ktdiskのブログ

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「遅咲き」と「セカンド・チャンス」

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年

ジェラルド・カーチスの『政治と秋刀魚』を丁度読み終わったのだが、興味深い一節があった。

どういう道を歩むか決めるはずの「季節」に遅れ、二転三転してやっと決めるのが遅咲きだ。私もまさにその一人だった。どういう仕事が自分に一番向いているのか悩んでいる人、途中で道を変えたい人、あるいは自分の世界を広げるために冒険したい人、そんな人たちも「遅咲き」にはいる。
アメリカでは、一般的に教育制度や企業など社会がこういう「遅咲き」に慣用である。これはアメリカの強みである。逆に、日本は「遅咲き」に極めて冷たい。自分のやりたいことを決めかねている、あるいは職業を変えてみたいと思う若者を受け入れる寛容な社会になれるかどうかは、日本の重要な課題といえよう。
『政治と秋刀魚』 〜「遅咲き」に対する日米格差 P.36〜

「遅咲き」というと、才能や能力があるのに認められたり、結果がでるのに時間がかかったという印象をもっていたのだが、ジェラルド・カーチスのとらえ方は異なる。「どういう仕事が自分に一番向いているのか悩んでいる人、途中で道を変えたい人、あるいは自分の世界を広げるために冒険したい人、そんな人たちも「遅咲き」にはいる。」という定義は、社会的成功に至るまで紆余曲折があったというより、個人的な志向性の発見に辿り着くまでに紆余曲折があったというニュアンスが強く興味深い。「遅咲き」を社会的なものでなく、個人的なものだと捉えると、個人のベクトルが定まった「遅咲き」の人に対して、タイミングを問わず均等な機会を与えることの重要性にも改めて気づく。「若い芽をつむ」なんていう言葉があるが、ジェラルド・カーチスの定義する「遅咲き」に寛容でない社会は「老いた芽をつむ」社会でもある

もう1つキャリアにからんだ一節を紹介。

日本の「再チャレンジ」とアメリカでいうセカンド・チャンスは、基本的に違うような気がしてならない。再チャレンジを言う場合、どうも、もともと「正しい」、「あるべき」道を離れた青年がそこに戻れるチャンスを与えると言うニュアンスが強いように思う。
アメリカで言う「セカンド・チャンス」は新しいこと、みんなと違ったこと、自分にパッションがあることをやるチャンスを与えるという意味が潜んでいる
『政治と秋刀魚』 〜「遅咲き」に対する日米格差 P.39、40〜

メインストリームから外れてしまった人を救済するための機会提供が日本の「再チャレンジ」であって、それはメインストリーム以外での「けものみち」での挑戦の機会を提供するアメリカの「セカンド・チャンス」とは異なるとのこと。「セカンド・チャンス」を追求していく人が多ければ多いほど、既存の考え方にとらわれない新しい何かが社会から産まれやすくなるのは自明であり、「再チャレンジ」と「セカンド・チャンス」という似たような言葉の定義違いからも日米格差が見えるのは面白い。


ジェラルド・カーチスの定義に従えば、当方「再チャレンジ」している日本型「遅咲き」人間ではないが、「セカンド・チャンス」を追及するアメリカ型「遅咲き」人間(まだ咲いと思うが)であることは間違いなさそう。もしかしたら、外資系企業にずっと勤めているのでまだ職にあぶれていないのかもしれない。伝統的な大企業はさておき、日本の元気の良い新興企業は、「セカンド・チャンス」を追及する「遅咲き」人間に是非寛容であって欲しい

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