Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『ドキュメント東京電力』 木川田一隆と日本の電力の歴史

先日父親から『ドキュメント東京電力企画室』という1981年に出版された古い文庫本を借りた。田原総一朗による日本の電力の歴史をひも解くドキュメンタリーで、戦前から続く通産省対電力会社の主導権争い、その争いの中で日本の原子力発電がどのような歴史を辿ってきたかが描かれており、日本の電力業界の問題の核心にせまるための視点を多く提供してくれる。30年以上も前の本ではあるが、丹念な取材な基づいた臨場感あふれる描写は古さを一切感じさせない。原書は既に絶版になっており、アマゾンのマーケットプレイスでは3900円という驚愕の高値をつけている。だが、心配するなかれ。今回の事件を受け、『ドキュメント東京電力 福島原発誕生の内幕』という時世を反映したタイトルで復刻されているのを本屋で発見。筆者による「はじめに なぜ福島原発事故がおきたのか」という前書きが追加されている点と佐高信による「解説」が割愛されている以外は復刻版と旧版は中身は変わらない、

ドキュメント東京電力―福島原発誕生の内幕 (文春文庫)

ドキュメント東京電力―福島原発誕生の内幕 (文春文庫)

復刻版は時流にのって、「福島原発通産省と電力会社との主導権争いの材料としてきちんとした議論なしに導入がなされ、それが今回の事故の決定的な要因となっている」というトーンで帯、表紙を仕上げている。もちろん、そういう面も多々あるのだが、東電と政府を悪者に仕立て上げるための材料探し」のみを本書に求めるのは非常にもったいない。本書を読んで見えてくるのは、既得権益に安住する電力業界の怠慢、という勧善懲悪のわかりやすいストーリーではなく、公共性の極めて高い事業を民間と政府で役割分担をし、効率的に運営することに難しさであると私は思う。


本書はドキュメンタリーであるため、主人公がいるわけではないが、あえて一人あげるとすれば東京電力の社長・会長を務めた木川田一隆だろう。木川田は戦前から戦後にかけての電力再編の渦中で現在の九電力体制を築いた中心的な人物である。政治家への献金を廃止し電力業界の独立を守ると共に、国より先行して原子力の導入に踏み切り、日本の電力供給のキャスティングボートを握った。

『法律で規制することしかしらない官僚たちに、電力を、原子力を委ねるわけにはいかない』これが木川田さんの口ぐせで、木川田さんの一生とは、いわば電力の自立を守るための国家との戦いでした。
『ドキュメント東京電力』 〜コールダホール型原子炉 P.73〜

改訂版の帯や表紙だけを見ると、単なる縄張り争いと誤解しかねないが、本書を通して読めば、そんな浅薄な話ではないことがわかる。木川田の口ぐせにこめられているのは、産業の心臓部たる電力の供給を絶やさず、敗戦国である日本を豊かな国に発展させる、そのためには民間企業である電力会社がその中心的役割を担うことが絶対に必要であるという強い信念だ。その信念を裏には、戦中に電力国管が遂行された際の苦い経験がある。昭和十四年に電力国管法が設立され、電力会社は配電をするだけの会社となり、発電所や主要な送電線は国の管理下に吸収された。これは今さかんに言われている発送電の分離。結果はどうだったかと言うと、「豊富で低廉な電力供給」というお題目のために進められたこの国策は、石炭の調達すらままならず電力供給不足を起こし、その供給不足のつけを電力消費規制という形で民間企業と国民に回すという体たらくであった。木川田にあったのは安直な縄張り意識ではなく、「お役所仕事で身を挺するということをせず、最後は法律による規制で安易に、民間・国民にしわ寄せをする官僚・政治家に電力供給をまかせたら国が滅んでしまう」、そういった危機感であったことは間違いない。


上記のような信念から原子力キャスティングボートを握った木川田であったが、相次ぐ原発の故障に見舞われ主導権をとった者の責任として非常に苦しい時期を過ごす。GEの技術への絶対的な信頼、地震国日本固有の原発への投資の必要性、一企業として限りのある原発への研究開発費、など民間電力会社が主体となった故の問題点も振り返れば多くある。確かに多額の投資を求められる原子力の黎明期を民間企業が中心となって進めることの問題点は多いし、今回の事故の遠因はあったかもしれない。だが、本書に描かれる木川田の姿勢から伝わるのは、「俺が担ったんだから、俺がやりきるんだ」というすさまじいまでの覚悟とオーナーシップであり、紆余曲折はへたものの、これはこれで一つの形だったのではないかというそれなりの説得力は私は感じた。


繰り返しになるが、本書を東電と政府を批判する材料探しにだけ使うのはもったいない。本書の本当の価値は、産業の心臓部、そして豊かな日本国民の生活を維持すために必須である『電力の安定供給』を実現するという共通の目的のために、通産省と電力会社が心血を注いだにも関わらず、立場の違いがすれ違いを生み、ひも解くと結果として曲がりくねった道程をたどるにいたった、その歴史をえぐり出している点だと思う。


「経営の現場以外からの発想は、一見かっこよく一般受けがするが、とかく思いつきできめが粗い、地に足がついていない」というのが木川田の口ぐせであった。発送電の分離、自然エネルギーの活用、など声高に叫ばれている現在の状況を木川田が見たらなんと言うだろうか。松永安左エ門のように「浮かれ革新」と吐き捨てるのだろうか。ワイドショー的な安直な東電・政府批判に食傷気味という方には是非手にとって頂きたい。

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