Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『流浪の月』 「ラベル付け」と「無知」

昨年受講した会社の管理職研修でTilt365という自己評価を実施した。物事を考えたり、意思決定をする際に何に重きを置くのかについて、アイデアとデータを縦軸に、結果と人間関係を横軸にとり、自分が四象限のどこに分類されるのかを把握し、それぞれのグループの特性を理解し、効果的にコミュニケーションや協働するにはどんなことを考慮したほうが良いのか、という考え方を整理してくれるよくあるフレームワークだ。この手の自己評価や研修は何度か受けたことがあるが、何気に企業研修の中では一番盛り上がる。効果的なコミュニケーションの糸口が研修を通じて学ぶことができたという痛快さというよりむしろ、複雑怪奇な人間を単純な四象限に落とし込み「分類」することによってえられる安堵感からきているように感じる。多種多様なバックグラウンドを持つ人の多いアメリカで仕事をしていると、まさかと思うような認識の齟齬は日常茶飯事だし、意図せず地雷を踏んで起爆するのもよくあることなので、人に「ラベル付け」ができ、その行動パターンをわかった気になると、ほっとしてしまうのだろう。こういう研修に参加すると人間というのは「分類」や「ラベル付け」がしたい生き物なんだなぁ、といつも思う。

 

2020年本屋大賞の大賞受賞作品『流浪の月』を娘が読んでみたいというので、買ってあげたところ、面白かったというので私も読んでみた。

流浪の月

流浪の月

  • 作者:凪良 ゆう
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: Kindle版
 

 「家内更紗ちゃん誘拐事件」という過去の少女誘拐事件の当事者である佐伯文と家内更紗という二人の主人公の織りなす物語。事件当時19歳であった文には「少女誘拐事件の加害者であるロリコン野郎」というラベルが貼られ、当時9歳であった更紗には「少女誘拐事件の被害者となった可愛そうな女の子」というラベルが貼られているが、当事者二人は全く異る認識をもっている。が、世間の下した分類というのは、当事者であっても抗えない程の強烈な粘着性があり、そのラベル剥がしを諦め、自分を押し殺して静かに暮らす二人。そんな二人が再び交差することにより、周囲が二人の意に反してざわつき出し、物語が展開していく。本屋大賞らしい伏線が丁寧に回収されていく巧みなストーリー展開、自分の内面を言葉で表現できないマイノリティの声なき声を卓越した筆致で拾っていく表現力、デジタルタトゥーなど世相を色濃く反映した扱う題材のポップさ、ムラ社会のしきたりに沿わない人を容赦なく罰する日本社会へのアンチテーゼ、そして自分の理解を超える対象にわかりやすい「ラベル付け」をして、自分の心の平静を保つ人間の性が見事に活写されており、読みどころが多いだけでなく、色々なシーンを読後にぱらぱらと眺めたくなる余韻の長い良作であった。

 

本書には、安易な「ラベル付け」をする人が多く登場するが、基本的に悪意がある者は非常に少ないし、寧ろ善意に満ちた人が多い。読者にとって「悪人」というラベルが貼られる登場人物であっても、認めざるをえない五分の理や、それらの人物がよってたつ「社会の常識」があり、白と黒がはっきりする勧善懲悪の人物設定にしていないところは筆者の工夫だろう。が、それが故に浮き彫りになるのは、善意や悪意の問題よりも、人びとの多様性に対する「無知」こそが、分断を生み出す根源だということだ。多少の善意など「無知」であることの弊害の前では何の価値もないし、寧ろ善意に溢れる「無知」こそが最も性質が悪いという警鐘のようにも聞こえる。

 

全国の書店員が選ぶという「通」さが本屋大賞の売りであったと思うのだが、ここのところ既に売れている作家が名を連ねることが多く、今一つ食指が動かなかった。が、本書は秋の夜長にぱらぱらと何冊かの他のノミネーション作品も読んでみようかなぁ、と思わされるような良書であった。筆者の他の作品も読んでみたい。

『現代語訳 論語と算盤』 成功や失敗なんて単なる残りカス

アメリカに移住し、アメリカ企業の日本人の全くいない仕事環境にどっぷり浸かって七年近くなる。家族や私生活を大事にする同僚や上司の姿勢に多くを学んだし、形式よりも合理性を重んじるスタイルは私の肌にあっているし、常に付加価値を出そうと前のめりになっている人たちと働くことは刺激になっている。会社から価値を認められなければ一ヶ月前の通知で、いつでも職を失う可能性がある厳しさはあるが、思いっきり仕事をするに適した環境であると思う。

 

一方で、そういう環境である故に、同僚や部下と接して「疲れる」こともよくある。まず、肩書と給料にものすごく拘る(固執する?)点だ。全員が良くも悪くも常にキャリアアップの機会を貪欲に追求しているので、部署間の人材の引き抜きは日常茶飯事だし、中長期ではなく、短中期的に昇進・昇給の見込みがなければ、キャリアアップの機会のないポジションと見切りをつける人が結構多い。

また、実績として掲げることのできる「成果」を欲しがる人が多いので、日常業務に加えてそういう種まきも一緒にしてあげないと、今の仕事を「退屈な仕事」と判断し、もっとエキサイティングな仕事を求めて、せっせと転職並びに社内異動活動に精を出す人も多い。

「肩書や給料というのは、自分の成した仕事の結果としてついてくるものである」とか、「成果につながる仕事というのは口を開けていて自然に与えられるものではなく、自ら会社やお客様のためになることを考え抜き、今のポジションで自分が何をできるかを熟慮した上で自ら紡ぎ出すものである」とか、そういう原則論を言うと、その場では「その通りだ!」という人が多いのだが、朱に交われば朱くなるではないが、目先の昇進、昇給、華やかに見える仕事に目移りしてしまいがちな人がやはり多い。

良いところも一杯あるのだが、キャリアップの香りが常にする職場づくりをするのは性に合わないし、やっぱり「疲れる」のだ。

 

さて、前置きというか、愚痴が長くなったが、本日紹介する『現代語訳 論語と算盤』は、そんなアメリカのキャリアアップ万歳という雰囲気に食傷気味の私の心を癒やしてくれる良書であった。利益を追求するための算盤勘定も勿論大事であるが、社会の基本的な道徳を基盤の上で築いた富でなければ、長続きはしないし、そもそも素性の悪い富に価値なんてないんだ、という渋沢栄一の原理原則論は、心地よいだけでなく、裏打ちされた実績があるだけに非常に説得力がある。

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

  • 作者:渋沢栄一
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: Kindle版
 

 

目から鱗の落ちるような名言や勇気の湧く至言に満ちた良書であったが、一番心に響いた箇所を以下引用させて頂く。

成功や失敗というのは、結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなものなのだ。現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことだけを眼中に置いて、それよりももっと大切な「天地の道理」を見ていない。彼らは物事の本質をイノチとせず、カスのような金銭や財宝を魂としてしまっている。人は、人としてなすべきことの達成を心がけ、自分の責任を果たして、それに満足していかなければならない

 成功することがゴールというのが常識とかした現代において(渋沢の現代と我々の住む現代は無論異なるが)、成功や失敗というのは残りカスにすぎないのに、そんなことばかり気にしてどうするんだ、という言葉は心に響いた。目先の成功や失敗をカスとまで言い切るその懐の深さがなんとも気持ち良い。道議に従い、自分がなすべきことをするために全力を尽くすことが一番大事であり、結果として成功することもあれば、失敗となることもあるが、個々の成功失敗は大局観を持ってみたらカスみたいなもので、生涯を通じて大義を果たすために邁進することだ大事だ、という言葉はあくせくと日々の業務に追われて、疲れた言葉にエネルギーを与えてくれる。

 

日本資本主義の父と言われる渋沢栄一のこの名著を何故今まで手にすることがなかったのか正直疑問を感じるが、本書は「現代語訳」と銘打っているだけあり、表現が平易で非常に読みやすい。一部、女性の活用などについては、当時としては先進的であったのだろうが、今見ると「えっ、渋沢先生??」と首を捻るところもあるが、まぁ、それもご愛嬌というものだ。まだ読んでないという人には強くお勧めしたい一冊である。

『フェルマーの最終定理』 たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさ

17世紀のフランスの裁判官であるピエール・ド・フェルマーは「3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理について「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」というメモ書きを残してこの世を去る。本日紹介する『フェルマーの最終定理』は、その17世紀に打ち立てられたフェルマーの最終定理が、1995年にイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズによって完全に証明されるまでを描いたサイエンス・ノンフィクションだ。350年近く数学書殺しとして誰にも証明することができなかった最大な難問がついに証明されるというそのドラマチックな題材、17世紀に飽き足らず紀元前5世紀のピタゴラスにまでさかのぼる筆者サイモン・シンの壮大なスケール感、証明はできないが素人にも理解できる数論という世界の神秘性、数学の天才たちの常人には想像も及ばない渾渾と溢れ出る才能とその浮世離れした行動の痛快さ、そして過去のスーパーヒーローの残した技を巧みに操り、最終的に見事なあわせ技でラスボスをやっつけるアンドリュー・ワイルズの少年漫画の主人公的な格好良さ、など読みどころが満載で、数学の難しい知識がなくてもとても楽しめる良書であった。

フェルマーの最終定理(新潮文庫)

フェルマーの最終定理(新潮文庫)

 

 

上述の通り、本書は読みどころ満載で、紹介したい内容に溢れているが、全てをあげると本エントリーは天文学的な長さになってしまい、かつ読者もそれは求めていないことは容易に想像できるので、数学の天才たちの格好良さにここではフォーカスをあてたいと思う。ワイルズがいよいよフェルマーの最終定理に挑もうという本書最大の読みどころ「第六章 秘密の計算」は以下のようなフレーズから始まる。

問題解決のエキスパートは、相矛盾する二つの資質をそなえていなければならないー

たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさである。

 仕事で難解な問題解決に取り組んでいる人であれば、この想像力としぶとさの重要性はわかっているであろうし、そしてまたその2つを一つの人間が同時に持ち合わせていることは稀有であることも知っていると思う。私の今の上司は、どちらかと言えば絶え間なく「こういうやり方はどうだろう、ああいうやり方はどうだろう」と旺盛な想像力からアイデアをどんどん出すタイプの人で、私はどちらかという実現性も踏まえてじっくり考え、粘り強くやり抜くタイプなので、今の上司とは補完関係にありうまくやっている。そういう風に役割分担をしているのはもちろん互いの向き不向きもあるが、私は「しぶとくじっくり考える」が故に、やたらめったら自分の想像力からでてくる湧き上がるアイデアを熟慮していたらやってられないので、想像力に少し蓋をしていることは正直あると思う。なので、理屈としては一人の人間がその資質を兼ね備えているのが良いというのはわかるが、それは資質以上に実行に移すのが難しいということがわかるので、壁にぶち当たりながらも、湧き上がるアイデアの一つ一つをじっくり考え、正規の大難問の解決を前に進めていくワイルズの格好良さが、読んでいて本当に気持ちよかった。そういう作業を振り返ったワイルズの下記の言葉も奮っている。

新しいアイディアにとどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。 

 ワイルズは、このフェルマーの最終定理に取り組むために、屋根裏部屋に一人こもって研究を何と6年間も続けたという。共同研究が主流の現代数学において、一人でこの問題に取り組むというのは非常に珍しいことのようだが、高度に知的なこの活動を黙々と一人で取り組むことができたのは、その資質ももちろんあるだろうが、数学が好きで好きで仕方がないということも端々から伝わってきて、そのなんというか特殊性、というか浮世離れした変態性も読み物としての本書の魅力をあげている。

 

読み物としてももちろん面白いが、仕事で問題に直面し行き詰まっている方などは、途方も無い問題に挑戦し、信じがたい重圧の中で凄まじい行き詰まり方をしつつも、最後は大技を決め、問題を見事解決するワイルズの姿に刺激をうけること請け合いなので、強くおすすめしたい。

 

『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』 外国語習得の羅針盤

本屋に行けば英語学習の方法論を著した本、並びに参考書は棚に溢れ返り、インターネット上にも同様のコンテンツは検索すらしきれないほど氾濫しており、正に情報の濁流と言っても過言ではない。豊富なコンテンツや情報技術の発達による新しいツール群は、学習者をより素早く目的地に連れて行ってくれる整備された道路となりうる反面、その莫大な情報量は学習者を隘路に迷い込ませるに危険性もはらんでいる。下記のグラフ*1のように、日本人の国際的な英語能力が相対的に下がっていることを見ると、他国と比較して、その恩恵を日本人が受けていないことは残念ながら明らかである。

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書籍やブログにあふれる英語勉強法のコンテンツというのは、英語による意思疎通ができるようになった人の経験談であることが多い。私自身も自分の経験を元にした自説を何度か本ブログにあげているが、自分の経験がそのまま他者に適用できることのほうが少ないだろうとは思っており、100人読んでくれて、1人くらい本当に参考になってくれる人がいれば良いな、くらいに正直思っている。外国語の習得の成功要因というのは一つに絞り切れるような単純なものでなく、複数の要因が複雑にからみあっていることが殆どで、受け手側に自分にあった内容を適切に選択するというリテラシーが求められ、それは決して簡単なことではない。

 

今回紹介する『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』は、外国語学習そのものを学問として研究している白井恭弘氏に著書であり、情報の波にのまれ溺れかけている学習者がその波をかき分け、正しい方向を見つけるための視点を提供してくれる良書だ。敢えて強調するが、本書はわかりやすい英語勉強のための学習指南書ではない。本書を読んだからといって、「よし、明日からこういう勉強を試してみよう」という行動に繋がるような直接的な答えは一切でてこない。ただ、色々な勉強法を試したり、続かなかったりして、もがいている人たちが、ふと立ち止まり、外国語を学習するという行為とは一体どういうことなのかと科学的に考えるきっかけを与えてくれ、そのからみあう要素の複雑さを理解すると共に、自分がどの要素でつまづいているのかを考えるフレームワークを提供してくれる。

 これまでの研究から、どういう学習者が外国語学習に成功するかを予測する最も重要な要因は、三つあると言われています。

 1 学習開始年齢

 2 外国語学習適性

 3 動機付け

『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』

 本書は上記の3つ外国語学習の成功要因をあげており、各要素について個別の章をもうけて深掘りをしている。面白いのは筆者の主観的な見解は可能な限り省かれており、「子供の方が外国語学習のスピードは速い」という一般論についてさえも、学術的な実験や論文を必ず裏づけとして提示されていることだ。

本エントリーを読んでいる方は、学習開始年齢の旬を過ぎてしまった方だと思うので、三つの重要な成功要因の一つに年齢があげられていることに落胆されるかもしれない。が、この開始年齢という要因も、環境や動機などの要素から分離独立してその効果の絶対性を裏付ける研究成果はないことが本書を読むとわかるので、萎えずに「外国語学習適性」と「動機付け」の箇所まで読み進めていってほしい。

 

MLATは四つの異なったタイプの能力を測るように作成されています。それは

 1 音に対する敏感さ

 2 文法に関する敏感さ

 3 意味と言語形式との関連パターンを見つけだす能力

 4 丸暗記する能力

の四つです。

適正については膨大な研究があり、大久野研究を積み重ねた結果、MLATなどの適性テストによって測られた適性が、教室での外国語学習の成否をある程度的確に予測することがわかっています。
『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』

適性について触れる第3章「どんな学習者が外国語学習に成功するか」は本書における一番の読みどころで、外国語学習における自分の弱みと強みを把握するレシピが提供されており、自己評価に基づいた適切な学習方法を選択するための多くの示唆が提供されている。他のあらゆる能力と同様に、外国語学習についても得意、不得意、才能のあり無しが存在する。が、本書では「適性」をもう二段階くらい深堀りしてくれるため、自分の強みと弱みを学術的な裏付けに基づいて把握することができる。

私は在米生活が7年近くになるので、それなりに英語を聞き取ることができる。が、家族と接していて「音に対する敏感さ」は非常に低いということは薄々と自覚していた。7年近くアメリカで生活をしている子供たちには流石に耳で勝てないが、仕事で日々英語を使っている私の方が妻よりも全体的なヒアリング能力は長けている。が、「RとL」や「SとTHとZ」などの個別の音の聞き取り能力だけを比べると、妻のほうが「耳」は良い。適性という点で、あちゃぁ、と思う反面、そこを補う勉強方法に力をいれれば、もう一伸びできるということで、非常に上記の枠組みは参考になった。

 

本書は、繰り返しになるが、上記の様に「外国語学習」という巨大な怪物を、因数分解し、その個別要素の相関性などを学術的に解き明かしてくれる。英語の勉強に手詰まり感がある方は、新たな勉強方法に着手する前に、本書を手にとれば、「日本の教育でカバーされている箇所はどの部分」で、「自分が独学で取り組んできた要素はどの部分」で、「自分が学習の目的を達成するために取り組まなければならないことは何なのか」を考えることができる。そういう意味で、本書は外国語習得のための羅針盤ということができると思う。外国語の習得に四苦八苦している方には参考になると思うので、手にとって頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

『日本人のための憲法原論』 憲法は国家権力を縛るための契約

本書、『日本人のための憲法原論』は、キリスト教史を中心に西洋史を遡りつつ、憲法とは何か、民主主義とは何か、その両方が現代日本で何故骨抜きになってしまっているか、というテーマに真正面から取り組む良書だ。筆者の小室直樹氏の本は、同シリーズの『日本人のための宗教原論』や『日本人のためのイスラム原論』もわかりやすく本質をついた必読の書であるが、本書『日本人のための憲法原論』も期待に違わぬ良書であった。重厚なテーマでありながらも、対話・講義形式でテンポよく記載されているため、非常にわかりやすく、「憲法とは何ぞや」という問いに対して深い理解を与えてくれる。

 

日本人のための憲法原論

日本人のための憲法原論

  • 作者:小室 直樹
  • 発売日: 2006/03/24
  • メディア: 単行本
 

 

憲法とは国民に向けて書かれたものではない。誰のためにかかれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。司法、行政、立法・・・・・・これらの権力に対する命令が、憲法に書かれている。

『日本人のための憲法原論』 第2章 誰のために憲法はある

 本書では、憲法というのは法律の上位概念とかそういうものではなく、「国家権力を縛るための契約である」という憲法の本質がずばりと記載されている。憲法でいう「言論の自由」というのは各国民が自由闊達に自分の意見を言えるためのルール、というよりむしろ、国家権力が国民の言論を統制するような規則を作ろうとした時に立ち戻って、国家権力の暴走に歯止めをかけるための国民が備えた武器であるという説明は、非常に説得力があり、わかりやすかった。

 

本書では、西欧諸国での憲法の成り立ちと、日本における憲法の成り立ちを比較しながら、何故「日本の憲法論がぼんやりしているのか」ということにずばずばと切り込む。特に第11章の「天皇教の原理」は本書最大の読みどころだ。中世ヨーロッパでは、国王の力は当初は非常に制限されており、封建領主と国王の間には主従関係ではなく、そこにあったのは契約関係だけであり、その国王と封建領主間の権利と義務の定めが憲法の出発点であるという考え方はとても勉強になった。ヨーロッパの憲法はその成り立ちからして「権力者と国民の契約」なのである。一方で、日本は初めに制定された明治憲法は時の明治天皇と、先祖である天照大神や歴代天皇との契約であり、「天皇と国民の契約」ではなかったというから興味深い(本エントリーで、何故そうなったのかの詳述はさけるので、興味のある方は是非本書を手にとって頂きたい)。そして、現在の日本国憲法は多くの方がご存知の通り、アメリカのGHQから与えられた憲法であるため、その出自から「権力者と日本国民の契約」という形にはなりえなかったので、日本人の意識に「憲法は国家を縛るものである」という考えが遂に定着しなかったのだと、筆者はまとめる。

 

翻って、現安倍政権を見るに、日本の憲法というのは非常に危うい状況にあり、筆者が「日本の憲法は死んでいる」というのも頷ける。第二次安倍内閣ができた当初に、憲法を改正するためには「各議員の総議員の三分の二以上の酸性で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」という憲法九十六条を変更しようとしたのは記憶に新しい。国家権力が、それを縛る規則を自分が変更しやすいように改正しようというのは、立憲民主主義の危機にほかならない。そして、憲法を変える道が難しそうなので、「集団自衛権の解釈を変える」という憲法を変えずにその解釈をねじまげるという変化球というか、殆ど魔球を投じた安倍晋三の行動は国家権力の暴走と言っても言い過ぎではない。それと比べるとアベノマスクを配って税金の無駄遣いをするなど可愛いものだし、権力者としての暴走の隠れ蓑として国民が食いつきやすい撒き餌として敢えて、あの失策をしたのではないかと勘ぐってしまう。

 

と、色々書いてはみたがが、本書を読んで自らの不勉強を再認識した。米国に住んでいるのだから、民主主義国家の代表であるアメリカの憲法と民主主義についてもしっかり学ばなければ。また、ここのところ歴史や宗教を勉強して培ってきた微々たる知識が繋がっていく感覚を覚えることもでき、有意義な読書体験となった。本書は、Amazonでもしばらく購入不可能であったが、本日(2020年8月16日時点)見たところ、最近少しだけ在庫が積み増されているように見える。興味のある方は、早いものがちなのでお早めのご購入を。また、集英社インターナショナル社はこういう良書こそ電子書籍化することを是非検討頂きたい。

『労働者階級の反乱〜地べたから見た英国EU離脱』 英国で育つ若い芽たち

『労働者階級の反乱〜地べたから見た英国EU離脱』は先日紹介した『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』の著者であるブレーディみかこさんによる、英国のEU離脱について労働者階級の視点でのルポルタージュだ。

 

英国EU離脱は、右傾化した排外的ナショナリズムというくくり方をされがちであるが、歴史を紐解いてみたり、一つの国に混在する多種多様な人々にフォーカスをあててみると、ことはそんなに単純ではないことがよく分かる。

 

移民や英国の若者が労働者の待遇の改善に興味を持たないことを嘆く60代の配送業ドライバー、何気なしに離脱派に投票して家族から白い目で見られている自動車修理工、銀行員の妻と結婚してミドルクラスの生活を送るブラックキャブのドライバー、政府の福祉カットのあおりをうけて大型スーパーでやむなく働き、移民制限を声高に叫ぶ60代、不動産を複数持ち、パートナーと年金と家賃収入で暮らし、ブレグジットにより多くの仕事が英国に戻り再び好景気になると信じる元看護師、など本書ではこれでもかとばかりに様々なバックグラウンドを持った人たちのブレグジットに対する生の声が紹介されている。「英国白人労働者階級」の方々と親交が深いという強みを最大限活かして綴られた本書は、現在進行形で進む英国EU離脱を生々しい息吹とともに感じることのできる良書だ。

 

欧州単一市場からの離脱による経済的インパクト、移民制限による英国白人労働者層の雇用機会の増大、現政権の緊縮財政と福祉制限への不安、などがブレグジットの是非の主要な争点である。その中でも移民の問題は複雑で根深く、私自身が移民であることからも非常に興味深かった。

 

マクロ経済の視点でみると人口の増減というのは今後の国の経済力を考える上で死活的に重要だ。日本のように、出生率が低く労働人口が減少傾向にある国は「移民」を受け入れることにより労働人口を確保しなければ経済は先細るばかりだ。このサイトによると、英国は2039年まで人口が増加傾向にあり、出生率がそんなに下がらないということに追加して、ポーランドを中心とした欧州諸国からの移民の受け入れにより、経済成長の下地を築くことができている。労働人口が減少し続けて、雲行きの怪しい日本とは異なり、人口増が向こう20年見込める羨ましい状況にあるが、国内の居住者の8名に一人が外国の出身者であり、「移民」受け入れによる国内の分断という問題に現在進行中で挑み続けているとも言える。

 

本書に登場する人たちは「移民」の受け入れの是非について、そのポリティカル・コレクトネスに最大限配慮しながらも、人種差別主義者との誹りを免れるぎりぎりの線で本音を語っており、「移民」によって英国が大小の分断に直面している様がよく表現されている。EU離脱が国民投票の結果として決まったからと言って、英国が「移民」を制限することについて国民的総意に到達したかというと、話はそれ程単純ではない。「移民により職を失った人と移民の存在によって生活が支えられている人」との分断であったり、「移民がいなくなればより多くの職が英国人に戻ってくると信じる人と移民無しで英国経済を今レベルに保つことは絶望的と考える人」との分断であったり、そこかしかに存在する英国の分断は、喧々諤々でこの大問題に取り組む英国民と欧州民の努力の結晶であると共に、国民レベルで積み重ねられていっている叡智そのもののように私には見える。

 

本書では、『ワイフ・スワップ』という英国のテレビ番組が紹介されている。実在するリアルな2つの家庭の母親を入れ替えて、1週間生活させてみるという番組。典型的なEU離脱派とEU残留派の過程をブレグジットスペシャルとして入れ替えるという特番が組まれ、同じ国に住みながらも混じり合わない2つの家庭の様が見事に描かれていた。その埋まらない溝の深さも興味深いのだが、交換が終わった後の残留派の家庭の17才の娘の言葉がとても印象的であった。

「彼女の政治的な考え方はどうであれ、私は彼女は素晴らしい女性だと思った。私たちはほとんど合意することはなかった。でも英国的価値観というのは、そのことだと思う。私たちは様々なまったく違う見解や信条を持った人たちの中で生きている。それでも、オープンにそれを語り合う。『英国的』というのは、まさにそういうことなんだと思う

『労働者階級の反乱~地べたから見た英国EU離脱』

傍から見ると右往左往している英国。雨降って地固まる、かどうかを判断するにはもう少し時間を要するが、老いも若きも巻き込んだ国民的議論を通じて、次の英国並びに欧州を担う若い芽が育っていることだけは確かのようだ。今後もブレグジットの動きに注目していきたい。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 多様性と無知について考える

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだ。控えめな評価を与えたとしても、本書は今年読んだ本の中でトップ3に入る面白さであった。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 

 

本書は、英国の格差社会の現状を活写するノンフィクションであり、英国在住の日本人女性の日々を綴ったエッセイであり、かつ社会の格差や差別に直面する中学生の成長の物語でもある。筆者のブレイディみかこさんは、現在アイルランド人の配偶者と中学生の息子と英国に住んでいるライター・コラムニストだ。

 

物語は、一人息子が中学生になる際に、良家の子女の集まるカトリック中学校ではなく、英国社会の格差が蠢く「元底辺中学校」を進学するところから始まる。英国では、人種の多様性があるのは上流階級の子女が通うランクの高い学校であり、逆にランクの低い学校は生徒の殆どが白人英国人だという。ランクの高い学校は格差や多様性についての生徒の意識も高いため、差別やいじめなどはあまり横行していないが、ランクの低い学校は差別やいじめのるつぼになりがち。格差を助長し、差別的な発言を繰り返す米国大統領の支持基盤が白人米国人であるというのと同じ構図で興味深い。

 

案の定というか、予想通りというか、中学生の息子の学校生活は、格差、差別、いじめで溢れている。ハンガリー移民でありながら誰彼構わず人種差別な発言を繰り返す友人のダニエル、貧しい人が集まる公営住宅に住み、その貧しさから昼食の万引をし学校でいじめにあうティム、アフリカからの移民家族など、様々なキャラクターが英国白人が大勢を占める学校並びに社会であれやこれやの事件を起こしたり、事件に巻き込まれたりする日常。トリッキーな社会の分断構造からくる大波に親子で見舞われ、時に打ちのめされ、時に力強く抗い、時に涙しつつも、親子で朗らかにその状況を乗り越えていく様が、ユーモアセンスに溢れる筆致で見事に描かれており、一度読みだしたらとめられないやつだった。

 

私は米国に住んで6年ほどたち、丁度娘が中学校を卒業し、息子が小学校を卒業したばかりだ。子どもたちが通う学校は、多様性に溢れており、露骨な人種差別や嫌がらせなどは幸いなことになかった(と、願いたい)。が、娘の通う公立学校はお世辞にも良い学校とは言えず、それなりに苦労をしながら卒業までなんとかこぎつけたので、本書を読みながら、英国の事情に驚きつつも、米国との共通点に頷いたり、子を持つ親として筆者に感情移入して涙したり、筆者のユーモアセンスに大爆笑したり、そして決して華麗ではないながらも一歩一歩前に進んでいく姿に多くを学び、大変貴重な読書経験となった。

 

どの章も酒の肴として語りつくせるくらい面白いが、9章の「地雷だらけの多様性ワールド」は最高だ。色々な民族、人種、宗教、背景の人たちが一緒に暮らしていると、決して相手を傷つけようとしたり、蔑むような意識がなくても、知らずしらずのうちに相手を傷つける不用意な発言をしてしまうことは、どうしても発生してしまう。本章で筆者は、アフリカからの移民の転校生の家族と話すのだが、こちらからの発言にはポリティカル・コレクトネスに最大限配慮をするものの、相手は無知がゆえにどばどばと遠慮なしに地雷を踏んでくる。

そんな相手に眉をひそめつつも上手いこと受け逃していた筆者であるが、

「どこか休暇に出かけるんですか?」

という何気ない質問を相手に投げかけたことで、盛大に地雷を起爆するというエピソードなのだが、多様性と向き合うことの難しさを改めて考えさせられる力作だ。「どこか休暇に出かけるんですか?」という問いかけで何故爆発を起こしてしまったのかは、本作を読んで確認頂きたい。

 

きっと私がこのエピソードに惹かれるのは私自身も盛大に地雷を踏んで、大爆発したことがあるからだ。その話を少しこの場で共有をしたい。前述した通り娘の通う学校は、お世辞にも素晴らしい学校とは言えず、公立学校のランキングサイトでAcademic Progressという項目で10段階評価で堂々の1点を獲得するような中学校であった。国語の授業の先生は、元軍人という経歴ならではの面白さもありながらも、非常に過激で、「この世からある民族を一つ殲滅するとしたら、どの民族を殲滅させるか、その理由と共に述べよ」というような信じがたいエッセイの課題をだすような人であった。娘が特にその先生の授業で苦労しているようだったので、色々娘の話を聞いた上で、その先生にメールを送ったことがある。仕事柄、英語での機微に富むメールというのは書きなれていることもあり、最大限の配慮と敬意をもって、何度も読み返し、書き直して渾身の一通を送ったのだが、先生から頂いた返信は言葉を失うくらい乱暴で、怒りに満ちていたものであった。その過激な返信は目を覆わんばかりのものであったので、プライベートでもアメリカ生活のあれやこれやを色々相談する私の上司の助言を求めることにした。私の送ったメールを見た上司が苦い顔を浮かべて、私を個室に連れ込み、放った言葉は衝撃的で今も忘れられない。

 

“She thinks you are a racist”

「この先生は、お前さんのことを人種差別主義者だと思ってるぞ」

 

私にとっては正に晴天の霹靂であった。この自分がまさか人種差別主義者だと思われているとは、、、。内容の詳述を避けるが、奇しくも「Diversity」という言葉をメールの文面に使ったことにより、その一単語が私が人種差別主義者との誤解を招き、話がこれ以上ないくらいややこしくなってしまった。上司の助言に基づくフォローをすることで、結局事なきをえたが、「Diversity」という言葉を不用意に使ってしまったのは迂闊であり、アメリカ生活の中での苦い思い出の一つだ。それなりに長いアメリカ生活で喜怒哀楽は色々あったが、正直一番傷ついた事件であったりする。

 

多様性っていうのは良い面もあるが、うんざりするほど面倒であることも事実だ。でも、その面倒というのは自分の無知により引き起こされていることを経験から学んだ私に、下記の筆者と息子のやりとりはものすごく響く。少し長いが引用させて頂きたい。

 

「でも、多様性っていいことなんでしょ?学校でそう教わったけど?」

「うん」

「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

楽ばっかりしてると、無知になるから

とわたしが答えると、「また無知の問題か」と息子が言った。以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人々は無知なのだとわたしが言ったからだ。

多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 4 スクール・ポリティクス

 

 日々多様性に直面している在米日本人の方、国際的企業に勤めて多様性に四苦八苦している方だけでなく、「多様性ってそんなに面倒ですか」と実感のない方にも是非手にとって欲しい一冊だ。

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