『ジョゼフ・フーシェ - ある政治的人間の肖像』を読んだので書評を。
ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)
- 作者: シュテファン・ツワイク,高橋禎二,秋山英夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/03/16
- メディア: 文庫
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本書は、そんな革命期フランスの政治家であるジョゼフ・フーシェの物語であるが、ナポレオンとフーシェの奇妙な関係、それが本書の最大の読みどころだ。フーシェはナポレオンの帝政の政治・外交で文字通り中心的な役割を果たし、その帝政を屋台骨としてささえるわけだが、決して100%の忠誠をナポレオンに尽くすことはしない。表向きは忠誠を尽くすようなふりをしつつ、影で暗躍し、過失をうかがい、自らの影響力を維持・増幅し、何事がおこれば転身し、いつでも裏切れるように謀略をはりめぐらすことに余念がない。ナポレオンもフーシェのそのような性質をわきまえており、この危険極まりない人物を忌み嫌い、恐れ、いっそのこと首をはねて片付けてしまいたいと思いつつも、その明晰な頭脳、優れた政治・外交手腕を必要とし、フーシェとの関係を切れずにもだえるのだ。その二人の関係を本書の下記の文章はよく表しているので、かなり長いが引用したい。
こうして十年の久しきにわたって世界歴史の舞台上にーと言うよりむしろ舞台裏においてーこの二人の人物、ナポレオンとフーシェは相対して立つことになるのであって、互いに相手が反抗していることを見抜きながらも、因果によって結ばれていた。ナポレオンはフーシェが好きでなく、フーシェはナポレオンが好きではなかった。ー心の中では嫌いで嫌いでたまらないのに、ただただ反対の両極の牽引性によって結ばれて、二人は互いに相手を利用していたのである。
フーシェはナポレオンのもつ巨大な危険な悪魔的な力をよく知っている。ここ数十年のうちには、このような臣事するに値する傑出した天才は、ふたたび世にあらわれないだろうということはわかっているのである。またナポレオンにしても、自分の意中を電光石火のごとく読み取ってくれることにかけては、この冷ややかな透徹した、はっきりと自分の気持を映し出す鏡のような眼、密偵の眼を持った男の右に出る者がないことは承知しているのだ。この勤勉な男は、なにごとにでも、善にも悪にも同じように使い得られる政治的才能の持ち主だが、完全無欠の臣下というにはただ一つ欠けたところがある。絶対的な献身、忠誠の念がないということなのだが、この男ほど自分の意を体するに速やかな者はないことを、ナポレオンは知っていたのである。
『ジョゼフ・フーシェ』 〜第五章 皇帝の大臣 P.185〜
互いに嫌悪と畏敬の念を抱きながら、時に対立し、時に手を組むフーシェとナポレオン。能力の面では互いに絶大な信頼をよせながらも、人間的には1ミリも信頼をよせないという極端なまでの「大人の世界」。最終的には力を失ったナポレオンにフーシェはあっさり見切りをつけるのだが、好敵手である傑出した天才ナポレオンがいなくなって数ヶ月のうちに、フーシェは失脚してまい、政治の舞台に姿をみせることはなくなる。文字通り「反対の両極の牽引性によって結ばれた二人」は、その結び目がほつれると共に、互いに時代の中心から姿を消し、その後二度と日の目をみることはなかった。
本書の副題「ある政治的人間の肖像」が表すとおり、フーシェの能力を一言で言い表すとするなら「政治力」だ。我々の世代では、「政治力」とか「政治的」という言葉はあまりよい意味合いでは使われないし、フーシェのようになりたいとも正直思わない。だが、「目先の富や名誉に一切の関心を払わず、目的を完遂するための最適な手段をただ追求するその徹底した姿勢」や「周囲の声や評判に微動だにせず、虎視眈々と最高の機会を探りだすその冷徹な判断力」は仕事人としてある種の尊敬の念は覚える。
文庫版で353ページという大作、かつ文章の格調も高くかなり読み応えがあるが、「30も過ぎ、政治力なるものも嗜みとして多少身につけよう」とか、「自ら政治力を積極的に行使するつもりはないが、政治力を徹底的に行使する人たちと戦う機会が多い」という方は、読んだら勉強になると思う。あまり言葉の意味を考えずに「政治力」という言葉をよく私も口にしてしまうが、「政治力とは何か」ということを考えさせられる一冊である*1。
*1:ちなみに私は本書を読んで、周囲に対する影響力そのもの、及びその影響力を行使して物事を押し進める力を「政治力」というんだと思った