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アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『後藤新平 日本の羅針盤となった男』 近代日本を作った男の構想力と実行力

本書は台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁、東京市長逓信大臣、内務大臣、外務大臣などの閣僚を歴任した後藤新平の物語。後藤新平関東大震災後に帝都復興院の総裁として「国家百年の大計」の見地から東京復興策を練り上げた人物として昨今注目を集めている。


後藤新平の魅力は何と言っても、日本人離れした圧倒的な構想力とその構想を実現するための実行力だろう。「日本人離れ」した構想力と言うと、日本人が構想力にかけている点を認めるようで少し悲しいが、本書で紹介されている後藤新平の発想の大きさは少なくとも今の日本の政治家にはない。内務大臣、帝都復興院総裁という立場で、関東大震災の復興費として30億円(当時の国家予算が13.7億円)が必要とぶち上げ、東京の土地を政府が買い上げ、「百年の大計」として、ゼロから東京の作り直しに取り組もうとしたことには驚かされる。


後藤新平の構想力は、色々な制約条件にとらわれず、公共の為に何が一番良いかを考えるところから生まれる。予算、時間、抵抗勢力既得権益など、実現に向けての制約に囚われすぎると、実現可能性は高いものの効果のないへっぴり腰な構想になってしまいがちだが、後藤新平は空気を読まず公共のためにあるべき姿をきちんと描ききる。特に彼の予算感覚はスケールがでかくて面白い。それをうまく表現している箇所を以下引用したい。コスト意識が死生観からきているという点が私は印象深かった。

のちに「大風呂敷」と陰口を叩かれる新平の予算感覚は、天与のものだった。私的な借財も含めて「大きな金を動かし、高い効果を期す」新平のコスト意識は、本人の派手好みの一面があったにしろ、突きつめれば「金は天下のまわりもの」ととらえるおおらかさと無縁ではなかろう。金を墓場に持っていけないことを医師、新平は患者の死で実感している。蓄財に興味がない新平にとって、金銭は何かを実現するための手段であり、生きる目的にはならなかった。
後藤新平 日本の羅針盤となった男』 〜第2章 疫病との戦い P.92〜


大きな風呂敷を広げるだけであれば簡単ではあるが、後藤新平には描くだけでなく鬼気迫る気迫で実現に向けてやり抜く実行力がある。彼の実行力を示すエピソードは本書にごまんとあるが日清戦争後の検疫事業の箇所はとても面白い。日清戦争が終了し、中国本土から帰国する約23万人の軍人が帰国するため、日本入国の前に伝染病を日本国内にもちこまないように検疫するという取り組み。これを彼は児玉源太郎からの依頼をしぶしぶ受けながらも、施設の準備も含めて5ヶ月でやり抜いてしまう。

新平は、修羅場の最前線で陣頭指揮を振るい、気がつけば、四十三日連続して寝床に入っていなかった。いつでも、どこでも短時間で熟睡できる体質とはいえ、片時も休まず、鬼神のように奮闘する姿からは、「今に見ていろ、目にものみせてやる」と妖気めいた執念が立ち上ってくるのだった。・・・<中略>
日に三時間の仮眠で獅子奮迅、技師が「もう人間わざではできません」と言えば「そんなら人間以上の力を出せ」「糞馬鹿、糞馬鹿」を連発する青白い横顔は、まことに物の怪に憑かれたようである
後藤新平 日本の羅針盤となった男』 〜第2章 疫病との戦い P.96,97,102〜

という凄まじい仕事ぶりには滑稽ささえも覚える。


台湾総督府民政長官に就任した際には、肥大化していた行政組織の刷新にあわせて1080人もの役人を一気にクビにしている。あるべき姿を追求する為には千人の人間から恨まれようともそれを厭わない胆力もさることながら、大きな仕事を受ける前にそれを実現するための必要な権限や後ろ盾を確保しているのも後藤新平の実行力の一つであろう。台湾総督府民政長官でも、南満洲鉄道初代総裁でも、就任にあたっては、自分の権限、組織の位置づけを入念に確認している。「大きな仕事」をやる上では、「大きな予算」だけでなく、「大きな組織上の権力」がないとできない。組織を動かす勘所をおさえ、大役を受けるにあたっては存分に力を発揮できる権限を確保する、その周到さが彼の実行力を支えていたのだろう。


翻って現代を見てみるに、東日本大震災への対応においても迷走を続ける菅政権。東北地方の具体的な復興策も見えないような状況で、関東大震災後直ぐに帝都復興のプランを描き上げた後藤新平のような逸材を求める声は結構多い。私も本書の読後はそういう気持を抱いたのだが、あらためて本書のプロローグを読み返し、下記の言葉が胸につきささった。

新平の日本人離れした壮大な構想や創業的事業を打ち砕こうとする勢力が、他ならぬ日本の近代化の歩みとともに育っていたことにも気づかされる。
新平のような並外れたスケールの政治家を生み出しのは紛れもなく近代の日本であり、かれの、時空を超え、はるか彼方を透視して方向を定めようとする羅針盤を壊すのもまた日本であった。後藤新平 日本の羅針盤となった男』 〜プロローグ P.13〜

後藤新平のような逸材を生み出せないのも現代の日本社会の限界だし、また仮に百年先を見据えた羅針盤に基づく壮大な構想を前にしても、それを許容できるだけの器を日本の社会が持っているかと問われれば甚だ疑問が残る*1。じゃぁ、どうすればよいのかと問われても残念ながら明確な答えはないのだが、あとがきの筆者のしめの言葉が一つの答えのような気がする。

われわれ庶民が「自治」に目覚めなければ公は機能しない。さまざまな人々が集まるなかで、誰かに決定をまかせてしまうのではなく、じぶんたちで相談しながら物事を決めていく。その過程で「私」と「他」の交わりを見出し、ともに生きる縁を探る。この行為の積み重ねでしか、地に足のついて公は確立されない。
後藤新平 日本の羅針盤となった男』 〜あとがき P.178〜

読み応えはなかなかあるが、こういった未曾有の災害に見舞われた今にこそ、多くの人に本書を手にとって頂きたいと思う。

*1:消費税を2年間のみ10%あげ、復興資金として50兆円確保といって今の日本社会が許容できるか?できないだろうな・・・

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