Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『僕はイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2』 多様性と寛容さの話

多様性というのはアメリカ社会で生活をする上で、常につきまとう悩ましいテーマだ。出身国も文化も違う人たちのるつぼの中で生活すると、自らの常識が世界の常識か、相手の常識に感じた自分の違和感は正常かどうかを自問自答することに常に迫られる

 

他愛もない話ではあるが、アメリカのAmazonで$100以上の買い物をすると、大体の場合は誰かが箱を一回開けた跡がみてとれる。オンラインショッピングで買ったものを返品することはよくあることなので、一度返品された商品をそのまま他の人に新品として販売しているのだろう。

当初は、「新品買ったのに、誰かが開けた形跡がある物を送るのか!?」といらっとしたが、箱なんてどうせ捨ててしまうだけなので、きれいに梱包しなおしたり、箱だけ変えるなんてことを本当にする必要があるかと考えてみると、それが無駄という考え方も理解できる。なので、「箱に開けた形跡があっても、商品が新品であれば気にしない」というように、自分の考え方を変えたら楽になった。

 

ブレイディみかこさんの『僕はイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2』がこの9月に発売されたということで早速手にとってみた。

英国で労働者階級の配偶者と中学生の息子と暮らす日常が、生々しく、そしてコミカルかつ軽やかな筆致で描かれており、誰でも親しめるエッセイだ。が、数ある同じタッチのエッセイと比較し、私が本シリーズに惹かれるのは、その題材として多様性、格差、文化の壁が中心に据えられているからだ。個別のシーンはリサイクルのゴミ出し、学校の音楽会、ちょっとした近所付き合い、学校の授業など、何でもない日常の風景だ。が、そういった何気ない日常の隙間にも、英国社会内部の分断、移民との衝突、貧富の格差、人種差別という問題が様々な形で入り込む様が巧みに描かれている。些細な形で忍び寄るそういった問題に蓋をして見てみぬ振りをすることもできるし、やたらめったら蓋を開けることだってできる。本書の根底にあるのは「思考を止めずにとにかく考えろ」という説教臭さではなく、どの蓋を開けるかという選択にも個人の価値観が投影されており、その価値観の差に対する寛容さも多様性と向き合う素養であるというメッセージであると私は読んだ。日常の至る所にあふれる大小の多様性の風に常にさらされている、私自身、そしての家族の姿と本書の主人公のとある英国の家庭を重ね合わせることにより、大いに感情移入しながら没入できる楽しい読書経験となった。

 

その「どの蓋を開けるか」という選択について思うところのあった最近の私のエピソードを紹介したい。

 

現在の仕事で、とある自社製品の受注情報を一箇所に集約したファイルを作成し、色々な関係者がそのファイルを参照できるようにしている。そのファイルを、私は「Order Master File」という名前をつけて運用し、関係各所から「ばらばらだった情報が一元的に管理されており、便利だ」と好評を博していた
そのファイルの運用を私のチームメンバーであるチベット人の女性に任せることにした。しばらくすると、彼女が言いにくそうな雰囲気で、「やっぱり、あのファイルの名前は良くないので、変えたいんだけれども」という相談を持ちかけてきた。正直その相談を受けた時は「えっ!?どこに問題となる要素があるのだろう?」という感じで、少し固まってしまった。「どのあたりが適切でないのか、勉強不足なので教えてもらって良いだろうか」と聞くと彼女は「今どき、Masterって単語が入っているのが、やっぱり良くないと思う」というではないか。
「あぁ、Masterね、、、」という「いや、お前わかってないだろう」というリアクションをとると、「MasterとSlave(主人と奴隷)という言葉を想起させるから最近は使わないと思うんだけど、、、」と補足説明をしてくれた。「そう言われてみるとそうか」という気持ちと「ふーん、そうなんだぁ」という気持ちが入り混じったというのが正直なところであった。
私は昔SAPの導入などを仕事でやっていたので、マスターという言葉は昔からよく使っていた。とある大手商社のプロジェクトでは「統合マスターチーム」、英語に訳せば「Integrated Master Team」という主人と奴隷というコンテキストで考えると大分あかん名前のチームまであったりした。

では、アメリカで最近はこの言葉がそんなに使われないのかと言うと、アメリカの家で一番大きなベッドルームのことを「Master Bed Room」と呼ぶ。これは「ご主人さまのベッドルーム」というあかん名前なんではないかという疑問が浮かんでくる。そもそも複数の意味のある言葉の一つの意味が問題だからといってその言葉そのものを使わないようにするという考え方はどうなのだろう、とか色々な疑問が浮かんだし、英語が私よりも既に達者な娘に聞いてみたら、「Slaveに対するのはMasterよりもOwnerの方が多いと思うけどなぁ」というコメントをもらい、本件については今ひとつ私の納得感は高まらなかった。とは言っても、別にファイル名そのものには深いこだわりはないので、「Order Master File」は「Order Detail File」と名前を変えることにした。


が、関係各署が使っていたファイルだったので、名前が急に変わることになって、オリジナルを作った私の所に「Order Master Fileはどこにいったんだ?」と問い合わせが沢山入ることになり、その度に私は「Order Detail File」という新たな名前になったと説明することに追われることになる。「あ、そうなんだ」という人もいれば、「何で今更名前を変えるんだ、わかりずらい」という文句をいう人もおり、決して私だけがポリコレの観点から遅れをとった不勉強なやつでないことは確認できた。新しい名前が定着するまでにしばらくの時間を要し、Master and Slaveのことを説明する機会にも恵まれ、「ふーん」というリアクションを受けながら、マスターという言葉に対する人々の捉え方の多様性に直面することとなった。

 

「危なそうな場合は敢えて触らずに距離をとる」というのは、こういう環境で楽しく生活するためのコツではあるが、「時と場合によっては踏み込む信念と勇気」も同様に大事で、そのバランスにはいつも悩まされる。筆者の息子とわが家の子どもたちの年が近いこともおり、共感したり、感銘を受けたり、違和感を覚えたりと刺激の多い読書であった。

私の中1と高1の子ども本書を読んで、それぞれの書評を書くことになっている。アメリカの学校に長く通うわが子が、本書を読んで何を感じ、何を考えるのかを見るのが楽しみだ。海外在住で多様性の中に身をおいて、日々そういう話題に直面している人には是非薦めたいし、中学高校の子どもがいる多くの方には親子で読んでみることを強く薦めたい。

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