私は湯船につかるのが大好きだ。芯まで冷えた体がじわじわと温められるぬくもり感、足腰の疲れが緩みほぐされていく心地良さ、うっすら汗をかきつつ体の中の不純物がでていく爽快感、など入浴は晩酌につぐ至福の一時である。この年末年始は渡米以後初めて日本で過し、真冬に湯船のある生活を満喫しつくした。わが家はアメリカの学校の夏休みにあわせ、通常は夏に一時帰国する。その際にも毎日湯船にはつかるのだが、やはり真冬のお風呂の気持良さは夏の比ではない。寒い冬に毎日湯船につかることの幸せをかみしめた年末年始の数週間であった。
その冬の日本への一時帰国を終え、帰米する帰途に本エントリーを書いているのだが、果たして湯船のない生活に戻れるのだろうか、それが一番の不安である。風呂好きの私ですら、アメリカ生活においてお湯をはるのは、冬であっても月に2回程度だ。そういうことを言うと、「バスタブってないんですか?」とよく聞かれる。もちろん、バスタブはあるのだが(しかもわが家には風呂が3つある)、日本のお湯はり機能や追い炊き機能がないので、どうしても面倒でお湯をはるのを敬遠してしまうのだ。
湯船を洗って栓さえしておけば、キッチンにあるパネルのボタンを押すことで湯量と湯温を設定できる日本のお風呂機能は、アメリカの感覚で言えば23世紀のテクノロジーだ。アメリカはといえば、お湯の蛇口と水の蛇口を回し、手で熱さを確認し、その時ではなくお湯がたまった後に最適になるように微妙な温度調整を二つの蛇口をひねりながらして、お湯がたまるまでその場で仁王立ちしていなければならない。おまけに、他の家族も入るとなると追い炊きができないので、お父さんは後の人が快適にはいれるよう地獄の釜のように熱いお湯に入るのがわが家の習わしだ。そういう細かな手間やチャレンジについて考えると、ついお湯をはるのが面倒くさくなってしまうのだ。
日本の良い文化や技術をとりいれようという気運はアメリカでは高いのに、どうしてこの素晴らしい風呂機能はアメリカで展開されていないのだろう。これには文化的なものとマーケティングの二面で問題があると私はにらんでいる。
アメリカの職場の同僚から、今度東京に行くのだけど土日にオススメのスポットはあるか、とたまに聞かれ、冬であれば箱根の温泉を勧める。が、温泉宿での過ごし方を説明すると「いやぁ、それはちょっと違うかな、、、」というリアクションが殆んどだ。アメリカでは、大人が服を着たまま子どもをお風呂にいれることはあれど、大人も裸になって子どもと一緒にお風呂にはいることはない。家族であっても裸をみせることに抵抗はある模様で、いわんや公衆浴場をや、というところなのだろう。文化の障壁から寒い日に温泉に入って体を芯から温めるという原体験に到ることがないので、家の風呂でも湯船につかって追体験をしたい、という気にならないのだろう。
そういう壁を超えるためには、レオナルド・ディカプリオやマドンナが日本のウォシュレットを絶賛したように、レディ・ガガとか、テイラー・スウィフトとかに、日本の温泉と給湯システムを絶賛してもらうようにリンナイとかがマーケティング活動をすればよいのではないかと思う。日本贔屓のハリウッドスターの来日時に、強羅花壇とかに招待をして、温泉を満喫してもらい、さらに最新の給湯システムを彼らの家にプレゼントして絶賛してもらう。アメリカはブームで火がつくと市場がぱっと広がるので、そういうマーケティング活動をリンナイとかノーリツとかに積極的に実施してもらい、日本の湯船文化をアメリカに是非浸透させて欲しい。
さて、そろそろシャワーでも浴びるか、、、。