Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

ホワイトカラー・エグゼンプションで思い出す労基のほろ苦い指導

数年前、私が勤めていた会社にも残業代がらみで労働基準局から指導・通達がはいったことがある。コンサルティング会社だったので「どれだけ多くの時間働いたか」、ではなく「どれだけ高い価値をを生み出しのか」で評価され、それに応じて賃金が支払われるというのは空気を吸うかのごとく当たり前の感覚であった。


が、度重なってのしかかる長時間労働に耐えかねた若手がどうやら、労働基準局に密告をしたらしく、あえなく行政指導の対象となり、はっきりは覚えていないが大体過去2年に遡って残業代を調査し、対象者に支払うこととなってしまった。


不幸にも当時現場を離れていた私は、その取りまとめ役となってしまい、夜な夜な若手を集めて、説明会及び、残業時間申請書なるものの作成させ、提出させるという後ろ向きなタスクフォースのリーダーに任命された。


説明会では、「生み出した価値に対して報酬を支払うという考えには何も変更はなく、今回の話は日本で事業を営む上でやむなく行政の要請に応じるためにするものであり、プロフェッショナルとして節度ある対応を期待する」なんてことを言って、申請書に過去の月ごとの残業代を記入させた。


頭がきれ、プロフェッショナルとして自覚のある者は、ほどほどの適当な数字をさくっと書いて、さっさと仕事に戻っていく(中には名前だけ書いて0時間で提出して、出て行った者もいた)。こういう、「こんなことには時間はかけずに、今自分の参加しているプロジェクトできちんとした成果をあげることに邁進することが第一」、ということがわかっている人は大体仕事ができ、時間当たりの生産性も非常に高い。「残業代の調査」なんて当局から言われた理解のし難い話への対応一つとっても、仕事への姿勢がよくあらわれる。顧客に対して何ら価値をうまず、自分の価値を高めるわけでもないことには時間を割かないという判断を迅速に自然と下すことができる人はやはり仕事もできる。


で、困ったちゃんなのが、こんな調査にものすごく時間をかける方たち。

  • 地方出張だったのですが、移動時間は残業時間としてカウントしてよいのですか?
  • 実際に働いた時間を通算すると360時間越えるのですが問題ありますか?
  • 土曜日家でメールをみたのですが、それもカウントしてよいのでしょうか?

など、どうでも良い質問ばかりをし、過去の手帳やメールを漁ったりしてとにかく時間をかける。実際に何時間働いたかなんて意味のある数字ではないということを理解しようともせず、誰も正確性を証明できるわけではない、「何時間働いたかという記録」の作成にとにかく時間をかける。


しまいには、説明会開始から3時間ほどたって、「もっと時間がかかりそうなので、家に持って帰っていいですか?」なんて、抱腹絶倒もののことを言う者まででる始末。「こんな記録作成に時間をかけて・・・、他にやるべきことがあるだろう、こんな奴がうちの会社にいるのか・・・、とほほほほ」と深夜残業には精神的にこたえるパンチにノックダウン寸前になったほろ苦い記憶がよみがえる。


また、こんなことに時間をかける人ほど、申請する残業時間がこれみよがしに多い・・・。


「実際にたくさんの時間働いたんです」


とぼそってつぶやかれても、「一連のここでの君の所業を見ていると、何で君の労働時間が多いのかよくわかるよ・・・」と、沈痛な面持ちになってしまった・・・。


小噺というより、殆ど愚痴の様相を呈しているが、そういう経験から声を大にしていいたいのは、「時間に対して対価を払うのか、成果に対して対価を払うのかは、労使間の事前の合意事項とする仕組を整えておいて、あとは雇用者、労働者の裁量に任せるべき」ということ。

要するに、残業規制なんて形骸化しているのだ。

労組が何を言おうが、これだけ広範に形骸化しているという事実には誰も逆らえない。そういう事実が生まれる理由は、経営者による搾取が横行しているというより、「時間に対して対価を払う」という考えにフィットしない職種が多いからというほうがはるかに大きい。
「成果に対して対価を支払う」仕組を強制するまでしなくともよいが、労使間の合意が取れた場合については認めるという仕組が受け皿としてないことが、そもそも大きな問題である。

最大の焦点は、制度が適用される労働者の条件。厚労省が部会に提示した報告書案では、(1)労働時間では成果を適切に評価できない業務(2)権限と責任を相当程度伴う地位(3)仕事の進め方や時間配分に関して上司から指示されない(4)年収が相当程度高い──の4条件を満たす労働者に限定するとしている。
・・・<中略>
労組が懸念する単なる人件費削減の手段として、“悪用”されることを防ぎながら、どうやって多様な労働形態の道を開いていくのか。慎重な論議が求められているといえそうだ。

一労働者、一ホワイトカラーの立場で言わせてもらえば、こんな条件を国が細かく規定すること自体がありがたくない話。それに対して、慎重に時間をかけて議論するというのはもっとありがたくない話。
贅沢は言わないし、波風をたてるつもりもない(働くことに対する考えは人それぞれなので)。ただ、「時間ではなく成果に対して労働の対価をえたい」という志向をもった労働者のみが集まって、自分たちが納得するワークスタイル・評価基準で存分に仕事をするという場(=会社)を作るための受け皿としての法整備を早急にすることこそ、国の役割なんではないだろうか。

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