Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

公共性・中立性は参入障壁ではない

実際、自分としてもブログを日々書いている中、「ジャーナリズムたるには、中立性とか不偏不党がうんぬんかんぬん」とやられてしまうと、あまりに恐れ多いし、なんか話がややこしくなって、ブログを書く手も止まってしまうという感じがあります。
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徳力さんのエントリーにジャーナリズム云々というのは少し堅苦しすぎてややこしいという話があった。確かに「この内容を登録する」というボタンを押す前に、「自分の書いたエントリーは、本当に公共性が高く、中立性を保ったものか」と常に自問自答しないといけないとなってはかなわない。まして私の場合、「Casual Thoughts」と言い切っているくらいなので、「君のエントリーは公共性が・・・」とか言われても「Casualって言ってんだろ!」と逆切れしてしまうだろう。


ダン・ギルモアはその著書の中で、下記のようにウォーターゲート事件におけるジャーナリズムが果たした役割は社会には不可欠であり、それは主流のジャーナリズムでなければ果たせないという。

ブログ 世界を変える個人メディア

ブログ 世界を変える個人メディア

私はジャーナリズムの使命を信じており、ジャーナリズムがこの変化を生き抜くことができるよう願っている。大手新聞などの主要ジャーナリズムが衰退すれば、本格的な調査報道は減っていくか、もしかしたらほぼ消滅してしまう恐れすらあるからだ。新たなウォーターゲート事件が起きたとして、ワシントン・ポストが成し遂げたことの一体何を、ブロガーが担えるのだろうか?
『ブログ 世界を変える個人メディア』 〜第6章 P.192〜

技術革新により映像コンテンツをあまねく「配信できる人」になるための敷居は格段に下がったとは言え、確かに設備・投入できる人員・時間を考えると、一定以上の資本力がなければ果たしえない役割・仕事があるのもきっと事実であろう。技術革新の進展と共に垣根が低くなることはあっても、プロフェッショナルのジャーナリストがこの世から必要なくなるということはない気がする。

技術がいくら進んだからと言っても、草の根ジャーナリズムが主流のジャーナリズムに置き換わることがないとすると、やっぱりマスメディアにはある程度の中立性や公共性が求められるんだろうなぁという気は確かにするし、骨太のプロフェッショナルによる内容の濃いコンテンツを見たいという希望もある。でも、だからと言って、いやむしろだからこそ、フジテレビ・ホリエモン騒動の際に、マスメディアサイドから「ホリエモンでは公共性が、公共性が・・・」と懸念が提示されたことについては非常に違和感がある。一般市民から「いや、ホリエモンでは公共性が・・・、内容の濃いコンテンツが提供されるかどうか不安が・・・」という声が爆発的に高まるというのならわかる。しかし、そういう声の高まりが発生する前にまずマスメディアの側が「あの新しく入ってくる人では公共性が保たれるか疑問があります」と主張するのは如何にも筋が違う。使命感という枕詞をつけて耳障りをよくしているが、極端な言い方をしてしまえば公共性・中立性という言葉を参入障壁としているだけに過ぎない。プロのジャーナリストを喧伝するなら、世間からそういう声が自然とおこるような質の高いコンテンツを提供することが先決だろうし、「経営者がそういう仕事を自分にさせないなら他のマスメディアに出て行くまで」くらいの泰然自若とした態度でいてほしいものである。6月24日にも書いたが、マスメディアは、技術革新によるパラダイムシフトのインパクトをもっと真剣に考えるべきである。

TBSと楽天の統合問題の中で、また「マスメディアの公共性」ということが議論になるように予想されるが、ホリエモン騒動の時からマスメディア側の主義主張がどれくらい進歩・進化しているか見ものである。

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