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『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』 次世代の外交官へのエール

北方領土交渉秘録―失われた五度の機会 (新潮文庫)

北方領土交渉秘録―失われた五度の機会 (新潮文庫)

元外交官東郷和彦による北方領土交渉の歴史を綴った文庫本にして548ページの大作。今年は50冊程度本を読んだが(書評はサボって書いていないが、、、)、本書は間違いなくその中のベスト3に入る。これだけの分量があると、前段の長さに苦しんだり、途中で間延びしたり、クライマックスの盛り上がりを受け切る「締め」がなされず読後感が悪かったりするものだが、本書はそのどれにも属さない。冒頭から結末まで渾然一体としたストーリーとして仕上げられており、史実を記した歴史資料としてはもちろんのこと、読み物としても秀逸である。


東西冷戦後の日ソ(露)の北方領土交渉が本書のテーマであるが、その内容を理解するためには外交、政治、北方領土についてのそれなりの予備知識が必要となる。私のような不勉強の者は、往々にして予備知識の説明の段階で大いに苦戦をしいられるが、本書には簡潔明瞭ながらも、懇切丁寧にわかりやすく問題の本質や予備知識が記載されており、無理なく読み進めることができる。完結にしてわかりやすい説明は、混み入った外交問題を政治家にブリーフィングする外務官僚としての筆者の経験の賜物だろう。また、間延びしないように物語性や読み応え感が常に維持されていることが、他書と一線を画する本書の特色の一つだ。本書全体の構成力からは、数々の日本の外交戦略を打ち立てた筆者の天性の戦略性を感じとることができる。


本書の読み応え感がどこからくるのか考えるに、交渉に関わった当事者のみがだせる生々しさという点がまず頭に浮かぶ。筆者は自らが参加したいくつかの首脳会談の様子を本書で描いているが、国のトップ同士の熾烈な交渉の様子がひしひしと伝わり、その場の息吹まで感じられるようである。本書のクライマックスは、5度目の機会の扉であるシベリア・イルクーツク日ロ首脳会談だが、本を読みながらも正に手に汗を握る緊迫感が伝わってくる。また、ロシアとの激しい交渉だけでなく、時として国家首脳同士間の友情あふれるシーンも温かみをもって描かれており、本書の物語性を強めている。第10章の「橋本・エリツィンの電話会議」は相互の信頼が交渉の基盤になるという筆者の論を裏付けるようなエピソードで、橋本龍太郎元総理とエリツィン大統領の友情が感動を誘う。


また、当事者の視点のみならず、鳥瞰的な高い視座をもって個々の事象が語られていることも、本書の読み応えの源の一つだ。交渉の中心人物として血のにじむような努力をもって扉を徐々にこじ開けていく様を描きながら、その扉が抗うことのできない時代のうねりによりまた閉ざされてしまう様子を後世の人間が歴史を語るような視点で描かれている。自分が関わったことの歴史的な位置付けを現時点でのベストエフォートで定義づけようという取り組みに筆者の見識の深さを感じる。


本書の読み応えの理由として、当事者ならではの臨場感、歴史的な位置付けに立ち戻る高い視座という2点をあげた。だが、それらの基盤となっているのは、「よりよい未来を次の世代に引き継ぎたい」、「そのために、自分が先人から受け継いだもの、そして自分自身が外交の仕事を通してえたものを後世に伝えたい」という筆者の強烈な信念であることを最後に強調したい。一般国民が知りえない外交機密にまで踏み込んで、本書を書いたのは、幅広い日本国民に北方領土問題の現状を理解してもらいたいからだけではなく、次世代を担う外交官へ筆者がエールを送りたいからだと私は思う。北方領土交渉の経緯を500ページに渡り綴り、本書は下記のように締めくくられる(最後を読みたくないという方はここで読むのをやめましょう)。

外交の最前線で、これからの日ロ関係を担っていく外務省の人たち、特に私が会ったことのない若い人たちには、交渉の最終局面で外交官が直面せざるを得ない厳しい現実について、正確な認識と理解を持って欲しい。
交渉がぎりぎりの局面に来たときに、場合によっては自分一人にしか見えない相手国の現実が見えてきたときにも、その現実から視界を放擲することなく、その時点で実現可能な施策を立案し、献策する勇気を持って欲しい。
外交の本旨は、国家と国民の利益のために貢献することにある。
変化する現実の中で国家と国民の利益に最も応えると信ずる施策を立案し、その実現のためにたゆまぬ努力を続けていくことが、国民の前に、職業としての外交の意義を示すこととなる。
北方領土交渉秘録』 〜エピローグ P.504〜

自ら取り組んだ交渉の過程をつぶさに晒し、若い外交官に背中を見せつつ、腐り切った外務省の中でも、理想を失わず、外交官としての本分を全うすべく頑張れ、という熱いエールが送られている。
外交官ならずとも、後進に伝えたいと思う腹に落ちた何かが一つでもある職業人であれば、プロフェッショナルとして何かを残そうという筆者の強い信念に、そして危険を冒しながらも最高のエールを若い外交官に送る筆者の姿に胸を打たれるはずだ。
大作で大変読み応えのある本ではあるが、できる限り多くの方に本書を手にとって欲しい。

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