Thoughts and Notes from CA

アメリカ東海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

経済的に成功するためのキャリアパス

変わらず根強く残る就職観

「一流大学に入って一流企業に就職する」、そんな古典的なキャリア観が廃れてから久しい。と、私は思っていたのだが2024年の就職人気企業ランキングをみるとそうでもないらしい。総合商社、保険会社、大手都銀などがトップ20の殆どを占めていることに驚かされる。

https://job.career-tasu.jp/special/ranking/1_01.html

 

複数のランキングがあったが、上位陣の中での順位の変動はあれど、保険会社、都銀、総合商社が上位を占める傾向は今も変わらないようだ。「給与が高く、安定感がありそうな大企業」が根強く人気な理由は、「安定した大企業に就職して高給をえる」以外の魅力的な就職観が提示されていないからだろう。

 

「手に職」型という新風

上位50位くらいまで範囲を広げてみると、アクセンチュアやPwCコンサルティングのような採用人数が多めのコンサルティング会社がランクインしている。これは「手に職をつけてキャリアアップの足がかりとする」という就職観が浸透してきている証でもある。いわゆる日本の大学の中で最上位校と言われる大学に絞るとより、その傾向は強いようで少し安心できる。魅力的なキャリアパスがあれば、そちらに学生はなびくのだから、大人がもっと他の選択肢を若者に教えてあげないといけない。なので、ここでは、将来の経済的な成功を目指す上で、「一流大企業に就職する」、「コンサルティング会社に就職する」以外の方法を2つほど紹介をしたい。

 

株式性報酬の取得:搭載すべきもう1つのエンジン

1つ目は山崎元氏著の『経済評論家の父から息子への手紙 お金と人生と幸せについて』から引用となる。

株式性の報酬を目指す働き方は、個人が安全に使えるレバレッジ(梃子)として、現在最も有利なものだろう。

株式性の報酬とは、自社株の付与、ストック・オプション、RSU(勤続年数など一定の条件を満たしたら付与される自社株)などのことだ。給与とは別に、株式性の報酬を約束してくれる会社に就職しようという作戦だ。
正直、自分の実績に応じてコツコツとあがる給与からえられる富には限界がある。会社が売上を伸ばしたところで、その伸び率に応じて給料があがり続けるわけではないし、1回の昇給額も限りがあるからだ。
その反面、株式性の報酬は事業規模の増加に応じて上昇する傾向が強い。会社員の給与が20倍になることはそうはないが、株式は20倍になることはそれほど珍しいことではない。「株式性報酬の取得」というのは、給与の他に確保すべきもう一つのエンジンであり、うまく行けば給与エンジンではいけない領域に一気に連れて行ってくれる爆発力を持つ。

安定して比較的高めの給料のみを支払ってくれる会社より、安定はしてないがそれなりの給与と爆上がりの株式性の報酬を受け取り、両立てで経済的な成功を負う、というのは今後は間違いなく検討すべき魅力的な会社との関わり方だ。

 

海外でのキャリア構築:異なる重力で高く跳ぼう

もう一つの道は、海外でキャリアを開くというパスだ。年収1千万円が日本では高給の一つの基準となっており、これは30年間物価があがらなかったこともあり、昔から変わらない。30年前は違ったが、今となっては年収1千万円というのはアメリカの大卒の初任給に近い。日本でも賃上げがようやく叫ばれ始めたが、日本が30年間給与をあげない間に、他国の給与水準というのは果てしなくあがっているのだ。なので、日本国内企業で昇進昇給するのと、アメリカの企業で昇進昇給するのは全く異なる。同じ脚力でジャンプしてもアメリカでは倍以上高く跳べるのだ。高く跳ぶことを目指すのであれば、重力が低いところで跳ぶにこしたことはない。
勿論、語学やビザなどのハードルがあるので、日本の大卒の学生がいきなりアメリカの企業に直接採用してもらうのは、一流エンジニアとかでもない限り難しい。ただ、キャリアパスとして、日本の大企業で出世を重ねるより、海外移住を視野にいれたキャリア形成というのは十分に検討すべきオプションだ。なお、NOTEでは、そうやって海外で活躍している人たちが沢山の刺激的な経験をあげているので、そういう話も是非参考にして頂きたい。

 

まとめ

若者のキャリアの選択肢として「株式性報酬の追求」と「海外でのキャリア構築」という2つを紹介した。この2つは勿論デメリットとして「一流大企業への就職」よりリスクも難易度も高いかもしれない。「理屈ではわかるけど、、、」という方たちに山崎元氏の本からの引用文をもう一つ紹介したい。

経済の世界は、リスクを取ってもいいと思う人が、リスクを取りたくない人から、利益を吸い上げるようにできている。

『経済評論家の父から息子への手紙 お金と人生と幸せについて』

日本企業もますます資本効率性を意識した、株主重視の経営にシフトをしてきており、この流れと資本主義経済がひっくり返ることはしばらくはない。許容範囲のリスクを積極的にとって、明るい未来への展望を開いていただきたい。Good Luck。

泉房穂氏の『社会の変え方』から見る市民の力

泉房穂氏の政治哲学

元明石市市長・泉房穂氏、ウェブの政治討論番組で最近引っ張りだこの人物だ。甲高くインパクトのある声量での歯に衣着せぬ発言、やるべきことを反対勢力に負けずにやりきる実行力とその実績、そして既存の仕組みをぶっ壊してくれそうなクレイジーさ、支持率低迷に息も絶え絶えの某国総理大臣にないものを全て持っており、人気もでるわけだ。

そんな泉氏の著書である『社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ』を読んでみた。

口角泡を飛ばす泉節が376ページ全面に展開されており、読後感を一言でまとめれば、「お腹いっぱい」である。

  • 大胆なこども施策への資源再配分

  • 市民の目線にたって役所の縦割りを壊し続ける行政サービス改革

  • 票になりにくマイノリティへのセーフティネットの構築

などの様々な明石市の施策が紹介され、全ページに市民のために全力で政治に取り組んできた彼の熱意で溢れている。泉氏の政治哲学を一言でまとめれば、下記の言葉に収斂される。

「税金」 とは、 国民から預かっているお金だ。
それに「知恵」と「汗」の付加価値をつけ て
〝国民に戻す〟のが、政治の役割
だ。
『社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ』

社会への分配を権限や権力と考える普通の政治家とは違い、彼はそれを責任ある重い役割と考える。出発点が違うので、成果や支持率に差がでるのは当たり前だろう。

本書に見る、日本と日本人への希望

私は日本の向こう10~20年に対して実は結構悲観的で、残念ながらゆるやかに衰退していくんだろうなぁ、と正直思っている。それでも、日本人はとても世界で思いっきり活躍できる人材に溢れていると思うし、もっと海外に舞台を広げることで飛躍できると思うので、こんなブログをつらつら下記つらている。そして、本書を読んで日本は、特に日本人にはやっぱり地力が十分にあるなぁ、と強く感じた。
泉氏の剛腕を見て、それを感じたわけではない。正直、泉氏は良い意味で頭の線が一本切れた変人である。「公共工事の予算を減らして、子ども政策に回す」というのは市長の決断であり、腹のくくり方次第でどこでもできると彼は言うが、既得権益者から脅しや殺害予告を受けてまで、それを推進するなんてことは常人はできない。なので、泉氏がすごいからと言って、「日本人は地力がある」とは私は感じない。彼は各所で否定をしているものの、やはり彼は特別なのだ。私はむしろ本書を読んで、市民と市政を支える市職員の力に強い希望の光をみた。

明石市の民主主義とその力

泉氏は市職員に対しての暴言を吐き、その音声がマスコミに流れて泉氏が市長辞職に追い込まれている。その際に子育て層と若者を中心に泉氏に再出馬を要請する署名活動が行われ、それを受けて泉氏は立候補し、市長選挙で70%の得票率を獲得し、当選したという。これは、彼の市長としての実績もさることながら、彼を引きずり降ろそうとする政治勢力に対する市民により民主的な抵抗であり、正に明石市民の力である。住みやすい市を自ら守ろうという市政を思う市民の力が政治を動かした好例である。明石市は泉氏の強力な個性によってのみ作り上げられたのではなく、市民が民主的にその市政を作り上げているのだ。

公募への全国からの反響

また、本書で明石市がLGBTQ+/SOGIE担当を採用した時のエピソードがこのように紹介されている。

2020年にLGBTQ+/SOGIEの施策担当を採用したときのことです。全国から99名の応募があり、採用したのは2名。いずれもLGBTQ+の当事者で、支援活動にたずさわってきた人です。新年度から施策を本格的に進めていく方針でした。
『社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ』

明石市の市政は全国的にも定評がある。そこでの2名の募集枠に対して99名も、しかも全国から応募があったという事実は、公のために存分に自分の専門性を発揮する職場を求めている人が日本には沢山いるということの証左だ。どこの役所にだって、当初は高い志で入所したものの、縦割り行政と行政組織の内部論理に染まり、疲れ果て、志の薄れてしまった人はいるだろう。そんな縦割り組織と内部論理から解放され、思いっきり公のために自分の専門性を活かせる職場があったらそこで働いてみたいと思う志の高い人が応募に対して50倍いたというのは、これまた希望の光だと思う。リーダー次第で輝ける熱意のある人材は、日本にはまだまだ沢山いるということだ。

まとめ

本書を読んで、「こんな人が国の政治を担ってくれたら」と夢想することは筆者の意図と反することだろう。本書で語られているのは、泉氏の独自性もあるが、それ以上に市政を支える明石市の職員と市民の力だ。
明石市の各種の子ども施策は周辺の自治体にも派生しているという。また、全国の自治体からも見学も絶えず、国政でも既に一部の明石市の政策の取り込みの検討が続いているという。市民と市職員が支える「市民にやさしい政策」が全国に広がっていくかどうかは、やっぱり市民と行政を担う一人ひとりにかかっている。日本の政治をより良い方向に向けていくために、本書を通して多くの人がどのように市民と市職員が市政を変えていったかを参考にされたら良いと思う。

『転換の時代を生き抜く投資の教科書』:後藤達也と共に学ぶ経済と金融の本質

後藤達也さんというと、最近注目を集めるフリーの経済ジャーナリストで、経済系のウェブの媒体で最近見ないの日の方が少ない人気振りだ。が、この方、注目は集めているものの、不思議と「飛ぶ鳥を落とす勢い」という言葉が似合わない。きっと「飛ぶ鳥を落とす勢い」をえるには、ブームからブームに飛び移つりがちな大衆を射程にいれないといけないのだが、彼の話はわかりやすくも内容そのものに厚みがあるので、関心が移ろいやすい大衆受けはそれほど良くないのだろう。が、本人はそんなことを気にする素振りをみせず、「自分が価値があると思う情報を発信し、それを受けてくれる層を大事にする」という戦略をはっきりと打ち出しており、気持ちが良い。

 

元々、日本経済新聞社のエース記者であったが、2022年に独立し、NOTEやYouTubeを中心としたウェブ媒体で発信を続けるという経歴に好感を持ち、話も面白いので応援しているのだが、そんな彼が下記の新刊を出版したので手にとってみた。

資産形成を目的とした投資のテクニックというよりは、経済と金融の基礎を解説し、日々の経済の動きがどうやって株価に反映されていくのかという仕組みの説明に重きをおいている。ゴルフ好きのおっさんやおばさんがゴルフの魅力を若手にとくとくと説くかのように、経済や金融の世界のダイナミズムに魅了され、その動向を日々楽しみと興奮を持って接している筆者が、投資を興味をもった若者に「こんなに面白いんだよ」と語りかけているような内容で、彼らしい一冊に仕上がっている。

 

内容については、「どこかで読んだことがある内容」という評価もあるかもしれない。が、それは『投資の教科書』と謳う本書への批判としては的外れだろう。誰もが知っておくべき情報を網羅すべきが教科書の役目なので、「どこかで読んだことがある内容」が多いのは当たり前の話だ。教科書の内容が突飛で新しい視点に富んでいては困るではないか。むしろ、書店に平積みになった多くの類書を比較してどうかという点で評価をくだすべきだ。私自身は、投資は既にかなりしているので、本書を読んでめちゃくちゃ勉強になった、ということはなかったが、高校生の娘と息子に是非勧めたい一冊である。

 

理由としては、

  • 非常にわかりやすく、かつ内容も濃いこと
  • 資産形成のノウハウではなく、経済と金融への理解を促す内容であること
  • 中央銀行の役割などの金融の根幹に紙面が割かれ、経済ニュースの理解にもつながること

などがあげられる。特に彼は、日本経済新聞社で日銀のキャップを勤めていただけあって、中央銀行がはたす現代経済と金融市場における役割については非常に造詣が深い。現代の市場経済において、FOMCや日銀金融政策決定会合、そしてFRM議長や日銀総裁のコメントは株価や相場に大きな影響を与え、非常に重要度が高い。例えば、日本の利上げとアメリカの利下げのタイミングは、株式市場を見通す上でかくことのできない要素であるが、本書は「何故中央銀行の利率が企業の株価に影響を及ぼすのか」という原理をわかりやすくしている。「移動平均線がゴールデンクロスを形成しているからこの株は買いだ」みたいな話より、子どもには経済と金融の知識をおぼろげながらでも身につけて欲しいので、本書を課題図書としてあげたいと思う。

 

バートン・マルキールとチャールズ・エリスの『投資の大原則』も「投資の教科書」としては大変な名著だ。

 

投資や金融の第一線で戦ってきた彼らの発言には凄みもあるし、その上で枝葉末節を省いた原理原則を語る構成は圧巻であり、子どもにも将来的には読んで欲しいと思うが、高校生の彼らにはまずは親しみやすい『転換の時代を生き抜く投資の教科書』を薦めたい。アメリカの知らないおじいちゃんが書いた本より、YouTubeチャンネル登録者数27万人、Xフォロワー65万人という方が彼らにも親しみが持てるだろう。

 

本書は、「投資の教科書」でありながら、投資、そして経済と金融の知識を通して現代社会を読み解こうと呼びかける啓発書でもある。新NISAなどを受けて、投資という言葉がアンテナに引っかかった方、何から初めたら良いけど難しそうでよくわからないという方だけでなく、経済や金融について子どもに興味を持って欲しいという親御さんにもおすすめの本だ。事前知識も特に必要はなく、経済と金融の世界の入り口まで読者を導いてくれる良書なので、多くの方に手にとって頂きたい。

世界を旅する心で転職活動を考える

私の転職・移住歴

私は日本で20年働いた後、アメリカに移住してアメリカで10年働いている。転職は日米でそれぞれ1回ずつした。勤めていた会社が、日本でもアメリカでもIBMに買収されてしまい、買収と統合の荒波にももまれたきた。
今までの海外移住、転職、買収などの経験から、「住んでいる国を変えること」と、「勤めている会社を変えること」は、結構似ているものなんじゃないかと思っている。
海外移住をすると、国をリードする政治家や政治システムが変わり、文化も異なり、住んでいる人もがらりと変わり、収入や福祉制度や使用言語ももろもろ変わる。
一方で、転職や別会社に統合されてみると、勤め先の経営者や経営方針は変わるし、企業文化も異なるし、一緒に働く人も変わり、給与や福利厚生や社内の主要言語も変わったりすることもある。転職と海外移住は、両方とも大きな環境変化であり、類似点が多いのだ。

自由を求めて:私の選択

私は生まれた日本という国を離れ、アメリカに住んで、自分の人生をより自由に生きることができている。また、幸いなことに勤め先にも恵まれ、自分の性分にあった自由な中くらいの外資系企業で仕事をしてきた。IBMという巨大企業に2度も買収されてしまったので、そこから脱出すべく、自分の選択として日本でもアメリカでも転職をした。なお、IBMは素晴らしい会社だと思うし、勉強も沢山させてもらったが、私にとっては一生勤める会社ではなかった。
この資本主義社会においては、住んでいる国と同じくらい、勤める会社っていうのは私には重要な選択だ。今やグローバル企業は一つの国より大きな力を持ちえ、会社が変われば文化も雰囲気も一緒に働く人も180度変わりうる。私にとってそのマグニチュードは住む国を変えるくらい大きかった。それだけ、勤める会社が自分の人生にもたらすインパクトは私には大きいのだ。

転職の可能性:新たな文化との出会い

私は、自分のアメリカ移住経験を開陳し、海外移住に興味を持っている人の少しでも参考になればと思い、こんなNOTEをつらつらと書き連ねている。でも、住んでいる国を変えるなんてハードルが高すぎる、という人が多いのもわかる。海外移住というのは人生のオプションに全くないという人もいるだろう。
でも、海外移住までしなくても、転職によって異なる文化、異なるリーダー、異なる人たちと人生を織りなすことも可能だ。少なくとも、現状に某かの不満があったり、閉塞感を感じている人には、転職は検討すべき、人生における重要な選択肢だと思う。
仕事に重きを置かなくたって、資本主義社会を生きる上で、少なくとの会社員には勤め先が与える自分への影響は大きい。

海外旅行は、転職活動に実は似てる

「知らない土地に行って、知らない文化や人に触れてみたい」という理由で海外旅行をする人は多いだろう。私も海外旅行好きだからよくわかる。
私は、転職活動をしたことがない人は、海外旅行をする感覚で転職活動してみることをすすめたい。なぜなら、転職活動は、「知らない環境に行って、知らない企業文化や人に触れる」ことができるからだ。別に海外旅行に行ったからってその国に移住しなくてよいように、転職の面接を受けたからって、その会社に転職しなくても良い。転職活動は海外旅行くらい気軽にできるもののはずだ。相手に選ばれるだけでなく、自分自身も選び取る力をもっている台頭な関係なのだから何も臆することはない。
転職活動をすると、否が応でも自分のキャリアや仕事観と向き合うことになる。それは自分の人生を振り返るようなものだ。そういう自問自答をしながら、「この人たちと仕事したいな」って思える会社を探すのが転職活動だ。面接で触れた人たちと仕事を楽しくするイメージができたら、その会社の企業文化は自分にあっていると考えてよいと思う。海外旅行をする感覚で、是非気軽に転職活動をしてみて頂きたい。

出会いと環境が人生を形作る

移住や転職が私にもたらした変化を色々あるが、一番大きかったのは何と言っても「人」だ。前の環境では全くいなかったタイプの人との出会いは、良きにつけ悪しきにつけ私の人生に新しい彩りを与えてくれた。そして、新しい「人」との出会いは、ロールモデルの発見にしても、反面教師との対峙にしても、自分に成長の機会を与えてくれる。
「人間は環境の奴隷」だ。自分が気づかないうちに、人というのは残念ながら環境によって多くの制約に縛られ、そして影響を受けている。もし、現状に不満があったり、閉塞感があるならば、「環境」を変えるというのは、最も有効な手段の一つだ。なので、世界を旅するような心で転職活動をして知らない会社を覗いてみれば良い
私自身は転職や移住を通して、「この人との出会いのない自分の人生は想像できない」というような素晴らしい出会いに幸いなことに恵まれた。転職というワードが気になって本記事を読んている方が、転職活動や転職を通して、そういう出会いを見つけ、新しい人生の扉をひらくことができたら、これほど嬉しいことはない。

「言葉」が紡ぐ、わが家の文化

夕食支度時のひとこま

わが家は夕食の支度を家族全員でする。支度中は、それぞれが自分の担当の料理をするのに黙々と手を動かす。ある日の夕方、冷蔵庫をあけて息子が鶏肉料理の担当であった私にこう問いかけた。

おとうさん、「チキ肉」だす?(夕食支度中の息子)

黙々と夕食の支度をする家族全員の手が一瞬止まる。「チキ肉」???

と、鶏肉のことか?頼む、、、。(夕食の下ごしらえ中の私)

「あっ!」と自分の間違えに気づいた息子。そして、息子も含めて家族全員が爆笑。言い間違いは誰しもがすることではあるが、「チキン」と「鶏肉」という組み合わせの妙と、「チキニク」というコミカルな音韻が生み出すユーモアにより、素晴らしい新語が誕生した瞬間であった。しばらく、わが家で「チキ肉」がブームとなったのは言うまでもない。

 

カタカナ英語に対する娘のもやもや

一方で、日本の大学進学に向けて勉強中の娘は、日本で使われる横文字カタカナ英語が気になるらしい。

プライオリティ、アジェンダ、コンセンサスとか、優先順位、議題、合意でよくない?(カタカナ英語にもやもやする娘)

意味は一緒なのだからあえて英語でなくても良い、という気持ちはわかる。が、「コンフィデンシャル」、「フィージビリティ・スタディ」、「コンティンジェンシー」のような日本語で言ったほうが早そうなカタカナ英語や、「リスケ」、「キャパ」、「コンペ」のような短縮されて新語となったものも、市民権をえたと言ってもよいだろう。「ローンチされた」みたいに、私には「あうんのブレス」的なルー大柴ギャグと大差ないように感じられるものもあるが、これも国際化が進む時代の流れだろう。

 

『はじめての言語学』

黒田龍之助氏の『はじめての言語学』は、厳密で専門用語の多いイメージのある言語学を、わかりやすく紐解き、事前知識なしで入り口にたてるようにガイドをしてくれる良書だ。本書の中で、いわゆる「ことばの乱れ」について言語学者のスタンスを示しており、面白かった。

言語学は、言葉遣いの間違いを指摘することや、それを矯正することを目的としているのではない。現実をしっかりと観察していくのが基本姿勢である。
「ことばの乱れ」というものが取り沙汰されたら、言語学者の反応はふつうのそれとはむしろ逆である。学校文法にはない新しい現象に、喜んで飛びつくはずだ。
『はじめての言語学』

言語学者の視点では「ことばの乱れ」というものは存在しないという見方が私には新鮮であった。筆者は、言語について考える時、それは時とともに変化していくことは大前提であると語っている。
また、言葉はシニフィアンとシニフィエに分かれるという言語学の基礎もなかなか興味深かった。シニフィアンは訳すとなれば「記号の形」であり、例えば「合意」と「コンセンサス」のような表記を指す。シニフィエは「記号の意味」であり、「多様な意見の提示や議論を通し、関係者間の意見一致がはかられた状態」のような意味を表す。
シニフィアンが異なれば、異なる語感や印象が生まれるので、シニフィエが同じであっても別の言葉と言語学的には解釈はできるだろう。

なので、過度なカタカナ英語は私も鼻にはつくが、おおらかな心で接して、相手の個性を尊重はしてあげたいと思う(友達になりたいかどうかはさておき)。

 

「言語」を通じた家族の成長

私は、「チキ肉」のような独特の言い間違えに触れたり、「もやもやするカタカナ英語」について子どもと話すことが好きだ。何故かと考えるに、そこには日常の一コマ以上の意味合いがあって、英語と日本語の両方に触れる子供たちの成長を感じさせ、「アメリカに住んでいる日本人家族」としてのわが家の「文化」を育んでいるからだろう。言語を通じて、これからも子どもの成長を見守り、豊かな家族の時間を楽しんでいきたい。

「言葉」が紡ぐ、わが家の文化

夕食支度時のひとこま

わが家は夕食の支度を家族全員でする。支度中は、それぞれが自分の担当の料理をするのに黙々と手を動かす。ある日の夕方、冷蔵庫をあけて息子が鶏肉料理の担当であった私にこう問いかけた。

おとうさん、「チキ肉」だす?(夕食支度中の息子)

黙々と夕食の支度をする家族全員の手が一瞬止まる。「チキ肉」???

と、鶏肉のことか?頼む、、、。(夕食の下ごしらえ中の私)

「あっ!」と自分の間違えに気づいた息子。そして、息子も含めて家族全員が爆笑。言い間違いは誰しもがすることではあるが、「チキン」と「鶏肉」という組み合わせの妙と、「チキニク」というコミカルな音韻が生み出すユーモアにより、素晴らしい新語が誕生した瞬間であった。しばらく、わが家で「チキ肉」がブームとなったのは言うまでもない。

 

カタカナ英語に対する娘のもやもや

一方で、日本の大学進学に向けて勉強中の娘は、日本で使われる横文字カタカナ英語が気になるらしい。

プライオリティ、アジェンダ、コンセンサスとか、優先順位、議題、合意でよくない?(カタカナ英語にもやもやする娘)

意味は一緒なのだからあえて英語でなくても良い、という気持ちはわかる。が、「コンフィデンシャル」、「フィージビリティ・スタディ」、「コンティンジェンシー」のような日本語で言ったほうが早そうなカタカナ英語や、「リスケ」、「キャパ」、「コンペ」のような短縮されて新語となったものも、市民権をえたと言ってもよいだろう。「ローンチされた」みたいに、私には「あうんのブレス」的なルー大柴ギャグと大差ないように感じられるものもあるが、これも国際化が進む時代の流れだろう。

 

『はじめての言語学』

黒田龍之助氏の『はじめての言語学』は、厳密で専門用語の多いイメージのある言語学を、わかりやすく紐解き、事前知識なしで入り口にたてるようにガイドをしてくれる良書だ。本書の中で、いわゆる「ことばの乱れ」について言語学者のスタンスを示しており、面白かった。

言語学は、言葉遣いの間違いを指摘することや、それを矯正することを目的としているのではない。現実をしっかりと観察していくのが基本姿勢である。
「ことばの乱れ」というものが取り沙汰されたら、言語学者の反応はふつうのそれとはむしろ逆である。学校文法にはない新しい現象に、喜んで飛びつくはずだ。
『はじめての言語学』

言語学者の視点では「ことばの乱れ」というものは存在しないという見方が私には新鮮であった。筆者は、言語について考える時、それは時とともに変化していくことは大前提であると語っている。
また、言葉はシニフィアンとシニフィエに分かれるという言語学の基礎もなかなか興味深かった。シニフィアンは訳すとなれば「記号の形」であり、例えば「合意」と「コンセンサス」のような表記を指す。シニフィエは「記号の意味」であり、「多様な意見の提示や議論を通し、関係者間の意見一致がはかられた状態」のような意味を表す。
シニフィアンが異なれば、異なる語感や印象が生まれるので、シニフィエが同じであっても別の言葉と言語学的には解釈はできるだろう。

 

「言語」を通じた家族の成長

私は、「チキ肉」のような独特の言い間違えに触れたり、「もやもやするカタカナ英語」について子どもと話すことが好きだ。何故かと考えるに、そこには日常の一コマ以上の意味合いがあって、英語と日本語の両方に触れる子供たちの成長を感じさせ、「アメリカに住んでいる日本人家族」としてのわが家の「文化」を育んでいるからだろう。言語を通じて、これからも子どもの成長を見守り、豊かな家族の時間を楽しんでいきたい。

州が変われば道義も変わる、道義が変われば法律も変わる

「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~

年末年始の休暇中に小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~』を読んだ。

ご自身がフィールドワークをされているタンザニアの経済を丹念な現地での取材を元に考察されており、興味深かった。タンザニアのビジネスの要点をかいつまむと下記の様な感じ。

  • 小規模の個人ビジネスをいくつか兼業しながら生計をたてている人が多く、短期の利益の最大化に焦点があたっている

  • 事業規模ではなく、仲間内のネットワークがリスクヘッジとなり、その時に余裕がある人がない人を助けるという互助形態で成り立っている。

  • 知的財産や著作権のようなグローバル資本主義のルールは適用されないインフォーマル経済が無視できない規模になっている。

総じて、「Living for Today(今日を楽しく生きる)」に人々のフォーカスはあたっている。「将来の幸せ」のために今を我慢したり、約束事で縛られることも自分自身が人を縛ることも嫌う民族性があるようで、宇宙人の話を聞いているようでなかなか面白かった。中でも心に引っかかったのが、「適法性よりも、仲間内での道義性が重視される」という点。なので、違法コピーなどは国際ルールには反しているが、道義的には彼らにとっては問題ないので、タンザニアでは平然と行われている。所変われば道義も変わり、道義が変われば行動も変わるということが見て取れた。

州が変われば道義も変わる

この6月にアメリカ南東部のノースカロライナ州から西部のカリフォルニアに引っ越した私。「アメリカ合衆国」という国名の通り、アメリカは独立した州の集合体であり、同じ国なのに州ごとに違うものだと色々なことに驚かされている。現代社会の「道義」の一つである環境意識もかなり異なり興味深い。ノースカロライナでは、家にあるゴミ箱は普通ゴミとリサイクルゴミだけなのだが、カリフォルニアはそれらに加えてコンポストゴミがある。日本で暮らしている人にはイメージつきにくいかもしれないが、ゴミ箱というのは下記のサイズだ。もちろん、これは共有ではなく一家庭分であり、なかなかのサイズで結構場所をくう。

左から普通ゴミ、リサイクル、コンポスト

市から、「ダンボールについてはリサイクル率は85%ですが、プラごみについては30%だから頑張りましょう」みたいな通知分が郵送されてきたりして環境意識が高い。街中を走る車のテスラ率も高く、粗大ごみの処理にかかる値段もかなり高く、ノースカロライナとは大きく異なる。

道義が変われば法律も変わる

カリフォルニアに引っ越してきて、初めに一番驚いたことはコストコにウィスキーなどのハードリカーが売っており、さらに日曜日の午前中でもハードリカーも含めアルコールが購入できることだ。何に驚いているかわからない方も多いと思うが、ノースカロライナではハードリカーは州の運営するABCストアでしか購入することはできず、一般的な食料品店ではお酒はビールやワインしかおいていない。さらに、日曜日の午前中はアルコール類を一般的な食料品であっても一切購入することができない。日曜日の昼からホームパーティがあり、そこにお酒を持参するとなると前日に購入をしないといけない。
ノースカロライナは南部諸州で、平均的なアメリカの州と比較するとキリスト教信者がいまだに多く、キリスト教の安息日にあたる日曜日は、「酒なんて買ってないで教会に礼拝にいきなさい」という感じなのだろう。これは建国前に設立された「ブルー法(Blue Laws)」の名残らしいが、プロテスタントによって建国された伝統的なアメリカの価値観が色濃く反映されている。一方で、より前衛的な州であカリフォルニアでは、こんな規制は時代遅れとばかりにさっさと緩和されている。州によって「道義」も異なり、それに伴い「法律」まで異なるのは州政府の力の強いアメリカ政治の特色だろう。

州ごとの違いは、不便か、快適か

別の州に引っ越してみると、自動車免許はとりなおさないといけないし、前の州で取得した医者の診断書は効力を発揮しないしで、不便はそれなりにある。日本の感覚では「同じ国なのになんで?」ということが多い。自動車免許の筆記試験など、異なる次元でカリフォルニアのほうが難しく、同じ国でこんなに難易度に差があっていいのか、という感じ。
が、その反面、同じ国民が住んでいるのに、文化や風習の違い、そして法律まで違ったりするので、新しい新鮮な発見があり、楽しむこともできている。引っ越すことにより、国名に何故「合衆国」と入っているのか、より強く実感することができた。今後も州ごとの違いについても紹介していきたい。

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