- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/05
- メディア: 単行本
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『想像の共同体』で英語と言う言葉はあまたある<国語>の一つとしてしか出てこない。それはもっとも力をもった<国語>ではあっても、プリムス・インテル・パレス(primus inter pares)、すなわち、同じレベルに並んだもののなかでの一番でしかない。アンダーソンには、英語がふつうの<国語>とはまったく別のレベルで機能する言葉となりつつあるという現実は、まるで見えていないのである。・・・<中略>
なぜ、アンダーソンには、英語がほかの<国語>とはちがうということが見えなかったのか。
それは、何よりもまず、かれが英語を<母語>とする人間だからだとしか考えられない。・・・<中略>
幸福にも<普遍語>を<母語>とするアンダーソンは、<普遍語>の意味を充分に考える必然性がなかったのである。
『日本語が亡びるとき』 〜三章 P.114、115、121〜
<母語>が<普遍語>の人は、<母語>が<普遍語>でない状態を正しく理解することができない、この当たり前のことを本書は気付かせてくれた。英語という<普遍語>と日本語という<国語>の狭間でさまようビジネスパーソンは、相手はこちらの事情を正確に理解するどころか、想像するための材料すら持ち合わせていないということをきちんと理解する必要がある。
この相手が想像すらできないという状態は時として我々のことを助けてくれる。例えば、「ビジネスの世界の普遍語は英語である」と良く言われるが、アメリカ人やオーストラリア人のような英語を「母語」とする人は、日本人が思っている以上にはそうは思っていない。英語でコミュニケーションをとることに苦慮し、自分の英語力の不十分さを昔はわびたりしたものだが(最近は謝ったりなんかしないが・・・)、そうすると"Definitely better than my Japanese(俺の日本語より絶対にずっといいよ)"という答えがたいてい返ってくる。初めは何を言っているのか正直よくわからなかったのだが、どうも我々が英語を話すことを、我々が努力して相手の「国語」に歩み寄っているととらえる人は結構多いのだ。ビジネスで英語を使う世界に飛び込んだとき、「ビジネスの「普遍語」である英語ができないのか!」という冷たい視線にされされることは意外と少なく、それに助けられたことも多々あった。
だが、相手が正確な理解どころか想像する材料すらもっていない状況は、深く入り込めば入り込むほどやっかいな壁として立ちはだかる。例えば、インド・中国の英語力と日本の英語力を比べた時にその差は、環境・国の政策・歴史など様々な要素が折り重なった上で生まれているということは、<国語>以外の言葉でビジネスをする国の人は直感的にわかる。だが、そうでない人は直感的にも、論理的にも想像する材料がないがゆえに、本当に理解することはできない。
以前別のエントリーで書いたが、翻訳への要求水準は日本は全世界の中で最も高い。ビジネスの公用語が英語であるインドと日本ではかなり英語力に差があり、インド人と日本人にはその差がどこからくるかは互いに話をすれば理解することができる。ただ、英語が<国語>の人にはそれが腹の底からは理解できない。日本に翻訳の投資をしてもらおうと本国とかけあっても、「何故インドではそこまで翻訳は求められないのに、日本はそんなに求められるのか?」という問いにいつも立ちはだかり、そのたびに懇切丁寧な説明をして、その場では理解をえられても、1週間後には忘れ去られているのが通常である。
何度説明をしても形状記憶合金のように元にもどり、一人説得できたと思ったらゾンビのようにわらわれと同じ指摘をうけるということにかなりストレスを感じたものだが、こちらの状況を想像する材料すら持ち合わせていないという事実・現実が見えてくれば、少しは気が楽になるし、それ相応の説明の仕方というものがあることにも気付く。
あまり書評になっていないが、本書を読んでまず頭に浮かんだのは上記のこと。率直なところ、引き込まれるような面白さを本書に感じなかったし、まどろっこしい論理展開に少しついていけず読むのに苦慮するところも多々あった。ただ、本書で紹介されている<普遍語>、<現地語>、<国語>というフレームワークは、言葉の壁にぶつかり、悩み、苦闘する人の問題を解決しないまでも、その現状を整理を手助けはしてくれる。そういう意味で、言葉の壁にぶつかっている人は、本も読まずに関連エントリーだけみてあれこれ言うのではなく、本書の第3章くらいは目を通しておいたほうが良いように思う。