Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

書評『一瞬の夏』

その面白さに、むりやり時間や場所を見つけて読み進める本にたまに出会う。年に2〜3冊だろうか。『一瞬の夏』は私の中で間違いなくそのレベルに到達する秀逸な読み物である。

一瞬の夏 (上) (新潮文庫)

一瞬の夏 (上) (新潮文庫)

一瞬の夏 (下) (新潮文庫)

一瞬の夏 (下) (新潮文庫)

カシアス内藤というピークの過ぎたボクサーが、ボクシングへの情熱を捨てきれず、世界チャンピオンにチャレンジする軌跡を描いているスポーツ・ノンフィクション、というのが本書の一側面。黙々と練習に打ち込むカシアス内藤の汗と息吹、試合前リングに向かう際のはりつめた緊張感、リングの上で熾烈なパンチの応酬を繰り広げるボクサーの迫力、読みながらそういったことがひしひしと伝わり、頭の中にありありとその映像が浮かび上がってくるような感覚を覚え、文庫で800ページを越える長編であるが、一気に読了できた。


カシアス内藤にスポットライトをあてたスポーツ・ノンフィクションとしてだけ読んでも十分に楽しめるが、実は本書には主人公がもう一人いるところがポイントだ。そのもう一人の主人公とは「私」として本書に登場する沢木耕太郎自身。沢木耕太郎のノンフィクション作家としての魅力は、描く対象に「ここまでやるか?」と思わせる程没頭するところだと思うが、本書においてもその魅力が発揮されている。カシアス内藤のプロモータとして私財を投じ、悪戦苦闘しながら東洋タイトル戦のマッチ・メイキングをしていく様はそれだけでもう一つのドラマとして成立する魅力がある。


本書が面白いのは、カシアス内藤のボクサーとしての強さではなく、弱さにフォーカスがあたっている点だろう。才能あふれ、ただひたすら強いスーパースターではなく、読んでいる側が歯がゆくなるようなその内面の弱さと葛藤が描かれている。

私は、イスファハンの電気屋の店先で、アリがアリでありつづける力の淵源を見たように思った。それは過剰なほど自己を信じる能力とでもいうべきものだった。そして、それこそが内藤に欠けていた最も大切なものではなかったか。私はイスファハンの街をやみくもに歩きながら、ある口惜しさと共にそんなことをいつまでも考えていた・・・。
『一瞬の夏』 〜ニューオリンズの戦い P.203〜

才能はあるのに、「自己を信じる能力」が足りずに、それが故に常にどこかに逃げ道を用意する生身のカシアス内藤への口惜しさと苛立ち。そういった面を見事に「私」が描ききっているのは、当事者として「私」が関わっていたからであると共に、「私」自身が同様の弱さと葛藤をかかえているからでもある。カシアス内藤に対し苛立ちつつも、実はそれはカシアス内藤に自己を投影しているだけであり、「私」自身に対する苛立ちでもある。作家とボクサーという正反対ともいうべき職業につき、ただ互いにその職業が天職がどうかに確信が持ちきれないという、共通の葛藤をもつカシアス内藤と「私」。そんな歯痒さが下記のように表現されるが、それは自分自身も含め多くの人にとって他人事ではないはずだ。

だが、カシアス内藤が人を殴ることでしか自己を実現できないことに戸惑っていたように、私もまた人を描くことでしか自己を実現できないことに苛立っていたのは確かだった。しかも私には、文章を書いて喰うための金を得る、という自分の仕事への深い違和感があった。それが自分の真の仕事だとはどうしても思えなかったのだ。人は誰でもそのような思いを抱きつつ、結局はダラダラとその仕事を続けて生きていく。そうと理解はしていても、この仕事が偽物なのではないかという思いは抜けなかった。私は、ジャーナリズムと言うリングの中で、やはり戸惑いながらルポタージュを書いている、四回戦ボーイのようなものだった。
『一瞬の夏』 〜交錯 P.139、140〜


ページをめくる手がとまらなくなるような物語としての面白さがありつつ、他人事とは思えないような29歳(当時のカシアス内藤)、30歳(当時の沢木耕太郎)の葛藤がプロの作家の表現力で描かれていたりして、読めば読む程、心に響く色々なポイントが見えてくる。沢木耕太郎は『深夜特急』しか読んだことない、という方も多いと思うが(私が今までそうだっただけだが・・・)、本書も非常に面白いので是非手にとって頂きたい。

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