリンからバトンを受けたフルシチョフにより「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」として懐柔策の一貫でウクライナに委譲される。当時クリミアの人口の7割はロシア人が占めており、将来ウクライナが独立することなど毛頭考えていなかったフルシチョフの人気取りのための行政措置であった。
クリミア侵攻はロシアが傍若無人というトーンで語られることが多いが、上記の通り歴史を振り返ると「兄弟の盃を交したのだから信頼の証として大事なクリミアを渡したが、盃を返すというならクリミアも返してくれよ」というロシアの気持ちも私はわからなくもない。
ウクライナの独立宣言と六度目の正直
ウクライナの独立宣言は20世紀に入って6回もなされているという。第一次世界大戦の直後から第二次世界大戦の終戦間際までの間に初めの5回がなされたが、いずれも長続きせず、鳴かず飛ばずで終る。民族主義の高まりとロシアの弾圧と粛清、そして近隣諸国からのちょっかいという紆余曲折をへながら、ソビエト連邦崩壊に伴い、晴れて1990年にウクライナの独立は成就される。
ここまでみると大変ドラマチックな歴史ではあるが、その反面この独立は「棚ぼた的でめでたさも中くらい」と本書では辛口に評している。「建国の父」的な英雄や独立運動を象徴するヒーローの不在が、その「棚ぼた」感の源泉と思われる。盛りに盛った建国ストーリーなど胡散臭さを私は覚えるが、ハラリ的に国家という虚構を作り上げるためには、わかりやすい象徴が必要なのだろう。
以上、現在のロシアによるウクライナへの侵攻をより理解するために重要と感じたウクライナの歴史を8点、を紹介させて頂いた。何度も読み直して、かなり短くしたのだが、意図せず大作となってしまった。タイトルに釣られて読み始めた人の大半は既に離脱してしまったことは容易に想像できるが、最後まで読み通して頂いた方にはお礼を申し上げたい。
ウクライナの歴史を振り返って思うのは、
- ユーラシア大陸の中心という地政学的な重要度が高さと、ヨーロッパの穀倉と呼ばれるほど豊饒な大地を持つその魅力から、北からはロシア、西からは欧州諸国、南からはモンゴルやオスマン帝国と四方八方敵だらけという苦難な道を歩むことになった。
- 何度となくウクライナ民族として国家の樹立を試み、チャンスは幾度と無く訪れたものの、ナポレオン級の英雄が現れなく、ソビエト連邦崩壊に伴い遂に独立した国民国家を樹立することになったが、これは「ごっつぁんゴール」というより、ウクライナ民族の熱意の勝利とみたい。
- 武力や民族弾圧に苦しんだ苦難の歴史であったが、民主的な国民国家が主制を占める現代社会は、ウクライナの国家独立を盤石なものにする好機であり、ゼレンスキー大統領にはこれを乗り越え是非「ウクライナの英雄」になって頂きたい。
というあたりだろうか。というわけで、「頑張れゼレンスキー大統領!」というエールを送って本エントリーをしめたい。