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ktdiskのブログ

読んだ本の感想、所々の雑感、日々のあれこれを綴るブログ。

“Is Google Making Us Stupid?”考 その2

Column

前回に引き続き、Nich Carrの“Is Google Making Us Stupid?”の要点の紹介とコメントを。

Wolf worries that the style of reading promoted by the Net, a style that puts “efficiency” and “immediacy” above all else, may be weakening our capacity for the kind of deep reading that emerged when an earlier technology, the printing press, made long and complex works of prose commonplace.
印刷機というかつての技術革新は、長く複雑な散文を一般的なものにし、それにより我々は「熟読」をするようになった。そして、「効率性」と「即時性」をなによりも重視するインターネット時代のモノの読み方はじっくり、前世代の技術革新で培われた「熟読」をする能力を弱体化させる。

ここのポイントは2つ。まず、ネットを活用した情報処理手法そのものが我々の能力を衰えさせるのではないかという指摘。これはよくある指摘であり、意味はとりやすい。次の点が本記事において重要な点なのだが、じっくり本や記事を「熟読」するという能力そのものは、活版印刷という技術によって新しく人間にもたらされた能力であるということ。人間が先天的に持っている能力が衰えるという話はよくあり、容易に批判の対象にあげられるが、重要な点は旧世代の技術によって作られた能力が新世代の技術によって、弱体化し、また別の新しい能力に置き換えられるという点。記事中ではそこまでふれられていないが、目の前にある技術に根ざした変化なので、我々は2つの能力に対する選択権を持つという点は重要な点だ。

What Taylor did for the work of the hand, Google is doing for the work of the mind.
テーラーが手作業に対して実施したことをGoogleは知的作業に対して実施しようとしている。

ここで若干唐突に工場の作業を細かく分断し、個別の作業に対する詳細な作業指示をだすことによって工場の生産効率を飛躍的に上昇させたというテーラーの話がでてくる。そして、テーラーが工場に適用した手法と同様にGoogleの技術者が知的作業の最も効率的な方法を編み出し、完璧なアルゴリズムを構築し、知的作業をオートメーション化するという論理展開をみせる。
その後、Googleの経営人はAIを作ろうとしているだとか、思考の過程における曖昧さは単なるプログラムのバグとして扱われるようになるなど、”Is Google Making Us Stupid?”というタイトルに引っ張られた議論がなされるが、ここは無理矢理感があり、あまりいただけない。

But, again, the doomsayers were unable to imagine the myriad blessings that the printed word would deliver.
しかし、もう一度繰り返すが、悲観論者は印刷された文字がもたらした無数の効用を想像することはできなかった。

そして、話はまた元に戻る。ソクラテスは考えを文字に書くということは、人間の考える能力を衰えさせると嘆き、活版印刷が発明された時も人々の知的怠惰をまねくであるとか、学者の質の低下を招くなどの批判がよせられた。ただ、考えを文字という再生可能な形に変換する、知を出版という技術革新により世に伝播させることにより、人類の持つ知識の総量は増え、それにより新しい知がさらに生み出されたことは間違いない。考える力が衰えた部分も確かにあろうが、新しい技術はそれを補ってあまりある効用をもたらし、そして、新技術が生まれる際にそれのもたらすデメリットばかり強調する人間には、新技術による明るい未来が見えてこないものだと、悲観的になりすぎてはいけないと主張する。

In the quiet spaces opened up by the sustained, undistracted reading of a book, or by any other act of contemplation, for that matter, we make our own associations, draw our own inferences and analogies, foster our own ideas. Deep reading, as Maryanne Wolf argues, is indistinguishable from deep thinking.
If we lose those quiet spaces, or fill them up with “content,” we will sacrifice something important not only in our selves but in our culture.
持続的に、気を散らさず本を読んだり、「熟考」をいう行為によってもたらされる、脳の中の「静寂」の中で、我々は自分自身で連想、推測、類推を重ね、自分自身の考えを深めてゆく。ウォルフ曰く、「熟読」という行為は、「熟考」と一体不可分なのである。
もし、我々がこういった「静寂」を失い、脳の中がコンテンツで溢れかえると、我々自身だけでなく、我々の文化の何か重要なモノを犠牲にしてしまうだろう。

悲観的になりすぎてはいけないことはわかっているが、それでもやっぱり心配だ、と最後にまた戻る。便利さを追求し、知識をかき集めることに腐心すると、自分自身の頭で物事を考える力が弱まり、個人の能力だけでなく、人類全体が今まで培ってきた何かを失ってしまうのではないかと、最後に結論づける。


以上で論旨の紹介はおしまい。で、私自身、記事がいうところの長文を「熟読」し、その過程で何が大事な点なのか、長文の中でどれを要点として伝えるべきか、ということ「熟考」したわけだが、その上で上記に対する自分が考えたことを、パート3として次回のエントリーで書いてみたい。同じネタをひっぱりますが、次回に続く。

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