Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

法というものへのあるべき立ち位置

かなり遅ればせながら『インターネットの法と慣習』を読んだ。
本書は、

  • 絶対的な権力が存在しないインターネットのような世界で、きちんと法が整備されるにはどのような手順を踏んでいけばよいのか
  • 知的財産権という法によって定められた権利が、現代において時としてないがしろにされるのは何故か
  • インターネット固有の事情への十分な理解がないまま、ネットに関連した法整備がすすんでいき、様々な軋轢が生じているが、それは何故で、またそれを解消するためには何が必要なのか

などの興味深い質問への白田さんの答えが提示されており、法について真剣に考えることなくインターネットという無政府空間で生活をすることが気づいたら当たり前になっていた私のような人間には目から鱗がおちる話が多かった。


インターネットの進化に伴う「産業構造の変化」を、鉄道や自動車などの産業が起こった時になぞらえて話が展開されることはよくあるが、本書で引き合いにだされるのは、「中世ヨーロッパの紛争解決」や「封建制」など、かなり時代を遡るものが多い。これは著者の視点が突飛なことも理由の一つとして考えられるが、「法構造の変化」に着目するのであれば、そのくらい視点をぐっと引き上げなければ本質をつかむことができないと見ることもできるだろう


本書では、上記のようなインターネットと法に関わる多様な話が展開されるが、もっとも大事なメッセージは、

本当の意味での「law」は、人間がこれまでやってきた数多くの失敗をどのように矯正してきたのか、という長い長い歴史の観察に基づいているわけです。すなわち、科学の法則と同じように、社会の法則、人間の法則という意味が込められているのです。


『インターネットの法と慣習』 〜第1章 法の根っこを考える P.29〜

ネットワークに生息する「部族」である皆さんに「道理」があるなら、まだ声をあげても構わないと思うし、法は皆さんの共通合意と文化に親和的なものであるべきだと思う。法は、もう出来あがってるものでなくて、誰かが決めるものでもなくて、自分たちが発見して発展させていくものでもあるんだ、ということをわかってもらいたい。


『インターネットの法と慣習』 〜第1章 法の根っこを考える P.23,24〜

という二つのくだりで提示される「法というものへのあるべき立ち位置」だろう。「法とはその社会の共通合意と文化に親和的なものであり、逆に親和的でない場合は何某かの失敗が生じているわけだから矯正をしないといけない、よってもって既存の法を所与として考えるのではなく、あるべき法に向けて「名」をかけて意見表明していかなければならない」、これが本書の法について真面目に考えたことのない人への強烈なメッセージだ。


法というものは、社会の共通合意や文化と反するのであれば、変更し発展させていくことができるということは、ある意味朗報であるが、逆の見方をすれば、新しい慣習に身を投じている人は、政治家や官僚の的外れな行動に文句を言うだけではなく、法の変化発展に自らが寄与しなければいけないとみることもできる。
そういう意味でインターネットの世界のフロントランナーが本当に対峙しなければいけないのは、エスタブリッシュメントやそれらの人の意見を反映する政治家や官僚ではなく、過去に「新しい慣習」を元に、法を進化させてきた過去のフロントランナーなのかもしれない。そういう立ち位置に立つほうが大変な反面、前向きに社会をかえることに取り組むことができる。
中世ヨーロッパや封建社会にまで遡る大きな話にふれ、そんな読後感を私はいだいた。

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