「君はディレクターに昇進したくないのか?」、先日私のマネージャーと話をしている時にそんなことを聞かれた。彼曰く、1)私は日々の業務遂行能力、立ち上げたプロジェクトの推進能力については申し分ないが、中長期的なビジョンを描く能力にかけており、2)会社の中長期的な成長を見据えた上での課題定義、並びに施策の策定力に今一つかく、その2点が改善されればディレクターに昇進させることができるが、逆にディレクターに昇進する気がないのであれば、そこまでは求めない、とのこと。正直私の現時点での足りないところを指摘した素晴らしいフィードバックであり、とても感謝すると共に真摯に受け止めたいのだが、そこに昇進と昇給を絡めて話すことに対して、私はどうしても違和感を覚えてしまう。
アメリカで一緒に仕事をする同僚に「何のために働いているのか?」と聞くと、驚くほど同じ答えが返ってくる、「自分は金のために働いている」。なので、「昇進=より高い給与」という等式に基き、昇進するためには必達の目標を決め、それに向けて定期的に評価をするというのは、成果主義のアメリカにおいて一般的な人事考課の実施方法であり、上述の私のマネージャーの指摘は、そういった価値観に基づいた至極一般的なものである。反面、「昇進と昇給にそれ程興味がない」、とアメリカで言うと、「そうか、お前は家族との時間は大事だから仕事はそこそこでいいや、というワークライフバランス派なのだな」と捉えられてしまうのだが、別に仕事で高い成果をだすために一生懸命働く気概がないわけではない。
1)「昇進、昇給、やりがいのある仕事」というのは追いかけるものではなく、ついてくるものであり、2)本当に追いかけるべきは、高い価値を提供するための自己研鑽、不断の努力であり、3)昇進のための条件設定をするのではなく、ポジションに見合った成果を私が出した時に、その評価として昇進がくっついてくれば良い、というのが私のキャリア感に基づいた考え。なので、冒頭のマネージャーとのやり取りの中で、「君の私の足りない点についての指摘は全くもって正しく、より高い価値を提供するためにできる限り努力をしたい」と言いつつ、でも「ディレクターへの昇進(並びにそれに付随する昇給)そのものは私は興味がない」という私の本音を言ったところ、話がまったく噛み合わなくなってしまった。
話を単純にするために、「ディレクターに昇進したいから頑張る」と言えば良かっただけの話しなのだが、「本音のところで昇進にはそれ程興味がない」という以外にも、何かひっかかることがあって、「もっと頑張るが昇進には興味がない」と言い続けたのだと思う。そのひっかかっていることは何なのか考えていたのだが、それは「何のために働くのか?」という問いに対する答えの違いによるものではないかと思うに至った。
「何のために働くのか?」と聞かれたら、私は迷うことなく「自由を獲得するために働いている」と答える。
そりゃ、もちろんお金は大事ではある。だけど、お金は生活の自由度を高め、先々の選択肢を広げるための手段に過ぎない。逆に言えば、一定の生活の自由度が確保でき、お金が原因で何かを我慢することを日々強いられなければ、必要以上にお金が欲しいとは私は思わない(元来、私が贅沢に興味が無く、ケチであることに由来しているとは思うし、現在のお給金も悪くないということもそう考える理由としては大きいに違いないが)。私にとってはお金はそのものは目的ではなく、自由を獲得するための手段にすぎない。
肩書というのは、もう少しややこしい。転職などを考えた場合、現在の肩書が高ければ、高いほど、転職先の肩書きもそれに応じて高くなるため、将来の選択肢は広がるように見える。一方で、より高い肩書、並びに今と同等の肩書にこだわり過ぎると、それは逆に選択肢を狭めることになる。私は中途入社の面接を100件以上こなしてきたが、現在マネージャーだからという理由で、マネージャー職にこだわる人がとても多いことにいつも驚かされる。転職先の会社のビジョンに共感し、そこで待ち構えている仕事が自分にとってやりがいのあるものであれば、肩書をそんなに気にしなくても良いのではないかと思うが、今より下ることを嫌い選択肢を狭める人は意外と多い。
「目先の昇進、昇給ではなく、将来の自らと家族の自由度を高めるために、何を今すべきなのか」というのが、私のものごとの選択の基準である。なので、目先の昇進というニンジンよりも、先々に広がるであろう自由度の方にどうしても目がいってしまう。8年も前に”人は自由を獲得するために働いている”というエントリーを書いたが、働き、そして住んでいる国が変わっても、その考え方は今も変わらない。