Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『ヒルビリー・エレジー』 自由の国アメリカに内在する階級社会

『ヒルビリー・エレジー』というと、前々回の大統領選挙でトランプ旋風が巻き起こった際に話題になった本だ。「ヒルビリー」というのは、アメリカ南部の貧しい白人労働者階級の人びとを指す言葉で、同じエスニシティでありながらもアイビーリーグの大学出身のエリート白人層と黒人やヒスパニック以上に対局をなす人びとだ。一般的には、トランプ旋風の原動力となったのは、そういう白人の労働者階級層からの票と言われており、そういう意味では現代アメリカの顔と言っても過言ではない。本書が話題になった理由は、ヒラリー・トランプの大統領戦の頃に出版されたというタイミングだけではない。「ヒルビリー」は大学教育まで受ける人が殆どいないため、その文化、特性、民族的背景などが、活字として起こされることが今迄なく、メディアの中では未開拓の原住民的位置付けであったから、というのは興味深い理由の一つだ。要するに、「ヒルビリー」については知っている人は沢山いるが、それについて出版する知性を持った人は殆どいなかった、ということらしい。

 

筆者のJ・D・ヴァンスは、「ヒルビリー」の出身であり、

  • 物心ついた頃には両親が離婚しており、母親と一緒に暮らすも、
  • 母親の相手がとっかえひっかえ代わり、高校生になるまで父親と呼んでよいのかどうかもわからない人が5名ほどおり、
  • 母親は看護師でありながら、薬物中毒者であるため、高校生の時に、母親から職場の抜き打ち検査を切り抜けるために、「クリーンな尿」を求められ、
  • とても母親の元では暮らせないため、祖母や叔母に世話になりながら、住まいや学校を転々として暮らし、
  • 将来についての希望が全く見出せず、よければ肉体労働で日銭を稼ぐ、うまくいかなければ生活保護をえる、最悪薬物中毒となり野垂れ死ぬ、というくらいの将来の展望しか描けない、

という青春時代を送る。

が、大学進学を断念して、海兵隊に入ることをきっかけに人生の転機を迎え、オハイオ州立大学という州で一番の大学を優秀な成績で卒業するだけでなく、イェール大学のロースクールを卒業して、法律事務所に就職するという「ヒルビリー」のアメリカンドリームを実現し、本書の執筆をするに至る。

 

筆者のサクセスストーリだけ見ると、チャンスが平等に与えられる国としてのアメリカの素晴らしさと社会的な流動性の高さに目がいってしまうが、筆者の主張は真逆であることが本書の面白いところだ。即ち、筆者は「ヒルビリー」について言えば、その社会的階級からの脱出は構造的に難しくなっており、他の階級の文化的な障壁もあいまって、流動性の低さは「ヒルビリー」の努力不足より、社会制度にあると指摘しているのだ。

 

筆者は、自分が特別な能力を持っている人間だとは思っていないし、また特別な幸運に恵まれたとも考えていない。本書の中でも自身の経験から、

  • 自分の選択になんか意味はないという思い込みを捨て、将来への展望をきちんと思い描くこと
  • 自分が敗者であり、生活が劣悪であることの責任は自分ではなく、政府にあるという考えを改めること
  • 一生懸命働くことの大切さを口にする割には、最後は自分以外の何かのせいにして、勤労から逃げることをやめること

などの、典型的な「ヒルビリー」ができていない、「当たり前のことを当たり前にやることの大切さ」を本書で説いている。それでも筆者は「自分でもできたことは他のヒルビリーでもできるべきだ」という安易なベキ論に走らない。むしろ、借金まみれで家計はいつも自転車操業、片方の親がいないなんて当たり前だし、両方いたとしてもどちらかは薬物中毒者、悪ければ両方共薬物中毒者なんて状況で、どうやって将来に明い展望を描き、ステップアップできるのだと、「ヒルビリー」にもよりそう。

 

イェール大学のロースクールを卒業し、そこから得られる特権によって法律事務所で職を得て、家族と幸せに暮らしながらも、どこか居心地の悪さと、自分の能力や経験をはるかに上回る高待遇への違和感がうまく表現されているところが本書の一番の読みどころだ。筆者の住んできた世界では、仕事の面接ではスーツを着なければならないこと、スパークリングウォーターは上質な輝く水ではなく炭酸水であること、合成皮革と本革は違うこと、靴とベルトは色と素材をあわせなければならないなど、誰も知らないし、教えてくれなかったという。本書では、そういった一つ一つの文化的相違が階級間の格差を生み出していることを実体験を元にコミカルに描かれている。そう、筆者が描いているのは、自由と機会の平等の国であるアメリカにも、確かに存在する階級社会の現実であり、そしてその本当の現実を上流階級の人間が気付く機会すらないという、アメリカの分断と格差の現実なのだ。

 

アメリカ社会というと、やれテスラだとか、やれGAFAMだとか、先進的できらびやかなところにばかり注目が当たりがちだ。だが、南部ノースカロライナの田舎道を走り、客層の悪いファーストフードに入り、隣の車に「バイデンはタリバンの子分」ステッカーが貼ってあったり、店員の太ったおばちゃんがアイラブトランプTシャツを誇らしげに着ていたりするのを見ると、国際的には知られていないアメリカ国民の現実が見える。彼らは、アメリカのマイノリティでは決してなく、大統領を生み出すうねりを起こすくらいの人数で構成される確固とした社会階級なのだ。400ページを超える大作で読み応えはあるが、「ハーバード式◯◯術」みたいな本に食傷気味な方は、より知見を深めることができるので是非おすすめしたい。

 

『社会という荒野を生きる』 同僚のプールハウスでビールを飲みながら家族と人生について考える

週末に、同僚の家に家族で招かれ、夕食を食べに行った。少し郊外にあるものの、7,500平方メートルという広大な敷地に、400平方メートルくらいのメインの建屋という豪邸。そして、家を購入後に新設したジャグジー付きのプールの脇に、さらに追加で建てたプールサイドの2階建てのセカンドハウスがあり、その外の大きなソファーで、軽食をつまみながらビールを飲み、談笑するというゴージャスなセットアップ。ガレージは3台車がはいる大型のもので、その一台分のスペースにトラクターのような芝刈り機があり、プールハウスにもガレージがあり、こちらにはセーリングボートが2艘鎮座。夕食はプールサイドでシーフードをボイルして、プールハウスで白ワインを飲みながら、むしゃむしゃ食べるという、洗練はされていないが贅沢な楽しい夕餉。いやぁ、圧巻で家族で良い経験をさせてもらった。

 

子どもたちからは「お父さんも、頑張って!」と檄を飛ばされたわけだが、その同僚は職位で言えば私より一つ上であるものの、給与に家のサイズの差ほどの差はないと思う。「7,500平方メートルの敷地を買おう」とか、「余っているスペースにジャグジー付きのプールとプールハウスを建てちゃおう」というスケール感はお金の問題に関係なく私にはない。また、セーリングボートのボディにヤスリをかけて、ペンキをぬって週末を過ごそうという趣味や余暇への並々ならぬ意欲も私からは絞ってもでてこない。勿論、育った国と環境の差はあると思うが、それ以上に「自分が暮らす家とそこでの家族との時間を最高のものにしよう」ということへの気合の入れ方の違いを見た。私もアメリカに来てからは、家族との時間を今まで以上に大事にし、週末も平日も家族と多くの時間を過ごし、その生活にとても満足している。が、きっと彼の場合は「大事にしている」なんて生易しいものではないのだろう。それそのものが人生の目的であり、そのために激務やストレスに負けずに仕事を頑張るという原動力になっているのだ。

 

そんな風に先週末を反芻している傍ら、宮台真司氏の『社会という荒野を生きる』を読んだ。「仕事よりプライベートを優先する若者が増え、若者の企業への忠誠心が下がっている」という時流の背景を問われた時、右肩上がりの経済は親の代でとっくに終了し、終身雇用も壊れていく中で忠誠心が下がるのは極めて自然、という極めて自然な回答をしたが、その後が面白かった。では仕事より優先したプライベートの時間に何をするのかこそが大事であり、「個人のスキルアップ」、「趣味に興じる」、そして「自分の本拠地を作る」という時間の過ごし方があり、その3点目こそが一番大事であると説く。

 

仕事は仕事として、「自分のホームベース=本拠地、つまり出撃基地であり帰還場所であるような場所を、ちゃんと作ろうじゃないか」という方向です。典型的には家庭や地域です。

『社会という荒野を生きる』

この「自分のホームベース=本拠地、つまり出撃基地であり帰還場所であるような場所」というのはうまく言語化したものだと思う。が、親がそういう場所を家庭に作っていなかったり、地域のコミュニティ活動に勤しむ姿を見てない日本の若者には、きっと想像が難しいんじゃないかと思う。核家族化が進み、親が長時間労働を強いられ、家族の時間が少ない中で育った世代には、家庭が出撃基地であり帰還場所というのは肌感覚としてつかみにくい。一方でアメリカで生活をしていると、前出の同僚のように「自分の本拠地」作りに人生をかけて取り組んでいる人、それが言語化されずとも肌身に染みついている人が本当に多いので、宮台氏の言葉はすっと入ってくる。

アメリカに来たばっかりの頃は、日本の長時間労働の癖が抜けずに、だらだらオフィスにいがちの私に、「お前はアメリカに来たばっかりなんだから、もっと早く帰って、家族と時間を過ごしなさい」と上司によく説教された。きたばかりのアメリカで仕事でまずは認められ、生活に先立つお金の心配を除いてこその家庭生活であろう、と当時は思ったりした。が、あれは今から思うと「きちんとアメリカので本拠地をまず築いて、その次に仕事に取り組むのが順序である、揺るぎない本拠地無くして、仕事のエネルギーなど湧くかね」という価値観に基く、上司の心遣いだったようにも思える。

 

というように、楽しかった週末を思い出し、家族や仕事や人生について考えながら、その考えをさらに深めるために、「また、遊びにいっちゃおう」と決意するのであった。

『調理場という戦場』 斉須正雄氏のプロフェッショナルとしての矜持

「仕事論」というのはビジネス書の中でも人気ジャンルだ。私も多くの「仕事論」の本を読んできて、今の自分の血となり骨となった本も多い。それらの本の著者を思い返してみるとビジネスパーソンや経営者が殆どだ。やはり、自分と近い分野で働いている方の「仕事論」というのは、わかりやすいし、直接利用可能な考え方が紹介されている場合が多い。

 

しかし、「仕事論」の本というのは、内容が似たものが少なくない。勿論、それぞれの本ごとに個性はあるのだが、ある量を読むとどうしても「どこかできいたことがある話」が多くなってくる。また、書いている方の職業がビジネスパーソンと経営者に偏っているので、内容がかぶりがちだ。なので、数冊読むと「ま、もういいかな」という感じになり、ここ数年そういう本は読んでこなかった。

 

本日紹介する『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須正雄の仕事論』は、そんな私が久し振りに手にとった「仕事論」本だ。

「コート・ドール」という三田にある日本を代表するフレンチのオーナーシェフである筆者。若い頃にフランスに渡り、戦場のような調理場を渡り歩き、日本のフレンチの匠と言われるまでに登り詰めた。「フレンチの匠」というと、芸能人気取りでテレビやマスコミへの露出度の高いイメージが何となくあったが、斉須氏は徹底した現場主義。マスコミの取材やテレビへの出演などのイレギュラーなことが入ると、調理に影響がおよぶため、全て断っていると言う。

 

本書は、フランスに単身わたった修業時代から、日本で「コート・ドール」を立ち上げ、軌道にのせて、日本一の名店と呼ばれるまでの軌跡が描かれている。淡々としながらも熱量の高い言葉に溢れており、日々真剣勝負で仕事に対峙するプロフェッショナルとしての凄みを感じる。勿論、筆者はレストランオーナーであり、経営者であるわけだが、その心意気はいつもその日のお客様のために真摯に皿に向き合う一料理人としてのもので、その誠実な人柄が行間から伝わってくる。

 

アイデアを思いつくことはとても大切ですが、そこからがリーダーの仕事になるのです。アイデアが一だとしたら、そのアイデアが使えるか使えないか見わけることに一〇ぐらいの力がいるような気がします。

そして、最も大切な「アイデアを実用化できる生産ラインを作ること」には、一〇〇ぐらいの力を必要とすると感じています。
アイデアは、実用化なしでは生きられない。

やれたかもしれないことと、やり抜いたことのあいだには、大河が流れている。

『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須正雄の仕事論』

筆者は、新しいメニューを考案する際に、既存の手法やセオリーに囚われない自由な発想を大事にしつつも、チームでその料理を提供できることを一番重視している。戦場のように忙しい調理場で、他の料理を並行して作りながら、その新しい料理も責任をもって作ることができるかどうかが鍵だという。どんなに美味しい料理でも、他のことをすべて放っぽりださないとできない料理は単なるシェフの自己満足だと一刀両断する。スタッフが力をあわせれば無理なく生産できるライン作りまでが、クリエイターの仕事である、という筆者の姿勢にその仕事への誠実さを垣間見た。上の思いつきのアイデアで振り回されて悪戦苦闘する日々を送る会社員は、その清涼感に心を洗われることだろう。

 

12年間のフランス修行をおえて、自分の店の評判を日本一の名店とまで高めても、筆者は浮き足立つことは一切ない。スピードレースに興じず、自分のできることとやるべきことを一つ一つこなして、地道に前に進むことの大切さを「幸運」という言葉を使って筆者は下記のように表現する。

「これは、夢のような幸運だ」と思っているうちは、その幸運を享受できるだけの力が本人に備わっていない頃だと思うんですよ。幸運が転がってきた時に「あぁ、来た」と平常心で拾える時には、その幸運を掴める程度の実力が宿っていると言えるのではないでしょうか。

『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須正雄の仕事論』

日本一と言われながらも、地に足をつけて、その日来てくれたお客様に最高のおもてなしを提供することに注力する筆者。地道に困難を乗り越えながら、転がってくるべくしてころがってきた「幸運」を淡々活かしながら、今に到達したプロフェッショナルの格好よさが光る。

 

本書は、一料理人としての筆者の矜持に満ちている。一般的な「仕事論」の本に食傷気味な人、少し違った角度から自分の仕事の姿勢を見直しみたい人、プロフェッショナルの物語に浸るのんびりとした読書体験を楽しみたい人、そんな方々に是非おすすめしたい一冊だ。

 

「民主主義」のリトマス試験紙 『22世紀の民主主義』

とある討論番組に自民党の下村博文氏が出演し、民主主義をどのようにアップデートするかについて討議がなされていた。若い世代の声をどのように政治に反映させるかが大事と説く下村氏にとある出演者から、

投票者の年齢・平均余命から票数に重み付けをする余命別投票制度を導入することをどう思うか

という質問がなされた。

その問いに対する下村氏の回答は、

「基本的に民主主義には合わないですね」

という残念なものであり、その答えを聞いた瞬間、私は「こりゃ、いつものダメなやつだ」と思った。

「民主主義の理念と相容れない」、「議会制民主主義の根幹を揺るがす」、「日本国憲法の何条に反する」、提示された新しい民主主義の形に対して、政治家がこのようなことを言ったら、疑ってかかった方が良い。大抵は既得権益者としての政治家の自己防衛である。そもそも、権力者を縛るための憲法を、権力者たる政治家が既存の仕組みを守ための抗弁として使うのだから、性質が悪い。*1

 

そんな下村氏に、上記のとある出演者は「政治の世界に若い人が魅力を感じないのは、偉いポストを60歳以上の高齢男性が占める、少子高齢化・男性優位社会の象徴である自民党にも原因があるのでは」と空気を読まない質問を繰り返す。そのとある出演者こそが、イェール大学助教授でありながら、職業不詳の自由人の成田悠輔氏。本日紹介する『22世紀の民主主義  選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』の著者である。

 

 

タイトルからして、皮肉たっぷりの成田節が全開の本書。荒唐無稽に見えながら、統計データに忠実であり、ユーモアと皮肉たっぷりの表現を駆使しながらも、妙に学術的であり、問題提起だけの言いっ放しで終わるように見えて、思い切った提案まで含まれており、退屈させられることのない本だった。

 

いつものごとく前置きが長くなったので、本書の要点や掴みだけ以下簡単にまとめてみたい。

  • ネットやSNSの浸透して政治と民衆の距離が縮まったことにより、政治がより近視眼的なポピュリズムに引っ張られるようになり、民主主義が劣化した。
  • 世界的な金融危機、ウィルスの感染拡大、大規模自然災害、など影響が大きく、迅速な対応を求められる課題を前に、凡人の日常感覚(=世論)に忖度が求められる民主主義は対応できていない
  • 選挙の結果をもって民意というが、マニフェストという政策の束などを参考にしながら特定の政党と政治家の名前を投票用紙に記載するというやり方は民意の反映の仕方として非常に粗雑であり、アップデートが必要である。
  • 利用可能な既存の技術を活用して、選挙に限らずより多角的な民意を示唆するデータを収集し、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命といった成果指標を組み合わせ、アルゴリズムにより最適な政策パッケージを作成するという「無意識データ民主主義」を一つの可能性として提唱したい。
  • 「無意識データ民主主義」において、政治家は政策的な指針を決定し、行政機構を使って実行を進める調整役・実行役となるべき。

本書を「AIや情報技術は人智を超える」論の一つとして捉え、無批判に礼賛するのも、反射的に敬遠するのも、どちらもナイーブに過ぎる。本書の主要なポイントは、「21世紀の技術に即して民意の解像度をあげて、エビデンスに基く政策決定をし、その決定の効果を評価指標で測ろう」という点にある。そこにあるのは、今手にしていない技術への過度の期待でも、SF世界に想いをはせた妄想でもない。私は本書の狙いを、今の選挙制度とその枠組み中で確保された権益が足枷となり、身動きがとれなくなってしまった「行き詰まった民主主義」を、既存の思想の枠外からゆすってみようという試みというようにみた。勿論、その揺さぶりの力というのは震度として計測できないくらいの、家の前にダンプカーが走って、かすかに揺れを感じた程度なのかもしれない。が、累計15万部に到達しているのは、本書の起こす波動に呼応した人が少なからずいた、というエビデンスに他ならない。

 

本書の感想と評価は、おそらく下記の大きく2つに分かれるだろう。

  • 本書で描かれている構想や思想に、22世紀の民主主義の片鱗と期待を感じつつ、一つの可能性を見出す
  • 本書の内容は、荒唐無稽以前に、何を言っているのかさっぱり理解できない

下村博文氏はきっと後者に属し、「こんな駄本を読んでいないで、若者よ選挙に行こう」と言うかもしれない。「若者よ選挙に行こう」というのは、「20世紀の民主主義」の合言葉であることに気づくことなく。そういう意味で、本書は、読者を「20世紀の民主主義」と「22世紀の民主主義」という2つの色にわけるリトマス試験紙としての役割も果すに違いない。

 

 

*1:下村氏は同番組で「憲法14条で全ての国民は等しく法の下に平等であると定めているから、余命別投票制度はそれにそぐわず年齢差別を生む」とうたっていたが、17歳以下には投票権を与えず、80歳を越えて痴呆が進んでいる老人であっても1票を与える今の現状を年齢差別とは考えないのだろうか。

アメリカ管理職のぼやき キャリアの選択権とアメリカ企業の強み

私はアメリカでマネージャー職につき、5年以上経つ。はっきり言ってアメリカのマネージャー職は大変で、面倒臭い。何が大変かというと、

  • リーダーとして自分の指針を指し示すことが常に求められる
  • 自分のチームの仕事が、如何に価値があり、キャリア形成にどのように役立つのかを明確に示す必要がある
  • チームメンバーに単なるダメ出しではない、価値ある生産的なフィードバックをすることが常に求められる
  • 「できる人間」を繋ぎ止めるために内外の労働市場との熾烈な闘いを繰り広げなければならない

という辺りが頭に浮ぶ。勿論、上記の多くは日本の管理職にもあてはまるかもしれないが、求められる度合いは大きく異る。特に最後のポイントについては日本と全く異ると言っても過言ではなく、その大きな違いはアメリカでは個々人が能動的にキャリアの選択を積み重ねていくところにあると思う。

 

アメリカの人たちの頭の中には、「自分自身のキャリアの選択をどうしていくべきか」というテーマが常駐していて、

  • この職場、このポジションで自分は何を獲得できるか
  • このまま働き続けて昇進やキャリアアップの機会はあるか
  • 他に自分の強みを活かすことができる機会はないか
  • 自分をより高く評価してくれる会社や組織はないか

というようなことを常に考えている。

中途採用の面接では、どの候補者もそういう点でこちらを値踏みするし、自分のチームメンバーとも少なくとも四半期に一度は上記のポイントについて腹をわって話すことが求められる。私の勤める会社は、Fortune 誌の 2021 年版 「働きがいのある企業 100 社」のランキングでも比較的上位に位置するため、外からの候補者も多いだけでなく、社内の異動活動も活発だ。多くの社員は自社のリクルーティングページを常にチェックしており、今の組織よりもよい機会が社内にないかアンテナを張り巡らせている。どの部署でどのポジションが空いているというのは、社員間の雑談でよくでる話題だ。

 

日本のように自分のキャリアの選択を会社に委ねる人は非常に少数だ。というのも、その選択権こそが自分が持っている重要なカードと多くの人が考えているからだ。マネージャー職にある人は、多様な価値観やキャリア観を持つプロフェッショナル集団をまとめ、自分のチームの強さを高めるために、多くのエネルギーを割かなければならない。ただ、大変な反面、そういう活発な労働市場がアメリカ企業の労働者のクオリティとその会社自身の競争力を高めているのだと日々実感している。

 

先日、USJの再建を担った森岡毅氏の『苦しかったときの話をしようか』を読んだ。進路の選択に悩む大学生の娘にあてて、氏のキャリア論が熱っぽく語られている良書であった。これから就職活動をする学生には勿論強く薦めたい書であるが、自らのキャリアの選択を会社に委ねてしまっている日本の会社員にも是非読んで頂きたい

 

 

実は”選べた”のに、今からでも”選べる”のに、多くの人はそれでも選択しない。なぜならば、神様が”選択のサイコロ”だけは自分の手に委ねてくれているのに、それに気がついていないからだ。

『苦しかったときの話をしようか』

P&Gに新卒で入社して以降、自分のキャリアの選択を戦略的にしてきた筆者の言葉から学べることは多い。正直、ずっと外資系企業で、しまいにはアメリカに移住してしまった私の話など、多くの日本人の方にはあまり参考にならないかもしれない。が、日本に根ざしながらも世界で活躍し、日本社会の色々なことと戦いながら、キャリアを力強く築きあげてきた筆者の言葉は傾聴に値する。

理屈だけでなく、具体例を交えながら、

  • 自分の強みを如何に見つけ
  • それを如何にブランディングし
  • そしてどのように磨き上げていくか

などの実践的な内容が、懇切丁寧に語られている本書は、多くの人に参考になるはずだ。正直、書かれている内容はよいものの、体育会系の筆者のカラーが色濃くですぎているので、最近の若者にはとっつきにくいかもしれないので、会社と自分のキャリアに悶々としている中堅会社員のほうが、楽しく読めるかもしれない。

 

日本の労働市場に活力をもたらす本書のような良書をより多くの方に手にとって頂きたい。

 

 

転職活動のすすめ 初めの一歩を踏み出す方への3つのポイント

先日、日本の上場企業に新卒からずっと勤めている40代の方に転職の相談を受けた。私は新卒から外資系企業にずっと勤めているので、転職市場には明るい。採用側として中途の面接を日米通算で200〜300回はしているので、転職活動の「いろは」から、面接の際の勘所まで色々なことを共有できた。

今回の相談では、面接でのアピールの仕方などよりも、より基本的な下記のような質問への回答が中心となった。

  • 転職活動を始めるベストのタイミングはいつか?
  • 転職する気がないのに面接をするのは、相手に失礼にならないか?
  • 転職エージェントを選ぶ際のポイントは?

おそらく、転職活動などしたことなくて、「一体どこから手をつけたら良いのか?」わからないという方は少なくないと思うので、上記の問いに対する私なりの答えをまとめてみたい。

 

転職活動をするベストのタイミングはいつか?

転職活動を始めようと思うタイミングは、現在の職場に何らかの不満を覚えた時という人が多いと思う。ただ、その不満のレベルというのは人によって下記のように異なる。

  • 今の職場も良いところも沢山あるので、転職を考えるほどではない
  • 色々価値観が合わなくなってきており、良い仕事が他にあれば転職したい
  • もう限界で、今すぐにでも他の会社に転職したい

その上で、転職活動をするベストのタイミングはいつかと問われれば、「転職を考えるほどではない」という気持ちの時から、ある程度は外にアンテナを張っておき、転職活動をゆるくでもしておくのがよい、というのが私の答えになる。

「一刻も早く転職をしたい」とか、「既に会社を辞めてしまった」というのは転職活動をするには明らかに遅すぎる。タイミングを焦るあまりに選択肢が狭まってしまうというのが最大の欠点だ。労働市場にある様々なポジションから、自分の強みが活かせ、企業文化や人が自分にあっており、条件も魅力的という最適なものを見つけるのは簡単ではなく、時間がかかる。「すぐに次を見つけたい」という切迫した状況で、その見極めをし、ベストの選択をするというのは至難の技だ。

また、現在の会社への不満が転職活動へ駆り立てる強い動機となっているケースでは、そういう後ろ向きの姿勢は面接者に必ず伝わってしまう。今の会社の不満が面接で露見すると、「この人はうちの会社に来ても何某かの不満をいつも言うんだろうな」と捉える面接官は非常に多いので注意は必要だ。

転職活動を長い期間とって実施すると

  • 自分の市場価値をある程度把握できるし、
  • 自分が本当にしたいこと、職選びで重視する点が明確になるし、
  • 多様な機会を天秤にかけることができ

より良い結果をえることができる。なので、「転職を考えるほどではない」という気持ちの時から、早めに活動をすることは、よい転職をする上で非常に重要だ。なお、私は初めの転職をするのに2〜3年くらいは時間をかけた。

 

転職する気がないのに面接をするのは、相手に失礼にならないか?

上記のタイミングの話をすると、聞かれがちな質問が「転職する気がないのに面接をするのは、相手に失礼にならないか?」というものだ。それに対する私の答えは、「相手が自分のことを選び、自分が相手のことを選んで、はじめて中途採用というのは成立するものだから、全く失礼にあたらない」というものだ。

他の候補者より有能であり、その会社にとって採用する価値が十分にあるとあなたが評価されれば、企業からオファーが提示される。それと同様に、募集ポジションが、今の会社も含めて他の会社の提示する職よりも魅力的があり、自身のキャリアアップによりつながるとあなたが感じれば、あなたがそのポジションを選ぶことになる。採用側と採用される側というのはあくまで対等であり、企業があなたを選ぶように、あなたも企業を選ぶ権利があるのだ。なので、企業側が面接の結果、あなたを選ばないように、あなたも面接の結果、その企業を選ばないということも対等に発生しうる。また、当初は全く転職するつもりはなかったが、面接を通して素晴らしいチャンスだと思うに至り、転職を決めたという話はよく聞くので、会ってみるまでわからないものなのだ。

勿論、面接で「今、転職する気は全くありませんが、幅広い選択肢を持っておくために時間を頂きました」というのはうまくない。「今の職場もとても良い職場だが、もっと良い機会があれば転職するつもりです」という程度の受け答えをするのは、お作法ではある。大人同士の話し合いなので、きちんと相手に敬意を払うことは忘れてはならない。

 

転職エージェントを選ぶ際のポイントは?

私の経験上、転職エージェントというのは当たり外れが大きい。転職エージェントは、自分が紹介したポジションが成約したら、その年収の35%くらいの金額を報酬として受け取ることを生業としている。即ち、成約までこぎつけることに強烈な金銭的なモチベーションがあるのだ。なので、たちの悪いエージェントは、こちらの都合や適性お構い無しで、転職をがんがんと薦めてくる。一方で、こちらのキャリアプランも含めて、親身になって相談や助言をくれる、「クライアントのキャリアディベロップメントを支援することに生きがいを感じる」エージェントもおり、そういう方の支援を受けることができれば、とても心強いパートナーとなる。

30代後半から40代にかけての転職であれば、自分の強みの棚卸しから、中長期的なキャリアプラン作成の支援をしてくれるようなエージェントを見つけると色々スムーズに進む。私の経験から、良いエージェントと悪いエージェントのポイントを以下にあげるので参考にして頂きたい。

  • 良いエージェントは、自分のキャリアプランに興味関心を持ってくれる、悪いエージェントは手元にある転職案件を紹介することに注力する
  • 良いエージェントは、こちらの時間、都合、ペースを考慮、尊重してくれるが、悪いエージェントは応募先の企業や自分の都合ばかりを優先する
  • 良いエージェントは、応募先の企業の採用担当者と蜜にコミュニケーションをとり、採用のポイントをよく把握しているが、悪いエージェントは面接予定のスケジュールと最終の条件交渉くらいしかできない

 

自分の市場価値を把握し、社外にどのような機会があるのかを知ることは、自分のキャリアプランを考える上で、ものすごく重要だ。また、対外的に自分のバリューを説明する機会をえると、現在の会社でどのようなことにより積極的に取り組まないとならないのか、ということも見えてきたりする。「転職なんて考えたことない」という方も日本にはまだ多いと思うし、「転職30台半ば限界説」なんて都市伝説も実しやかに世間では語られて、信じている方も多いように思う。是非、一歩を踏み出して、自分のキャリアのコントロールを自分自身に引き寄せるきっかけとして頂きたい。

 

『政治学者、PTA会長になる』 北米補習校から日本のPTAを考える

私は子供の通う北米の日本語補習学校の運営に長く携わっている。その補習校は、日常的な学校運営は運営委員会が担い、経営面での判断・意思決定を理事会が責任をもつという、北米補習校としては一般的な形態をとっている。補習校の運営委員会、理事会というのは日本に住んでいる方にイメージしやすく言うとPTAのようなものだ。補習校は学校の運営主体は保護者となり、校舎の借用から教員の採用まで、保護者の自治として運営されるという点でPTAと大きな違いはある。が、自身の補習校の運営経験と照らし合わせながら、今回読んだ岡田憲治氏の『政治学者、PTA会長になる』は実感と共感と共に楽しんで読むことができた。

 

政治学者、PTA会長になる

政治学者、PTA会長になる

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多くの人たちが「さほどそれでいいと思っているわけでもない」のに、誰が作ったのかもよくわからない決め事に縛られてとても苦しそうだし、そこから生まれるネガティヴな気持ちを起点に苦行のようにPTAをやっている人も多い。

『政治学者、PTA会長になる』

本書では、「何のためにやっているのかよくわからないし、わかったとしても効果測定がなされていない作業の束」と「自分の責任でそれを変えることの恐怖におののく女性保護者の集団」と奮闘する筆者の姿がリアリティをもって描かれている。そこにあるのは、「前の人がやった通りにしておけば自分が責められることはない」という保守的な考え方と「続ける1つの理由と止める9つの理由を前にしても、止める提案に踏み出せない」奥ゆかしさである。民間企業であれば、何某かの自浄が作用が働いて、それなりの改革が進むのだが、長い間沈殿した過去の遺物に身動きがとれなくなっているPTAの現状が、本書ではよく描きだされている。

 

勿論この状況は、今までPTAの運営主体であった専業主婦を中心とした女性保護者のみの問題ではなく、仕事ばかりにうつつを抜かして子供の教育環境の向上や地域コミュニティへの貢献をないがしろにしてきた男性保護者が共に作りあげてきたものだ。私の同性の同年代の人でも、近年PTA会長を務める人が増えている。とっかかりは「式典での挨拶だけはやりたくないので、そこだけでもやってほしい」という魂の叫びを受け取っての登壇となる場合が多いようだが、それだけで済むはずもなく、少しづつ時代に即した改革が随所で進んでいるようで好ましい。そういう時代に即したPTA改革の一翼を担っている方々は、コミカルかつ巧みな筆致で現状を活写する本書は、最高の読み物となることは間違いない。 自分の正論を振りかざすだけでなく、ここに至った先人たちの努力の結果への敬意を払い始めてから、事態が好転していくという展開は、きっと多くの同じ状況におかれている方に役立つはずだ。

 

幸い北米の補習校というのは、中心となる運営委員が、多種多様なバックグラウンドをもった保護者の中から、完全くじ引き制度で無作為に選出される制度によってか、ダイバーシティが確保されているため、日本のPTAまでは硬直しておらず、2−3歩先を進んでいるように思う。その年度によるのだが、下記のような多士済々が濃淡はありながらも入り乱れたチーム構成となるため、毎年何らかのテーマで何かしら自然と前進することが構造的に担保されているように思う。

  • 問題を予見しすぎるよりも、「変えてみて問題が起きたら考えようよ」というアメリカ型お気楽主義者
  • アメリカ型ワークライフバランスが身につき、フルタイムワーカーながらも運営委員業務にもがっつり時間をさく民間企業経験者
  • フルタイムワークで培った専門性を活かしつつ、女性保護者ネットワークも取り込みながら改革を進めるスーパーウーマン
  • アメリカナイズされすぎておらず、日本的調整力とバランス感覚に長けた日本企業駐在員
  • 語り口はソフトながらも、数値や事実を下にした意思決定に一切の妥協のない大学研究員

政治学者らしいアカデミックな切り口でPTA組織やボランティアの活動について多様な考察がなされており、私にはそれらも大変学びが多く、有意義であった。海外の日本人学校や補習学校で、運営や理事にあたられている方にも本書は強く勧めたい。私の活動をする補習学校もまだ改革の半ばであるが、いつかこんな風に自分の補習校での経験を書籍にまとめることができたら面白いと思わせる一冊であった。

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