ktdiskのブログ

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『シリコンバレーから将棋を観る』 予定調和と将棋の完成度

シリコンバレーから将棋を観る』を読んだので書評を。

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代


本書の読みどころは色々ある。

  • 一流棋士のプロフェッショナルとしての有り様
  • 現代将棋における「知のオープン化」によるイノベーション

というような当ブログのトーンにあったトピックも多い。私にはそのようなトピックの方が書評を書きやすいのだが、読後感を素直に述べると、そういった普段の梅田本特有のテーマへの感銘より、「もう自分の中で消えたと思っていた将棋熱がわずかながらも再燃してきた」という感触のほうが強い。なので、本エントリーでは「将棋」に焦点をあてて、感じたことを書いてみたい。


本書は、「変わりゆく現代将棋」という羽生義治の連載から始まった「現代将棋」の進化、そしてその進化を「ドッグイヤー(七倍速)」の倍のスピードで、強烈に推し進める「超一流の棋士」に焦点があてられている。現在進行形で繰り広げられる革命を同じ時代に生きた人間の特権として刮目しようじゃないか、という梅田さんの熱意が本書からは溢れんばかりに伝わってくる。では、「現代将棋」は今現在どのように変わっているのか。

矢倉基本図であれ、他の戦法の定跡局面であれ、初手から二十手、三十手もかかってできあがった想定局面は、先手と後手の予定調和という共犯関係においてその局面にいたっている面が強い。だから、その想定局面を不利または自身なしと思ったとしても、別の戦法に逃げるのではなく、後手がその局面にいたるもっと前に「急戦を狙う不退転の決意」をして臨めば違う結論が出るのではないか。そして先手も、後手が「急戦を狙う不退転の決意」をしているという前提での緊張感を初手から持って指せば、それが現代将棋の扉をひらくことになるのではないか。
この作品で羽生は、現代将棋をそう定義したのだ。
後手が想定局面まで安易に追随するという怠惰を廃しさえすれば、その先に将棋の未来が広がっているに違いない。そう、羽生は問題提起したのだ。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第一章 羽生義治と「変わりゆく現代将棋」 P.24〜

暗黙のうちにできあがった先手と後手の想定局面までの予定調和を廃すというのが「現代将棋」におきた変化と、冒頭でまとめられている。
考えるに日本の伝統的な競技には、ルールとは別に作られた暗黙の予定調和が存在することが多い。例えば、相撲で言えば「横綱大関といった上位力士は安易に立会いの変化をしない」、柔道で言えば「一本をとって何ぼ、最後の最後まで一本をとる柔道をする」ということが、勝負にのぞむ者同士の予定調和として存在する。予定調和はルール外のものであるが故に、「古い人間のにらみ」の下、維持されるのが一般的であり、その「にらみ」が成立したのは、日本が狭い村社会であったが故だろう。


ただ、時が経ち、グローバル化が進み、競技人口が増えるとともに、競技者内で共有された予定調和の力は薄れてゆく。現代の相撲は、上位力士であっても安易に立会いの変化をするし、現代の柔道は、オリンピックのような最高の舞台においてすら、ポイントを重ね、時間切れで如何に逃げ切るかということに焦点があたっている。
予定調和の力が薄れていった時に問題となるのは、「その予定調和は維持されるべきかどうか」という点だ。先に例にとった、相撲と柔道について言えば、私は維持されるべきだと思う。最近の相撲は、立会いの変化、つき合い・はたき合いが多く、上位力士の手に汗握る「大相撲」が少なく、面白くない。柔道にいたっては、既に別競技となってしまい、惚れ惚れするような美しい一本を見ることはオリンピックですら極めてまれだ。


だが見方を変えれば、「予定調和を維持すべきかどうか」は、その競技の完成度に依存するとも言うことができる。相撲と柔道は時代の流れとグローバル化の荒波にもまれて、その魅力が色あせてきているが、「古い人間のにらみ」と「その下に保たれる予定調和」がなければ魅力を維持できないのは、競技としての完成度にほころびがあるからではないだろうか。もちろん、(特に柔道は)グローバルに拡大された壮大なストレス・テストの下、見つかったほころびであるため、その完成度低いなんていうつもりは毛頭ないが、それぞれの競技が岐路に立たされていることは紛れもない事実だ。


話を将棋に戻す。羽生義治の推進したイノベーションの下、古くからあった予定調和をなくした将棋はどうなったのだろうか。中盤のみならず、序盤戦から緊迫感がみなぎり、その魅力は色褪せるどころか、むしろ輝きを増したのではないか。矢倉を組まずとも名人戦は白熱の攻防を見せ、大舞台でも飛車を振ることで将棋の奥深さがかえってにじみ出てきたのではないか。残念ながら私はそれを評価するには、まだ将棋についてあまりに勉強不足だが、以下の佐藤康光の言葉にふれる限り、ルール外の予定調和がなくとも、その魅力をいかんなく発揮できる完成度を将棋はそなえているのではないかと強く感じる。

佐藤さんは元旦対談のとき、
「将棋は誰かが作ったゲームなんだけれども、ぼくは神が作ったゲームかなと思うときがあります
とおっしゃった。600年の長きにわたって、将棋に魅せられたたくさんの先人たちが、心血を注ぎ、人生を賭けて、将棋を研究し続けてもなお、将棋というゲームのなぞは全く解明されない。そんな複雑で魅力に溢れたゲームは、本当に人の手によって創られ得たものなのだろうか、いや「神の手」によって作られたとしか考えられない。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第二章 佐藤康光の孤高の脳 P.61、62〜

一方で柔道や相撲と比較すると将棋は、まだその可能性を検証するストレス・テストにさらされていないのではないかと思う。私が生きている間にどの程度まで進むかは定かではないが、日本将棋連盟はその魅力を追求するために、もっと間口を広げ、ストレス・テストに身をさらすべきだと思う。コンピュータソフトとの公の場でのプロ棋士の対極を禁止している場合ではない。将棋に魅せられ、「神の手」によってそれが創られたと将棋界にいる人が信じるのであれば、盤外の制約から、将棋という競技と一体である棋士を解き放つことこそがその真価を発揮する上で重要なことであり、「将棋の神様」への礼儀ではないだろうか。


「現代将棋」はそういう点で、現代の数多くの競技が直面している岐路には未だ到達しておらず、凄まじいスピードで進化をとげている真っ最中である。本書はそんな「現代将棋」の見所を理解するうえで、「昔は将棋を指したが最近はとんとご無沙汰」という私のような人間には最適であり、ご無沙汰な人には是非手にとって欲しい。
ただ、一点注文をつけるとすれば、タイトルは『将棋を観る 〜羽生義治と現代〜』とシリコンバレーの冠をとったほうが良いように感じた。まぁ、それはそれで誉め言葉とは思うが。

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