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『転がる香港に苔は生えない』 地面を疑わず苔むす日本

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

資本主義路線を歩みながら、国家として社会主義の面子を絶対に捨てない中国。何よりも管理されることを嫌う香港。その二つが合体するという、世界で初めての実験に立ち向かおうとしているのだ。それを他人の口からお祭り騒ぎのニュースという形で聞かされるのだけは耐えられなかった。
『転がる香港に苔は生えない』 〜一九九六年八月一九日、香港時間午後一時四〇分 P.6〜

イギリスから中国への返還前後の2年間、筆者自身が現地の生活に頭の毛の先までどっぷりと浸って描かれたルポタージュ。対象となる素材の面白さ、現地の人々に溶け込みきる大胆さ、返還前後の香港人の想いと葛藤の生々しさ、など読み所の多い一冊であるが、白眉なのは筆者の取材対象の本質をとらえきる洞察力とそれを見事に活写する表現力。それぞれの人の背負う過去や背景が一様ではなく、平均的な香港人像というものは存在しないという一筋縄ではいかない取材対象。それでも筆者は臆することなく相手の懐に飛び込み、その人の背景、本音にせまり、聞き出し、「何故その人がそういうモノの見方をするのか」をとらえ、描く。 家族を中国本土に残したまま中国から密航して、家族に仕送りを続ける男性、香港生まれながらカナダに移民してパスポートをえるも、カナダでも香港でも成功の機を逃してキャリアの隘路に迷い込んだ大学の同級生、香港で先進的なキャリアをつつも中国本土出身であるというコンプレックスに悩む女性カメラマン、その対象は実に多様。どこで生まれたのか、現在の国籍はどこなのか、そもそも香港にいることが違法なのか、合法なのか、そういう根本的な多様性があるところが日本との大きな違い。そういった全く異なる出自の人たちを、とらえ、描く作業をひたすら繰り返し、出来上がったのが文庫にして623ページという大作。膨大な数の人に取材をし、描くことにより立体的に香港を浮かび上がらせると共に、その上でやっぱり平均的な香港人像なんてものはないんだ、という事実を同時に浮き彫りにする手法は圧巻である。

少なくとも私は日本において、ここをいつ立ち去るべきか、どこに行ったら一番チャンスが残っているのか、という選択に迫られた記憶はない。自分の経っている地面を疑ったことがない。自分の立っている地面を疑うこと、それがどれほど緊張を強いられる感覚なのか、私には想像がつかなかった。
『転がる香港に苔は生えない』 〜第6章 それぞれの明日 P.530〜

香港を語りに語り尽くした後に、本書の矛先は最後に日本に向けられる。「自分のよって立つ地面」に常に疑問を頂き、「なぜ、自分がここにいるのかを常に考え続ける」香港人、そんな過酷な環境の中でも活き活きと生きる香港人に比較して、日本はどうだ。

私が心配そうな顔でもしようものなら、「自分の心配でもしてな!」と怒鳴り声がとんでくるだろう。確かにその通りだ。私は自分たちの心配をするべきだ。
私たちはどこへ向かおうとしているのか。考えることにも飽きて、苔むそうとしているのか。

立っている地面が崩れてきているのに、考えることを止め、単一性のぬるま湯の中に浸って、自分の地面を疑わない苔むす日本人に対する筆者の視線は厳しい。本書が出版されてから十年たつが、状況の厳しさとむしている苔の量は増えるばかり。いよいよ「地面に疑いを持つ」ステージにある日本人が目を冷ますきっかけとして、本書は丁度よいように思う。なるべく多くの内向きな日本人に本書を手にとって頂きたい。

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