40代、50代は働き盛りであると共に「推し活」盛りだ、と言っても過言ではないくらい、同年代は推し活に精を出している。妻は数年前から、日韓合同のオーディションから結成されたNiziuの推し活に励んでおり、私の兄はちいかわの推し活に勤しんでいる。Facebookを見れば、同年代の友人の推し活の投稿が目立つ。昔、「アイドルの追っかけ」というと、少し変わった奴らという目でみられたものだが、今は市民権を得たと言って差し支えないだろう。
なぜ、同年代がこうも「推し活」にハマるのかを考えると、子育ての負担の減少がきっかけとなっていると推察される。推し活の定義を広げてしまえば、対象に無常の愛を注ぐ子育てだって立派な「推し活」だ。ダメな子供ほど可愛いなんてよく言うが、ちょっとパフォーマンスが今ひとつだった推しを見ても、それはそれで魅力を感じてしまうというのと精神構造は似ている。子育てという特大級の熱意を求められる「推し活」を終えた年齢層が、浮いた時間、お金、そして愛情を注ぐ対象を見つけるというのは、極めて自然だ。
文芸評論家の三宅夏帆さんが『「好き」を言語化する技術』の中でこう述べている。
自分の好きなものや人を語ることは、結果的に自分を語ることでもあります。冷静に自分の好みを言語化することで、自分についての理解も深まる…
『好きを言語化する技術』
中高年の推し活というのは単なる他人を応援する行為ではない。子育てという、生物学的に強制力のある「推し活」がひと段落して、時間的、金銭的、感情的にできた余白に、今の自分を再発見し、投影していくという行為ともとれる。推しの対象として何を選ぶかには、自分の価値観が反映されるし、実は抑圧していた認識していなかった自己も反映されるかもしれない。
もちろん、「推し活」に勤しんでいる方々のほとんどは、大げさに考えず、純粋に幸福と癒しを求めているのだろう。楽しんでなんぼの「推し活」なので、そのまま大いに楽しめば良いと思う。
だが、若者がやる推し活は、憧れが原動力となった「誰か自分以外の物語を追いかける行為」だろうが、中高年の推し活は「成熟した大人による自分の物語の再発見」という側面もあるような気がする。
推し活を単なる応援にとどめず、人生の後半戦のスタートにおける自分の再発見とするためには、言語化と自己理解が求められる。紹介した『「好き」を言語化する技術』には、その方法論が語られているため、「推し活」中の人には是非お勧めしたい。
さて、「で、お前は何か推し活しているのかと」聞かれると、実は私にはこれといった推しは思い当たらない。最近、相撲熱が再燃し、「推し力士」を探しているが、候補は何名かいるが、はまる程ではない。ここ数年取り組んでいた補習校のファンドレイズ活動は、補習校の生徒たちの「推し活」とも言えなくないが、引っ越しに伴い活動を停止してしまった。
仕事終わりや休日に何をしているのかと言えば、筋トレやランニングに勤しんでおり、前回の自分より、より重い重量をあげ、より速いペースで走りたい、という意欲は一向に衰えることはない。
見方を変えれば、これは一種のナルシズムであり、自分自身を応援し、次のステップへ押し上げる「推し活」ともとれる。
他人よりも自分に興味があって、自分をより応援したい、活躍させたいというのは、私らしいとも思う。
「推し活」の形は人それぞれだ。誰かを応援することも、自分を育てることも、フィクションのキャラクターに憧憬を抱くことも、対象に愛情を注ぐという点では、等しく尊い行為だ。そして、その自分の推しを語る行為は、自分を見つめ、再発見する営為でもあるのだ。
