Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

日本産業の重層的な階層構造の歴史

以前、"日本のIT業界はなぜ重層的な階層構造をとっているのか"というエントリーを書いたら大きな反響を頂き、その反響の中で「本件は歴史を遡らなければ本当のことはわからん」というコメントをいくつか頂いた。おっしゃる通りと思いながらも、なかなか調べられずにいたのだが、最近読んだ本の中で日本の重層的な流通機構についての歴史的な経緯を紹介する一節があったので紹介したい。


『驕れる白人と闘うための日本近代史』という刺激的なタイトル。原著は松原久子さんによってドイツ語で執筆され、それが邦訳されたという珍しい本。欧米人の歴史観に対して疑問を呈し、彼らが常日頃疑問に感じる日本人の特性について、歴史的背景と共に解説するというのが本書の主旨だが、その中で重層的な流通機構についてふれられており、大変興味深い。

驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)

驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)

「日本には、十社から二十社の、超大商社、大商社、中間業者、小売業者といった中世的で複雑な流通機構があり、商品は生産者から消費者へ渡っていく過程で加速度的に値上がりしていく仕組みになっている」とドイツ人の日本特派員は書いている。そして日本の商品の流通機構は、いかに企業間の競争を歪ませ、不当で有害であるか、それに引きかえ欧米諸国では、生産者から消費者に最短距離で商品が届くようになっているので、消費者は低価格の商品を手にすることができるのだと長々と解説している。・・・<中略>
物価を高くしている細かい網の目のような流通機構は、開国以前の時代からの遺物である。
なぜすべての商品がそのようにたくさんの人の手を渡らなければならなかったか、それには二つの理由があった。
『驕れる白人と闘うための日本近代史』 〜第十三章 狙った値上げ P.205、206〜

まず、重層的な階層構造というのは、ここ最近形作られたものではなく、開国以前の時代から遺物であるという。明治維新あたりから作られたシステムなのかと何となく思っていたのだが、もっと古く江戸時代まで遡るというのは私には驚きだった。仮に江戸時代初期からとられている仕組みだとすれば、400年近い歴史の中で根付いてきたシステムだと言える。アメリカの歴史何かより遙かに長いわけであり、なかなか興味深い。


では、どうしてそういう仕組みが形作られたのだろう。かなり長いが重要なところなので引用したい。

第一の理由は、約三千万の人間が狭い空間の中で生きていかなければならなかった鎖国時代の日本では、慢性的な労働力の過剰に悩まされていたことである。誰もが経済活動の隙間を見つけてそこに入り込もうとした。労働市場での何世代にもわたる激烈な競争は、一方では、製品の品質の高さと、修理そのほかのメンテナンスのための徹底したアフターサービスの良さを生んだ。今日でも日本のこの特徴を世界に誇っている。そしてその一方で、極度に細かい段階に分かれた商品の流通機構を生み出したのである。あらゆる部門の商人たちは、商品の流れのごく一部にでも参加できたことに満足した。彼らの懐にはいる中間利潤はほんの小額であるが、たくさんの人の手を渡っていくことによって、その商品の価格は上がっていくわけである。
第二の理由は、食料品に関する問題である。日本人の食卓にのぼる代表的なものは、大変痛みやすい海の幸である。これらはできるだけ短時間で消費者のもとに運ばなければならない。特に日本人は魚を生で食べるので、新鮮で質の良いことが昔からことのほか要求された。・・・<中略>極暑の夏もある日本で、冷蔵の近代設備もない時代に生鮮食品を一年中供給するためには、綿密に組織された高速輸送網が必要であり、そのためのコストが商品価格に加算されることになったのである。
『驕れる白人と闘うための日本近代史』 〜第十三章 狙った値上げ P.206、207〜

二番目の生鮮食品を扱う必要があったという点は、他業種の参考にはならないが、一番目の理由は幅広く色々な業種にあてはまることであり興味深い。ポイントは、

  • 人口密度が高く、慢性的な労働力の過剰があり、経済活動の隙間に誰もが入ろうとしていた
  • 隙間を取り合う熾烈な競争が、製品とサービスの質の向上をもたらした

という2点。
双方とも現代のIT業界に通じるものがあり、示唆に富む。少し考えを前に推し進めると、「少しだけ付加価値をつけて隙間に入り込むというネイチャーが日本人のビジネスのDNAにすり込まれている」とか、「高品質の製品とサービスに慣れ親しんだ消費者からのニーズが、そういう隙間プレイヤーの存在価値を生み出している」とかいう仮説が思い浮かんでくる。外人には多分理解できないと思うが、私の肌感覚とはかなりあう。


一方で、明治時代に強烈に欧米化を進め、欧米の技術やシステムを取り入れてきた日本が、中間卸しを通さない直接取引という仕組みを何故とりいれなかったのか疑問が残る。それに対する筆者の回答を下記に引用する。

日本を溺死させないために、明治政府は、ほとんど無関税の欧米の工業製品で日本の市場を溢れかえるのを阻止する方法を模索した。そうしなければ日本はインドや中国と同じように欧米工業製品の一大市場となり、同時に自国の技術開発にとどめの一撃を加えられてしまうからである。
関税について欧米列強と理にかなった合意に達することは望めなかったので、政府は、できるだけ目立たないように、間接的な方法で輸入商品の価格が輸入業者から消費者へ渡っていく過程で高くなるような方策を講じた。
そのための最もよい、そして無難な方法が、鎖国時代に生まれ育ったあの流通システムだった。そのシステムを明治維新の後も保持し、拡張していくことは、日本側から見れば、生存のためにやむを得ないことだった。
『驕れる白人と闘うための日本近代史』 〜第十三章 狙った値上げ P.216〜

  • 日本は欧米列強から開国当時、関税5%という非常に厳しい制約をかされ、貿易収支は赤字に転落した
  • 関税率が低く、輸入品の価格競争力が強いと、国内の産業が育たないため、関税アップ以外の施策で国内産業を守る必要があった
  • 重層的な流通システムを維持し、消費者の手には高い輸入品が届くような政策を立案した
  • 関税率をあげるのに45年間もの月日がかかり、重層的な流通システムはその間に日本の新しい産業構造に組み込まれてしまった

というあたりがポイントか。
直感的には、とはいっても大分昔の話なんだから、未だにそんな慣習が残っているのはおかしくないかと思ったのだが、関税の不平等条約が改正されたのが1911年で、今からちょうど100年前の話。45年間維持された産業の仕組みが、100年たってもまだ根強く残っているというのは、それほどおかしい話ではない。


まだ、勉強不足で仮説に未だ強い確信はもてないが、少なくとも今の外国人に理解しがたいこの商慣習は、ここ最近の話ではなく、かなり古い歴史にまで遡らなければ、理解ができない問題であることには強い確信を覚える。引き続き勉強し、新しい視点を学んだらまた書いてみたい。

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