Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

ウェブにおける「文化」と「文明」

今、司馬遼太郎の『アメリカ素描』を読んでいるのだが、「文化とはなんぞや、文明とはなんぞや」という問いかけがなされており、あまりそういうことを真剣に考えたことのない私には大変興味深い。本書の冒頭で、司馬遼太郎は「文化」と「文明」を下記のように定義する。

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)

ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的ではない。
例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。
アメリカ素描』 〜P.17〜

なるほど、「文化とはなんぞや、文明とはなんぞや」ということがすっと入ってくる。信号とふすまの開け閉めの例は秀逸である。さすが司馬遼太郎
そして、文明が構築されていくそのプロセスについて、以下のように説明がなされている。

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)

その大地が食えるからこそ異文化の者たちがやってくるのである。そのるつぼの中で、多様な文化群がすれあい、たがいに長所をとり入れ、互いに特殊性という圭度を摩滅させ、ついにはたれでも参加できるという普遍性(つまり文明)ができあがる。
アメリカ素描』 〜P.26〜

異文化との交流の中で、普遍的に受け入れられがたい特殊なものはそぎ落し、普遍的に受け入れられうる長所はとり入れ、「文明」が形成されていく、即ち「文明」は「文化」の副産物ということができるだろう。
最後に、「文化」に溶けこむ、「文明」を受け入れるということに対する敷居の高低の話を紹介したい。

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)

どの文化でも文化への参加には、名人芸を要する。しかし文明というレベルでいえば、グズであれ利口であれ、万人に参加できるものでなければ文明にはならない。
アメリカ素描』 〜P.177〜

要すれば「文化」を理解し、受け入れ、そこに溶けこむのはかなり敷居が高いが、「文明」は敷居が低いが故に「文明」なのである、ということか。これまた興味深い。

そして、司馬遼太郎の「文化とはなんぞや、文明とはなんぞや」というフレームワークでウェブを見てみるとこれはこれでなかなか面白い。
一部の名人芸の域に達するコンピュータの使い手のみが、俗に「オタク」などと言われながらもやっていた、不特定多数の人間とネットワークつながり、情報を共有し、共働で何かを作るという「文化」が「文明」の域に達し、今爆発的な普及をみせている、そんな風にとらえることができるのではないか。


3周程遅れ気味だが、近藤さんの「たこつぼ」発言もこのフレームワークで語れば、はてな「文化」の発信源になるだけではなく、そこから普遍性をもつ「文明」を形成していきたい、ということを言いたかっただけなのだろう。「文化」と言えばよかったものを、「たこつぼ」と称してしまったので、若干物議を醸し出したが・・・。一方で、「文化」の発信者が同時に「文明」を形成することができるのかという疑問はのこるが、またそれは別の機会に。

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