Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

「民主主義」のリトマス試験紙 『22世紀の民主主義』

とある討論番組に自民党の下村博文氏が出演し、民主主義をどのようにアップデートするかについて討議がなされていた。若い世代の声をどのように政治に反映させるかが大事と説く下村氏にとある出演者から、

投票者の年齢・平均余命から票数に重み付けをする余命別投票制度を導入することをどう思うか

という質問がなされた。

その問いに対する下村氏の回答は、

「基本的に民主主義には合わないですね」

という残念なものであり、その答えを聞いた瞬間、私は「こりゃ、いつものダメなやつだ」と思った。

「民主主義の理念と相容れない」、「議会制民主主義の根幹を揺るがす」、「日本国憲法の何条に反する」、提示された新しい民主主義の形に対して、政治家がこのようなことを言ったら、疑ってかかった方が良い。大抵は既得権益者としての政治家の自己防衛である。そもそも、権力者を縛るための憲法を、権力者たる政治家が既存の仕組みを守ための抗弁として使うのだから、性質が悪い。*1

 

そんな下村氏に、上記のとある出演者は「政治の世界に若い人が魅力を感じないのは、偉いポストを60歳以上の高齢男性が占める、少子高齢化・男性優位社会の象徴である自民党にも原因があるのでは」と空気を読まない質問を繰り返す。そのとある出演者こそが、イェール大学助教授でありながら、職業不詳の自由人の成田悠輔氏。本日紹介する『22世紀の民主主義  選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』の著者である。

 

 

タイトルからして、皮肉たっぷりの成田節が全開の本書。荒唐無稽に見えながら、統計データに忠実であり、ユーモアと皮肉たっぷりの表現を駆使しながらも、妙に学術的であり、問題提起だけの言いっ放しで終わるように見えて、思い切った提案まで含まれており、退屈させられることのない本だった。

 

いつものごとく前置きが長くなったので、本書の要点や掴みだけ以下簡単にまとめてみたい。

  • ネットやSNSの浸透して政治と民衆の距離が縮まったことにより、政治がより近視眼的なポピュリズムに引っ張られるようになり、民主主義が劣化した。
  • 世界的な金融危機、ウィルスの感染拡大、大規模自然災害、など影響が大きく、迅速な対応を求められる課題を前に、凡人の日常感覚(=世論)に忖度が求められる民主主義は対応できていない
  • 選挙の結果をもって民意というが、マニフェストという政策の束などを参考にしながら特定の政党と政治家の名前を投票用紙に記載するというやり方は民意の反映の仕方として非常に粗雑であり、アップデートが必要である。
  • 利用可能な既存の技術を活用して、選挙に限らずより多角的な民意を示唆するデータを収集し、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命といった成果指標を組み合わせ、アルゴリズムにより最適な政策パッケージを作成するという「無意識データ民主主義」を一つの可能性として提唱したい。
  • 「無意識データ民主主義」において、政治家は政策的な指針を決定し、行政機構を使って実行を進める調整役・実行役となるべき。

本書を「AIや情報技術は人智を超える」論の一つとして捉え、無批判に礼賛するのも、反射的に敬遠するのも、どちらもナイーブに過ぎる。本書の主要なポイントは、「21世紀の技術に即して民意の解像度をあげて、エビデンスに基く政策決定をし、その決定の効果を評価指標で測ろう」という点にある。そこにあるのは、今手にしていない技術への過度の期待でも、SF世界に想いをはせた妄想でもない。私は本書の狙いを、今の選挙制度とその枠組み中で確保された権益が足枷となり、身動きがとれなくなってしまった「行き詰まった民主主義」を、既存の思想の枠外からゆすってみようという試みというようにみた。勿論、その揺さぶりの力というのは震度として計測できないくらいの、家の前にダンプカーが走って、かすかに揺れを感じた程度なのかもしれない。が、累計15万部に到達しているのは、本書の起こす波動に呼応した人が少なからずいた、というエビデンスに他ならない。

 

本書の感想と評価は、おそらく下記の大きく2つに分かれるだろう。

  • 本書で描かれている構想や思想に、22世紀の民主主義の片鱗と期待を感じつつ、一つの可能性を見出す
  • 本書の内容は、荒唐無稽以前に、何を言っているのかさっぱり理解できない

下村博文氏はきっと後者に属し、「こんな駄本を読んでいないで、若者よ選挙に行こう」と言うかもしれない。「若者よ選挙に行こう」というのは、「20世紀の民主主義」の合言葉であることに気づくことなく。そういう意味で、本書は、読者を「20世紀の民主主義」と「22世紀の民主主義」という2つの色にわけるリトマス試験紙としての役割も果すに違いない。

 

 

*1:下村氏は同番組で「憲法14条で全ての国民は等しく法の下に平等であると定めているから、余命別投票制度はそれにそぐわず年齢差別を生む」とうたっていたが、17歳以下には投票権を与えず、80歳を越えて痴呆が進んでいる老人であっても1票を与える今の現状を年齢差別とは考えないのだろうか。

アメリカ管理職のぼやき キャリアの選択権とアメリカ企業の強み

私はアメリカでマネージャー職につき、5年以上経つ。はっきり言ってアメリカのマネージャー職は大変で、面倒臭い。何が大変かというと、

  • リーダーとして自分の指針を指し示すことが常に求められる
  • 自分のチームの仕事が、如何に価値があり、キャリア形成にどのように役立つのかを明確に示す必要がある
  • チームメンバーに単なるダメ出しではない、価値ある生産的なフィードバックをすることが常に求められる
  • 「できる人間」を繋ぎ止めるために内外の労働市場との熾烈な闘いを繰り広げなければならない

という辺りが頭に浮ぶ。勿論、上記の多くは日本の管理職にもあてはまるかもしれないが、求められる度合いは大きく異る。特に最後のポイントについては日本と全く異ると言っても過言ではなく、その大きな違いはアメリカでは個々人が能動的にキャリアの選択を積み重ねていくところにあると思う。

 

アメリカの人たちの頭の中には、「自分自身のキャリアの選択をどうしていくべきか」というテーマが常駐していて、

  • この職場、このポジションで自分は何を獲得できるか
  • このまま働き続けて昇進やキャリアアップの機会はあるか
  • 他に自分の強みを活かすことができる機会はないか
  • 自分をより高く評価してくれる会社や組織はないか

というようなことを常に考えている。

中途採用の面接では、どの候補者もそういう点でこちらを値踏みするし、自分のチームメンバーとも少なくとも四半期に一度は上記のポイントについて腹をわって話すことが求められる。私の勤める会社は、Fortune 誌の 2021 年版 「働きがいのある企業 100 社」のランキングでも比較的上位に位置するため、外からの候補者も多いだけでなく、社内の異動活動も活発だ。多くの社員は自社のリクルーティングページを常にチェックしており、今の組織よりもよい機会が社内にないかアンテナを張り巡らせている。どの部署でどのポジションが空いているというのは、社員間の雑談でよくでる話題だ。

 

日本のように自分のキャリアの選択を会社に委ねる人は非常に少数だ。というのも、その選択権こそが自分が持っている重要なカードと多くの人が考えているからだ。マネージャー職にある人は、多様な価値観やキャリア観を持つプロフェッショナル集団をまとめ、自分のチームの強さを高めるために、多くのエネルギーを割かなければならない。ただ、大変な反面、そういう活発な労働市場がアメリカ企業の労働者のクオリティとその会社自身の競争力を高めているのだと日々実感している。

 

先日、USJの再建を担った森岡毅氏の『苦しかったときの話をしようか』を読んだ。進路の選択に悩む大学生の娘にあてて、氏のキャリア論が熱っぽく語られている良書であった。これから就職活動をする学生には勿論強く薦めたい書であるが、自らのキャリアの選択を会社に委ねてしまっている日本の会社員にも是非読んで頂きたい

 

 

実は”選べた”のに、今からでも”選べる”のに、多くの人はそれでも選択しない。なぜならば、神様が”選択のサイコロ”だけは自分の手に委ねてくれているのに、それに気がついていないからだ。

『苦しかったときの話をしようか』

P&Gに新卒で入社して以降、自分のキャリアの選択を戦略的にしてきた筆者の言葉から学べることは多い。正直、ずっと外資系企業で、しまいにはアメリカに移住してしまった私の話など、多くの日本人の方にはあまり参考にならないかもしれない。が、日本に根ざしながらも世界で活躍し、日本社会の色々なことと戦いながら、キャリアを力強く築きあげてきた筆者の言葉は傾聴に値する。

理屈だけでなく、具体例を交えながら、

  • 自分の強みを如何に見つけ
  • それを如何にブランディングし
  • そしてどのように磨き上げていくか

などの実践的な内容が、懇切丁寧に語られている本書は、多くの人に参考になるはずだ。正直、書かれている内容はよいものの、体育会系の筆者のカラーが色濃くですぎているので、最近の若者にはとっつきにくいかもしれないので、会社と自分のキャリアに悶々としている中堅会社員のほうが、楽しく読めるかもしれない。

 

日本の労働市場に活力をもたらす本書のような良書をより多くの方に手にとって頂きたい。

 

 

転職活動のすすめ 初めの一歩を踏み出す方への3つのポイント

先日、日本の上場企業に新卒からずっと勤めている40代の方に転職の相談を受けた。私は新卒から外資系企業にずっと勤めているので、転職市場には明るい。採用側として中途の面接を日米通算で200〜300回はしているので、転職活動の「いろは」から、面接の際の勘所まで色々なことを共有できた。

今回の相談では、面接でのアピールの仕方などよりも、より基本的な下記のような質問への回答が中心となった。

  • 転職活動を始めるベストのタイミングはいつか?
  • 転職する気がないのに面接をするのは、相手に失礼にならないか?
  • 転職エージェントを選ぶ際のポイントは?

おそらく、転職活動などしたことなくて、「一体どこから手をつけたら良いのか?」わからないという方は少なくないと思うので、上記の問いに対する私なりの答えをまとめてみたい。

 

転職活動をするベストのタイミングはいつか?

転職活動を始めようと思うタイミングは、現在の職場に何らかの不満を覚えた時という人が多いと思う。ただ、その不満のレベルというのは人によって下記のように異なる。

  • 今の職場も良いところも沢山あるので、転職を考えるほどではない
  • 色々価値観が合わなくなってきており、良い仕事が他にあれば転職したい
  • もう限界で、今すぐにでも他の会社に転職したい

その上で、転職活動をするベストのタイミングはいつかと問われれば、「転職を考えるほどではない」という気持ちの時から、ある程度は外にアンテナを張っておき、転職活動をゆるくでもしておくのがよい、というのが私の答えになる。

「一刻も早く転職をしたい」とか、「既に会社を辞めてしまった」というのは転職活動をするには明らかに遅すぎる。タイミングを焦るあまりに選択肢が狭まってしまうというのが最大の欠点だ。労働市場にある様々なポジションから、自分の強みが活かせ、企業文化や人が自分にあっており、条件も魅力的という最適なものを見つけるのは簡単ではなく、時間がかかる。「すぐに次を見つけたい」という切迫した状況で、その見極めをし、ベストの選択をするというのは至難の技だ。

また、現在の会社への不満が転職活動へ駆り立てる強い動機となっているケースでは、そういう後ろ向きの姿勢は面接者に必ず伝わってしまう。今の会社の不満が面接で露見すると、「この人はうちの会社に来ても何某かの不満をいつも言うんだろうな」と捉える面接官は非常に多いので注意は必要だ。

転職活動を長い期間とって実施すると

  • 自分の市場価値をある程度把握できるし、
  • 自分が本当にしたいこと、職選びで重視する点が明確になるし、
  • 多様な機会を天秤にかけることができ

より良い結果をえることができる。なので、「転職を考えるほどではない」という気持ちの時から、早めに活動をすることは、よい転職をする上で非常に重要だ。なお、私は初めの転職をするのに2〜3年くらいは時間をかけた。

 

転職する気がないのに面接をするのは、相手に失礼にならないか?

上記のタイミングの話をすると、聞かれがちな質問が「転職する気がないのに面接をするのは、相手に失礼にならないか?」というものだ。それに対する私の答えは、「相手が自分のことを選び、自分が相手のことを選んで、はじめて中途採用というのは成立するものだから、全く失礼にあたらない」というものだ。

他の候補者より有能であり、その会社にとって採用する価値が十分にあるとあなたが評価されれば、企業からオファーが提示される。それと同様に、募集ポジションが、今の会社も含めて他の会社の提示する職よりも魅力的があり、自身のキャリアアップによりつながるとあなたが感じれば、あなたがそのポジションを選ぶことになる。採用側と採用される側というのはあくまで対等であり、企業があなたを選ぶように、あなたも企業を選ぶ権利があるのだ。なので、企業側が面接の結果、あなたを選ばないように、あなたも面接の結果、その企業を選ばないということも対等に発生しうる。また、当初は全く転職するつもりはなかったが、面接を通して素晴らしいチャンスだと思うに至り、転職を決めたという話はよく聞くので、会ってみるまでわからないものなのだ。

勿論、面接で「今、転職する気は全くありませんが、幅広い選択肢を持っておくために時間を頂きました」というのはうまくない。「今の職場もとても良い職場だが、もっと良い機会があれば転職するつもりです」という程度の受け答えをするのは、お作法ではある。大人同士の話し合いなので、きちんと相手に敬意を払うことは忘れてはならない。

 

転職エージェントを選ぶ際のポイントは?

私の経験上、転職エージェントというのは当たり外れが大きい。転職エージェントは、自分が紹介したポジションが成約したら、その年収の35%くらいの金額を報酬として受け取ることを生業としている。即ち、成約までこぎつけることに強烈な金銭的なモチベーションがあるのだ。なので、たちの悪いエージェントは、こちらの都合や適性お構い無しで、転職をがんがんと薦めてくる。一方で、こちらのキャリアプランも含めて、親身になって相談や助言をくれる、「クライアントのキャリアディベロップメントを支援することに生きがいを感じる」エージェントもおり、そういう方の支援を受けることができれば、とても心強いパートナーとなる。

30代後半から40代にかけての転職であれば、自分の強みの棚卸しから、中長期的なキャリアプラン作成の支援をしてくれるようなエージェントを見つけると色々スムーズに進む。私の経験から、良いエージェントと悪いエージェントのポイントを以下にあげるので参考にして頂きたい。

  • 良いエージェントは、自分のキャリアプランに興味関心を持ってくれる、悪いエージェントは手元にある転職案件を紹介することに注力する
  • 良いエージェントは、こちらの時間、都合、ペースを考慮、尊重してくれるが、悪いエージェントは応募先の企業や自分の都合ばかりを優先する
  • 良いエージェントは、応募先の企業の採用担当者と蜜にコミュニケーションをとり、採用のポイントをよく把握しているが、悪いエージェントは面接予定のスケジュールと最終の条件交渉くらいしかできない

 

自分の市場価値を把握し、社外にどのような機会があるのかを知ることは、自分のキャリアプランを考える上で、ものすごく重要だ。また、対外的に自分のバリューを説明する機会をえると、現在の会社でどのようなことにより積極的に取り組まないとならないのか、ということも見えてきたりする。「転職なんて考えたことない」という方も日本にはまだ多いと思うし、「転職30台半ば限界説」なんて都市伝説も実しやかに世間では語られて、信じている方も多いように思う。是非、一歩を踏み出して、自分のキャリアのコントロールを自分自身に引き寄せるきっかけとして頂きたい。

 

『政治学者、PTA会長になる』 北米補習校から日本のPTAを考える

私は子供の通う北米の日本語補習学校の運営に長く携わっている。その補習校は、日常的な学校運営は運営委員会が担い、経営面での判断・意思決定を理事会が責任をもつという、北米補習校としては一般的な形態をとっている。補習校の運営委員会、理事会というのは日本に住んでいる方にイメージしやすく言うとPTAのようなものだ。補習校は学校の運営主体は保護者となり、校舎の借用から教員の採用まで、保護者の自治として運営されるという点でPTAと大きな違いはある。が、自身の補習校の運営経験と照らし合わせながら、今回読んだ岡田憲治氏の『政治学者、PTA会長になる』は実感と共感と共に楽しんで読むことができた。

 

政治学者、PTA会長になる

政治学者、PTA会長になる

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多くの人たちが「さほどそれでいいと思っているわけでもない」のに、誰が作ったのかもよくわからない決め事に縛られてとても苦しそうだし、そこから生まれるネガティヴな気持ちを起点に苦行のようにPTAをやっている人も多い。

『政治学者、PTA会長になる』

本書では、「何のためにやっているのかよくわからないし、わかったとしても効果測定がなされていない作業の束」と「自分の責任でそれを変えることの恐怖におののく女性保護者の集団」と奮闘する筆者の姿がリアリティをもって描かれている。そこにあるのは、「前の人がやった通りにしておけば自分が責められることはない」という保守的な考え方と「続ける1つの理由と止める9つの理由を前にしても、止める提案に踏み出せない」奥ゆかしさである。民間企業であれば、何某かの自浄が作用が働いて、それなりの改革が進むのだが、長い間沈殿した過去の遺物に身動きがとれなくなっているPTAの現状が、本書ではよく描きだされている。

 

勿論この状況は、今までPTAの運営主体であった専業主婦を中心とした女性保護者のみの問題ではなく、仕事ばかりにうつつを抜かして子供の教育環境の向上や地域コミュニティへの貢献をないがしろにしてきた男性保護者が共に作りあげてきたものだ。私の同性の同年代の人でも、近年PTA会長を務める人が増えている。とっかかりは「式典での挨拶だけはやりたくないので、そこだけでもやってほしい」という魂の叫びを受け取っての登壇となる場合が多いようだが、それだけで済むはずもなく、少しづつ時代に即した改革が随所で進んでいるようで好ましい。そういう時代に即したPTA改革の一翼を担っている方々は、コミカルかつ巧みな筆致で現状を活写する本書は、最高の読み物となることは間違いない。 自分の正論を振りかざすだけでなく、ここに至った先人たちの努力の結果への敬意を払い始めてから、事態が好転していくという展開は、きっと多くの同じ状況におかれている方に役立つはずだ。

 

幸い北米の補習校というのは、中心となる運営委員が、多種多様なバックグラウンドをもった保護者の中から、完全くじ引き制度で無作為に選出される制度によってか、ダイバーシティが確保されているため、日本のPTAまでは硬直しておらず、2−3歩先を進んでいるように思う。その年度によるのだが、下記のような多士済々が濃淡はありながらも入り乱れたチーム構成となるため、毎年何らかのテーマで何かしら自然と前進することが構造的に担保されているように思う。

  • 問題を予見しすぎるよりも、「変えてみて問題が起きたら考えようよ」というアメリカ型お気楽主義者
  • アメリカ型ワークライフバランスが身につき、フルタイムワーカーながらも運営委員業務にもがっつり時間をさく民間企業経験者
  • フルタイムワークで培った専門性を活かしつつ、女性保護者ネットワークも取り込みながら改革を進めるスーパーウーマン
  • アメリカナイズされすぎておらず、日本的調整力とバランス感覚に長けた日本企業駐在員
  • 語り口はソフトながらも、数値や事実を下にした意思決定に一切の妥協のない大学研究員

政治学者らしいアカデミックな切り口でPTA組織やボランティアの活動について多様な考察がなされており、私にはそれらも大変学びが多く、有意義であった。海外の日本人学校や補習学校で、運営や理事にあたられている方にも本書は強く勧めたい。私の活動をする補習学校もまだ改革の半ばであるが、いつかこんな風に自分の補習校での経験を書籍にまとめることができたら面白いと思わせる一冊であった。

『いま中国人は中国をこう見る』 成長を続ける中国のリアル

アメリカの研究機関が「中国と言われて、一番始めに頭に浮かぶのは?」という問いを通して、アメリカ人がもつ中国に対するイメージの調査をしている。

  • 検閲や人民統制などの人権問題
  • 世界の工場や高い経済成長などの経済力
  • 独裁国家や全体主義という政治システム

案の定、人権問題、経済力、政治システムというのが質問に対するアメリカ人の答えのトップ3としてあがってきた。このイメージは日本人が持つものとかなり近いのではないだろうか。即ち、多くの民主主義国家が同様の見方をしていると見ることができる。

 

私は、中国人の同僚が沢山いる。アメリカで永住権をとっている人もいれば、今現在中国に住んでいる人もいる。彼らと仕事をしていて、人権問題を抱えた独裁国家の圧政に悩む悲痛さを感じたことは一切ない。誰もが、礼儀正しく、きちんと誠実に仕事をこなし、極めて常識的な感覚を備えている。「中国ってどんな国?」と聞かれた湧くイメージとは全く異なる彼らに接すると、本音のところでは中国の方々は自分の国や政治について、どのような考えを持っているのだろう、という興味が湧いている。

 

本日紹介する『いま中国人は中国をこう見る』は、そんな疑問を見越してか、タイトル通り「いま、中国人が中国をどう見ているのか」ということを惜しげもなく紹介してくれる。

本にも旬があるが、本書は今が正に読み頃である。扱っている題材も「コロナを抑え込んだかに見えたが、感染が再拡大し、自身の打ち出したゼロコロナ政策とその是非に揺れる中国」、「中国におけるZ世代と年配層の意識の差」など、フレッシュな話題と視点がてんこ盛りである。

 

内容について2つほど興味深い視点を紹介したい。

1つ目は、「このコロナ禍を通して、中国人の民主主義の先進国に対するイメージに大きな変化があった」という点だ。経済成長を続け、今や世界第2位の経済大国になった中国。1位と2位と順位は近いものの、そうは言っても世界のナンバーワンであるアメリカに対して、ある種の憧れをもっていた中国人は多かったようだ。が、このコロナ禍を受けて、その憧れが失望に変わり、民主主義の仕組みについても市井の人から大きな疑問がおこるようになったという。

アメリカのコロナの死者数は既に100万人を超えている。一方で中国の現在の死亡者数は5千人を少し超えるくらいだ。実際にはもう少し多いのではないか、という疑念はあるものの、感染者数、死亡者数ともに他国と比べて圧倒的に少ないことは疑いもない。それは、かなり強硬な行動制限や政府の規制の成果であることは明らかだ。賛否両論は勿論あるが、国民の政府のコロナ対策への評価は全般的に極めて高く、コロナ政策を通して支持基盤が圧倒的に強くなったというから興味深い。

アメリカに代表される民主主義国家は、法整備や合意形成に時間をとられているうちにあっという間に感染拡大してしまった。その一方で、トップダウンの政策で厳しい行動制限を課して、世界で一早く封じ込めに成功したことを目の当たりにし、描いていた民主主義への憧れのイメージががらがらと崩れ去った中国人が多い、というのはなかなか興味深い。とある中国人の政府とその政治システムへの評価が面白かったので、下記の通り引用する。

日本では、中国政府は国民のことなど考えず、何事も強引に推し進めるというイメージを持っている人がいるかも知れませんが、政府は、この政策は国民からある程度支持されるだろうとわかっているから、やっているのです。<中略>

選挙で政権を選択するという政治制度が実質的に存在しない中国では、かえって世論の支持を得られなければ、政府の正当性について国民から認められない、ということだ。

 

上記に加えて、中国のZ世代は、中国製品に「安かろう悪かろう」ではなく、「中国製は、格好良く、デザインがよく、世界で一番オシャレ」というイメージを持っているという話も興味深かったので、紹介したい。

現在の中高年くらいの中国人は、日本製の製品に対して未だにある種の憧れを抱いているが、若いZ世代は真逆のイメージを持っているらしい。というのも、Z世代を主要な顧客層とする現在の中国の新興ブランドの経営者たちは、欧米への留学や旅行経験が豊富で、世界のトレンドに対して敏感であると共に、中国の若者の心をつかむマーケティング手法も熟知しているという。また、中国製は品質が悪いというのも今や昔の話で、世界の工場として世界中の企業の製造を引き受けたノウハウが蓄積されており、高品質な製品を作り出す土台が形成されているという。

また、中国人は価格に対する感度が日本人とは違うという。日本人は良いものであっても安値でお買い得であることにこだわりがちだが、今の中国人は良いものは高くて当然であり、高いお金を支払うという文化があるようだ。最先端のトレンドへの感度と高い製造技術、そして価値あるものに高値を払う成熟した消費者が、中国企業をより強くしているという評価は、私には驚きでありつつも、非常に納得がいくものであった。スマフォ決済が隅々まで浸透し、今や世界のデジタル経済を牽引する中国は、侮るどころか、これから追いかけなければならない存在である。

 

本書で紹介される中国人の声は、都市部の最先端の人々に限ったものでは決してない。正に市井の人々の生の声であり、現代の中国社会を投影している。勿論、現在の中国の政治システムに対する不満や不安も合わせて紹介されており、いまの中国のリアルを理解するには絶好の良書だ。本書を読めば、中国の経済成長が人口増にだけ支えられているわけではないことがわかり、学んだり、参考にできる部分が沢山あるはずだ。

日本人が考える中国人の幸福は、ネットに習近平氏の悪口を堂々と書けることかもしれませんが、私たちはそうは思いません。

毎年収入が上がって生活が安定し、去年よりも今年、今年よりも来年はもっといい生活が送れること、これが中国人にとっていちばんの幸せなんです。

硬直して機能不全だらけの日本の民主主義と低迷と衰退の渦中にある日本経済を考える示唆にあふれているので、是非多くの方に手にとって頂きたい。

『結局、炭水化物を食べればしっかりやせる』 脱なんちゃって低糖質ダイエットすすめ

健康志向の高まりを受け、健康系のパワーワードを製品に入れるというのは、デフォルトになりつつある。その中で「低糖質」、「糖質オフ」、「ロカボ」というのは近年最も目につく売り文句であり、もはやバズワードと言っても過言ではない。いつの時代から「白米」は悪者になってしまったかもはやわからないが、最近の「糖質」を目の敵にする食品メーカーのマーケティング熱は尋常ではない。

 

そんな時代の流れに逆らうような勇気ある良書、『結局、炭水化物を食べればしっかりやせる』を紹介したい。本書の要点をかいつまむと、

  • 「糖質・炭水化物」を食べると太りやすくなるというのは誤解であり、「糖質・炭水化物」はむしろ脂肪にはなりにくい
  • 「糖質・炭水化物」は減らせば体重は少しは下がるが、体の水分量が一時的に落ちただけであり、脂肪は実際には減っていないのでダイエットにはならない
  • 運動量を上げれば、「糖質・炭水化物」は自ずと消費でき、きちんと運動のエネルギーである「糖質・炭水化物」を摂取して、運動をきちんとするのが健康的なダイエットである
  • 減らすべきはむしろ「脂質」であり、「脂質」の摂取量に注意を向けずに、なんとなく「糖質・炭水化物」だけを減らすのは誤りである

という感じである。

 

 

私も実は、「低糖質」という世の中の流れに乗っかって、夕食ではご飯ものは極力食べず、朝もジューサーを買ってスムージーなどを飲み、昼間もサラダチキンと野菜というような食生活が習慣づけてきた。確かに、「糖質」を絞ると「絞りはじめ」は、「おっ!?」という感じで体重が落ちる。が、2キロくらいで下げ止まり、それ以上下げることがなかったので、本書の内容は納得できた。また、私はランニングをするのだが、「糖質」を抑えめにすると正直バテるのが早い。ある距離を超えるとがくっとペースが落ちて、体が途端に重くなり、足が前にでなくなる。体のグリコーゲンが枯渇した中で無理やり足を進めても、とても気持ちのよいランニングにはならず、苦心していた。

 

実は最近、パーソナルトレーナーに指導を受けながら、体全体の筋肉を増やそうと勤しんでいる。そのため、「低糖質」生活をすっかり脱却して、現在は一日300g〜350gを目安にせっせと「糖質・炭水化物」をとっている。朝は、白米を食べ、昼は蕎麦やうどんを食べ、夜も白米かパスタを食べている。それだけでなく、間食にみかん、バナナ、クラッカー、焼き芋などを取り込む「高糖質」、「糖質オン」、「ハカボ(?)」生活を送る毎日だ。まずは、体全体をバルクアップして、筋肉と脂肪をつけて、そこから脂肪だけを絞っていこうという作戦の中の現在は増量期だからだ。「高糖質」生活の良いところは、何と言っても運動が気持ちよくできることだ。走っても、筋トレをしても、前以上に「粘り」がでて、気持ちの良い汗を長くかけるのが心地よい。しっかり「脂質」を抑え、運動をしている限りに追いては、正直「よっしゃ、今日は「糖質」をかなり多めに摂れたぜ!」という日でも体重はなかなか増えてくれない。一方で、「あちゃぁ、今日は脂質多めになっちゃたな」という日の次の日の計量では、如実に体重増がみてとれる(私は20%を目安にしている)。

 

ケトジェニックダイエットくらい極限まで糖質を抑え、脂質をその分計画的にとるのであれば話は別であるが、何となく「低糖質」や「糖質オフ」をうたった食品を食べても、体を絞ることはできない。「低糖質」や「糖質オフ」商品を見たら、成分表の「脂質」量もチェックしてみると良い。多少糖質を抑えたところで、糖質と同量くらいの「脂質」が入っていたら、ぶっちゃけダイエット効果はないどころか、マイナスだと思う。「糖質」にのみ注意を払い、「脂質」に注意を向けないというのは本末転倒であり、「なんちゃって低糖質」なのだ。

にもかかわらず「低脂質」・「ローファット」をうたっている商品は、「低糖質」・「ローカーボ」と比較すると非常に少ない気がする。それは、おそらく万人が「美味しい」と感じる味を「低糖質・低脂質」で実現するのは難しいからだと思う。なので、本当は「脂質」を抑えないといけないとしりつつも、比較的美味しさを維持しやすい「低糖質・中脂質」製品が世にあふれているのだろう。もう一度繰り返させて頂くが、「低糖質」や「糖質オフ」商品を見たら、成分表の「脂質」量も是非チェックして頂きたい。「脂質」が「糖質」より高かったり同等だったりしたら、ダイエット食品としての意味はないので、そっと棚に戻すことをおすすめしたい。

 

健康的な生活の送り方は、それぞれにライフスタイルにあわせたものでなければならない。なので、それは人それぞれで「これなら全ての人に大丈夫」なんてやり方は絶対にない(私が書いたことも必ず読んだ方に当てはまるとは限らない)。なので、自分で学習をして、自分の体に問いかけながら、すこしづつ自分なりに健康的なライフスタイルを作っていくことだ一番大事だ。この「低糖質」や「糖質オフ」のマーケティングの嵐を乗り越えるための素養を身につけるために、『結局、炭水化物を食べればしっかりやせる』は絶好の学習書なので、健康志向の皆様には是非手にとって頂きたい。

『会計と経営の七〇〇年史』 人と物語からみる会計・経営史

本日紹介するのは『会計と経営の七〇〇年史』。あまりに重厚なタイトルで思わず尻込みしてしまいそうになるが、ご安心頂きたい。やれ貸方だの、やれ借方だのの会計知識は、本書を楽しむ上では一切必要はない。エピソードと人物の織り成す面白おかしいストーリーを中心に、会計と経営の700年の進化をわかりやすく紹介する良書だ。

 

いや、「進化をわかりやすく紹介」というのも少し硬すぎるからかもしれない。簿記や株式会社や証券取引所の生い立ちを振り返りつつ、会計と経営の歴史の主要登場人物である彼らが、一体どういうキャラクターで、どんな困難を乗り越えて、どうやって成長してきたのかをわかりやすく教えてくれる、という表現の方が正しいだろう。本書を読んだ後に私が一番始めに浮かんだ薦めたい読者は、わが家の中学生と高校生の子供たちだ。大人も勿論勉強になり、楽しめる本であるが、会計や経営に馴染みのない中高生には本書を強くお勧めしたい(というか、私も中高生の頃こういう本を読みたかった)。

 

本書で中心に据えられるのは「簿記・株式会社・証券取引所・利益計算・情報開示」の5つであるが、株式会社の内容を少し紹介してみよう。こういった言葉を理解する上で多くの人が参照するのはWikipediaであろうが、Wikipediaの「株式会社」のページは、11もの項目からなる長文が下記の冒頭から始まる。

株式会社(かぶしきがいしゃ)は、細分化された社員権(株式)を有する株主から有限責任の下に資金を調達して株主から委任を受けた経営者が事業を行い、利益を株主に配当する、「法人格」を有する会社形態の1つであり、社会貢献と営利を目的とする社団法人である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/株式会社

「株式会社」の内容がわかっていれば、理解はできるが、中学生や高校生は勿論のこと、初学者は玉砕必死である。確かにその特徴を過不足なく簡潔にまとめているが、お世辞にもわかりやすい説明とはいえない。一方で、本書では株式会社が生まれたオランダの当時の状況を振り返りつつ、下記の通り解説する。

株式会社は、画期的でユニークなアイデアでした。なにせ、返済しなくてもいい資金調達の方法を編み出したのですから。借りた金は返さないといけませんが、出資してもらうのであれば返済義務がありません。その形式を作るために、「会社のオーナーは株主である」という理屈が作られました。

この株式会社を「返す必要のない金を集める仕組み」という思い切りつつも、本質的な部分を捉えて、すばっと解説する様は読んでいて心地よい。この「短期で資金を借り入れて、都度都度返済するなんて、とてもやってられないじゃん、お金を出してくれる人はオーナーってことにして、儲けたお金を分けるってことで手をうとう」という当初の意図を、それが生まれた歴史的背景とともに説明されているので、私も改めて腹落ちする内容が多く、とても勉強になった。また、子供たちに「株式会社とはなんぞや」という話をする時に、こういう説明をしてあげれなくて不甲斐なかったと反省しきりであった。

 

本書のもう一つの魅力は、理論や仕組みの説明より、「人物」を全面にだしたことだろう。会計と経営というと、とかく無機質な説明ばかりがされがちな内容である。でも実際はそれらが発明されるに至っては、それが生み出された時代特有のチャレンジがあり、それらに打ちのめされた人々やブレイクスルーを起こす魅力的な人々と彼らの「物語」があったはずだ。「会計と経営」の教科書で、とかく補論として扱われがちな「人物」と「物語」に焦点をあてるという筆者の狙いは、わかりやすさや読みやすさをあげるだけでなく、仕組みの本質的な理解を促す効果も果たしている。

株価操作やインサイダー取引が横行する証券市場に、より適正なルールをもたらし、誰でも参加しやすい場とするために、1934年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が設立される。設立当時のルーズベルト大統領が、初代にSEC委員長にジョセフ・パトリック・ケネディという当時インサイダー取引でボロ儲けしていた人物を登用するわけだが、その理由がふるっている。

「泥棒を捕まえるためには、泥棒が一番だ」

 

漫画のような話ではあるが、これが辺り公正で透明な証券市場をつくるための制度改革が進み、アメリカの証券取引所はその経済の成長の基盤となるわけである。私の一番のお気に入りのエピソードはこの話なのだが、是非皆さんにも自分のお気に入りのキャラクターとその武勇伝を見つけて頂きたい。

 

わが家の高校生の娘は、現在選択科目で「会計」を受講している。その授業で銀行勘定報告の突合(Bank Reconciliation)などを課題で作成している。小切手が未だに日常生活で使われる米国では、納得の内容ではあるが、細かい技術論や手続き論が先行して、「小切手ってそもそも何者で、それを突合するというのはどういうことを目的としているんだっけ?」というところまで理解が至ってないのではないかと思う。「ルネッサンスのイタリアで、どのような時代背景から小切手が発明されたのか」という「物語」は、理解を深めるだけでなく、会計の勉強に楽しさを加えてくれると思う。「会計」は資本主義社会において、当面は必須知識として不動の地位を維持し続ける。なので、より多くの若者に本書を読んでもらい、彼らが生き抜く資本主義社会の素養の基礎を身につけてほしい。

 

 

 

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