Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』

あまり将棋界に詳しくない私が棋士先崎学を私が知ったのは、人気将棋漫画の『3月のライオン』だ。先崎九段は『3月のライオン』の監修をされており、その単行本の中で将棋にまつわるコラムを掲載し、将棋界の広報活動に尽力されてきた。その豊かな表現力とユーモア溢れる筆致が好きで、先崎九段のエッセイ集も数冊読んだことがある。その先崎九段がうつ病を発症し、その闘病記を出版されたということを先日テレビ番組で知り、早速読んでみた。

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間 (文春e-book)

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間 (文春e-book)

 

 

本書は、「不正ソフト使用疑惑事件」、「『3月のライオン』の映画化」、「順位戦からの重圧」などからの過重なストレスにより脳の病気「うつ」を発症した先崎九段の回復までの道筋を描く闘病記という形をとりながら、棋士の生態、棋界独特の世界観、そこにある美しいプロフェッショナリズムを描く将棋連盟の宣伝本でもあり、そしてその後者の要素が本書に一般の闘病記と異る独特の魅力を加えている

 

なんと詰まなかった。そんな馬鹿なと思って何度もチャレンジしたが詰まない。七手詰も形によってはすごく難しいのであるが、しかし私が解こうとしたのは、アマチュア向けの本であり、実に典型的な七手詰だった。
口惜しかった。自分をこんな目にあわせたうつ病が憎かった。うつ病患者としてあるまじきことをあえて書けば、死ぬより辛かった。

愛読書である『ドラゴンボール』ですら、うつ病による疾患でストーリーを追えなくなってしまった筆者が、パズルゲームとしての要素もある詰め将棋に手をつけた時のくだりである。将棋の初級者からすると信じ難いが、筆者は「さすがにこれなら解けるだろう」とまず手をだしたのが、十三手詰の詰め将棋。無念にも十三手詰を解くことができず、やむなく七手詰に挑戦した際のくだりが上記の引用である。本書はうつ病の回復期に執筆されたものらしく、筆者は大真面目で書いているのであろうが、私は申し訳ないがこのくだりを読むといつも笑ってしまう。七手詰の詰め将棋に大いに頭を悩ませる将棋初級者の視点で見ると、七手詰がとけないことが死ぬより辛いと嘆く姿はやはり浮世離れしており、滑稽極まりない。その後に、筆者は泣く泣く五手詰に挑戦するわけだが(なお、流石にこれは詰んだとのこと)、その姿が悲痛に描かれていれば、描かれている程、読者にとっては申し訳ないが面白おかしいことこの上ない。本書には、こういう将棋初級者が読むと、くすりと笑ってしまうエピソードが沢山あり、とても楽しめる。

 

二局目はスタートから私がうまく指して、中盤ではっきり優勢になった。これはいけるかなと思って顔を上げて中村君の顔を見ると、必死の形相で歯を食いしばっている。一瞬ちらっと思った。あっさり諦めてくれてもいいのにー。
だが、この論法は一流の棋士には通じない。相手がお世話になった先輩「だからこそ」一所懸命に指し、その人間が病気なら「なおさら」頑張るのがこの業界の礼節なのだ。

少しづつ脳の病気うつ病から回復を見せていく筆者。また、厳しい紙一重の勝負の世界に身を投じるべく、後輩のプロ棋士と練習で対局をする際のくだりである。プロと渡り合えるだけの棋力を取り戻したとはいえ、筆者は依然、ささいなことで簡単に心がぽきりと折れてしまって、気分があっと言う間に地の底まで落ちてしまう治りかけの「うつ病」患者である。そんな方を相手に必死の形相になるまで何とか勝とうと思うだろうか、普通の人はそんなことはできまい。仮にそうしたほうが本人にとって良いとわかっていたとしても、言うは易し行うは難しで、私にもとてもできない。中村棋士のその際の心象風景は本書では描かれていないが、そこには愛する将棋を指す以上は一切の手抜きはできないという棋士の美学が垣間見られる。脳の病気を抱える先輩が再びプロの世界に復帰しようとしている以上は、プロの棋士として全力でぶつからなければならない、という勝負の世界に生きるプロフェッショナルの粋を感じる。

 

筆者が生きているのは通常の会社員の世界ではない。天才同士がしのぎを削り、日々身を斬られる嵐の真っ只中である。健康であったとしても、負ければ身が焼かれるほど悔しいし、常に降格や退場と隣合わせの厳しい勝負の世界だ。「うつ」という脳の病気を発症し、その戦場に戻るべく筆者を駆り立てたものは何なのだろうか。本書では一つの筆者の思いが描かれている。

弱くなる恐怖に比べたら勝てない恐怖などものの数ではなかった。

引退をして一線を退けば、将棋に負けて心が散り散りになるような目に合わなくて済むのだが、「将棋が強い」ということがアイデンティティである筆者は、「将棋が弱くなる」ことの方に比較にならないほどの恐怖を感じるという。年をとると共に、徐々に棋力と体力が減退していくのは仕方がないにしても、病気ごときで弱くなってたまるか、と黙々という練習対局を重ね、徐々に脳の病気を乗り越えていく棋士としての筆者の意地は見ていて清々しい

 

本書は普通のうつ病の闘病記ではなく、一般人にはあまり当てはまらないことは確かに多い。だが、抜群の記憶力を備えつつ、かつ棋界一の文章力を誇る
先崎九段ならではの魅力が詰まっている。是非多くの人に手にとってほしい。

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