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『暴走する資本主義』 超民主主義ではなく、超資本主義になったわけ

昨年話題となった『暴走する資本主義』を読んだので書評を。

暴走する資本主義

暴走する資本主義


筆者は、クリントン政権時代に労働長官を務め、オバマの大統領候補時代の政策顧問だったロバート・ライシュ。資本主義と民主主義の間には本来適正な境界線があり、車の両輪として機能すべきものなのに、昨今は資本主義が力が強くなりすぎて、民主主義の領域を浸食してきており、結果として所得格差や環境破壊のような問題が噴出してきているというのが骨子。その強くなりすぎた資本主義を「超資本主義(Supercapitalism)」と筆者は呼んでいる。


車の両輪というところについてもう少し詳しく私の理解を書いてみる。共産主義と異なり資本主義は自由な経済活動と競争をうながし、それらを通して、経済全体のパイ(社会全体の富の総和)を大きくするという役割を担う。一方で、民主主義は、選挙を通じて政策を決定する人を選出し、大きくなったパイの再分配をしたり、よりパイを大きくするような公正な競争ルールを制定したりする。この両輪がうまく働けば、全体のパイが最大化されつつも、個人に行き渡るパイも最大化される、これが民主主義と資本主義の両方が機能するということだ。


上記が望ましい状態だが、ライシュは、最近は資本主義の力が強くなりすぎて、

  • 大企業のCEOに数十億円の報酬が支払われるなど、企業内での富の分配があまりに著しい格差を生んでしまっている、
  • 競争ルールの設定そのものに、資本主義経済で大きな力をもつ大企業が、強烈なロビー活動を通して、多大な影響を与え、公正さを欠いている

などの問題を引き起こし、機能不全をおこしていると主張しており、これには大きくうなづける。


この本の面白いところは、Supercapitalismを促進しているのは、大企業でがっぽり巨額の報酬をえている経営者やウォール・ストリートの目が$マークになっている投資家だけではなく、他ならぬわれわれ「市民」であると指摘をしている点だ。
情報技術の進展を活用しながら1円でも安くモノやサービスを買おうという「消費者」としてのわれわれの振る舞いや1円でも多くの株価・配当の値上がりを得ようとする「投資家」としてのわれわれの振る舞いが、企業をあくなく利潤の追求に駆り立て、Supercapitalismを助長している、というのが本書のもう一つの大きなポイント。矛先が遠くにいるだれかではなく、「市民」自身にむけられている点が非常に面白いし、納得感もある。


上記の指摘を読んで考えたのが、われわれ「市民」は、資本主義の世界では、非常に多様な選択肢を持っているにも関わらず、民主主義の世界では、驚くほど限定的な選択肢しか持っていないということ。資本主義経済おいては、例えば、投資家の仮面をかぶってGoogleの株式をいつだって自由に買うことができるし、消費者の仮面をかぶってマイクロソフトではなくアップルの製品を選択することだってできる。ウォルマートが従業員に優しくなくけしからん会社だと思えば、ウォルマートで買い物をしないなんてことは実に容易なことだ。
そういった多様な資本主義の世界の選択肢に比べて、民主主義におけるわれわれの選択肢は、なんと少ないことか。特定の政党、特定の人に、特定の期間にしか票を投じることができる、というのが一般的な人に開放された唯一の手段であり、他の選択肢といえば、政治献金をしたり、立候補をしたり、報道機関に就職するなどは無きにしもあらずだが、資本主義とのそれと比較するとあまりにも「市民」には敷居が高い。


何故、超民主主義ではなく、超資本主義になってしまったのかを考えるに、いちプレイヤーである「市民」に与えられた選択肢の差に根本的な原因があると考えざるをえない。
ブログが浸透したりし、民主主義における一個人の力も増えていることは確かだが、資本主義のそれを比較するとまだまだ無いに等しい。車の両輪をうまく機能させるには、民主主義における市民の力をもっと増やすしかないのではないだろうか(まぁ、具体的なアイデアはないのだが・・・)。

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