ktdiskのブログ

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外資系企業の「普遍語」、「国語」、「現地語」事情

前回に続いて『日本語がほろびるとき』ネタを。今勤めている企業は日本法人が100名に満たない小さな外資系企業。こういう規模の外資系企業に勤めたのは初めてだが、入社して驚いたのは英語色の強さ。やりとりするメールの半数は英語だし、直属の上司は海外の外国人だし、人事評価を含めオフィシャルな会社の文書は全て「普遍語」である英語で書かなければならない。こういった自分の会社に「普遍語」、「国語」、「現地語」というフレームワークをあてはめてあれこれ考えるのはなかなか楽しい。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

私は、<普遍語>とは、<書き言葉>と<話し言葉>のちがいをもっとも本質的に表すものだと思っている。
<話し言葉>は発せられたとたんに、その場で空中であとかたなく消えてしまう。それに対して、<書き言葉>は残る。
『日本語がほろびるとき』 〜第三章 P.140〜

という記述が『日本語がほろびるとき』の第三章にあるが、これはかなりしっくりくる。日本人同士で会議をする時は絶対に日本語を話すが、会議資料などの書き物は殆ど英語で作成する。というのも、「普遍語」である英語で作成しておけば、後々外国人と会議をする時に使えたり、送付して状況報告することができるので、「普遍語」で作っておいたほうが効率的なことが多い。一方で、話した内容というのはどうせそのまま人に渡すことはできないので、「現地語」の日本語で話すのが一番効率的だ。メールを送る際も、宛先に日本人しかいなくても、転送する可能性が強ければ、英語で書くことが一般的だ。
「普遍語」、「国語」、「現地語」というフレームワークで整理すると、うちの会社の"社内"は「国語」のない、「普遍語」、「現地語」の二重構造をとっている。おそらく、どこの小さな外資系企業でもこれは同じ話ではないだろうか。


この「普遍語」、「現地語」の二重構造というのは、効率的で手っ取り早いのだが、良い面ばかりではない。まず、「普遍語」があまりできない人の活躍の場を奪ってしまうということがある。二重構造というのは所詮"社内"の話であって、一度お客様、パートナーの前にでれば「国語」である日本語を当然使わなければならない。お客様から受注するにしても、パートナーと取引契約を結ぶにしても、日本語で"社外"の方に高い影響力を発揮できるかどうかが、良い仕事の鍵となることは言うまでもない。だが、良い仕事をするためには、時として"社内"を動かさないといけない。そして、外資系企業の場合は本当に動かさなければならない"社内"というのは外国人であることがものすごく多い。で、ここに「普遍語」、「現地語」の二重構造がたちはだかる。「国語」での"社外"への影響力が高く、「普遍語」も自由自在に扱えるスター選手ももちろんいるが、Exciteの翻訳ページがなければ立ちゆかないという人もいる。折角有能なので「普遍語」ができないがゆえにそういう人は半分の翼でとぶことを余儀なくされる。これは、二重構造の悪い面でもある。


もう一つ欠点をあげれば、上記のような状況であるため、どうしても「普遍語」が扱えるかどうかが特に外国人の採用時の超重要要因になってしまうということだ。日本企業が日本語で面接する際に「国語」である日本語ができるかどうかなんて関心も払わないだろうが、小さな外資系企業の場合は「普遍語」が扱えるかどうかにウェイトがおかれがちだ。短い面接で評価できることは限られているにもかかわらず、外国人が採用にからむ際は「普遍語」の善し悪しが3割以上占めているように思える。とはいえ流石にそれが原因で英語しかできない人が採用されることはないわけだが、「お前は英語ができるかどうかを重視しすぎ」という外国人に苦慮することは多い。


『日本語がほろびるとき』は、このままでは「国語」のレイヤーが吹っ飛び、「普遍語」と「現地語」の世界が到来することを憂う本だと思うが、小さな外資系企業は来るべき日本の未来の縮図であるという感触をもっている。また、面白い話があれば今後も発信していきたい。

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