Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

フジテレビ・ライブドア問題から考える電波の公共性

http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u105.html

テレビ局は「映像コンテンツを製作して、それを日本中にあまねく配信する」ために存在しており、そのためには、編集機材から放送設備まで莫大な投資が必要だった。

フジテレビ・ライブドア問題とは、「チープ革命」がもたらすこれからの「総表現社会」とも言うべき方向性によって、テレビ局に代表される既存メディアの権威が揺らぎはじめた象徴と理解すべきなのだ。

梅田さんの論考の趣旨とはずれるかもしれないが、上記のPhraseからフジテレビ・ライブドア問題に対する理解がすっきりした(一口に問題と言っても色々な問題をこの出来事を含んでいるが・・・)。どのようにすっきりしたのかと言うと、
・映像コンテンツをあまねく「配信できる人」が少ない世界においては、その影響力の大きさから「配信できる人」には高い公共性が求められる。放送事業を営む人にはそういう点から従来高い公共性が求められていた。
・インターネットを始めた技術革新を通して映像コンテンツをあまねく「配信できる人」になるための敷居は格段に下がり、その人口が爆発的に増加したが故に、それができる人に求められる公共性は下がってきている。
・現時点でテレビ会社に公共性が求められるとすれば、それは人が持ちえない強力なコミュニケーションツールを保持しているということでなく、資産として多くの視聴者をもつという影響力からであろうが、ツールの希少価値が薄れた以上時間をおいて徐々にその影響力もさがっていくと思われる。
・よってもってテレビ会社には、それほど今後高い公共性が求められることはない(少なくとも、私が求めるのは人のものを盗んではいけないというような5歳児レベルの倫理観程度である)。別に誰も求めないので、それほど公共性!公共性!!と気張っていただかなくても結構。

ネット上の玉石混交問題さえ解決されれば、在野のトップクラスが情報を公開し、レベルの高い参加者がネット上で語り合った結果まとまってくる情報のほうが、権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家など)によって届けられる情報よりも質が高い。そんな予感を多くの人たちが持ち始めたということだ。

「レベルの高い参加者がネット上で語り合った結果まとまってくる情報」がフェアーに提供、活用がなされる環境が作られることに対する「権威サイドが用意する専門家」の感じる脅威は如何ばかりであろうか。フジテレビ・ライブドア問題を「テレビ」で取り扱う時、放送事業の公共性について危惧する意見がよく提示される。一方で、「メディア 公共性 フジテレビ」という単語で「Google」を検索してもそれを危惧する意見は一切でてこない。エスタブリッシュメントの脅威は徐々に高まっているとみてよいのではないだろうか。

最後に2月18日の産経新聞の下記の論評。

マスメディアは、国民の『知る権利』の担い手である。民主主義社会を支える役割があり、国のあり方にも大きな影響を及ぼす。だからこそ、報道・論評の自由を有している。そして、その自由を守るために、そこに属する人間は、責任の自覚と自らを厳しく律する精神が求められる。経済合理性では割り切れぬ判断を迫られる場面もある。堀江氏の発言からメディア集団に深くかかわることへの気概や、責任の重さに対する、ある種の畏(おそ)れが感じられなかったのは残念である

「自らを厳しく律する精神」でもって、技術革新によるパラダイムシフトのインパクトをもっと真剣に考えて欲しいものである。

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