Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『保健所の「コロナ戦記」』 コロナ禍二年間の軌跡と一筋の希望

このコロナ禍で否応なく「保健所」に注目が集まっているが、本日紹介する『保健所の「コロナ戦記」』は、保健所管理職としてコロナ第一波から、最前線で獅子奮迅の働きをしてきた関なおみさんの独白。東京都に住む方は必読とも言えるオススメの本だ。

 

特に、

  • そもそも今までの人生で保健所にお世話になったことが一度もない
  • このコロナ禍で、病院だけでなく保健所がこれほど注目を集めている理由がよくわからない
  • そう言われてみると保健所がそもそも何をしてくれる所なのかよくわからない

というような人には強く薦めたい。また、

  • コロナ関連で保健所に連絡をしたが、けんもほろろでムカついている

という人にも是非読んで頂きたい。制度としての善し悪しはさておき、保健所がキャパオーバーしているのは医療も含めた制度の問題で、そこで働いている人の問題ではない。理由が理解できれば、人というのは多少なりとも感じたストレスを減らすことができるものだ。

 

本書は、国内で初めての感染者が発見される第1波から、デルタ株が大流行する第5波までの都下の保健所、並びに都庁感染症対策課で起きたリアルを描いたノンフィクション作品だ。コロナ禍の最前線で戦う保健所職員の日々の苦闘と健闘が息遣いを感じるほどのリアルさで伝わってくる一方で、そういう自分たちの姿をどこか客観視しながらコミカルさも交えた軽い筆致で描き、単なる現場職員の愚痴で終わらせることなく多くの人に届けたいという筆者の思いを感じる。例えば、保健所に勤める管理職の公衆衛生医師として、管理職としての事務業務は勿論、マスコミ対応、都議会対応など、医師業務以外の仕事に追われる心情を下記のように描いている。

公衆衛生医師も、とあるフリーランスの医師のように、医師免許がなくてもできる仕事はいっさい「致しません」と言えればいいが、都庁や特別区の保健所では非常に難しい。

『保健所の「コロナ戦記」』 第三章 第3波 12月から2021年3月まで

これはテレビ朝日の某人気医療系ドラマからひいてきていると思われる。単に組織に対する不平不満を開陳するのではなく、ちょいちょいとこの手の小ネタを挟んでいるので、新書にして416ページというボリュームを感じさせることなく、すいすいと読みすすめることができる。

 

また、政治家なり、医師会なりを呪いたくなる気持ちになる環境で働きながらも、そういう方々への恨み節もあまりないことも本書の魅力だ。まぁ、今の東京都知事は、自分を批判する人間は、定年退職を迎えて外郭団体にいる人間であろうと粛清するという御人であるから、その点には筆者は細心の注意を払ったであろうことは推察できる。事実に忠実で客観的でありつつ、他者を批判しないという姿勢を貫いているので、大作の戦記ながらも重たくなりすぎていないのが良い。筆者の豊かな感情表現を随所に散りばめることにより、読み物としての魅力をあげながらも、人への恨みつらみが前面にでていないのは筆者の人柄だろう。

が、そんな筆者でも、下記のように都下で働く職員としての苦悩がたまに滲みでているところに、くすっと笑わされてしまう。そんな良識人の本音も本書の魅力の一つだと思う。

都知事が発言するたび、プレス発表する度に、殺到する都民からの問い合わせや、マスコミ取材、開示請求対応も大きな負担となった。

 『保健所の「コロナ戦記」』 最終章 残された課題

 

いくつか本書の読みどころを紹介してきたが、本書の一番の読みどころは、と聞かれれば、この時期に2020年1月から始まったこのコロナ禍を振り返ることができるということをあげたい。世界中のそれぞれの方々が、それぞれの生活の大きな変更を余儀なくされたこの2年間。残念ながら、我々はこいつとしばらく付き合っていかなければならないし、本書で語られていないオミクロン株で今はてんやわんやなわけであるが、2年間というのは振り返るに十分かつ丁度よい区切りのように読後に感じた。

中国のとある地域で「原因不明の謎の肺炎」が発生したらしいという状態から、検査方法が確立し、それが改善・普及し、感染者を追跡するプロセスとシステムも整備され、療養受入先も政治主導で少しづつ増えていき、ついにはワクチンが開発され、大々的に摂取が進んでいった。その間の血のにじむような現場の苦労は本書であますことなく語られているが、改めて振り返ってみると、われわれ人類はこの2年間で随分と大きな成果をあげたことは間違いない。もちろん、政治に疑問や不満はあるものの一歩一歩着実に進んでいることは高く評価しなければならない

本書を読んで、この2年間を振り返って持つ読後感は人それぞれだと思う。ある方は現在進行形で続く災難を再認識し暗澹たる気持ちを覚えるかもしれないし、他の方は療養施設の駅弁や空弁のような無意味な打ち上げ花火があげるために振り回される現場職員に思いを馳せて憤りを覚える方もいるかもしれない。が、私は2年間という短い期間でここまであげてきた成果に、一筋の希望をみたし、超えていかなければならない山はまだあるものの、きっと乗り越えていけるだろうという確信に近い感覚も覚えた。自分たちなら、そしてこういう人となら乗り越えていける、そんな勇気を与えてくれる、力強い戦いの軌跡が描かれている本書を是非多くの方に手にとって頂きたい。

『無罪請負人 刑事弁護とは何か?』 猿にマシンガン

「保育園に預けた子供の迎えにいかなければならない、せめて夫に連絡させてほしい」

と懇願しても、◯◯◯は、

「早く帰りたいなら、早く認めて楽になれよ」

と迫ったという。

上記の文章の◯◯◯の中に漢字三文字を入れなさい、と聞かれたらどう答えるだろう。殆どの人は「誘拐犯」と答え、「夫に連絡させて欲しい」と懇願しているのは、誘拐された母親と思うのではないだろうか。驚くなかれ、ここに入る漢字三文字はなんと「検察官」である。

 

本日紹介する『無罪請負人』の著者は、刑事事件の弁護士として、堀江貴文、鈴木宗男、村木厚子、小澤一郎などのいわゆる「国策捜査」の弁護を担当した、弘中惇一郎氏。数々の冤罪で検察によって起訴された方たちの弁護人として、検察という大きな組織に立ち向かい、何度か無罪を勝ち取ってきた実績の持ち主だ。その筆者が弁護人の視点で、いくつかの自身が手掛けた案件を紹介しながら、検察の問題点並びに弁護士のあり方を問う力作だ。さすが弁護士という論理的な構成と具体的な刑事裁判の進行とが見事に噛み合い、一気に本書の引き込まれていった。

 

冒頭の引用に戻る。

「保育園に預けた子供の迎えにいかなければならない、せめて夫に連絡させてほしい」

と懇願しても、検察官は、

「早く帰りたいなら、早く認めて楽になれよ」

虚偽の供述を迫ったという。

以上が正確な引用となるが、これは小沢一郎の国策捜査で、議員秘書を押収品の返却と偽って検察が呼び出し、取調室に押し込んで10時間ほど拘束して取り調べを行った際のワンシーンだ。日本の刑事事件は検察の調書偏重なので、検察側のストーリーに従った罪を被疑者に無理やり自白させることが目的となることが多いという。被疑者は事実と異なる罪を自白することに当初は当然抵抗をする。だが、検察が言った通りに自白をしなければ勾留が続き、保釈が認められることもない。要するに「保釈になりたければ争うのをやめてすべて認めて楽になれ」、という「人質司法」なのだ。おまけに接見制限により社会や家族から隔絶し、時計も冷暖房もない部屋に押し込められて、取り調べは土日であろうが深夜であろうがお構いなしにされるという。

このようなやり方は一種の拷問であり、非人道的行為である。日本が批准している国際人権規約にも明らかに違反している。こうしたやり方が放置されている国は先進国では日本ぐらいしかなく、国連などから何度も是正と廃止の勧告を受けている。

検察なんてどこの国もこんなものなのかと思ったが、残念ながら人質・拷問が普通に行われているのは日本だけのようだ。国連の会議でも「日本の刑事司法は中世に近い」と悪評だという。

 

本書を読むと目を疑わんばかりの検察の行き過ぎがこれでもかとばかりに紹介されるが、何故未だに改善がされないのだろうか。これは、検察の人間が悪いというより仕組みの問題だろう。即ち公正な手続きが行われているかどうかを評価し、是正を勧告する組織が検察以外にない、というのが問題なのだ。長年同じ体制、同じ考え、同じ価値観で走り続けている組織に、自浄機能を求めるというのは無理筋だ。生物の細胞が自分の遺伝子を残すために分裂を繰り返すように、検察という組織も、現在の自分たちの遺伝子を残すために動物的に自己防衛を繰り返す、それはあたかも暴走するがん細胞のようではあるが、がん細胞ががん細胞を破壊できないように、今の検察が今の検察は壊すのは無理なのだ。

本来であれば政治家がその役割を担うべきなのだが、そういう改革を推し進めようという政治がいると、検察がその政治家を捕まえて有罪にしたてあげるため、震え上がって政治家も残念ながら触ることができない構図となっている。先日読んだ『金融庁戦記』に強い取り締まり権限を持った金融検査官を「猿にマシンガン」と揶揄する箇所があったが、「猿にマシンガン」という敬称は現在の東京地検特捜部にこそふさわしい。

 

自浄作用も働かないし、政治家もタッチできないし、さらに選挙で選ぶわけでもない検察をではどのように変えればよいのだろうか。難しい解決策なのは百も承知であるが、それは「民意」だと思う。本書で紹介されている小沢一郎の陸山会事件などは、概要を知るだけで小沢一郎を有罪にするなど無理筋であることは誰の目にも明らかだ。事実として裁判でも無罪の判決がでている。しかし、結果としては検察とマスコミに煽られて醸成された「あれだけ悪人面なんだから何か悪いことをしているに違いない」という民意によって、小沢一郎は失脚することになった。国民がもう少し関心を持ち、もう少し勉強をし、もう少し新聞やテレビなどのマスメディアのメッセージに注意を払うだけで、結果は大きく変わったであろう。

 

最近はYouTubeなどで様々なニュースメディアがでてきて、マスコミが発信するのとは違う角度のメッセージが沢山発信されており、非常に良い傾向であると思う。本書は、そういった新しいメディアの発信を理解するためにも非常に丁寧でわかりやすい刑事裁判の入門書であるため、手にとっていない方には強く勧めたい。また、最近出版された『生涯弁護人』も面白そうなので是非読んでみたい。

 

 

 

大企業で出世する人の特徴

「あなたが日本の大企業に勤めていたら、今頃離婚していたと思う」

 

ある晩妻とワインを飲みながら話していたら、不意にそんなことを言われて驚いた。幸い、私は新卒の頃から外資系企業に務め、現在はアメリカの現地企業に勤めているので、離婚を免れることはできそうだ。妻曰く、私が日本の大企業に勤めていたら、そこでやりがいをそれなりに見つけ、成果もそれなりにあげて、出世もそれなりにして、気付いたらその価値観に染まっていただろうという。就職活動で日本の大企業と外資系企業の両方を見て、外資系のコンサルティング会社に勤めるというのは、私の価値観に従ってしたものだったんだから、妻が言うようにはならないよ、とその時は言った。が、口ではそう言いながらも、何となく妻が言う通りになっていただろうなと正直思った。

 

私は「出世」にあまり興味がない。若い頃はお金もなかったので、昇進をして給料をもっと得たいという欲はあった。が、ある程度まで給料があがると、昇給しても「ふーん」という感じで、そこから得られる幸福度は下がっていく一方だ。「肩書」や「タイトル」への欲もないので、「出世」のために上司にアピールをしたりしたことは一度もない。が、その割には昇進の機会に恵まれてきた。アメリカに転籍をした直後は管理職から外れて、インディビジュアル・コントリビューターの生活を楽しんでいたのだが、さぼっているのがばれて「お前、マネージャーやってくれ」と頼まれた。その後も仕事ぶりが認められ、昇進と昇給を重ね、それなりにポジションを任されている。

 

「大企業で出世する人の特徴」というと半沢直樹的などろどろの出世争いに勝ち抜ける人というイメージがあるかもしれない。が、出世を求めなかったのにそれなりに出世できた自分の経験からすると、強欲なまでの出世欲より大事なものがある。それは「どんな場所であっても、自分なりにやりがいを見つけることができる」ということだ。

ある程度大きな企業に勤めていれば、会社は某かの社会貢献はしているし、組織全体のためにイチ社員ができることというのはそこかしこに転がっているものだ。自分が置かれた状況にいつも前向きにとらえ、その組織の中で自分がどんな貢献ができるのかを考え、そこで見出した意義を元にやる気をもって仕事に取り組む、ということを私は性格的に自然にできる。組織で働いていると、組織の統廃合や会社そのものの統合合併などの波にもまれて、自分の力と関係ないところで割を食うというのはよくあることだし、自分が思っていたように評価されないということなど日常茶飯事だ。が、腐ったり斜に構えてやる気を失うのではなく、やるべきことを考え、そこに自分なりの意義を見出し、それを糧に高いモチベーションで取り組む、ということができる人にとっては会社組織というのは働きやすい場所だと思う。逆に小さなことで傷つき、モチベーションを下げたり、わかりやすいやりがいがないとやる気が出ない、という人は会社組織にはあまり向いていないと思う。組織が大きくなればなるほど、やる気を奪う罠がそこかしこに散らばっているからだ。

 

そこかしこに落ちている小石につまづかず、些細なネタからやる気を自家発電できる、というのは組織で出世する上では大事なことだと思う。が、だからといってそれ自体がとても良いことだともあまり思わないし、そういう考え方は少しづつ廃れていくんじゃないかと最近思う。そういう人材は見方を変えれば、会社にとって都合が良いというだけだし、本当に自分がやりたいことを見逃してしまうかもしれない。

 

最近娘が読んだ『モチベーション革命』という本が面白そうだったので読んでみたのだが、若い世代の人たちを「乾けない世代」とカテゴライズしており、大変興味深かった。

 

その本が言うには、「逆境に立ち向かい、大変な努力の末に何かを成し遂げ、大きな達成感を覚え、そしてステップアップしていく」というのは古い考え方なのだという。われわれ(私は40代)の世代がそうやって、努力やそこでえた達成感を元に邁進できるのは、お金がなかったり豊かでなかったりした時期がある「乾いた世代」だからであり、

生まれたときから十分なモノに囲まれて育った彼らは、「ないものを勝ち得るために我慢する」という上の世代の心理は理解できないのです。さらに言えば、彼らは上の世代に対し「達成」にこだわることのアンバランスさを感じています

『モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体新書』

というのが「乾けない世代」の考え方なのだと言う。

 

楽天は「世界一のインターネット・サービス企業へ」、サイバーエージェントは「21世紀を代表する会社を創る」という目標を掲げているが、「世界一」や「21世紀を代表する」という「目標の大きさ」は書かれているが、「何のために」、「なぜ」、「何をするのか」ということが書かれていない。本書曰く、「目標の大きさ」にやる気や意義を感じて全力で走ることができるのは「上の世代」の人たちで、「下の世代」にはぐっとこないらしい。なるほどなぁと思った。

 

本エントリーのタイトルは「大企業で出世する人の特徴」としたのだが、「一昔前、大企業で出世した人の特徴」という方が正しいかもしれない。頑張ることが美徳の世代には、生きづらい時代に徐々になっていくだろう。が、幸いにも年とともに欲望というのが衰えてきているので、シニア版「乾けない世代」としてうまく時代の波に乗っていきたい。

10秒で仕上げる英文メールの書き出し 進捗状況を共有編

仕事で英文メールを書かないといけないという人は多いだろう。本題にさっと入りたいのだが、書き出しで苦戦をしている人は意外に多いのではないか。書き出しの言い回しをググっているうちに、10分〜15分時間を使ってしまったという経験は誰にでもあるだろう。だが、「英文メールの書き出し」というのは難しいことではない。シーンごとに鉄板の型があるため、その型さえ覚えてしまえば書き出しは10秒ですますことができる。

 

私は現在アメリカに住み、7年以上アメリカの現地企業で仕事をしている。最近は書き出しで時間をかけることはまずない。同僚のアメリカ人が送付したメールから使えそうな鉄板の言い回しを抜粋してストックしているからだ。この「10秒で仕上げる英文メールの書き出し」シリーズでは、私の使っている鉄板表現をシーンごとに紹介し、読者の英文メールを書く時間の大幅な削減をお手伝いしたい。

 

進捗・状況を共有する

 

会議で自分が担当になったアクションの進捗報告をする「いつまでに終わるんだ」とせっつかれていることの状況を共有する、といったことに私たちは日々追われている。毎日全く新しいことをするなんて人は殆どいなく、大抵私たちは抱えている案件を前に進めることが日々の仕事の中心となっている。なので、実施した会議の議論を前に進めるために、現状を情報共有してステークホルダーを自分の事案につなぎとめておくために、そして「あれはどうなっているんだ?」というような問い合わせに追われないように、進捗や状況を共有するのは大事なことで、コントロールのききにくい英語でのやり取りでは、その必要性はより強くなる。今回は進捗や状況を共有するメールで使える書き出し、並びに文中の表現を紹介したい。

 

Want to provide a quick update on 〜(〜につきまして簡単に状況を報告します)

 

<例文>
Want to provide a quick update on the resolution we came to for addressing the issue we discussed.

懸案の問題に対して、私たちの講じた対策につきまして、取り急ぎ報告させて頂きます。

 

進捗や状況を共有するための表現をいくつか紹介しようと思ったのだが、いくつか派生系はあれど、"update on"が鉄板すぎて、これ以外にあまり紹介できる表現がなかった。なので、書き出しの表現としては今回はこれ一本でいきたい。まずは、王道の表現を説明し、後でいくつかのバリエーションも共有する。

 

上の例文では主語を省いているが、"I want to provide a quick update on"というように、きちんと主語をつけることももちろん可能だ。が、実際は主語を省いてしまう場合の方が圧倒的に多い。なので、主語なしの方がこなれた感じに、私には見える。

 

また、文法的な意味合いは、よくわからないのだが、"Wanted to provide a quick update"というように、過去形にする場合のほうが多いかもしれない。同僚にどうして過去形にするのか、聞いてみたが的を得た回答というのはあまり得られなかった。"I have wanted to provide a quick update"の省略で、現在完了から派生しているのか、と聞いたところ、「多分、それだ!」と言われたが、真偽のほどは定かではない。が、多くの人がそうしているので、過去形でも全く違和感はない。

 

表現の仕方にいくつかバリエーションがあるので、以下に紹介する。微妙な差なので、全部覚える必要はないが、あわせて進捗報告の際に使える細かな表現も紹介していきたい。

 

Just wanted to update you on what we know for now and will continue to share updates as things develop.
現時点でわかっていることを取り急ぎ共有させて頂きます。また、進捗に応じて引き続き状況を共有していきたいと思います。

 

"Update"を目的語ではなくて、動詞にしたバージョン。"Just"そのものにそんなに意味はないので省いてしまってもいいが、「取り急ぎ」というニュアンスがでる気がする。"as things develop"というのは「進捗に応じて」と意訳しているが、「今後もこの件進めていくからね!」という前向きな雰囲気が醸し出せる。

 

A quick update on where we are with this exercise as of tonight.
今晩時点で、本件についての現状を手短に報告致します。

 

これは主語どころか動詞も省いてしまったパターンだが、これもよくある形。"Just a quick update."と冒頭に書いて、その後は状況報告をバーっと書いていく場合も結構多い。"where we are"とか"where we stand"というのも「現状」という意味でよく使う鉄板の表現なので、覚えておくことを進める。"the current situation"とかでもいいのだが、個人的には"where we are"の方がシュッとした感じはする。

 

Keep you posted on 〜 (〜につきまして引き続き情報共有をさせて頂きます)

 

<例文>
Keep you posted on where things stand.

今後も状況につきまして引き続き情報を共有させて頂きます。

 

冒頭の表現を紹介したので、ついでに締めの表現も共有したい。"Keep you posted on"は、状況報告メールの締め括りとして鉄板の表現だ。"on 〜”とかつけて長くせずに、"Will keep you posted"とズバッと一言だけつけるのもよくあるし、"Posted"の代わりに"Keep you updated"とすることもできる。

 

状況に応じた用例をいくつか以下紹介するので参考にして頂きたい。

 

  • I wanted to keep you posted on the live progress.
    進捗を常時共有させて頂きます。
  • I will keep you posted on any key points that come up during our discussions.
    今後の検討の結果、提起された重要事項については共有させて頂きます。
  • I will keep you posted on what I hear from the leadership team.
    上層部から今後あるフィードバックを共有させて頂きます。

 

まとめ

 

進捗状況を報告するメールの書き出しと締めの表現として、以下の2つの表現と、その派生系を今回は紹介させて頂いた。少しでも参考になると幸いだ。

 

  • Want to provide a quick update on 〜(〜につきまして簡単に状況を報告します)
  • Keep you posted on 〜 (〜につきまして引き続き情報共有をさせて頂きます)

 

なお、例文の殆どは私が実際にアメリカ人から受信したメールからの抜粋だ。私はIT企業のファイナンスやセールスオペレーションでの経験が長いので、同じ職種の方は、ほぼ丸パクリできるケースもあると思うので、お役に立てれば幸いである。

 

この度、自由に生きる海外移住”という新ブログを立ち上げました。より多くの日本人が海外で活躍できるように、アメリカでの仕事や生活についての情報発信をしています。興味のある方は是非御覧ください。新ブログでのリンクをこちらにも掲載させて頂きます。

 

 

『21 Lessons』 世界に明快さをもたらすというハラリの優しさ

初作の『サピエンス全史』は、われわれサピエンスがどのような歩みを辿って地球上で最も繁栄した種となったのかという過去の話、二作目の『ホモ・デウス』は今後ホモ属はどのように進化していき、サピエンスはどのような進化をとげるのかという未来の話、そしてユヴァル・ノア・ハラリの三作目『21 Lessons』は現代に焦点をあてている。相変わらずのハラリ節全開でとても楽しめた。本エントリーでは『21 Lessons』を以下の3つの切り口で解説して、その魅力を伝えたい。

  1. 現代社会のその複雑性と相互関連性
  2. 自由主義・民主主義により解決に至っていない3つの問題
  3. 複雑な世界で生きる上で歩みうるもう1つの道

 

現代社会のその複雑性と相互関連性

現代の知の巨人と謳われるユヴァル・ノア・ハラリがどのような切り口で現代社会を語るのかは非常に興味深いテーマであるが、その数は何と本書のタイトル通り21。5つの大きなパートがあるが、それごとに配置されたテーマを以下列挙してみる。

  • テクノロジー面の難題 (The Technical Challenge)
    • 幻滅 (Disillusionment)
    • 雇用 (Work)
    • 自由 (Libertiy)
    • 平等 (Equality)
  • 政治面の課題 (Political Challenge)
    • コミュニティ (Communicaty)
    • 文明 (Civilization)
    • ナショナリズム (Nationalism)
    • 宗教 (Religion)
    • 移民 (Immigration)
  • 絶望と希望 (Despare and Hope)
    • テロ (Terrorism)
    • 戦争 (War)
    • 謙虚さ (Humility)
    • 神 (God)
    • 世俗主義 (Secularism)
  • 真実 (Truth)
    • 無知 (Ignorance)
    • 正義 (Justice)
    • ポスト・トゥルース (Post-Truth)
    • SF (Science Fiction)
  • レジリエンス (Resilience)
    • 教育 (Education)
    • 意味 (Meaning)
    • 瞑想 (Meditation)

 

本書の書評を書くにあたって、特に私が興味をひいた3つのテーマをとりあげるという、王道のアプローチを試みたのだが、どうも正しくないように思えた。というのも、この視点の多様性とその相互に絡み合う関連性こそが、筆者が本書を通して最も伝えたいメッセージだからだ。本書の流れの特徴は、21の各章の終わりが必ず次の章のテーマへの問題提起で終わっている点だ。つまり、最も重要な視点を取捨選択するのではなく、一見すると異なるが、互いに関連し、作用し合う多数の視点を数珠のようにつなげ合わせることにより、現代の社会が如何に複雑で相互に絡みあうのかを明らかにすることが筆者の狙いと私は読んだ。幾層にも重なり合う複雑な虚構を前に立ち尽くしてしまいがちになるが、一層一層丁寧にはがすかのような筆者の明快さは、現代社会を生きる我々に多くの示唆を与えてくれる。

 

自由主義・民主主義により解決に至っていない3つの問題

自由主義と民主主義というイデオロギーは、ついこの間までは資本主義と相まって様々な問題を解決してきた、普遍的にも見えた「物語」であったのだが、本書は人々のその自由主義と民主主義に対する「幻滅 (Disillusionment)」を描くことから始まっている。

その「幻滅」の末に、ある集団はナショナリズムに回帰し、ある集団は宗教の原理主義に回帰し、またある集団は戦争やテロに走っている。それらの既存の「物語」は大きな問題の解決策を提示するどころか、その「物語」が賞味期限切れであること、もしくはそれ単体では解決策に至らないことを露呈するに留まっていると舌鋒鋭いハラリ節が本書を通して、展開される。

現代社会の様々な問題に本書では触れられているが、人類が生存するために解決しなければならない現代社会が抱える問題は、核兵器・環境問題・破壊的な技術の3つであると筆者は考えている。たった一つの国が核兵器を使えば世界の平和の均衡は崩れるし、たった一つの国がCO2の排出をゼロにしたところで環境破壊は止まらないし、情報技術とバイオテクノロジーの進化は既に国の枠組みを大きく超えてしまっている。どの問題も人類の文明や経済の統合が進み、グローバル化がここまで進行したが故にさらに大きくなった問題であり、ナショナリズムや宗教という統合だけでなく、分断を内在する既存の「物語」はこれらの問題を解決するためには無力であることが本書を通して語られている。

21のテーマが互いに関連し、絡み合う形で論旨が展開されていくので、時としてポイントが汲み取りにくくなってしまうが、「核兵器・環境問題・破壊的な技術」を解決するための「物語」を探し求めることが骨子であることを念頭においておくと、全体を通して読みやすくなるだろう。

 

複雑な世界で生きる上で歩みうるもう1つの道

上述したとおり、本書のテーマは多岐にわたるが、最終パートの「レジリエンス (Resilience)」だけは、一つだけ視点が異なることを触れておきたい。最初の4つのパートは、我々をとりまく環境、我々に影響を与える技術やイデオロギーや思想に関するものであるが、最終パートは「外」ではなく「内」に向いている。即ち、自分がおかれている環境を理解するのも大事であるが、この複雑な世界で自分の立ち位置を把握し、自己を保つためには、「内」なる自分自身ももきちんと理解しないといけませんよ、というメッセージで筆者は本書を締めくくっている。

それは山にトンネルを通すのに、片側からだけ掘り進むのではなく、反対側からも掘り進むのに似ているのかもしれない。各種の書評では、最後のテーマが「瞑想」で締めくくられていることが驚きをもって捉えられていたが、自己の理解というもう1つの歩みうる道を控え目ながらも「瞑想」という形で最後に提示していることは何とも心憎い。「内」なる自分を理解するための手法が、筆者の経験を中心に記載されているが、一人のか弱い人間としてその問題に微力ながらも立ち向かう筆者の姿を開陳する姿に筆者の誠実さを私はみた。

それが故に他のパートと比べて、筆者もこのテーマについては本質を捉えあぐねている印象を受けた。その答えを未だ探し求めているため、他のテーマと比較して明快さに欠くように思えたが、興味のあるテーマだけに次作でさらに深堀りされることを期待したい。

 

まとめ

以上、本書の骨子を、

  1. 現代社会のその複雑性と相互関連性
  2. 自由主義・民主主義により解決に至っていない3つの問題
  3. 複雑な世界で生きる上で歩みうるもう1つの道

という3点でまとめてみた。現代社会の山積する問題の所在を明らかにし、解決の方向性を指し示すというより、読者のそれらの問題への主体的な関わりを求める意欲的な作品である。時に舌鋒が尖すぎて、反感を買うことも大いにあると思うが、世界中の多くに人が筆者の声に耳を傾ける理由は、下記の本書の冒頭の言葉に集約されると私は思う。

的外れな情報であふれ返る世界にあっては、明確さは力だ。理屈の上では、誰もが人類の将来についての議論に参加できるが、明確なビジョンを維持するのはとても難しい。<中略>

私は歴史学者なので、人々に食べ物や着るものを与えることはできないけれど、それなりの明確さを提供するように努め、それによって世の中を公平にする手助けをすることはできる

『21 Lessons』 はじめに

ここにあるのは筆者の底抜けの優しさだ。誰もが多忙で忙しく、この世界の複雑性を前にして、人類の未来についての議論に意味ある形で参加できないのは公平ではないため、歴史家としていくばくかの明確さ(Clarity)を提供したい、と筆者はその狙いを冒頭で熱っぽく語る。既成概念を切って捨てる暴力的なまでの筆者の明快さは、誰かを批判することを通してマウントをとるためではなく、圧倒的な人類に対する筆者の優しさによるものであることを、多くの読者は理解しているのだろう。次回作が楽しみでならない。

 

『サピエンス全史』 「虚構」の向こうにある可能性

読書の醍醐味の一つは、自分の先入観や固定観念、常識を覆され、視野が広がり、新しい目で物事を眺められるようになることいわゆる「目から鱗が落ちる」体験をすることだろう。<中略>まさにそのような醍醐味を満喫させてくれるのが本書『サピエンス全史』だ。

『サピエンス全史』 訳者あとがき

大作という評判に気後れし、手が伸びていなかった『サピエンス全史』をようやく読んだ。読み応え満点であるが知的刺激に満ち、常識に果敢に挑みながらもうわついた感じがなく説得力に溢れ、読後に疲労感はありながらも充実感が圧倒的に勝るという、間違いなく今年一番の本であった。冒頭で引用した訳者あとがきの評は、これ以上ないほど凝縮され、かつ正鵠を射た本書への評だ。

 

本書のエッセンスは、サピエンスの発展の鍵を「虚構」に据えている点にある。「虚構」、即ち現実の世界で存在を確認したわけではない、頭の中のみに存在する物語を作り、それを信じるということが、我々人間とネアンデルタール人も含めた他の動物との決定的な違いであるという。

「虚構」を作り、信じることができることで、我々が何をできるようになったのか(逆に他の動物が未だにできないことは何か)、というと

  1. 何千、何万という単位で協力ができるようになった
  2. 遺伝子や環境を変えることなく、自分の、そしてサピエンス全体で行動を変えることができるようになった

という二点を著者のハラリ氏はあげている。

哺乳類の最大行動単位はせいぜい150頭くらいが限界であるという。確かに、1万頭の猿の群れが一糸乱れぬ連携している姿というのは実際に見たことはない。が、雲の上にいるこの世を創生したヒゲを生やした神様を信じることにより、われわれサピエンスは何千、何万という集団での協力体制を作り上げることができた。腕力ではゴリラよりはるかに非力だが、この大きな連携力で他の種を圧倒したというのは面白くもあり、直感的に受け入れることができる。

また、通常の動物は遺伝子情報の変異の積み重ねによってしか、種としての行動様式を変えることはできない、という。身に危険が迫ったイカがスミをはいて逃げるのも、カメレオンが擬態するのも、遺伝子レベルで決められた本能的な行動であり、決して他のイカやカメレオンによるイデオロギー教育や護身術訓練の賜物ではない。サピエンスのみが、特定の規則や標準を習慣づけることで、いわば「人工的な本能」を作り出し、行動様式を数千年どころか一ヶ月単位で変えることができるという考察は興味深い。

 

ここまでの話が前半部分の『サピエンス全史』のハイライトである。ホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレンシスという我々の同種が滅び、サピエンスのみが生き残った理由を「虚構」に据えている点は、刺激的でロマンさえ感じる。が、非常に興味深い反面、既存の「適者生存の法則」に理論的な肉付けさがされただけ、という見方もできなくはないし、これだけでは「固定観念や先入観が覆され、視野が大いに拡がる」までのインパクトはない。宗教を「虚構」と言い切るその大胆さに、敬虔なイスラム教徒はとても受け入れ難い拒絶感を感じるかもしれないが、宗教的信仰心が厚くない日本人には心理的な抵抗感は少ない。宗教という「虚構」によって、道徳的な行動規範が定められ、それにより寄り多くの人が、他の動物ではなしえない協力体制を築けたという論理は、しっくりくるし、宗教音痴と言われる日本人は寧ろ居心地の良ささえ覚えるかもしれない。

 

後半部に入ってからギアがさらに上がり、ハラリ節が全開となる。「虚構」という頭の中にのみ存在しうる物語を信じて、一致団結しているのは過去や前近代の話ではなく、現代に生きるわれわれもその「想像上の秩序」にどっぷり浸かっているのだと筆者は展開していく。筆者に言わせれば、自由民主主義も貨幣経済も国民国家も人権尊重も、それこそ科学技術までも、多くの人が信仰している「虚構」に過ぎないという。人権尊重や個人の自由というのも、必ず正しい絶対的な真理ではなく、所詮より多くの同時代の人が信じる「想像上の秩序」、もっと過激な言葉で言えば「集団的な妄想」でしかないという。「人間には特有の価値と保障されるべき権利と自由があるというのはサピエンスに都合良い非科学的な独断的な信念である」という考え方は、幼い頃から人権や自由の尊さというものを教えられてきた私には「なるほどぉー、確かに!」とすんなり受け入れられるものではない。自分の中にある心理的な違和感を拭い去ることは簡単ではないが、その私の感情というのはきっと宗教は「虚構」と断じられたイスラム教徒の拒絶感と同種のものなのだろう。

 

近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つには、テクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。この信奉は、絶対的な心理に対する信奉に、ある程度まで取って代わってしまった。

テクノロジーと科学研究も信仰の対象となる「虚構」の一つであるという考え方は、「ワクチン接種が進まないアメリカ」という私の最近のテーマに興味深い見方を与えてくれた。「ワクチンの効果は科学的に立証された現実世界で発生している客観的な現象である」というのはワクチン接種派の気持ちではある。が、私はワクチンを接種したことによって自分の体の中で作られた抗体の存在を確認したわけではないし、『はたらく細胞』並のリアルさで私の中の抗体がCOVID-19ウイルスを見事に撃退する様を目撃したわけでもないし、ワクチン非接種者の体がCOVID-19ウイルスで無残に侵食される様を遠目にでも見たわけではない。要するに私は、国民国家主義を信仰し(CDCやFDAというアメリカの国の機関が検証をしたというのだから間違いあるまい)、資本主義を信仰し(世界中の製薬会社が莫大な投資をし、公正な市場と政府の評価を耐えているのだから効くに違いない)、科学技術を信仰している(ここまで人類を豊かにして、今なお進歩と発展を続ける科学の力は、神様に祈るよりずっと信頼できるに違いない)にすぎないのだ。

 

われわれが正しいと信じるものは、多くの人を結着させうる「虚構」の一種類にすぎないという考え方は、何か絶対的な正しさによってたちたい私たちにある種の寂しさを与える。それでもなお、自分の土台がゆらぐ危機感以上の、より前向きなメッセージ性を私は本書から感じる。そのエネルギーはどこからくるのだろうと、何度か付箋した箇所を読み返したところ、以下の一節が目にとまった。

歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。

「虚構」を作っては消し、作っては消して進歩してきたサピエンスの7万年の歴史を振り返り、ハラリ氏がサピエンスの中に見たのは、自分たちの想像している以上に遥かに大きな可能性だという。7万年の研究に裏打ちされた可能性というのだから、それは前向きにもなるはずと、新たな信ずべき「虚構」を見つけたところで、本書の評を終えたい。

 

この大作の評をどのようにまとめるか正直七転八倒し、どこまで魅力が伝えられたかというと、正直全く自信がない。本書についての多くの書評や解説動画を見た私の経験から一つ最後に強調させていただけば、本書の魅力を本当に理解するには、最後まで通読する以外の道はないと思う。まだ、手にとっていない方は年末年始の休暇に是非トライされてみては。

 

『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』 平成金融経済事件史

金融庁検査局と言うと、どうしても半沢直樹のオネエ検査官の黒崎駿一が頭に浮かんでしまうが、「霞が関のジローラモ」との異名を持つ異色の金融庁官僚が実在するらしい。ノンフィクション作家大鹿靖明氏の新作『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』は、そんな見た目も仕事ぶりも一般的な霞が関官僚とは異にする佐々木清隆氏に焦点をあてた力作だ。若干、タイトルは作り込み過ぎの感は否めないが、以前読んだ大鹿靖明氏の本も『ヒルズ黙示録』というものであったことを考慮すると、厳ついタイトル付けは筆者の持ち味なのだろう。

 

大鹿氏というと、『ヒルズ黙示録』に加え、『東芝の悲劇』、『落ちた翼 ドキュメントJAL倒産』の様に一つのテーマを丹念な取材でとことん深堀りするタイプのノンフィクションが多いが、本書は、山一證券の倒産から暗号通貨取引所運営会社のコインチェックの暗号資産流出事件まで、長い縦軸をもって幅広い金融事件を取り扱っており、他作とは性格を異にする。個別の事案についての深堀り感はないが、ノーパンしゃぶしゃぶ事件以降の大蔵省の解体と改革の歴史、叩いては生え叩いては生え続けた平成の金融事件、日本の金曜業界のここ三十年の激変、などを俯瞰してみることができる良書となっている。取り扱われる事件は、山一證券倒産、カネボウ粉飾決算、ライブドア事件、村上ファンド事件、東芝粉飾決算、仮想通貨流出事件、など全部盛りの様相を呈しており、お腹いっぱいになることは間違いない。勿論、今回のノンフィクションを書くための個別の取材は入念にされているが、筆者の今までのノンフィクション作家として実施した数々の取材の蓄積という資産も多数放出されており、一粒で二度美味しいやつだった。

 

佐々木氏は金融庁の証券取引等監視委員会、検査局などで、金融事件を起こす問題企業の監視と不正の摘発、そしてのその再発防止策の立案に長年取り組んできたスペシャリストだ。金融庁からOECDやIMFのような国際機関に長年出向する経験を通して「日本の官僚の常識」と「世界の常識」の違いに触れたことが、氏のキャリア形成に大きく影響を与えた。日本の官僚の世界では毎年の大掛かりな定期人事異動により一、二年でポストがころころ変わる人事主導のキャリアが常識だ。一方で、グローバルの常識は、求められる職務と専門性がきちんと決められ、それに見合った人材を起用、そして育成するプロフェッショナル型雇用とキャリア形成にある。本書でも日本の官僚制度は下記の通り一刀両断されている。

(適材適所でプロフェッショナルを配置する国際機関に対して)それに比べると日本は、素人に近い役人が、人事のめぐりあわせで配置されるアマチュアリズムを延々とやってきた

『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』

佐々木氏が旧来の習わしを放逐し、中途採用などを積極的に進めて外部から専門的な知見をとりいれたことによる効果は本書でも細かく紹介されている。『官僚たちの夏』に象徴される人事と激務と政治力が全てという「昭和の官僚像」から日本の行政も脱する時期にきていることを、本書は過去三十年を俯瞰することで、うまく表現している。

 

また、本書のもう一つの魅力は、主人公佐々木氏と筆者大鹿氏の距離感にある。この手のノンフィクションは、事実は小説より奇なりと謳いつつ主人公を格好良く描き過ぎて、漫画より漫画チックになりがちなものもあるが、本書は佐々木氏の功績も書きながら、批判的な立場も躊躇なくとっているところが面白い。

行政官である佐々木は、一つひとつの事件の取り調べを直接したわけではない。そこが犯罪捜査ひとすじのベテラン刑事とは異なり、人間の業の深淵を覗き込んだわけではなかった。導き出される結論も、いささか教科書的なものになった

『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』

佐々木氏の仕事振りを振り返りつつ、日本の官僚組織の構造的問題や限界に言及するためには、官僚組織のど真ん中にいた佐々木氏自身の仕事や成果にも疑問符をつけることはどうしても免れない。筆者は、功績をたてつつも、切り込むべきところは躊躇なく切り込んでおり、その主人公と筆者の距離感が、本書をただの勧善懲悪のヒーロー物ではなく、平成金融経済事件史というもう一段上のノンフィクションに押し上げていると私は読んだ。当然、出版前に佐々木氏本人のレビューを受けているわけだが、細かい事実誤認の修正以外は、彼に対する批判的な見方も含めて修正はなかったという。ヒーロー物が好きな方には物足りないかもしれないが、私にはそのバランスと距離感が心地よいと共に、生々しいリアルを味わうことができ興味深かった。

 

気軽に楽しみながら読める経済ノンフィクションで、少し軽めの読書を楽しみたいと思っている方にはオススメしたい一冊だ。

 

 

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