先日放映された「情熱大陸」は囲碁棋士芝野虎丸氏のドキュメンタリーであった。芝野虎丸氏は19歳にして「名人」位を奪取した囲碁会の新世代スターだ。勝ち負けが全ての勝負の世界において、「やりたいことが見つかれば、明日にでも囲碁は辞めてもいい」と事も無げに言い切り、「飄々と気負うところがない」という言葉ですら強すぎるくらいの不思議なトーンを醸し出す。私にとっては理解が容易でない何ともつかみどころのない別生物という感じで、彼の中に潜むかもしれない「見えにくいが底知れぬ強い信念」を必死に探そうとしている自分に古さを感じる。番組のフィーチャーは勿論芝野名人に強くあたっているのだが、他に非常に目をひくシーンがあった。それは、番組中で紹介される囲碁名人戦の対局の放映シーンで、AIが解説にフル活用されていたことだ。盤面をコンピューターで表示しながら、AIの出す有効手を表示しつつ、「61% vs 39%」のようにどちらが優勢かというAIによる形勢判断も表示されており、プロによる解説に加え、素人にも親しみやすい数値化がうまくなされていた。とかく囲碁や将棋でAIというと「人間がAIに敵わなくなるのはいつなのか」という悲観的な話が多いが、対局の魅力を増すためのツールとしてAIをうまく使いこなしており、囲碁会もやるものである。
さて、今回のエントリーでは『人工知能は人間を超えるか』を紹介したい。
本書は、現在日本のAI研究の最先端にある松尾豊東京大学大学院教授によるAIの入門書である。AI研究の歴史を遡りつつ、AIの技術的な基礎を紹介し、さらに現在ホットなディープラーニングのどこが革新的なのか、そしてそれの社会に与える潜在的なインパクトまで紹介するという盛りだくさんの野心的な本だ。
三たびめぐってきた人工知能の春の訪れに当たり、同じ過ちを繰り返してはいけないと強く思う。ブームは危険だ。実力を超えた期待には、いかなるときも慎重であらねばならない。世間が技術の可能性と限界を理解せず、ただやみくもに賞賛することはとても怖い。
『人工知能は人間を超えるか』 はじめに 人工知能の春
過去に大きな二度の過熱と失望があったAI研究の歴史を紹介しつつ、現在の盛り上がりについて可能性と限界を冷静に提示するその論理展開は、アカデミズムの漂う学者ならではのもの。何でもかんでもAIとつければ見栄えがするという昨今の盛り上がりとは距離をとり、コンピュータ自らが特徴量を獲得するというディープラーニング(深層学習)の革新性を噛み砕いて説明しつつ、その革新性によって人工知能はどこまでの発展の可能性があるのかと、ディープラーニングだけではどんな限界があるのかが語られており読み応えがある。
そういう学者肌の冷静な分析が本書の魅力の一つであるが、一方で冷静な視座や記述の端々からびしばしと伝わってくる筆者の「AIへの愛情のほとばしり」も本書の大きな魅力の一つだ。現在のAIへの投資の過熱を、また一過性のもので終わらせてなるものか、このAIという研究領域は人類をよりよくする可能性に溢れているんだ、という熱い思いが筆者の理性を越えて行間にハミ出しているのが、独特の魅力を本書に与えている。
人間とコンピュータの協調により、 人間の創造性や能力がさらに引き出されることになるかもしれない。そうした社会では、生産性が非常に上がり、労働時間が短くなるために、人間の「生き方」や「尊厳」、多様な価値観がますます重要視されるようになるのではないだろう。
『人工知能は人間を超えるか』 終章 変りゆく世界
とかくAIについての議論は、コンピュータそのものが意志をもって、人間を越えていくという悲観論が目立ちがちだが、筆者の目線はいつでも、既存の知のあり方にどのようなブレークスルーがおき、社会とそれを構成する人間がどのように良くなっていくということに向けられており元気がでる。人工知能の三度目の春が人類にもより大きな温かみをもたらすのか、もう少し勉強を重ねていきたいと思わせる一冊であった。