Thoughts and Notes from CA

アメリカ在住、外資系企業歴30年の日本人会社員。 アメリカでの生活、海外での子育て、外資でのキャリア構築、そして現地に暮らして見えてきたアメリカ政治のリアルまで、日々の体験を通じて気づいたことをゆるく発信。 グローバルに挑戦する日本人が、少しでも勇気を持てるような発信を目指しています。

40代の軌跡:自分の人生を生きること

歩んだ「獣道」は実は結構舗装されていた

私は、20代と30代は「キャリアの獣道」を歩んできた。新卒で入った会社は当時まだマイナーだった外資系コンサルティング会社で、正直就活する前は名前も聞いたことがなかった。また、初めて転職をする際は、日本法人の従業員が2万人の大手IT企業から60名の中小IT企業に移り、周囲からは稀有な目で見られていた。それぞれで、常識や社会通念に縛られずに、自分の頭で考えて最適解を追求してきたつもりだ。そんな、自分自身のキャリアを作り、歩んでいることを正直イケテルと当時は思っていた。

そして、40代はアメリカへの移住でスタート。さらなる自分の道の追求に高揚感さえ覚えていたが、アメリカでの仕事や暮らしの中で

あ、自分なんて、自分の人生を生きるという点で、まだまだどころか、常識や社会通念に縛られまくっているなぁ

と自分はひよっこであり、勇んで歩んだつもりの「獣道」も結構舗装されていたことに気づく。

 

「自分ファースト」が生み出すアメリカ社会の活力

自分自身の道を追求する、自分のキャリアをオーナーシップをもって果敢に築いていくという点で、アメリカ社会では私はビギナーもビギナーであった。そう、アメリカでキャリアを追求する人たちは遥かに「自分ファースト」なのだ。

アメリカで働いて驚いたのが、今のポジションに留まるべきか、他に良いポジションはないかということを、みんな常に考えているということだ。他により良い給与、より良い機会があれば、社内外問わずどんどん仕事を変えていく。引き継ぎ期間は大体2週間。新しいポジションに移る上で大事なのは、差し支えない引き継ぎプランではなく、「何故その選択をしたのか」という理由のみだ。その理由さえあれば、残された人間は「おめでとう、うまくいくと良いね!」と言うだけだ。アメリカで退職代行のビジネスは成り立たない。
私もCFOの慰留を断り、社内転籍したことがあるが、CFO以外は皆応援してくれた。誰も「あいつは自分勝手だ」などと言わない。何故なら、それぞれが「自分ファースト」でキャリアを追求することこそ、社会に活力が充ちる源泉ということを理解しているからだ。

 

作った「余白」に自分の人生を描く

私生活を大事にし、自分の人生を生きるという点においても、私はアメリカで完全に意識改革された。

  • 私生活を犠牲にして仕事を一生懸命しても誰も尊敬などしてくれなく、むしろ「つまらない奴」と白い目で見られる

  • 家族(犬や猫も含める)と健康は、仕事よりも遥かに優先順位が高く、子どものお迎えはもちろん、犬の散歩も早退の立派な理由となる

  • 2-3ヶ月前に予定を共有しておけば、1-3週間の休みが承認されないなんてことはまずなく、きちんと休みをとらないと「不思議な奴だ」と思われる

  • ボランティアやコミュニティ活動に従事することは、職場でも尊敬の対象となる

  • 「週末をどう過ごし、どんな趣味を持っているのか」というのは、名刺に書かれている肩書よりも、はるかに重要な自分が何者なのかを示す情報である

など、アメリカで暮らしてから、「こういう考え方のほうが確かに人生は豊かになるよなぁ」と感じる瞬間の連続であった。アメリカに移り住んでからというもの、私は

  • 業務時間は3-4割削減され

  • 家族と過ごす時間は、おそらく10倍以上は増え

  • 毎年、夏に3週間休みをとって日本に一時帰国をし

  • 補習校の運営、日本人会の餅つきリーダーなどコミュニティ活動に勤しみ

  • ランニング、筋トレ、ハイキング、料理などの趣味に多くの時間を使い

日本にいる時よりも、仕事の時間を減らして「余白」を作り、私生活をより充実させていった。一時帰国でこういう話をすると「もう、すっかりアメリカ人だね」とよく言われる。日本人とかアメリカ人ではなく、「私自身が何者であるのかこそ大事」という価値観を説明したいのだが、言ったところで「やっぱりアメリカ人だ」と言われそうなので、つい口をつぐんでしまう。

 

人生の選択、仕事はいつまで続けるか問題

私は今50歳で息子が大学を卒業する頃には56歳になる。日本でもアメリカでも、「今後の人生のプランは?」というのは最近よく聞かれる質問で、

息子が大学を卒業したら仕事を辞めて、アメリカを拠点にした方が行きやすい海外を1〜2年ほど妻と旅行してまわり、その後は日本に本帰国して過ごそうと思う

と、最近は答えている。アメリカ人の反応は大体「それは素敵なプランだね、どこが一番行きたい国?」みたいな感じで、互いに老後のプランを共有に話が発展する。
が、日本の友人に話すと「え!?そうなんだぁ、、、」とドン引きされ、それ以上話が続かないことが多い。50代半ばでリタイアすることがどうこうというより、「仕事を辞めるタイミング」を決める判断基準について話をしてみたいのだが、話がそこまで進んだことがないのは残念なことだ。

 

50代の出発点:より自分の人生を生きるために

40代の間に、キャリアの方向性、家族の幸せ、自分の人生の充実ーそのためには何を捨て、何をすべきか、そんな問いを何度も自分に投げかけてきた。そのとき、いつも心に留めていた言葉がある。

選ぶ能力は誰にも奪えない。 ただ、本人が手放してしまうだけだ。
選ぶ権利を手放すことは、他人に自分の人生を決めさせること
だ。
『エッセンシャル思考 ‐ 最少の時間で成果を最大にする』

 

選択肢は限られていても、その中から何を選び取るかは自分次第だ。つい流れに身を任せ、選ぶ権利を手放してしまいそうになる瞬間もある。だが、「他人に自分の人生を決めさせてはならない」という思いが、私は踏みとどまらせ、自らの選択を促してきた。

「いつ仕事を辞めるか?」という問いも、その1つだ。

60歳や65歳といった、誰が決めたのかもわからない線引きに身を委ねるのではなく、自分の意思で「その先」を描くこと。それが、50代を豊かにするために最も重要な選択だ。

この決意に至ったこと、そしてその意思を持って50代を迎えることができることこそが、私の40代の最大の成果なのだと、今は思っている。

 

 

「40代の軌跡」シリーズはこれにて完結となります。拙い文章を読んで頂いた皆さまに心から感謝いたします。

40代の軌跡ーコミュニティ編 ファンドレイズ部の挑戦

保護者の善意で「元気玉」を作りたい

運営委員の経験を通して、子どもたちのために自分ができることをしてあげたい、という保護者の皆さまの善意を強く感じた。もちろん、人によって濃淡はあるのだが、それらの善意を「元気玉」のようにすくい上げる良い方法はないか、ということをずっと考えていた。

私が運営委員をやっていた頃、わが補習校では保護者によるファンドレイズ活動はあまりさかんではなかった。支援を頂いている商工会からも「企業の支援を待つだけではなく、補習校自身も何かすべき」という、もっともなご指導も頂いていた。とは言っても、運営委員の他にも様々な役割があり、保護者の負担も相当だったので、追加で新しい役割を作るのは、良いアイデアのように思えなかった。また、保護者の善意を「役割」という枠に押し込めるのではなく、もっと自由に解き放つ方法があるように思えてならなかった。

 

保護者の部活動ーファンドレイズ部設立

そこで、多めの熱意と善意を持った保護者による有志のボランティアグループを発足することにした。とにかく色々な事情をもった保護者で運営されるのが補習校なので、「自分はできるし、やりたい!」と手をあげてくれる人を中心にスタートさせるのが現実的と考え、「ファンドレイズ部」という保護者の部活動をたちあげたのだった。

仲の良い保護者同士で協力し、毎年コンスタントに$6000くらいの寄付を集めることができるようになった。ファンドレイズ部の初代部長として、自分が運営をしている間は、こうしたいというルールをいくつか決めていたので、そのルールを紹介したい。

 

実施する保護者自身が楽しむこと

ファンドレイズ部の活動はその名の通り「部活動」である。なので、やりたいことだけを楽しんでやることを大原則とした。なので、色々な活動が実施したが、参加者の方々には、「あまりやりたくないことは無理にやらないように」とお願いした。逆に理事や運営の方から、ファンドレイズ部で「こういうことをやってくれないか」ということをお願いされても、やりたくないことは全てお断りした。例えば、日本のノートの販売とかできないかと相談されたが、正直利幅の薄い小売りとファンドレイズは相性が悪い。それなりの金額を集めないと楽しくないし、寄付額をのせて販売すればどうせ保護者から高いと言われるに決まっている。それも気分は良くないので、お断りした。

 

支援の間口を広げること

保護者の皆さんは多かれ少なかれ学校のために何かをしたいという気持ちは持っている。その気持の多い人からは多いなりの、少ない人からも少ないなりの支援を受けるファンドレイズを実施できれば、多くの保護者の善意を「元気玉」のように集めることができる。なので、色々なオプションを用意して、参加の間口を広げることを心がけた。
その取組の一つとして、お手製のお菓子を保護者の方に寄付頂き、それを販売するという「ベイクセール」を実施した。ファンドレイズ部員として「ベイクセール」の実施運営をする、「ベイク品」を寄付する、「ベイク品」を購入する、どのやり方でも補習校のファンドレイズに貢献ができる。寄付する品も別に手作りのお菓子である必要はなく、おにぎり、焼き芋、餅、はたまたコストコで購入したマフィンなどでもよく、「できる方ができることをできる範囲でする」という考えを追求した。
皆さん、補習校が終わる頃はだいたい小腹が空いている。また、アメリカのあまーいお菓子に飽きていて、日本の繊細な味のお菓子へのニーズは非常に高いので、「ベイクセール」はいつでも大盛況であった。

 

見返りを何も求めないこと

「権利は主張しないが、義務も負わない」ということ大原則とした。年によっては10,000ドル以上のお金を学校に寄付できるようになると、「自分たちはこんなにやってるんだから、、、」という意識がどうしてもでてきてしまう。「他の保護者より補習校に貢献しているのだから、補習校の運営についての自分たちの意見がより尊重されてもよいのではないか」という気持ちを持たれている方もファンドレイズ部内にいたが、「自分たちがやりたいことを、自分たちが楽しむためにやっているのだから、何も権利は主張しない」ということを私は徹底した。
「ファンドレイズ部」という名前をつけていると、色々な雑事がどうしても降ってくる。「とある保護者から不要な着物を寄贈されたので、ファンドレイズで販売して欲しい」、「旅行会社からファンドレイズプログラムの申し出があったので対応して欲しい」、などの様々な依頼が部長である私に飛んできた。正直殆どは「煩わしく、やっても楽しくないなぁ」というもので、それを全て受けていたら、徐々に活動の楽しさが色褪せてしまいそうだったため、丁重にお断りしていた。この「やりたくないことはやらない」というストロングスタイルを貫くためには、「権利を主張しない、活動の見返りを求めない」ということが大事だった。

 

新しい組織の形を求めて

組織を運営するために、ある程度の役割決めと指揮命令は必要だ。だが、その枠組に全てを押し込めようとするのは無理がある。多様な人で構成される組織はそれほど単純なものではない。補習校のような非営利の団体は特にそうだ。
補習校関係者には企業で働いている方が多い。そのため、上意下達の運営を当然と思っている方が多く、引力に引き寄せられるように「あれやってくれ、これやってくれ」という依頼が理事から落ちてきた。仲間との場を守るために、既存の組織運営のプレッシャーからの防護壁になることを自分のリーダーとしての使命と位置づけ、うまく折り合いをつけていった。
自由闊達に好きなことを楽しみつつ、組織全体に活気と利益をもたらす、そんな集団を作りたくて「ファンドレイズ部」を設立した。もちろん苦労もあったが、気の合う仲間と楽しみながら、子どもたちのためになることができたことは、私の40代の一つのハイライトだ。共に協力してくれた仲間と支えてくれた保護者の皆さまに心から感謝をしたい。

40代の軌跡ーコミュニティ編 渡米3ヶ月で運営委員長になったはなし

私が40代に最も力をいれたコミュニティ活動と言えば、日本語補習校だ。入学して間もなく縁あって運営委員長を拝命し、その後は理事を勤めたり、ファンドレイズ部という保護者のボランティアグループの立ち上げ・運営に力を入れた。本記事では、入学してすぐに運営委員長なる大役をあずかった経緯を書き、別の記事でファンドレイズ部についてまとめてみたい。

 

餅つき大会で見た素敵な子どもたち

アメリカに移住したのは11月。家を整えたらあっという間に年の瀬となり、妻が日本人会のメールで知った「餅つき大会」に家族で参加した。私と妻はボランティアとして参加し、久しぶりの餅つきに汗を流した。夕方、落ち着いた頃に、子供を放ったらかしにしていたことに気づき、子どもたちを探すと楽しそうにわぁわぁきゃぁきゃぁと遊んでいるわが子の姿が目に入った。

良かった、すっかり溶け込んでいるじゃないか、何をしているんだろう

と見ると「だるまさんが転んだ」をしているではないか。子どもたちの中心になっているのは高校生。素朴な遊びを下の子供たちをまとめながら、自らも楽しんでいる様子がみてとれた。

あぁ、素敵な子どもたちだなぁ、こんな気持ちの良い若者に、自分が何かしてあげられたらよいなぁ

と夕暮れの中、楽しそうに「だるまさんが転んだ」に興じる子どもたちを見て思ったものだ。

 

渡米3ヶ月で運営委員!?

年末に滑り込みで補習校に入学できた子どもたち。年初から補習校に通い始め、日本語で授業を受け、日本語で友達と話すことができる安息の場をえることができた。
一方で、親は受難の時を迎える。補習校では「運営委員会」という保護者のボランティアを毎年選出し、「運営委員」がその年度の運営の舵取りをするところが多い。この「運営委員」は補習校の要であるが、とにかく大変なので、毎年くじ引きで運悪く引き当てた人たちが対応することになっている。5年以上通っているのにあたったことがない人もいる反面、入ったばっかりで「一発ツモ」を引き寄せる幸運の持ち主もいる。運命のくじ引きは年初に行われ、引き当てる確率としては10分の1を少し下回るくらい。妻にくじ引きを任せたところ、見事に「一発ツモ」を引き当てた。昔からあなたくじ運強いけど、裏目にでちゃったね、、、。

 

「だるまさんが転んだ」で押された背中

決まったらすぐに役割決めである。色々な役割があるが妻は議事録を作成するのが上手いので「書記」狙い。夫婦のどちらがやってもよいのだが、「あなたは、仕事があるから」という妻の温かい心配りで妻が対応することに。なお、補習校はオフィスまで車で5分くらいの所にあった。なので、役割決めの日は、働き方改革前の私はなるべく早く新しい職場にキャッチアップするためにオフィスで仕事をしていた。

妻が希望の書記になれるといいなぁ、まぁ図書も大変みたいだけど本好きだからやったら楽しいんじゃないか

とか呑気にオフィスで仕事をしていると、妻から電話がかかってきた。「お、これは役割が決まったのかな?」と電話をとると妻から予想外の報告が。

  • 遠方の方、未就学児の親、旦那さんがアメリカ人の方が多く、それぞれ事情があってまだ全然役割が決まっていない

  • 運営委員長というとりまとめ役を引き受けることができる人がとにかくいない

  • 諸々の状況を考慮すると、あなたが適任と思うから、とりあえず来て、会議に参加してほしい

とのこと。

「わかった、すぐ行くよ」と返事をし、補習校に。まだ馴染みのない校内をさまよい、役割決めをしている部屋を発見。会議室のドアをそーっと恐る恐るあけると、テーブルを囲んで座っている方々は皆さん沈痛の面持ち。そして、補習校の代表である理事長(同じ保護者)が、いかに運営委員は大事で、一刻も早く役割決めをしなければならない、と滔々とお説教に近いトーンで語っているではないか。

ひと目見て「あっ、あかん雰囲気だ」というのは流石にわかる。皆さん、運営委員になってしまって意気消沈の所を、同じ保護者からお説教されるというダブルパンチ。これは嫌すぎる。
こっそり状況を見ている私を発見した妻は「あっ、夫が来ました」と私を紹介し、状況を簡潔にまとめてくれた。何人か運営委員長の候補となりうる人はいるみたいだが、それぞれの難しい事情も共有してくれた。

私は、もろもろの状況判断、特に人を見るという点において、妻を大いに信用している。その妻が、会議で皆さんとよく話し合い、そして私が適任と判断したのであれば、「ま、多分それは正しいのだろう」と直感的には思っていた。また、当時、職場の英語環境に四苦八苦していた私は、「ま、日本語なら何とかなんじゃねーかな」という目算もあったし、日本語で自分の力が発揮できる場所も確保して、精神衛生を保ちたい、という打算も正直あった。

あ、他にできそうな方がいないようなら、"it's しょうがないです"よね、私でよければやりますよ

「it's しょうがない」というのは勤めたいた日本法人でよく使われていた言葉。外資系企業って、本社からおりてきた指示に対して「いや、それは違うんだけどな」と思うことも、プッシュバックするために抗弁するより、さっとこなしちゃったほうが早い、という状況がよく発生する。そういう時は、外資系企業が長い者同士で、「あ、これは"it's しょうがないです"案件だね」とかいって、互いを納得させるのだ。使い勝手がよく、重苦しい雰囲気を少し和ませたく、つい口からでてしまった。

何となくは言っていることはわかるけど、「この雰囲気での第一声がそれかよ、、、」という怪訝な空気と、突如現れた新参者があまりにもあっさり引き受ける想定外のリアクションに、「決まってよかったぁ」という喜びよりも、「こいつ大丈夫かよ」という戸惑いが勝る何とも言えない空気になってしまった。何事も第一印象は大事だ。

流れとしては、「それでも、やってくれるなら」という風に傾いたのだが、その場にいた理事長から

来たばかりのかたが運営委員長をやるのは無理がある、1年くらいは全体の流れを把握しないと、、、

とブレーキがかかる。「いや、あんたさっき、さっさと決めろと言ってたじゃん」と思いつつ、確かに何もわからないので「そうですか、、、」としか言いようがない。結局、私が現在の運営委員からもう少し業務内容の説明を受け、翌週まで持ち越しとなった。

その後、家に帰って妻と作戦会議。日本人の知り合いを作る良い機会だとか、日本語で活躍できる場は一つは欲しいとか、そういう打算的な動機もないわけではなかった。ただ、決定的に私を突き動かしたのは、年末の餅つきでみた「だるまさん転んだ」である。あの場にいたのは、全員補習校の生徒だ。「この子たちに何かしてあげたいなぁ」と思ったわけで、これはまさしく絶好の機会である。そんなこんなで、翌週晴れて「運営委員長」を拝命し、補習校漬けの1年間を送ることになる。

 

仲間と歩んだ激動の一年、そして次の挑戦へ

補習校の運営委員は様々な構造的な課題があり、ものすごく難しい。その難しさについてはここでは割愛するが、もぐらたたきのように、様々な課題が叩いてはでてくる。が、仲間に恵まれ、職場のコミュニティ活動への理解も厚く、激動の1年を何とか乗り切り、運営委員業務を通してスムーズに補習校コミュニティに溶け込むことができた。
困難なことに逃げずに共に1年も立ち向かって、関係が深くならないわけはない。運営委員をやったのは、もう10年以上の前だが、今でもその時の仲間はかけがえのない友達だ。

1年間の運営委員業務を終え、その後は理事として補習校を支える立場にも関わることになった。ただ、私にはどうも「理事」というお硬い役回りがしっくりこないという違和感があった。そこで、もっと自由に保護者同士が力を発揮できる場を作ろうと考え、後に「ファンドレイズ部」というボランティアグループを立ち上げることになる。

その話は、また次回に。

40代の軌跡 仕事編 - 人との絆が紡いだ異国での10年

アメリカでの40代の幕開け

2013年の11月。肌寒い夕暮れのラーレーダーラム国際空港に家族と降り立つ。パンパンに詰まったスーツケースをレンタカーに詰め込み、ナビを頼りに慣れないアメ車でホテルに向かう。私の40代は、そんな一コマから始まった。

 

当時、息子は5歳で、娘は8歳。30代頭に日本からアメリカに移住することを決意し、時間はかかったが30代が終わりに差し掛かろうという時に何とか実現までこぎつける。「新しい異国の地で、家族と幸せな生活を築き上げる」、これは40代の目標というよりも、家族と共にアメリカに移住をすると決断した私にかせられた命題であったと、今となっては思う。

 

私の40代は、アメリカでの生活の基盤を作り、新しい職場やコミュニティで人間関係を築いて生活を軌道に乗せ、このアメリカで自分だけでなく家族が幸せに過ごせるような暮らしを確立する、そんな挑戦に家族と共に取り組んだ10年であった。

50代の始まりに際し、私のそんな40代の軌跡をシリーズで綴りたい。まずは「仕事編」から。

 

本社勤務のプレッシャーと英語の壁

何につけても生活の基盤となるのは仕事だ。もちろん、家庭生活を疎かにしてよいわけではないが、仕事を疎かにしては家族との生活がそもそも成り立たない。私は「勤め先の外資系企業の本社に転籍」という形で移住を実現した。とにかく、本社で「欠くことのできない戦力」にならなければ、日本に戻されるだけである。いや、日本法人には退職届けを提出して転籍しているので、戻されるどころかクビになって終わりだ。

 

仕事で英語を6-7年くらい日本で使っていたとはいえ、所詮日本法人での話だ。アメリカに来て、朝から晩まで、そして昼飯まで英語の環境というのは、30代から本格的に実践的な英語に取り組んだ私にはかなりしんどかった。聞いた英語を日本語で解釈し、考え、また英語にする——その変換作業を一日中求められる環境。慣れないうちは、15時くらいには、脳がぷしゅぷしゅいってきて、疲れでキーンと頭が痛くなる毎日だった。また、言語の壁に阻まれ、思ったようなコミュニケーションできず、当然思ったようなパフォーマンスをだすことができなく、しばらく苦しい思いをした。

 

本社で各地域を取りまとめる部署に所属していたため、北米だけでなく、ヨーロッパ、ラテンアメリカのチームとの調整が求められた。もちろん、同じ会社なので、協力関係にはあるのだが、本社機能というのは各地域の利害調整や要求や提案を選別することも求められ、利害対立をすることもままある。互いに押したり引いたりする中で、「あいつの英語はよくわからない」という声が寄せられた際は、大いに凹んだものだ。仕事の品質の問題であれば、頑張って何とかする自信はあったが、英語だけはどうしても努力で乗り越えられる確たる自信が持ちきれなかった(それは今でもそうだが、、、)。

 

上司の支えと成長の転機

そんな苦しい時も、その時の上司は仕事面でも精神面でもフォローしてくれた。「俺は君の英語がわからなかったことは一度もない、気にすんな」と折に応じてケアしてくれた。そうは言いつつも、彼は役員向けのレベルに達していない私のメールを逐一、きれいな英語に直してくれた。そういう温かい支援がなかったら、多分40代をアメリカでフィニッシュすることなく討ち死にしていただろう。彼とは今は会社も住んでいる州も違うが、折にふれて連絡をとっている。今の自分があるのは、つながった人たちの支援があってのことだと痛感している。

 

日本法人では、部署のリーダーとして10名以上のチームをまとめていたが、アメリカでいきなりマネージャーはしんどい。なので、給料を下げて一兵卒としてキャリアを再スタートさせた。自信のない英語で、要求の多いアメリカのチームをまとめていくことなど想像もできなかったので、妥当の選択であった。が、管理職業務から開放され、自分の仕事にフォーカスすれば良いという状況は追い風になった。そのお陰か仕事の立ち上がりは苦労しつつも、悪くはなかったと思う。

 

渡米当初は右も左もわからない中で言語のハンデを抱えながら苦労をしたが、1-2年すると仕事のペースを大分つかんできた。余力ができた分だけ、仕事の品質をあげることができる。余力ができるに従い、自分個人の役割を超えたチームプレーを心がけ、それによって幅広い層から信頼を集めることができた。管理職経験を活かしつつ、日本人らしい「和と協調の姿勢」は自分の一つの武器になった。

 

さらば気楽な一兵卒の日々

仕事も順調にこなし、かなりゆとりがでてきたぞ、という頃に上司とその上司から個室に呼び出される。机を挟んで笑みを称える二人。嫌な予感がする。口火を切ったのは上司の上司。

いつも素晴らしい仕事をしてくれてありがとう。君の仕事そのものにも助けられているが、君の姿勢はチーム全体に非常に良い影響を与えている。そこでだ、その君の良さをもっと活かすために、君にチームを持ってほしい。

うぎゃぁ、思った通りの話だ。余力があるのがバレたか、と正直思った。評価は大変ありがたいし、チームにもっと貢献はしたい。だが、もう少し個人プレーを楽しみたいという欲と「果たして自分がクセの強いアメリカ人をまめていけるか」という不安も正直あり、

いつも助けてくれてありがとう。大変ありがたい話だけど、責任ある管理職の仕事を、私のような英語が下手くその人間がすると、人事考課などもあるわけだし、メンバーも困るのでは、、、

と本音をもらしつつ、抗弁を試みた。が、渡米当初から私をフォローしてくれた上司は、お前はそういうと思っていたよという感じに

いつも言っているだろう、俺は君の英語がわからなかったことは一度もない。全く問題ないし、君ならできるさ。もっと自信を持て!

とニヤリと笑う。

詰んだ、、、

これはもうチャレンジするしかないと観念し、アメリカでのキャリアを一歩進めることとなる。

 

アメリカ流マネジメントに四苦八苦

管理職となり、日本とは異なるカルチャーショックがいくつかあった。まず、週イチのチームメンバーとの個別面談で、

自分の給料をあげてほしい、もしあげることができないのであれば、何ができるようになれば給料があがるのか示してほしい

とよく言われることだ。アメリカは日本と異なり、労働市場が活発なため、有能な人をつなぎとめるには、常に昇進や昇給へのサポートを求められる。これは正直疲れるし、面倒くさく、当初はかなり面食らった。色々会話を重ねながら、「メンバーの経験値の向上、昇給、昇進を常に気にかけている」というサインを折に触れて送ることが大事なことを学んだ。先手先手をうって、意識しているよという態度を示せば、面倒な会話が突如発生する事態をさけることができる。

 

もう一つは、「部下を働かせすぎてはいけない」ということだ。お世話になっている上司から、ある時またまた小部屋に呼び出される。

君のチームの彼が、あそこの部署に移ることを決めたらしい。移籍先の部署の仕事の魅力を俺に語っていたが、本当の理由はそれではないぞ。君は遅くまでチームを働かせすぎなんだ。この前だって、緊急でない件で彼を18時まで引っ張っただろう。仕事柄、もちろん遅くまでやらないといけないことはあるが、急ぎでもない仕事を遅くまでやらせれば、他の15~16時くらいで切り上げる部署に目移りするのは当たり前だ。ここは日本じゃないんだから、もっと気をつけてくれ。

「いや、18時ってまだ就業時間内なんですが、、、」という声が喉元まででかかったが、そういう問題じゃないということは、上司の助言と周りの働きぶりからわかっていた。

 

確かに私は本社の他のチームよりも張り切って働いていた。アジア地域で働いた経験から、本社側の対応が早ければ、各地域の負担は格段に軽くなることを知っていたからだ。そういう意識が本社にも根付くと良いと思っていたが、周りがついてこれなかったようだ。チームが崩れては元も子もない。郷に入っては郷に従い、無理は強いないようにした。

 

悪戦苦闘の末、見えてきた景色

こんな感じで悪戦苦闘している内に、多くの支援をえながら、「欠くことのできない戦力」として職場で認められるようになったと思う。ペースは早くないものの、地道に昇進や昇給をしてもらい、気づいたらジョブセキュリティを気にすることはなくなっていた。


残念ながら、英語は今だって下手くそなままである。だが、タイミングははっきり覚えていないが、ある時から「英語と日本語を変換」というステップを挟まず、仕事の英語をダイレクトに脳からアウトプット、インプットできるようになっていた。英語による脳への負担が減少していったことは大きな進歩だ。

 

その後も、転籍してからずっとお世話になっていた上司の退社、勤め先のM&A、自らの社内転籍、など様々なドラマの連続であった。が、来たばかりの頃は「右も左もわからない日本人」であった私も、本社で「古株」として扱われるようになっていった。そして、本社に転籍して10年程たったタイミングで、日本法人から通算して15年お世話になった会社を退職し、転職をすることになる。

 

アメリカでの転職というマイルストーン

アメリカでの転職は、私にとってはキャリアの大きなマイルストーンだ。10年前は、私の英語力で、自己PRがうまいアメリカ人を押しのけて、中途採用でアメリカ企業のポジションを勝ち取るなんて、想像ができず、「社内転籍」が唯一の道であった。アメリカでの色々な経験を経て、アメリカの現地企業会社から現地企業への転職をついに果たすことになる。これは、私にとっては「アメリカの労働市場で認められた証」であり、無事オファーレターにサインした際、「あぁ、これが自分の40代の仕事のまとめか、われながらよく頑張ったなぁ」と感慨にふけったものだ。

 

人との出会いが全て

40代の私のアメリカでの仕事の軌跡を振り返ってきた。あらためて振り返って思うのは、「誰と一緒に仕事をするか」が自分には一番大事ということ。「この出会いがあったからこそ、この会社を選んで本当によかった」と思えた瞬間が何度あり、そういう方々と苦楽を共にしながら、難しい仕事を乗り越えてきたことは、私にとっては大きな財産だ。転職の決め手となったのも、「この人と一緒に働きたい」という思いだった。今後も人とのつながりを大事にしていきたいし、自分が他の人にとってもそんな存在になれたら、自分のキャリアに一遍の後悔も残らないだろう。

30代の軌跡 ‐ ビジョンとチャレンジ、その結果えたこと

この5月、気づけば私は50歳になってしまった。
これからこのブログでは、50歳を迎えた節目として「40代の軌跡」を少しずつまとめ、公開していこうと思う。

ただ、その前に――10年前、30代の終わりに書き残した一つの記事を再掲したい。
当時、米国に移住したばかりで、右も左もわからない中、家族とともに新しい生活を始めた頃の自分が、30代をどう振り返り、どんな思いでこれから歩む40代にのぞもうとしていたのか。

これからの「40代の記録」の序章、そして振り返りとして読んで頂けると幸いです。

 

30代の軌跡 - 目標を叶えたその先で

思うところがあり昨年の11月に家族共々米国に居をうつした。これは私の30代の大きな目標の一つであり、何とか形にすることができ安堵感を覚えている。ここしばらくその活動のフォーカスしていたため、ブログがすっかりほったらかしになってしまったが、一つの区切りをむかえたことを機にこれまでの30代の自分の軌跡をまとめてみたい。

 

はじまりの言葉

よいビジョンはたんなる響きのいい言葉の羅列ではない。それは、あなたが心から達成したいと思っている成果の確固たるイメージなのだ。
トーマス・マローン著 『フューチャー・オブ・ワーク』

自分の30代を振り返るに、出発点はこの言葉だった。30歳になり、仕事は超多忙ながらも順風満帆、結婚もして、子どももでき、「さぁ、これからどこに向かっていこうか」と考え始める。自分の天職は何か、適性は何か、キャリアのビジョンはどうあるべきか、なんて切り口であれこれ考えるが、あんまりいい答えに巡り会えない。
Steve Jobsのスタンフォード大学の卒業式のスピーチが流行った頃で、天職につくというより、それを探し求めることが是という風潮が今思えばあった時期だ。「これが俺の天職です」みたいなブログエントリーにはてなブックマークとかが一杯つくのを横目に、色々考えるものの自分が満足いくような解には至らず、悶々と悩む日々を過ごす。

 

そんな中で、「よいビジョンはたんなる響きのいい言葉の羅列ではない。それは、あなたが心から達成したいと思っている成果の確固たるイメージなのだ。」という冒頭の言葉にであう。天職、キャリアなど仕事の枠の中からのみビジョンを作ろうとしていた私には目から鱗であった。仕事にとらわれすぎると『心から達成したいと思っている成果の確固たるイメージ』から遠ざかってしまうように感じ、妻や子どもも含めて家族としてどうなっていたいのかを考えるように視点を切り替えた。自分にとってどんな経験が素晴らしいものだったのか、何をしている時に楽しいと感じるのかを考え、妻と対話をし、キャリアの良きアドバイザーに助言を求め、見栄や外連味を排除し、自分に問いかけつづけた。結果として

カリフォルニア州サンノゼ近辺で悠々自適に暮らし、50歳までには毎日仕事をしないといけない状態から足をあらう

というビジョンを掲げ、そこに向けて走ることにした。
「それは無理なんじゃない?」という人もいれば、
「何だよそれ、、、甘いな〜」という人もいれば、
「素敵で、楽しそうだね、頑張って」とうい人もいて
リアクションは色々だったが、
「自分が心から達成したいと思った成果のイメージ」なので周囲の評価はあまり気にならなくなっていた。

 

英語への挑戦 ‐ 聞けない、話せないからの脱却

ビジョンが決まったので、そこに到達するためのロードマップを練り、それを実現するための現状の課題を洗い出していった。細かなものも色々あったが、最大の課題はとにもかくにも英語。多少読めるが、聞き取れない、しゃべれない、という典型的なパターン。日本語だと饒舌なのに、英語になるとその場からいなくなったように微動だにしないと揶揄されたことも。過去に何度か取り組んだことはあったが、突き動かされる何かがあったわけではないので、形にはならなかった。

 

まだ手の届く感のつかめぬビジョンをにらみつつ、毎朝5時に起き、出勤前に毎日1時間半勉強し、通勤時間にパソコンや携帯で仕事をするのは禁止とし、通勤時間も可能な限り英語の勉強に時間をあてた。フォーカスすることにあわせて時間の使い方をドラスティックに返るという考え方をとりいれたのはこの時期からだった。

 

座学をかなりやりこんだが、それを活かす場がないとなかなか英語は身に付かない。当時のコンサルタントという職を継続しながら、英語を実務として活かす場を作ることを試みたものの、これは現実的ではないという判断を下すのにそう時間はかからなかった。新卒の頃から取り組んできたコンサルタントという仕事は大好きだったが、英語を使う機会のあるプロジェクトに英語のできない自分が関与し、高いフィーを頂き、それに見合う高い価値をお客様に提供し続けることは難しい。なので、即座に成果の求められる社外のお客様を相手にする仕事ではなく、多少ためのきく社内で英語を使う仕事を探し、部署異動をすることに決めた。

 

グローバルな大企業に勤めていたことと社内にも良い人脈があったことが幸いし、幸運なことに複数の部署からオファーを頂き、無事に異動することができた。今から振り返ってみて、この選択はその後の方向を決める非常に重要なものであった。第一線で価値をお客様に提供する社外の仕事から社内のみの仕事に切り替えることに躊躇はあったが、ビジョンに即して歩を進めることにした。

 

「キャリアアップ」という言葉はある種の思考停止ワードなので気をつけたほうがよい。その言葉にとらわれすぎると、給料が下がったり、職位が下がったり、仕事のレベルが下がったりすることを極端に避け、現状の瞬間最大風速をあげることのみに焦点があたり、結果として将来の選択肢を狭めてしまうことになりがち。目先の昇進、昇給におわれるのではなく、長期的な視点にたって、次にうつ布石を決めることは非常に重要。地力を養うために多少のステップバックも許容する「キャリアの踊り場」を作ることは、キャリア形成上の検討すべき大事な選択肢だ。

 

不純な動機が拓いたキャリアの転機

英語を勉強したいという不純な動機で異動した部署では、幸いなことに仕事、人にものすごく恵まれ、非常に充実した日々を過ごすことになる。懸案であった英語も座学をやり込んだ成果もあり、年の割りにはメキメキと伸びていった(と自分では思う)。一日は24時間しかなく、その多くの時間は仕事をしているので、仕事の中で英語を活用する環境を整えることが、英語力の強化には必要不可欠だと今でも思う。

 

正直仕事の面白さはあまり期待していなかったのだが、外部からコンサルタントとしてお客様にサービスを提供するのとは異なる、何というか一蓮托生の一体感というものを異動先の部署では覚え、グローバルな部署統合のような当初想像もしていなかったような仕事の機会にも恵まれ、とても楽しく過ごすことができた。また、会社という枠がなくなっても一生お付き合いができるような素晴らしい方達にも巡り会え、相変わらず大変なるも充実した日々を過ごすことになる。

 

この部署で米国へのアサインメントのチャンスがあったのだが、タイミングが少し悪く手元からするっと落ちていってしまった。話しが立ち消えてしまった時はショックだったが、機会の窓というのは開いたり閉じたりするものだから、焦らず、きちんと目標を見据えて諸事にあたるように心がけた。

 

勤めていた会社は世界に名だたるエクセレントカンパニーで非常に素晴らしい会社と今でも思うが、私にとってはそこで全てのキャリアをおえたいと思えるような会社ではなく、どこかで卒業をするんだろうなぁ、という直観を常に持って働いていた。問題はそのタイミングがいつかで、私にとっては「海外にいく前に卒業するのか」、「海外に行ってから卒業するのか」というのが難しい問題であった。
残念ながらいきなり米国の現地企業にいって就職できるほどの素養は私にはなく、米国に行く以上どこかを経由しなければならない。その経由地において、自分の希望を通すために、実績や信頼という「貯金」が必要であり、転職をするということはその「貯金」が一旦ゼロに戻ってしまうということに等しい。なので、「貯金」がそれなりに貯まった場所で機会の扉が開くのを待つのか、見切って新しい場所でゼロから「貯金」を貯め始めるのか、この点で大いに悩むこととなる。

 

もちろん、米国に行くことだけが唯一の目的ではないので、その他色々考え、最終的には事業の魅力という一点で今の会社に転職することを決意する。外資系の買収合併の波にもまれ、新卒で入社して以来、会社名は5回程変わってはいたが、初めて自分の意志で勤め先を変えることとなった。

 

新天地 ‐ カオスとその醍醐味

転職した会社は日本法人60名ほどの米国ノースカロライナ州に本社をおく外資系企業。転職前の会社は日本法人のみで2万人以上いたことを考えると全く別世界。「カオスを楽しめないとうちの会社ではやっていけないよ」とシンガポールにいる上司から言われていたが、入社してみたらやっぱり想像通りのカオスで腕がなった。時として、想像を上回るカオスに面くらうこともあったが、規模の小さな会社で活躍することの醍醐味にはまり、楽しみながら仕事漬けの生活を送ることになる。

 

2万人もいるような会社に勤めていると、自分の努力が会社全体に及ぼす影響というのは非常に見えにくいし、戦略の間違いというのも即命取りにはならない。一方で、規模の小さな会社は自分がさぼれがそれが全体への影響として覿面にあらわれるし、戦略の実現に向けて一丸となって取り組んで成果に結びつけないと、本当に命取りになる。自分が頑張れば会社全体が上向くし、頑張らなければ沈滞していくというのは、大変ではある一方、大いにやりがいがあるものだ。

 

入社当初は本当にカオスで、「同じ案件情報を4ヶ所に入力しないといけなくて大変です」とか言いながら若手営業が毎日深夜2時くらいまで働いたりしていて、なんか応急の止血をしないと兵士が討ち死にしてしまうというような状況がそこかしこに見えたり、請求書も発行していないのにお客様に支払いをメールでお願いし、入金されないと出荷できないみたいなローカルルールがある部署があって、ビジネスがぽろぽろこぼれていってる状況が散見されたり、野戦医のような気分で応急処置にあたった。

 

まぁ、生来ぱっと見てとっつきやすい人間ではないようで、初めは「あいつ何者?」って感じで遠巻きに警戒されていた。が、諸事に敬意をもって対応していたら、気づいたら同じ方向を目指す同じ船の同乗者として認めて頂き、職場の方とも良好の関係が自然とできていった。外部から専門家としてお客様に価値を提供するコンサルタントという仕事は今でも素晴らしい職業と思うが、スコープとか期間とか気にせず、会社のためには何を一番すべきかという視点で仲間と仕事ができる事業会社での仕事も大変魅力的で、その醍醐味を大いに堪能することとなる。転職して初めの2〜3年はそんな感じでひたすら新しい会社の仕事に没頭した。

 

プライベートのほうは、転職して間もなく長男を授かり、家族4人での生活がスタートした。「男性の育児への参加」という第3者みたいな視点ではなく、「職業は父親、別の姿として会社員」という心意気で子育てにあたったつもりであったが、まぁ、仕事が忙しいこともあり、自分が思い描くような形でどれだけできたかはわからない。家族からは何とか合格点はもらえることを期待したい。

 

そして転籍 - 米国へ、家族とともに

転職して2年半くらいたったころだろうか。本社からCFOが来日し、One on Oneで話す機会を頂けたので、自分の米国本社への転籍を志願した。赴任プログラムがあるような会社でもなく、もちろん日本法人から本社に人が転籍したなんてケースもない会社なので、一筋縄ではいかないだろうなぁ、と思っていたが、自分が希望をもっていることを表明し、その希望の実現に向けてサポートを依頼しないことには何も始まらない。丁度私の所属する部署のグローバルのトップが退職をし、その席が空白のタイミングであったため、いきなりオッケーとはもちろんならず、「希望を持っていることは認識した、でも今の部署のどたばたが落ち着いてからもう一度考えよう」というような答えをもらうことになる。まぁ、第一ラウンドとしてはこんなものかと。ゴールに向けて地道に努力をしていくと、機会の扉は自ずと開く、というのは経験則としてあったので、あまり焦らず、扉がゆっくり開いていくのを待ちながら、その期が到来する時に色々サポートがもらえるように目の前の仕事を着実にこなすことに腐心した。

 

ほどなくして空白だったポジションに新しいリーダーが着任し、その人ともOne on Oneで話す機会を得る。仕事の話が一通り終わった後に、米国本社への転籍の希望をストレートに伝えると、しばらく考え「是非サポートしたい、だが自分も新しいポジションについたばかりで、目の前にある山積みの問題を解決しないといけない、だから必ずサポートするが落ち着くまでもう少し時間が欲しいし、一緒に今の問題解決に取り組んで欲しい」というような答えをもらう。まぁ、それはそうだ。入社当初は日本では私一人だった部署も、会社の拡張や役割の見直しなどを受け、10名以上のチームを任せられるようになっており、私の受け持つ範囲はかなり広がっていた。着任したばかりの人にしてみれば、それなりに規模があって落ち着いて回っているところをいきなり動かしたくはないだろう。ただ、サポートをしてくれることを約束してくれたので、一緒に目の前の問題解決にあたり、機会の扉が少しづつ開いていくのを待つこととした。

 

その後も、竜巻のように吹き荒れる色々な仕事上の問題に取り組み、嵐のように過ぎ去る日常の中でも子どもも健やかに成長し、地域社会への関わりみたいなことも徐々にして増やしたりして、充実した日々が過ぎていった。転職して、そろそろ5年目に近づこうかという頃、シンガポール人の上司と話をしていると、「本社への転籍について具体的な日付とプランをそろそろ決めたい、だからまず移行プランの素案を作って欲しい」という打診を受ける。鍵はかかってないんだけど、ちょこっとしか開いていない機会の扉が、「ぎぎぎぎっ」みたいな鈍い音をたてて自然と少しだけ開き、自分の手をそこに差し入れる余地がようやくできる、そんな感触を覚えた。

 

扉が開きかけたら、後はそこに向けて力を集中するのみ。ターゲットとする移行日をがちっと決めて、そこから逆算した詳細な移行プランを作ったり、引き継ぎのための体制作りをしたり、米国本社への出張の際に家族を連れていって現地を視察してもらったり、日常の仕事はもちろん疎かにはしないが、それ以外の力をほとんど転籍の実現に注いだ。2013年の11月をターゲットとして、2013年の1月から具体的に色々動き出した。5年も勤めたポジションだったので引き継ぎの体制作りに大いに苦労することとなったが、最終的には自分の居場所のない(笑)体制を作ることができた。

 

なお、ここで日本語で書いても詮ないことであるが、シンガポールにいる直属の上司はこの転籍に向けて、文字通り一番手を動かして助けてくれた。前例のないことは、口を動かす人は一杯いるのだが、前に進めるために苦労しながら手を動かしてくれる人は少ない。私がいなくなって困るのは自分にも関わらず、私の希望をくみ、成長性に期待をかけ、実現に向けて腐心してくれた上司には感謝しても感謝しきれない。そういう上司に恵まれたことは心の底から幸運と思う。

 

ビジョンとチャレンジ、その結果えたこと

つらつらと駄文を書き連ねたが、

カリフォルニア州サンノゼ近辺で悠々自適に暮らし、50歳までには毎日仕事をしないといけない状態から足をあらう

というビジョンに向け、色々チャレンジを重ねてきたが、アメリカに居を移すという一歩を踏み出すことができ、大きな前進を遂げることができた。30歳の頭から数えて、この一歩を進めるのに8年も時間がかかってしまったし、場所も西海岸ではなく、東海岸で全然違うし、ここがもちろんゴールでもない。30代頭では見えなかったことが、今は見えることもあるので、ビジョンも見直さないといけないだろう。

 

ただ、今すぐにビジョンを見直すという気には、何か今はなれなく、再設定した中長期のゴールに向けて走り出すまでに半年くらいは少なくともかけてもいいかなぁ、と思っている。住む国が変わるというのはそれ自体が大きな変化なので、その変化に少し身を委ねて、この国でしばらく生活、仕事をして、もう少し色々なことが見えるまで時間をかけようと。

 

私は、難しい仕事を仲間と一緒に一生懸命取り組んで、大変な思いをしながらもやりきることが大好きだ。今の会社、前職も含めて、チャレンジをともにしてくださる方々、そしてそういう仕事の機会に多く恵まれ、本当に幸せだと思う。その経験、そしてその過程で出会った人々、築いた人脈というのは自分にとっての本当にかけがえのない財産だ。

 

また、仕事以外では、子育てをしながら幸せな家庭を築くという、これまたものすごく難しいチャレンジを妻と取り組んでいることに強い充実感を覚える。世界で最も難しいであろうこの取り組みに一緒にチャレンジする最高のパートナーが自分にはいて、これまた大変幸せなことだと思う。居をうつすにあたり、妻には大変な苦労をかけたが、あらためてその諸処の課題を解決していく能力と物事をやり抜く馬力を目の当たりにし心強く思う。本当にありがとう。

 

そして、今家族で異国に居を移し、子供たちも仲間に加えて、新しい環境に適応しみんなで楽しく過ごすという一大プロジェクトに取り組み始めた。私や妻だけでなく子供たちもプロジェクトメンバーとして大いに四苦八苦している。お父さんがプロジェクトマネージャーで「よし、成功に向けてみんなで頑張ろうぜ」みたいな感じで、家族という最もつながりの強い仲間とチャレンジできる今の状況を私はとても気に入っている。

 

天職という言葉に30代の頭はとらわれたが、今は気にならない。私は仲間と難しいチャレンジに取り組み、苦労をわかちあいながらも、成し遂げる、その過程と達成した時に覚える充実感が大好きなんだ。それがわかったのだから、何を天職などというものにこだわろうか、それが今の正直な気持ちだ。

 

長文に最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。

インディアン・カジノに行ってみた - “保留地”の奥にあるアメリカのリアル

インディアン・カジノの歴史と現在:6兆円産業の光と影”という『インディアンとカジノ』というちくま新書の紹介記事を以前書いた。

それ以降、うちから20分近くのネイティブ・アメリカン保留地にあるインディアン・カジノに是非行ってみたいと思っていた。息子が一人で一時帰国し、妻と二人の週末に普段できないことをと、訪れてみることに。カジノだけに行くこともできるが、併設するホテルに折角だから泊まることにした。
言ってみた感想は、目から鱗が落ちる経験と学びの連続であった。本記事では、どんな経験や学びがあったのか共有してみたい。

 

高速道路からそのままカジノへ直行

わが家から車を走らせること20分ほど。ナビで高速道路をおりて近くにあることは確認をしていた。周囲は一面原っぱで本当に何もない。こんな所にホテルなんてあるんだろうか、と思いつつ、ナビの指定するままに高速道路をおりると、そのまま交差点もなくカジノホテルに吸い込まれていく、、、。なんと高速直通である。要するに、その高速のおり口はカジノのために作られたものであった。
道なりに進んでいくと、大型アミューズメントパークを彷彿させる絢爛なゲートが迎えてくれる。ゲートをくぐると5階建ての巨大の駐車場に。こんな辺鄙な所にこんな巨大な駐車場?と、異世界に飛んだような感覚におそわれる。初っ端からやられた。

 

駐車場に漂う「合法」の香り

巨大の駐車場に車を停車すると、はじめに予想通りの臭いが。そう、カリフォルニアでは合法のマリファナの臭いが充満しているのだ。「マリファナの臭いって、お前吸ったことあるのか?」と思う方もいるかも。だが、が、吸ったことなくても、あの独特の臭いを嗅げば「あ、これがマリファナの臭いか」と誰でもピンとくると思う。そういう、「いかにも」な独特の臭いがするのだ。

週末だけあって、駐車場はそれなりに混んでいる。適当なところに駐車し、荷物を車から下ろすと、タトゥーの入ったチンピラ風のおにいちゃんが、

お前ら、スロットか?バカラか?何やんだ!

と急に話かけてくるではないか。ホテルに泊まるだけだ、というとつまらなそうに去っていった。あそこで「バカラだ!」とか行ったら、どういう展開になったんだろうか、、、。

 

地方のパチンコ屋と思いきや

ラスベガスには何度か行ったことがある。私は、ギャンブルは好きではないので、経験としてちょろっとスロットを回したくらいだ。アメリカのカジノと言えばラスベガス。なので、そこを頂点として、そこ以外のカジノはベガスには劣るだろうというイメージでいた。「ま、地方のパチンコ屋くらいかな」という期待値であった。
が、駐車場からカジノ施設に足を踏み入れて度肝を抜かれた。めちゃくちゃ綺麗で、設備も最新なのだ。高級感の漂う赤い絨毯が敷き詰められ、カジノ内は人で溢れている。スロットもあれば、もちろんルーレット、ポーカー、ブラックジャック、バカラと何でもある。フロアの先まで立ち並ぶスロットは、畳一畳ほどもある縦型の超大型液晶モニタをそなえている。スロットのタイプも色々あり、「KARATE-SENSEI」とかいう名前のベストキッドのぱくりみたいな空手着を着た日本人がが正拳突きする何とも言えないスロットも。デザインはさておき最新のテクノロジーが詰め込まれている機種であることはひと目見てわかった。
ここの設備に比べれば、私が見たベガスのカジノのほうが「地方のパチンコ屋」感がずっとでている。

 

カリフォルニアの裏側が集結?

そして、もっとも驚いたのはその客層である。私の住む街はこじんまりとしているが、きれいなショッピングモールや一通りの商業施設のある小綺麗な街である。学区の影響と思うが、近隣と比べると地価も高いので、自ずと住んでいる人もいかにもカリフォルニア在住です、みたいな人が多い。金曜日にWhole Foodsに行けば、レジでは多くの人が部屋に飾る花束を買っている、そんなエリアだ。
ところが、そこから車で20分ところに走らせたカジノ施設に溢れているのは、正直「こういうやつ、殆ど見ないけどなぁ」というチンピラや小汚いじじいとばばあ、ばっかり(私の率直な印象と感動を伝えるため、ポリコレをとりあえず脇においてます)。「どこから来てんだろう?」という人が、くすんだ瞳でピカピカなスロット台に向かい、一心不乱にボタンを押している。フロアの先まで続くスロット台に、そういった方々がズラーッと並ぶ様は異様そのもの。普段小綺麗な街に住んでいる私に、カリフォルニア中のチンピラが集結しているんじゃないか、という錯覚さえ起こさせる。
いるところにはいるんだな、と大変勉強になった。

 

豪華絢爛なホテル

まずはホテルにチェックインしようと、カジノを突っ切ってホテルに向かう。面白いことにカジノを突っ切らないとホテルには行けない構造になっている。ホテルの車寄せは、これまで見たどのホテルよりも巨大であった。それもそのはず、遠くからバスツアーで多くの人が押し寄せているのだ。カジノツアーの巨大なバスが4-5台連なる様は圧巻である。

そして、チェックインをすべく、ロビーに入ろうとすると、屈強なガードマンからIDの提示を求められる。そう、ホテルに泊まらないカジノ客が侵入しないように文字通りガードしているのだ。カウンターの様相は高級ホテルのそれ。普段宿泊しているシティーホテルやモーテルとは大分異なる。もちろん、部屋もピカピカでゆとりがあるし、おいてあるアメニティも高級感が漂う。
ジムも備えているので、チェックすると数台のトレッドミルときちんとしたダンベルセット、マシンやケーブルも一揃いあり、おまけにスミスマシンまである。カジノホテルに来て筋トレに勤しむ人は皆無であろうに、「金かけてんなぁ」という設備であった。

夕食はカジノ施設にあるステーキハウスに行くことに。近隣のワイナリーのワインを取り揃え、雰囲気・味・サービスもきちんとしている。予約が必要な上、決して安い値段ではないので、レストランの中だけは客層と雰囲気が異なり、それも大変興味深い。
さらに興味深かったのは税金だ。アメリカのチップは税抜き金額に20%かけるのが一般的な支払い方。なので、税抜き金額が確認すべく明細を見ると、合計金額は一行しかないではないか。そう、ここは税金がかからないのだ。
良いレストランで食べると税金もそれなりの額になるので、思いがけないお得感を味わうことができた。

 

アメリカのラウンドワン?

食事の後は、遊びで少しスロットでもやろうと思ったが、くすんだ瞳で一心不乱にスロット台に向かう人々に妻と交じることに、どうしても食指が動かず、ギャンブルはやらずにバーに行って飲み直すことに。バーエリアは高級バーというよりラウンドワンみたいなアミューズメントエリアという色が強く、これも興味深かった。ゲームセンター、ビリヤード、バーチャルゴルフなど未成年も楽しめるコーナーとなっており、楽しげに友人と遊ぶ若者で賑わう。立派な屋内ゴーカート場まで備えており、やりすぎ感もなかなか楽しい。ホテルの外観から落ち着いたバーでもあるのかなと思ったが、バーカウンターには席毎にポーカーマシンが設置されており、やはりここはカジノホテルなのだと再認識した。

 

きらびやかなホテルに潜む過去と現代のアメリカ

「インディアン・カジノ」という本で得た知識が、ぐっとリアリティを増した立体的なイメージとして浮かびあがる貴重な体験となった。「異空間」と呼ぶに相応しい場所で、多面的な側面を持ち合わせていて、実際に足を運んだからこそ、その核心に少し近づけたような気がする。

ぱっと見は、ギャンブルができる巨大な娯楽施設。でもその裏側には、先住民の自治や経済的な自立、アメリカの歴史や今の社会が抱える問題まで、いろんな要素が複雑に絡み合っている。キラキラとした見た目の中に、償いや格差、そして資本主義社会のリアルが静かに潜んでいるのだと感じた。

決して観光地として万人におすすめできる場所ではないが、「こんな世界がすぐ近くにあったのか」と、自分の中の常識を少し揺さぶってくれる、そんな体験となった。興味本位でも、問題意識でも、何かを学びのきっかけとしてでも、一度訪れてみる価値は十分にある。

ファンド傘下の企業で感じる、「資本の論理」のリアル

PEファンドに買収されて

昨年、私の勤める会社はとあるPEファンドに買収された。買収による上場廃止に伴い、四半期単位の株式市場からの売上目標という強烈なプレッシャーからは解放された。短期的に数字を「整える」労力がなくなり、より中長期の課題に時間を割くことができ、経営にとってプラスになっていると実感している。

 

生々しい資本の論理

とはいえ、四半期単位の目先の数字に追われる感覚は和らいだものの、株式市場という「神様」が、PEファンドに変わったにすぎない。「資本家の利益が最も大事」という構造は変わらない。 経営陣は高い年収を受け取る代わりに、ファンドの裁量でクビは一瞬で吹き飛ぶ。なので、ファンドからの問い合わせへの回答は常に最優先事項で、経営指標を扱う私の部署の忙しさは、彼らからの「指導内容」によって大きく変わる。

経営陣は、給与にプラスして、再上場の際の株式価値に応じてもらえるインセンティブがある。よって、株式市場における想定価値の最大化が、経営目標になっていると言っても過言ではない。

また、今の会社は、給与も健康保険も前職と比較して、結構控えめであり、経費もかなり渋い。無駄な支出を抑えた規律のある管理ではあるが、この結果としてうまれた剰余は資本家に吸いあげられ、その一部が現経営陣とその少し下の一部の層に配分されるという仕組みという印象は拭えない。

 

『民主主義と資本主義の危機』と「レンティア資本主義」

私は今まで述べたように、PEファンドに保有された会社のFP&Aのそれなりのポジションで仕事をさせてもらっているので、そういうアメリカ型資本主義のメカニズムが必要以上に見えてくる。 最近、マーティン・ウルフの『民主主義と資本主義の危機』をようやく読み終わった。580ページという大著で、現代民主主義と現代資本主義の構造改革を促す意欲作であった。

本書の中で、まさにこうした構造を「レンティア資本主義」として問題提起されている。

成功している企業はレントを創出する。こうしたレントを株主と経営上層部トップがすべて獲得すべきだという明確な根拠はない。さらにレントの存在と、少数の経営陣による支配およびプリンシパル・エージェント問題が結びつき、政府に対して働きかけるレント・シーキングをする動機と機会の両方をもたらす。私たちはまさにそれを目の当たりにしている。
『民主主義と資本主義の危機』マーティン・ウルフ

会社が成功して大きな利益をうみ出しているのであれば、それは資本家と経営陣だけで産み出されたものではなく、従業員やパートナー企業はもちろんのこと、お客様や社会的インフラなど色々なものにささえられてのことだ。日本企業のようにむやみに内部留保として溜め込むのも褒められたものではないが、資本家とごく一部の経営上層部のみで分かち合うアメリカ企業はそれ以上に問題と感じる。中間層がどんどん薄くなって格差の広がるアメリカ社会の制度的問題点があますことなく描かれており、大変読み応えがあった。

 

「資本の論理」との距離のとり方

というような問題意識は持ちつつも、私も今回の買収が完了した際には、リテンションボーナスを頂き、再上場の際のインセンティブプログラムの対象にもなり、正直そういう仕組のおこぼれにあずかっている。富裕層とはとても言えないが、そういう恩恵に預かりながら中間層に踏みとどまっているという感じだ。そういうごほうびにあずかる身の上を考えると、自分が制度の被害者なのか、加害者なのかわからなくなってくる。

 

同じくPEファンドに保有されているIT企業のCFOをしているインド人の友人と先日昼ご飯を食べて、そんな問題意識を話したら、

何言ってんだ、仕事は「金」のためにやってんだから、「金」が稼げるポジションをとるのは当たり前だろう。俺も、ファンドからあの会社を買ったらどうだ、この会社を買ったらどうだと、四六時中言われているが、そういうもんだろう。

と一蹴されてしまった。

 

まぁ、法律の範囲内で、企業の一員として職務上の義務を全うしているだけだし、家族と自分の生活を守ることが最優先事項であるので、理にかなっているし、現実的でもある。が、会社の数字を見つつ、資本の論理を目の当たりにするポジションにいると、制度的な問題点が否応にも目についてしまう。こうやって、生々しい様子を世に発信し、問題提起しているのは、きっと私の微力ながらのレジスタンスなのだろう。

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