Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『つながりっぱなしの日常を生きる』

中年女性社会学者によるアメリカの若者の声の代弁、というとシニカルすぎるきらいがあるが『 It’s Complicated(邦訳:つながりっぱなしの日常を生きる)』はそんな本だ。筆者のダナ・ボイドはソーシャルメディア、若者の教育問題の専門家。2009年には”Women in Tech”にも選出された気鋭の若手学者だ。本書は、166名のアメリカのティーンに筆者自身が実際にインタビューをし、彼らの置かれる状況を浮き彫りにし、メディアで語られるステレオタイプな若者のネット利用像に真っ向から挑んでいる。10代の若者の声にならない声をエスタブリッシュメントに届く形で発信しており、同年代の子持ちの私からすると筆者は正に中年の鏡である。

It's Complicated: The Social Lives of Networked Teens

It's Complicated: The Social Lives of Networked Teens


少し内容に入る。「直接的な対人関係を避け、スマフォとにらめっこしてSNSなどにのめり込む」というのがメディアで語られる若者像であるが、筆者はこの見方を否定する。ティーンは別にFacebookTwitterが好きでスマートフォンにかじりついているわけではなく、友達とつながっていたいという今も昔も変わらない年頃の子どもの健康的な欲求に従っているだけ、と筆者は強調する。あるインタビューを受けた女の子が語っていた「FacebookTwitterでつながるよりも直接顔を合わせて友達に会えたらどんなに良いか」という正直な気持ちが印象的であった。自由に社会と関り合いを持ちたいという自然な思いを実現する方法が、昔は公園やショッピングモールにたむろすることであったが、現在はたまたまFacebookTwitterがそれを実現する殆ど唯一の方法、ということが繰り返し本書では語られる。*1


2章のPrivacyは子持ちの私に色々示唆を与えてくれ面白かった。私の子どもはまだFacebookなどは使用していないが、もし使い始めたら私はきっと安全という建前を掲げ、フォロー・チェックをするだろう。設定次第で私が見れなくすることもできるわけだから、私が見れるものは「見ても良い」ことだろう、というのが親の視点だ。が、ティーンにとっては「技術的にできること」と「実際にすること」の間には百里の隔たりがあり、自分のポストを親が逐一チェックをすることは、人が電話で話している内容を聞き耳をたてるのと同様にマナー違反と考えるようだ。また、プライバシーを権利と考えるティーンももちろんいるが、多くはそれを信頼の問題と考えている、という話も面白かった。親が自分のポストをチェックすることは、権利の侵害・マナー違反であり憤りも覚えるわけだが、「あぁ、自分は親から信頼されていないんだなぁ」という失望も強いとのこと。まぁ、何だかんだで結局私はチェックすると思うのだが、それを子どもがどのように感じるのかを事前にすることは大事であり、とても参考になった。


少し子育て中のおっさん視点が強くなったので、もう少し視点を高くしたい。本書でなされている主張の中で最も重要なものは、「テクノロジーで可視化された問題点の原因を多くの人は誤ってテクノロジーに求めてしまう」という点だ。インターネットと人とつながるテクノロジーでティーンがエンパワーされることで、彼らと彼らをとりまく環境の良い所も悪い所も、綺麗な所も醜い所も可視化される。悪い所や醜い所はテクノロジーそのものが作りだしている場合ももちろんあるが、その大半は元々社会に横たわっているものだ。インターネットが売春や性犯罪を助長するみたいな見方もあるが、そこの規制を強くしたところで、買春する人や性犯罪者が世の中からいなくなるわけではなく、別の形でティーンに忍び寄るだけの話であり、安易にテクノロジーにその原因を求めるメディア、規制を強めて仕事をしたふりをする政治家・官僚に筆者は疑問の目をむける。人は、目に見えやすいテクノロジーに原因を求め、社会に根ざした深い問題から目をそむけがちだが、技術の力で何が変わって、何が変わらないのか、そこを見極める努力を怠ってはならないと筆者は本書後半で強調し、その見方に私は強く共感する。


他に紹介したい読みどころは沢山あるが、長くなったのでこのあたりで。id:yomoyomoさんの書評を見て、原書にチャレンジしてみたが、読み応えがあり、様々な視点で参考になった。ソーシャル・ネットワークなどのテクノロジーの動向に関心がある方だけでなく、年頃の子どもを持つ人にもお薦めの一冊。

*1:もっとも、余程の大都市でなければ公共の交通機関が整備されておらず、運転免許をとるまでは、自由に移動ができかないという、アメリカならでは事情・制約がこういう状況を助長していることは間違いない。

家事と育児は足し算ではなく、掛け算

現在アメリカに住んでおり、先日家族が2ヶ月弱日本に一時帰国。私も日本には帰国したのだが、仕事があるので家族を日本に残し一人帰米し、3週間ほど一人暮らしをした(結婚以来こんなに一人でいたのはよく考えると初めて)。当然一人暮らしの期間家事は全部自分ですることとなる。日本の男性の家事の実施時間が諸外国と比較して短いなんてことが最近よく言われているが、久しぶりの長い一人暮らしを通して思ったことがいくつかあるのでまとめてみたい。

私の3週間の家事ライフ

私は独身の頃は一人暮らしをしていたし、元々料理は好きなほうなので、家事そのものはそれ程負担には感じなかった。23日間の一人暮らしの期間となったが、家事に費やした合計時間は54時間、週平均で16時間28分、日平均で2時間21分。まぁ、こんなもんかという感じ。なお、家事の時間はMyStatsというiPhoneアプリで計測。料理、食器の片付け、洗濯、掃除が多くの時間をとる家事のコアとなるが、アメリカの場合はそれに加えて庭の芝刈り、手入れも週一ではあるがそれなりに負担(2時間弱はかかる)。
個別に見ると、料理は好きなほうなので、外食は3週間の間に3回くらいしか結局しなかったし、平日の昼飯も自分で毎日おにぎりを作ったりしたがそれ程負担は感じなかった。食器と洗濯は基本的には機械がやってくれるので楽チン(晩にセットして洗浄が完了した食器を朝一で片付けるのが忙しい朝には手間を感じたが)。掃除も家が広い分大変だが、日中仕事で家にいないのでそれ程汚れ無いので週に2回掃除機をかけるくらい。もっとも家事というのは掃除、洗濯、料理というコアの部分はルーティーンなのでそんなに難しくはなく、それ以外のもろもろを如何に、どれほどこなすかが品質を左右する。シャワーカーテンを洗ったり、台ふきを重曹で煮沸したり、一時帰国時に汚れてしまったトイレとシンクを掃除したり、もろもろもなるべくこなすようにした。仕事が日本にいるときほど忙しくないというのもあるが、全般的に家事を負担に感じることは殆どなかった。

そして家族が帰ってきた

3週間のきまま、かつ孤独な一人暮らしのすえ、家族(妻、娘8歳、倅5歳)がようやく戻ってきて、また家族との生活が始まることに。時差もあるのでしばらくは家事は自分も多めに(愛妻家!)。やってみて感じたのは、家事と育児に伴う負担というのは「家事+育児」という足し算ではなく、「家事×育児」という掛け算であるということ。
家族の人数が増えれば、左側の「家事」もそれに応じて大きくなる。ここの増加の仕方は、まぁ料理のように単純に4倍にならないものもあれば、洗濯や食器の片付けのようにほぼ4倍になるものもあるし、掃除のように10倍くらいにいきなり増えるものもある。家族の帰宅の前はリビングなどはもの一つ無い状態にしていたのに、子どもが帰ってくると秒速で部屋が汚れていくのが体感できる。なかなか手強い。
そして、子どもがいると、家事をする時はその作業に集中できたいた一人暮らしの時の環境というのは如何に恵まれていたかということがよくわかる。やれAppleTVがつかないだの、だっこして欲しいだの、食事が遅々として進まないだの、宿題が終わらないだの、DS一緒にやってほしいだの、包丁で野菜きってみたいだの、遊んで欲しいだの、無駄な姉弟の喧嘩を1日20回したりだの、とにかく横槍が色々はいる。「家事」を一定量こなした後、まとめて「育児」をするというようにシリアルに処理できればよいのだが、そうはいかずパラレルな処理が求められるので、効率も落ちるし、負担もます。やはり、「家事+育児」ではなく「家事×育児」なのだ。「家事×育児=負担」という式が正しいとすれば、逆にここはレバレッジの聞く領域で、夫婦の片方が育児を受け持ち、もう片方が家事に専念できる時間を作ることで、全体の負担が減るというのが実感できた。


家事の分担のあり方
こういうことを書くと、おっかないおばさんから「そうだ!だから男性はもっと家事をすべきだ」というおっかないコメントがきたり、男性諸氏から「でも、会社の仕事がピークの時に妻は手伝えないんだから、男だって休める時に休むべきだ」というつまらないコメントがありそうだが、家事の分担のあり方に、おしなべて当てはめることのできるべき論なんてない、というのが私の考え。そこをコミュニケーションや互いに対する心配りや相手の視点によりそう姿勢で、自分にとってでなく自分たちにとって一番良い形を見つけるのが大事であり、パートナーシップの価値が最も発揮される領域だと言っても過言ではない。夫婦間の家事の分担、というのは一律に適用可能なべき論で解決できる問題ではなく、それそのもが夫婦の作品、即ちアートだと思うわけです。予想通りまとまりきらず続く。

いわゆるカタカナ英語から抜け出す方法

私は正直、23年間のカナダ生活をはじめ、アメリカやイギリスでも英語を勉強したのですが、決してうまくありません。それはどうしても習得できない分野があるのです。私の考える英語上達のエッセンスとは三つのカテゴリーがあります。
一つは一般に学校で習う文法や語彙などの知識量
一つは音として英語をとらえる能力。
三つめは欧米流の慣習からくる文章構成上の英語であります。

23年間英語圏で生活されているというだけはあり、非常に的確に日本人のぶち当たる壁をとらえている。今回のエントリーでは「音として英語をとらえる能力」という点について書いてみたい。


私はまだ渡米して半年くらいしかたっていないが、本格的に英語を仕事などで使い初めてから10年弱くらいになる。その間、私よりずっと英語でのコミュニケーション能力に長けた人を見てきたが、それでも発音がいわゆるカタカナ英語の人はかなり多い。こちらに20年近く住んでいるという人でも、話すのはカタカナ英語という人は珍しくない。


いわゆるジャパニーズ・イングリッシュだとこちらの言うことが「通じにくい」ということもあるが、それに加えて頭がカタカナで捉えようとするので、Nativeの人の言うことが「聞き取れない」という問題も出てくる。「L」と「R」の違いという話はよく出てくるが、「A」と「O」なんかは、ジャパニーズ・イングリッシュの回路だと聞き分けるのは至難の技だ。音として英語をとらえられず聞き取れないというのは、日本人の英語の永遠のテーマだ。


が、その永遠のテーマについても解決策が実はある。リスニング力をあげつつ、カタカナ英語を脱出するための勉強方法としてPhonicsはもっと日本で注目されるべきだ。私はアメリカ人の同僚にアクセントがよくないのでPhonicsを学ぶことを勧められて、コツコツと学んできたが、アメリカに来ても「君のアクセントはすごく良い」と言われることがとても多い(「日本人にしては」という但し書きがついてはいるだろうが)。音読などの学習効果ももちろんあるが、こと発音については、Phonicsの恩恵に大いにあずかっている。


で、Phonicsというのは何かと言えば、英語のスペルと発音の間にある規則を学ぶ勉強法というのが簡単な説明だ。例えば、dogは「ドッグ」と言うとカタカナ英語になってしまうが、「d」と「o」と「g」をPhonicsの規則に従ってそれぞれ発音すると、よりNativeっぽいdogとなる。それぞれの音を、「どういう舌の動き」で「どういう空気のはき方」で、発するのか理解し、目の前の綴りをそのルールに応じて口から出すことをPhonicsではひたすら学ぶ。カタカナ英語が体に染み付いているので一朝一夕ではいかないが、地道に練習を続けるとかなり効果がある。


勉強の素材は色々あるが、私がいくつか試した中でお勧めなのは下記の本。

英語のリスニングは発音力で決まる!

英語のリスニングは発音力で決まる!

Phonicsという言葉こそ一度も出てこないが、方法論は完全にPhonicsだ。私は毎朝の通勤の運転の中で必ず全ての音を練習するようにしているが、そういう腹筋的な地味な練習を長く続けることが一番だと信じている。カタカナ英語、ジャパニーズイングリッシュを脱したいという方は是非本書を手にとって見て欲しい。

「都議会セクハラ野次」問題は騒ぎすぎ

都議会で塩村あやか都議会議員に対して飛ばされた野次について、大盛り上がりのようだが、不謹慎だの、犯人探しだので騒ぎすぎだ。野次の内容は確かに品性下劣だし、職務中の発言としては不適切極まりないし、これだけ話題になっているのに言った本人たちはだんまりを決め込んでいるというのも卑怯千万だし、こういう発言を何も言わずに流すというのも問題だ。でも、それにしても騒ぎ方の方向性に疑問を覚えるし、政治のトピックとして最もホットなのがこの問題というのもいかがなものかと思う。また、犯人探しだの何だので盛り上がってガス抜きされて、大本の妊娠や出産に関わる現状の改善、解決に向けての施策の実現の方に議論が及ばないんじゃないかと不安を覚える。このままじゃ、声紋分析して、議員が特定されて、その議員が謝罪、反省、辞任して、皆の溜飲が下がって一見落着になってしまうのではないだろうか。
また、塩村議員だってその場ででた下品な野次に対して一喝したのに数の論理で押されて否応なくというようならまだしも、言葉につまってそのままその場は退散というのも、私の正直な気持ちとしては心もとない。そういう不見識な議員をその場で引きずり出すとか、そういう不見識な発言があって笑い声が議会でおこるというようなことだから各種の施策が実現に向かわないんだと切り返すとか、そのくらいの技量や胆力を議員として磨いていって欲しい。そういう力強さもないと、保育園の待機児童の問題とかを解決するために、根強く存在する既得権益をもった抵抗勢力を丸め込んだり、叩き潰したり、正に戦いを勝ちにもっていくなんてことは期待できない。後日会見をひらいて「声紋分析します」とか、「侮辱に対する処置の要求」いうのもよいのだけど、そっちの犯人探しに力を注ぐのではなく、盛り上がっているうちに元々ご自身が提起した問題のほうに軸足を移していったほうがよいのではないだろうか。

女性役員のいる会社は競争力がある?そんなつまらん議論はやめたほうが良い

"女性役員のいる会社は、業績が良く、競争力もあり、イノベーティブな理由"なる記事を読んだのだが、外資系企業で声高に叫ばれるダイバーシティによる女性の積極登用を見てきた経験から一言言いたい。有能な女性の活躍の場が広がることはとても良いことだと思う。また、有能な女性が活躍する場や制度が十分に整備されていないのも現実だと思う。だが、「女性役員のいる会社は、業績が良く、競争力もあり、イノベーティヴだから女性役員の比率をもっとあげるべきだ」という意見には賛成できない。目的と手段が逆になって長続きすることなんて世の中に一つもないからだ。

数カ月前にニューヨークで、「the 30% Club」アメリカ支部をキックオフための重要な会議が開かれました。the 30% Clubとは、「上場企業の役員にもっと女性を増やす」という目的を持つ民間セクターです。

有能な女性が役員として活躍できる場が増えるのは良いことだが、それと今以上に役員になる女性をもっと増やすというのは別の話だ。個別具体的な話を抜きに、「30%まで比率をあげると、いいことがおきるに決まっている」という結論ありきのこの団体に疑問をおぼえる。この30% Clubという組織のウェブサイトを見たが、「義務としての数値的な目標を持つことはサポートしていない(We do not support mandatory quotas)」と但し書きがついているものの、組織の名前が思いっきり数値的目標なので、但し書きをどう解釈してよいのか理解に苦しむ。また、Steering Committeeのメンバーを見ると殆どが女性。「GROWTH THROUGH DIVERSITY」とあるが、自組織のダイバーシティはどうなっているんだと問いたい。

女性役員の割合を、企業規模やビジネスや産業に関わらず、すべての会社が増やした方がいい、説得力ある理由が少なくとも3つはあります。

と記事中で3つの理由があげられているが、私にはどれもすっと入ってこない。


「1.女性役員がいる会社の方が儲かっている(Companies with women on the board perform better financially)」という点については議論があまりにも雑。直接的な因果関係はないが、全てのデータは女性がUpside以外はもたらさないと言っている、との強弁に説得力を感じる人がいるのだろうか。CFOやFinancial Controllerというような財務面の役員に女性を登用している会社と、それ以外の会社の利益率の差を比較して、女性財務役員のいる会社のほうが利益率が高い、とか、せめてもう一段深いレベルの議論を期待したい。


「2.女性役員がいる会社の方がイノベーティブ(Companies with women on the board are more innovative)」というのも雑。多様性イノベーションを加速するという原則論と女性の役員登用率の向上の間にある溝に説得力のあるロジックで橋を全くかけられていない。「世界的なマーケットで大部分を占める女性」って一体なんのことを言っているんだろうか。せめて、「食品・消費財メーカーのような購買の意思決定権を女性が握ることが多い産業においては、女性は市場機会や顧客のセグメントに関して、男性社員には思いつかないような、個人的な視点を持ち込める」というなら、「へぇどんなデータがあるのか見てみたい」という気になるが、「企業規模やビジネスや産業に限らず」と言っているがゆえに説得力をなくしている。


「3.女性は役員の役割をより効果的にする(Women make boards more effective)」については、経験的に婦警的な役割でもってリスク管理・監視強化をごりごりする女性を多く見てきているので、その機能に限っては頷ける部分はある。だが、女性の役割登用率をあげれば「競争力」が高まるという、帰結に対する説明が薄弱で、説得力を本記事から私は全く感じない。



一部重箱の隅という話もあるが、何で「the 30% Club」に自分がこんな反感を覚えるのかというと、私自身がダイバーシティによる女性登用が逆噴射しているケースを何度か見たことがあるからだ。「有能な人をより活躍できるポジションに」という原則に異は全くないのだが、「the 30% Club」みたいな「比率をあげることが正」みたいが議論になると「有能ではないのに女性だから役員になる」というケースがどうしてもでてきてしまう。それは組織にとっても不幸だし、本人にとって一番不幸な話だと思う。 実際にパフォーマンスも発揮できてなく、「あぁ、あの外人役員はダイバーシティ枠ね」みたいな陰口を叩かれている人を見たことが何回かあるが、数字ありきだからそういうつまらない話になるのだと思う。


数字ありきでとにかく「役員比率をあげよう」という話ではなく、有能な女性が経営陣として活躍できるまでのキャリアを積んでいく道にある、様々な障害を取り除こうという個別具体的な議論をもっとすべきだ。妊娠・出産という多くの女性が直面する必然的なライフイベントがもたらすインパクトの軽減とか(アメリカ女性は産休、育休のアメリカの制度としての少なさに皆不満をもらしている)、何時から何時まで職場にいたことを評価するのではなく、あくまで労働の成果を評価し、時間と場所の制約から解き放つワークスタイルの確立とか、強面のおばさんが集まって話すべき内容はもっと他にあるんではなかろうか。なお、大変蛇足ではあるが、ということが趣旨であり、女性登用率の向上そのものを苦々しく思っているおじさんの溜飲を下げるために本エントリーを書いたわけではないので、あしからず。

”How are you?”考 聞かれたら何と答える?

アメリカでは“How are you?”と聞かれることがとにかく多い。私の場合、職場には日本人は自分一人で周りはアメリカ人だらけなので、一日に少なくとも10回は聞かれる。会議室に入って”How are you?”、廊下ですれ違って”How are you?”、エレベータホールで”How are you?”、仕事の質問をしにいったらまず”How are you?”、トイレであって”How are you?”、とにかく”How are you?”だらけ。
私は早口で”Very good, how are you?”ととりあえず反射的に返すことにしている。廊下ですれ違う時などは、向こうが2m先くらいで”How are you?”と言い、私が”Very good, how are you?”と言い終わる頃にすれ違い、1-2m後ろの方から”I’m good”とか聞こえてくる、そんな感じだ。”How are you?”と聞かれたら何と答えるのがよいのか、というのは私もよく聞かれることなので、オフィスの数名の同僚とアメリカの”How are you?”事情について話してみたので、本エントリーではその内容をまとめてみたい。

どうやって返すのが良いのか

”I’m doing well”, “Great”, “So, so”, ”Good”, ”Fantastic”, ”O.K.”, ”Not so bad”という7つの返答パターンを書いた紙を渡し、「Worstが0点、Bestが10点で、どれがどれくらいの良さを表すのか点数をつけてみてくれない?」と頼んでみると、前提条件を色々つけながらも、数名が実際に点数をつけてくれた。人によって点数はばらつきはあったが、良い順に並べると大体下記のような感じ。"Great, how are you?"のようにそれぞれの後に"how are you?"とつける場合は多い。
  1. Fantastic.
  2. Great.
  3. I’m doing well.
  4. Good.
  5. O.K.
  6. Not so bad.
  7. So, so.
ざくっと言うと真ん中の5〜6点に”I’m doing well”、”Good”が位置し、4〜5点に”O.K.”が位置するという感じだった。ただ、にこやかに明るく言う”No so bad!”と、ぼそっと言う”Good”ならば前者の方がより良いので、「状況や言い方によるので一概に点をつけれないよ」というのが殆どの人が言っていたこと。なのであくまで参考ということで。
ちなみに、私は”O.K.”ってもっといいのかと思っていたのだが、”Can be worse, can be better”で良くも悪くもというニュアンスで使われることが多い模様。確かに仕事で「この進め方で良い?」と質問され、”O.K.”と答えると怪訝な顔で「えっ、じゃぁどうしたいの?」みたいな感じで突っ込まれることが多い。

”How are you?”はただの挨拶?

「“How are you?”と聞かれることが非常に多い」と冒頭で書いたが、この「聞かれる」という解釈の仕方が多くのケースではあてはまらないらしい。日本人なら同僚と廊下ですれ違ったら「あっ、どうもぉ」みたいな感じで会釈することが多いと思うが、多くの”How are you?”は「調子はどうですか?」という質問ではなく、そういった会釈に近い用途で使われることが多い。誤解を恐れず言えば、深い意味のないただの挨拶なので、真剣に自分の調子を答える必要がない、とも言える。なので、”How are you?”とパッと言われた際、私は、自分の今の調子を評価し、それを適切に伝えようとあれこれ考えたりするのではなく、基本的には”Very good, how are you?”と返すようにしている。
先日、大腸炎を患い緊急外来に行った時も激しい腹痛を抱える中、担当医が開口一番言ったのは”How are you?”で、「調子がわりぃから医者にきてんだよ」と思いつつも反射的に”Very good, how are you?”と答えても、特に異に介さず”I’m good, thank you”と言われ、”Then, what’s happened to you?”と聞かれ診療がたんたんと進んでいった。まぁ、そのくらいの軽いタッチのものということ。

たかが"How are you?"、されど"How are you?"

ただの挨拶の場合が多いのだが、やりとりを交わす人との間柄やその状況によって異なるので注意が必要。例えば、1分後に始まる会議に参加すべく早足で廊下を歩いている時に、同じような状況のManagerが前から歩いてきて、"How are you?"と言われたら、ただの挨拶なので"Very good, how are you?"とさらっと答えるのが良い。そういう状況で事細かに自分の調子を伝えようとすると相手は困るだろう。
一方で、互いに忙しくその日に一度も話していないManagerが自分の席にきて、"Hey, how are you?"とわざわざ聞いたら、「今日はあまり話せていないけど、何か問題はある?」というニュアンスの可能性があるので、何もなければ"Very good, how are you?"でいいし、"Everything is going well, how are you?"とか返すのもあり。もし、問題がある場合は、"Yeah, I'm doing well, but I have one thing I wanna get your advise..."みたいな感じで問題点を共有すればよい。私は調子がよかろうが悪かろうがとりあえず、まずはgoodとか、wellとか肯定的な答えをするようにしている。
逆に、仲のよい同僚に"How are you?"と聞いて、"Not great"みたいにあまり芳しくない答えが却ってきた場合は、ちょっと話を聞いて欲しいということかもしれないので、"Oh, what's happen?"みたいな感じで時間があれば話を聞いてあげるのが良いと思う。

で、慣れない人におすすめなのは

とまぁ、"How are you?"にも色々あるわけだが、9割以上はただの挨拶なので、言いやすく、あたりさわりのない返答を慣れない人はするのが無難と思う。すれ違いざまだと、1秒くらいで言い終わらないといけないので、"Good, how are you?"がおすすめ。"グッ、ハワユ"みたいな感じで言いやすい。変にひねるよりも、まず言いやすい言葉がぱっとでるようにして、ゆとりがあれば"Good, how are you? Kevin"というように最後に相手の名前をいれたりするほうが親近感がでる


この話を数名の同僚とすると、結構みんな興味を持って色々語ってくれた。アメリカ人との雑談のネタとしてもおすすめ。

『ゼロ』 ホリエモン、塀の中でなお自由を語る

『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』というタイトルが、昨年11月に家族と渡米し、新しい環境で日々悪戦苦闘する自分の心象風景にあてはまるように感じ、本書を手にとる。読み始めてすぐに思った、これはアタリだと。

物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなければならない。まずはゼロとしての自分に、小さなイチを足す。小さく地道な一歩を踏み出す。本当の成功とは、そこからはじまるのだ。
『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』

腹に落ちてしまえば、もう当り前の言葉であるが、四則演算のメタファーを使って実にうまく表現したものだ。筆者は、自身が発行するメールマガジンで購読者からの相談を受け、それに対して答えるQ&Aのコーナーを設けており、これまでに1万以上の相談に回答をしている。その中で感じたのは、「楽をして稼ぐのはどうしたらよいか」という近道を初めから求める人があまりに多いということ。楽して金を稼ぐ拝金主義者というレッテルを貼られることが多い筆者であるが、本書のコンセプトをそれを真っ向から否定すること。「小さく地道な足し算をこつこつと重ねていく」ことが何もない自分を何者かになるために、避けることとのできないステップだと筆者は強調する。1万人以上の相談に回答するという希有な体験の上での言葉なので説得力も自然と増す。


渡米以後、クレジットカードの審査に15秒で落ちたり、医者に行くにもまず何をしたらよいのかもわからなかったり、運転免許の実技試験に落ちたり、とにかく物事が思ったように進まない。一々壁にぶつかってトライアンドエラーをしなければならず、時間やお金を浪費することにストレスを感じていた。本書を読んで、
1) 日本ではきいた「掛け算」が、住む国が変わったばかりの今の自分にはきかないこと
2) 日々の足し算がヒャクでもジュウでもなくイチであるというのが現実ということ
3) それでもイチを足していくことがやるべきことで、そこはストレスなんて感じず胸をはって地道にやればいいということ
がわかり、その状況を受け入れることで途端に気が楽になった。


本書でもう一つ心に残ったのが下記のくだり。

考えてみればおかしなものだ。
塀の中に閉じ込められ、自由を奪われた僕が、塀の外で自由を謳歌しているはずの一般読者から、仕事や人生の相談を受けているのだから。
そして思う。
「みんな塀の中にいるわけでもないのに、どうしてそんな不自由を選ぶんだ?」
『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』

塀の中で1万人以上の人の相談にのる中で、筆者は「どうしてみんな、そんな不自由を選ぶんだ」と疑問に思う。収監され色々不自由この上ない境遇にありながら、本を読んだり、塀の中の仕事に面白みを見出したり、メルマガを発行したりして、なお自由を謳歌する自分と対比し、わき上がってくる至極自然な疑問。同じようなことは塀に入る前から筆者は言っていたように思うが、塀の外にいる筆者が問うより、塀の中の筆者が問う方が説得力はヒャク倍は増す。


このように1万人以上の人の相談にのる、長野刑務所に収監される、という2つの貴重な筆者の原体験が今までのホリエモン本と異なる彩りを与えている。話題になっている本なので、本ブログの読者の中で読まれた方は多いと思うが、まだ手にとっていない方にはお勧めしたい。

Creative Commons License
本ブログの本文は、 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 非営利 - 継承)の下でライセンスされています。
ブログ本文以外に含まれる著作物(引用部、画像、動画、コメントなど)は、それらの著作権保持者に帰属します。