PEファンドに買収されて
昨年、私の勤める会社はとあるPEファンドに買収された。買収による上場廃止に伴い、四半期単位の株式市場からの売上目標という強烈なプレッシャーからは解放された。短期的に数字を「整える」労力がなくなり、より中長期の課題に時間を割くことができ、経営にとってプラスになっていると実感している。
生々しい資本の論理
とはいえ、四半期単位の目先の数字に追われる感覚は和らいだものの、株式市場という「神様」が、PEファンドに変わったにすぎない。「資本家の利益が最も大事」という構造は変わらない。 経営陣は高い年収を受け取る代わりに、ファンドの裁量でクビは一瞬で吹き飛ぶ。なので、ファンドからの問い合わせへの回答は常に最優先事項で、経営指標を扱う私の部署の忙しさは、彼らからの「指導内容」によって大きく変わる。
経営陣は、給与にプラスして、再上場の際の株式価値に応じてもらえるインセンティブがある。よって、株式市場における想定価値の最大化が、経営目標になっていると言っても過言ではない。
また、今の会社は、給与も健康保険も前職と比較して、結構控えめであり、経費もかなり渋い。無駄な支出を抑えた規律のある管理ではあるが、この結果としてうまれた剰余は資本家に吸いあげられ、その一部が現経営陣とその少し下の一部の層に配分されるという仕組みという印象は拭えない。
『民主主義と資本主義の危機』と「レンティア資本主義」
私は今まで述べたように、PEファンドに保有された会社のFP&Aのそれなりのポジションで仕事をさせてもらっているので、そういうアメリカ型資本主義のメカニズムが必要以上に見えてくる。 最近、マーティン・ウルフの『民主主義と資本主義の危機』をようやく読み終わった。580ページという大著で、現代民主主義と現代資本主義の構造改革を促す意欲作であった。
本書の中で、まさにこうした構造を「レンティア資本主義」として問題提起されている。
成功している企業はレントを創出する。こうしたレントを株主と経営上層部トップがすべて獲得すべきだという明確な根拠はない。さらにレントの存在と、少数の経営陣による支配およびプリンシパル・エージェント問題が結びつき、政府に対して働きかけるレント・シーキングをする動機と機会の両方をもたらす。私たちはまさにそれを目の当たりにしている。
『民主主義と資本主義の危機』マーティン・ウルフ
会社が成功して大きな利益をうみ出しているのであれば、それは資本家と経営陣だけで産み出されたものではなく、従業員やパートナー企業はもちろんのこと、お客様や社会的インフラなど色々なものにささえられてのことだ。日本企業のようにむやみに内部留保として溜め込むのも褒められたものではないが、資本家とごく一部の経営上層部のみで分かち合うアメリカ企業はそれ以上に問題と感じる。中間層がどんどん薄くなって格差の広がるアメリカ社会の制度的問題点があますことなく描かれており、大変読み応えがあった。
「資本の論理」との距離のとり方
というような問題意識は持ちつつも、私も今回の買収が完了した際には、リテンションボーナスを頂き、再上場の際のインセンティブプログラムの対象にもなり、正直そういう仕組のおこぼれにあずかっている。富裕層とはとても言えないが、そういう恩恵に預かりながら中間層に踏みとどまっているという感じだ。そういうごほうびにあずかる身の上を考えると、自分が制度の被害者なのか、加害者なのかわからなくなってくる。
同じくPEファンドに保有されているIT企業のCFOをしているインド人の友人と先日昼ご飯を食べて、そんな問題意識を話したら、
何言ってんだ、仕事は「金」のためにやってんだから、「金」が稼げるポジションをとるのは当たり前だろう。俺も、ファンドからあの会社を買ったらどうだ、この会社を買ったらどうだと、四六時中言われているが、そういうもんだろう。
まぁ、法律の範囲内で、企業の一員として職務上の義務を全うしているだけだし、家族と自分の生活を守ることが最優先事項であるので、理にかなっているし、現実的でもある。が、会社の数字を見つつ、資本の論理を目の当たりにするポジションにいると、制度的な問題点が否応にも目についてしまう。こうやって、生々しい様子を世に発信し、問題提起しているのは、きっと私の微力ながらのレジスタンスなのだろう。