Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『サピエンス全史』 「虚構」の向こうにある可能性

読書の醍醐味の一つは、自分の先入観や固定観念、常識を覆され、視野が広がり、新しい目で物事を眺められるようになることいわゆる「目から鱗が落ちる」体験をすることだろう。<中略>まさにそのような醍醐味を満喫させてくれるのが本書『サピエンス全史』だ。

『サピエンス全史』 訳者あとがき

大作という評判に気後れし、手が伸びていなかった『サピエンス全史』をようやく読んだ。読み応え満点であるが知的刺激に満ち、常識に果敢に挑みながらもうわついた感じがなく説得力に溢れ、読後に疲労感はありながらも充実感が圧倒的に勝るという、間違いなく今年一番の本であった。冒頭で引用した訳者あとがきの評は、これ以上ないほど凝縮され、かつ正鵠を射た本書への評だ。

 

本書のエッセンスは、サピエンスの発展の鍵を「虚構」に据えている点にある。「虚構」、即ち現実の世界で存在を確認したわけではない、頭の中のみに存在する物語を作り、それを信じるということが、我々人間とネアンデルタール人も含めた他の動物との決定的な違いであるという。

「虚構」を作り、信じることができることで、我々が何をできるようになったのか(逆に他の動物が未だにできないことは何か)、というと

  1. 何千、何万という単位で協力ができるようになった
  2. 遺伝子や環境を変えることなく、自分の、そしてサピエンス全体で行動を変えることができるようになった

という二点を著者のハラリ氏はあげている。

哺乳類の最大行動単位はせいぜい150頭くらいが限界であるという。確かに、1万頭の猿の群れが一糸乱れぬ連携している姿というのは実際に見たことはない。が、雲の上にいるこの世を創生したヒゲを生やした神様を信じることにより、われわれサピエンスは何千、何万という集団での協力体制を作り上げることができた。腕力ではゴリラよりはるかに非力だが、この大きな連携力で他の種を圧倒したというのは面白くもあり、直感的に受け入れることができる。

また、通常の動物は遺伝子情報の変異の積み重ねによってしか、種としての行動様式を変えることはできない、という。身に危険が迫ったイカがスミをはいて逃げるのも、カメレオンが擬態するのも、遺伝子レベルで決められた本能的な行動であり、決して他のイカやカメレオンによるイデオロギー教育や護身術訓練の賜物ではない。サピエンスのみが、特定の規則や標準を習慣づけることで、いわば「人工的な本能」を作り出し、行動様式を数千年どころか一ヶ月単位で変えることができるという考察は興味深い。

 

ここまでの話が前半部分の『サピエンス全史』のハイライトである。ホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレンシスという我々の同種が滅び、サピエンスのみが生き残った理由を「虚構」に据えている点は、刺激的でロマンさえ感じる。が、非常に興味深い反面、既存の「適者生存の法則」に理論的な肉付けさがされただけ、という見方もできなくはないし、これだけでは「固定観念や先入観が覆され、視野が大いに拡がる」までのインパクトはない。宗教を「虚構」と言い切るその大胆さに、敬虔なイスラム教徒はとても受け入れ難い拒絶感を感じるかもしれないが、宗教的信仰心が厚くない日本人には心理的な抵抗感は少ない。宗教という「虚構」によって、道徳的な行動規範が定められ、それにより寄り多くの人が、他の動物ではなしえない協力体制を築けたという論理は、しっくりくるし、宗教音痴と言われる日本人は寧ろ居心地の良ささえ覚えるかもしれない。

 

後半部に入ってからギアがさらに上がり、ハラリ節が全開となる。「虚構」という頭の中にのみ存在しうる物語を信じて、一致団結しているのは過去や前近代の話ではなく、現代に生きるわれわれもその「想像上の秩序」にどっぷり浸かっているのだと筆者は展開していく。筆者に言わせれば、自由民主主義も貨幣経済も国民国家も人権尊重も、それこそ科学技術までも、多くの人が信仰している「虚構」に過ぎないという。人権尊重や個人の自由というのも、必ず正しい絶対的な真理ではなく、所詮より多くの同時代の人が信じる「想像上の秩序」、もっと過激な言葉で言えば「集団的な妄想」でしかないという。「人間には特有の価値と保障されるべき権利と自由があるというのはサピエンスに都合良い非科学的な独断的な信念である」という考え方は、幼い頃から人権や自由の尊さというものを教えられてきた私には「なるほどぉー、確かに!」とすんなり受け入れられるものではない。自分の中にある心理的な違和感を拭い去ることは簡単ではないが、その私の感情というのはきっと宗教は「虚構」と断じられたイスラム教徒の拒絶感と同種のものなのだろう。

 

近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つには、テクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。この信奉は、絶対的な心理に対する信奉に、ある程度まで取って代わってしまった。

テクノロジーと科学研究も信仰の対象となる「虚構」の一つであるという考え方は、「ワクチン接種が進まないアメリカ」という私の最近のテーマに興味深い見方を与えてくれた。「ワクチンの効果は科学的に立証された現実世界で発生している客観的な現象である」というのはワクチン接種派の気持ちではある。が、私はワクチンを接種したことによって自分の体の中で作られた抗体の存在を確認したわけではないし、『はたらく細胞』並のリアルさで私の中の抗体がCOVID-19ウイルスを見事に撃退する様を目撃したわけでもないし、ワクチン非接種者の体がCOVID-19ウイルスで無残に侵食される様を遠目にでも見たわけではない。要するに私は、国民国家主義を信仰し(CDCやFDAというアメリカの国の機関が検証をしたというのだから間違いあるまい)、資本主義を信仰し(世界中の製薬会社が莫大な投資をし、公正な市場と政府の評価を耐えているのだから効くに違いない)、科学技術を信仰している(ここまで人類を豊かにして、今なお進歩と発展を続ける科学の力は、神様に祈るよりずっと信頼できるに違いない)にすぎないのだ。

 

われわれが正しいと信じるものは、多くの人を結着させうる「虚構」の一種類にすぎないという考え方は、何か絶対的な正しさによってたちたい私たちにある種の寂しさを与える。それでもなお、自分の土台がゆらぐ危機感以上の、より前向きなメッセージ性を私は本書から感じる。そのエネルギーはどこからくるのだろうと、何度か付箋した箇所を読み返したところ、以下の一節が目にとまった。

歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。

「虚構」を作っては消し、作っては消して進歩してきたサピエンスの7万年の歴史を振り返り、ハラリ氏がサピエンスの中に見たのは、自分たちの想像している以上に遥かに大きな可能性だという。7万年の研究に裏打ちされた可能性というのだから、それは前向きにもなるはずと、新たな信ずべき「虚構」を見つけたところで、本書の評を終えたい。

 

この大作の評をどのようにまとめるか正直七転八倒し、どこまで魅力が伝えられたかというと、正直全く自信がない。本書についての多くの書評や解説動画を見た私の経験から一つ最後に強調させていただけば、本書の魅力を本当に理解するには、最後まで通読する以外の道はないと思う。まだ、手にとっていない方は年末年始の休暇に是非トライされてみては。

 

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