ktdiskのブログ

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『禁断の市場』現代の金融工学は原始的

本書の著者のマンデルブロは、数学者、自然科学者、経済学者という多彩な顔を持つ。また、『ブラック・スワン』の著者のあのへそ曲がりで気難しいタレブが、唯一尊敬と羨望の眼差しで見て、手放しで賞賛する人物。
本書は『ブラック・スワン』で取り上げられているような不確実性の話が、拡張高い論調で、丁寧に解説されており、『ブラック・スワン』の内容の理解を深めるにはとても役に立つ。要点は、一般の人間には非常に高度で、最先端に見える金融工学という学問は、学問的な完成度という点では以前原始的なレベルにとどまっており、習慣や利便性や流行という俗物的な重力によって、未だもう一次元上に羽ばたくことができていない未成熟な学問である、という問題提起する点にある。その原始的な加減はマンデルブロはいかだに例えて下記のように論じる。

禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン

禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン

何世紀にもわたり、船の製造者は船体と帆の形をどうすればよいのかを研究し続けてきました。彼らは、大部分の日には海は穏やかだということはわかっていますが、それと同様に時には大嵐がくることも知っていました。彼らは天候が穏やかである95%の航海に備えるのみならず、嵐が来て彼らの技術が試される時に備えて船を頑丈に設計したのです。現在の投資家および投資業務に携わっている人々は、天候がずっと良いものと信じて、木を束ねただけのいかだにのって大海原に漕ぎ出してしまった人と同じ境遇だと言えば、その危うさがわかっていただけるでしょうか。
『禁断の市場』 〜第1章 リスクとリターン P.46〜

ハーバード大学のような有名大学でMBAを取得した人の多くがいかだを最先端のコンピュータを搭載したハイテク船と勘違いして、大海原に続々と出航する様というのは、なかなか滑稽でイメージしにくいが、アジア通貨危機、ロシア危機、リーマンショックなどのここ数年の金融危機をみるに、あながち間違いでもないことに気付く。


現代の金融工学が如何に間違っているかを示す為にマンデルブロは一つの数字を提示する。

金融市場の常識からすれば、あの1998年8月の暴落は起こるはずのないことでした。世界中のビジネス・スクールで教えられている金融工学の標準理論によれば、8月31日レベルの暴落の起こる確率は2000万分の1、つまり、10万年間毎日取引を行ったとしても、一度も起こらないようなきわめて低い確率の現象です。それが、実際に起こってしまったのです。そのような大幅な下落が、同じ月に繰り返し起こる確率はさらに小さな値となり、5000億回に1回程度と見積もる事ができます。
『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』 〜第1章リスクとリターン P.20〜

1997年10月27日のアジア通貨危機の下落率が7.19%、1998年8月31日のロシア危機の下落率が6.37%、これらの暴落の可能性を現在の金融工学の標準理論に基づき算定すると「10万年に1度」という数字がでてくる。「10万年に1度」の事象が何と1年間のうちに二度も発生してしまった。我々は、たまたま10万年に1度の事象にでくわしたのだろうか、それともこの暴落を10万年に1度の事象とみなす金融工学の標準理論に某かの間違いがあるのだろうか。前者の見方もロマンチックではあるが、後者の見方をするほうが常識的である。


では、現代の金融工学の寄って立つ土台にどんな誤りがあるのか。マンデルブロリスクの算定は「ベキ分布」を使うほうが現実に即しているのに、「正規分布」を使っているからだと指摘する。「ベキ分布」と「正規分布」の違いについては、id:essaさんのこのエントリーがわかりやすいので詳細はそちらに譲るが、一言で言えば大きな変化というのは沢山の小さな変化の積み重ねであるというのが「正規分布」の世界で、大きな変化は文字通り大きな変化であるというのが「ベキ分布」の世界である。「ベキ分布」の世界でも変化というのは積み重なるものであり、大きな変化が重なることで特大の変化が発生する。確率の計算というのは事象が稀であればあるほどあてにならないとマンデルブロは指摘する。


私は金融工学をまともに学んだことはなく、『ブラック・スワン』や本書から入っているのだが、逆に「ベキ分布」で考えるのが当たり前で、何故「正規分布」が業界スタンダードになっているのか理解に苦しむ。最先端で論理が全てというようなイメージのある金融工学の世界は、学問的な正しさよりも習慣、便利さ、流行り廃りの影響を受けがちな学問であることをマンデルブロは本書で度々指摘する。

それなら、なぜいまだに古い理論が幅をきかせているのでしょうか?それは、習慣と利便さです。実際、簡単な数式があればすぐに答えを出せるし、見せようによっては誰にも理解できないほど難しく体裁を整えることもできるので、周囲の人の尊敬を集めることもできます。
『禁断の市場』 〜第5章 金融工学の落とし穴 P.154、155〜

マンデルブロは資本資産価格モデル(CAPM)、ブラック=ショールズの公式などの生い立ちを紹介しながら金融工学の歴史を振り返りつつ、メジャーになった理論というのは「使いやすい」という要素があったことを紹介する。簡便でありつつも、小難しく見せることもできる、これが金融工学が未だ原始的なレベルにとどまる一つの罠なのだろう。

現代金融理論の司祭たちは、自分たちの打ち立てた理論を守るために何とかして攻撃をかわそうとします。一つのアノマリーが発見されるたびに、それを説明する「修正」が加えられていきます。
『禁断の市場』 〜第5章 金融工学の落とし穴 P.153〜

また、マンデルブロベースが間違っている理論にいくら修正を加えても真理には到達しないと指摘する。「天動説」にそぐわない観測結果を受けて、いくら「天動説」に修正を加えても、大元の考え方が誤っているので、別の反証が直ぐにでてくる。宇宙に飛んでいく為には「地動説」という新しい考え方を構築、受け入れる必要がある。現代の金融工学のレベルは地球を中心に天体が回っているに等しいマンデルブロは指摘する。


マーコヴィッツ、シャープ、ショールズのような現代の金融工学の楼閣を築いた人たちがノーベル経済学賞を受賞する一方で、マンデルブロは経済学の領域ではメジャーな賞の受賞履歴はない。だが、マンデルブロは正しい論理が世に受け入れられることは非常に時間がかかると共に、いくつかの不確実性な事象が折り重なることが必要と達観している感がある。タレブはそういった正しいものを正しいものとして受け入れない現代金融理論の司祭をむき出しの攻撃性で罵倒するが、マンデルブロは淡々として学問的な探究心で真理に迫る。その静かな自信によりかえって迫力と真実味がましている。


本書は、数式を使わずに、金融理論を丁寧に説明するという点でわかりやすい構成にはなっているが、やはり金融工学のバックグラウンドがない人には難解で敷居が高い。だが、『ブラック・スワン』を読んでその内容に対する理解を深めたいという人や、タレブの高圧的なトーンが鼻につくという人にはお勧めなので、是非手にとって頂きたい。

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