Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

メールに返信をしないアメリカ人のメンタリティ

「メールでアメリカ人に問い合わせをしているが返信がこない」、というのは外資系企業に勤めていればよくある話。その内容が難しければ難しい程、返信率は悪くなる。もちろん、日本人でもレスの遅い人、しない人はいるが、度合いの問題。アメリカ人の場合はかなり気合をいれて、しつこくプッシュしないと返事がもらえないことが多い。
一番良いのは電話をすることで、電話をしてみると「おぉ、あの件ね、見た見た」みたいな感じで話が進むことが多い。メールで聞いていることを一々電話しないといけないのはかったるいし、時差や言語の問題があって容易ではないし、そもそも「お前、見てるんなら返信くれよ」という思いもある。

でも、そういうことで頭を痛めている人は、理解しておいたほうが良い彼らのメンタリティがある。それは「何度もプッシュされないということはきっと大事なことではないんだ」という考え方だ。メールを出して返信がしばらくこないものが、プッシュなしで返ってくることは殆どない。そういう場合は「返信しなくても何も言われないということは、解決したか、大して重要なことではないんだ」と彼らはまず考える。また、アメリカ人は自分が問い合わせていることについては、必ず席に立ち寄ったり、電話で念押しをする。そういう直接的な督促に日々触れている彼らは、日本から送られてきた、オリエンタリズムがほのかに漂う英語でかかれた、少し理解の難しいメールは、どうしても放っておきがちになる。
また「何度もプッシュ」というのも大事な要素で、相手に遠慮して一度のプッシュで「答えてくれない、、、」と諦めてはいけない。時差の関係で電話が難しい場合は、毎日「親切に督促してあげる」ことが大事だ。メールへのレスが遅い人でも4日連続プッシュして返信がなかったということはまずない。お困りの皆さん、しつこくいきましょう。

私はアメリカで暮らしていて、電話で問い合わせをして「確認の上、再度連絡する」と言われることがよくある。請求書の金額が違ったり、購入した家具の納期を確認したり、役所の手続きを確認したり、アメリカで暮らしているとカスタマー・サービスという窓口に電話をすることが多い。その際にその電話で解決せず、「確認して明日電話するから」となることが非常に多い。しかし、そういう受け答えをされたことは30回以上あるが、次の日電話がかかったことは1回しかない。もう一度強調するが本当に30回中1回しかないのである。

そしてその1回というのも中々奮ったケースなので、その際の話を共有したい。週末に家具を購入し、担当営業が次の水曜日迄に納期を連絡することとなった。ぶっちゃけ、そう言っても絶対にかかってこないので、あまり当てにはしていない。「来週の水曜日連絡するから」は「来週の水曜日くらいに問い合わせをしてみて」と同義ととらえないといけない。案の定、水曜日には電話はかかってこず、奥ゆかしい日本人である私は金曜日まで淡い期待を抱きながら一応待った。でも、やっぱりかかってこない。仕方なく家具屋に電話をすると別の担当がでて、事情を説明すると、倉庫に確認しないと分からないので「確認の上、再度明日電話する」ということに、、、。電話番号を言わされて(週末、購入フォームに書いたって、、、、)、向こうが「では、ミスター、また明日連絡します」と言って電話をきろうとするので「ちょっと、待ってくれ」と私。

私「念のために名前をうかがっていいですか。」
クリス「はい、クリスといいます」
私「あぁ、クリス君ね、ちょっと確認したいことがあるけどいいかな」
クリス「もちろんです、ミスター」
私「君はこれから倉庫に電話をして、納期を確認して私に明日電話をくれるんだよね」
クリス「そのとおりです、ミスター」
私「ありがとう、でも倉庫に電話をしても納期がわからないことがあるかもしれない、その場合は納期がわからなかったということを連絡して欲しい」
クリス「・・・」
私「すなわち、納期が分かっても連絡、分からなくても連絡、何れにしても君は私に必ず明日電話をするんだ。いいよね、クリス君」

と強めにプッシュする私。数秒の沈黙が流れてクリス君の口からついに出た言葉は、、、。

クリス「はい、ミスター。分かりました、、、。ちなみに、もう一度電話番号を教えて貰ってもよいでしょうか?

おいおい、お前どう考えても私の電話番号をメモってないだろう!!初めから電話する気まるでなし。今まで再度電話がかかってこなかった訳をようやく知ることができた、、、。仕方ないので電話番号を告げた私。

そして、翌日。私はついに生まれて初めてアメリカで折り返しの電話をもらうことになる。しかも、店舗と倉庫の2箇所から別々に。電話は一回で良いので、もう一回分のパワーを誰か他の放っておいてる人のために使ってやれよ。あぁ、アメリカはやっぱりプッシュなしにモノが進まない社会なのだ。

『ニューヨーク日本人教育事情』 20年以上進歩のない海外子女教育

先日、子どもの通う補習校の古本市で『ニューヨーク日本人教育事情』を購入した。補習校の古本市は年代ものの本が発掘されることが多いが、本書は1993年初版、実に20年以上前の新書である。こんな古い本を読んでも参考にはならないだろうと思いつつも、補習校の古本市はファンドレイズも兼ねているので、購入することに。が、予想に反して、海外子女の直面する課題を本書が非常に正確かつ網羅的にとらえていることに驚きを覚えた。そう、海外子女の教育が直面する多くの課題はこの20年間何も解決されていないのである。

ニューヨーク日本人教育事情 (岩波新書)

ニューヨーク日本人教育事情 (岩波新書)


本書は、現地校、補習校、日本人学校、塾の4つの章から構成され、ほぼ漏れ無く海外子女を取り巻く教育環境が説明されている。タイトルにニューヨークとうたっており、大都市固有の要素も多々あるが、海外子女の教育問題について、非常に的確にとらえている。
本エントリーの読者の中には、補習校と日本人学校の違いが分からないという方も多いと思うが、日本人学校は海外にあって平日に授業を全て日本語で実施する学校で、補習校は平日は現地校に通う子どもを対象に、基本土曜日に日本語で授業を実施する学校であり、全く異なるものだ。海外に住む子どもは、1.日本人学校に通う、2.現地校プラス補習校に通う、3.現地校のみに通う、というほぼ3パターンに分類されると考えるとわかりやすい。地域によって設置状況にばらつきがあり、私が現在住む北米では、日本人学校は3校、補習校が88校*1と補習校が中心となっている。


本書では、補習校運営上の問題として、一日教師・一日校舎、駆け足授業、生徒の日本語力のばらつき、などをあげているが、これらは20年たってもほぼ解決に向けての進展のない根深い問題である。
補習校は前述した通り、基本土曜日のみ開校する学校であるため、どの補習校も現地校の校舎並びに協会などを借用している。多くの補習校は、幼稚園から高校生が通うが、そういう幅広い年齢層が使うことを想定された施設は皆無に近い。例えば、私の子どもが通う補習校は全寮制の私立高校の校舎を借用しているが、幼稚園・低学年の生徒には椅子と机が大きすぎるためブースターシートと足をおくための踏み台を各家庭で用意してもらったり、トイレに毎土曜日早朝に踏み台を設置したりしている。
また、土曜日一日のみの学校で(しかも海外で)教員を確保するというのも至難の業だ。教員免許を持っている方も非常に少ないし、少数でありながらも学力にばらつきのある生徒に対して、週一のペースで日本と同等のペースで授業を進めるのは難易度が非常に高い。必ずしも高くない謝金で一年間の土曜勤務をコミット頂いているが、お金目当てで働いているという方は殆どいなく、海外で悪戦苦闘する子どもたちを応援したいという熱意でやって頂いている先生ばかりだ。


こういう話をすると保護者は何をしているんだ、という質問もよくされるのだが、保護者の負担も相当だ。補習校は基本保護者によって運営される学校のため、毎年保護者の代表である運営委員という係が選出され、会計管理、借用校とのやりとり、運動会・遠足のような行事の取りまとめ、図書館の運営、など諸々の学校運営をとりしきる。私は今年は運営委員長という全体のとりまとめ役をになっているが、補習校の運営に割く時間は月平均で30ー40時間ほどだ(もちろん、平日はフルタイムで本業がある)。委員以外の保護者も、やれ校舎の見回りをする学校当番とか、教室で授業の補佐をする教室当番とか、図書館で本の貸出返却対応をする図書当番とか、色々忙しい。


文科省細かな施策をうっているようであるが、20年前の著作が色褪せるような進展はみられないのが現状だ。過去50年の施策が1ページにおさまってしまうのだから仕方ない。
本書でも記載されている、永住者への教科書の無償配布は行わないとか、補習校への派遣教員が少ない(100名以上生徒がいる学校にしか派遣されず、追加の基準は生徒400名にあたり1名)とか、派遣教員の任期が2−3年と短期であるとか、根本的な課題への解決は20年間手付かずと言っても過言ではない。現場で、なかなか改善されない海外子女教育の実態の中、日本語をあきらめ、現地にまきとられていく子どもたちを目の当たりにすると、国際化をうたうのであれば、もう少しこういうところにお金をおとすべきと心の底から思う。ネイティヴ・スピーカーを英語教員として招致して週に1−2度英語の授業をしたって英語力なんてあがるわけがない。言語の壁に苦しみ、それゆえの現地校での孤独に2−3年耐え、ようやく少しづつ英語でコミュニケーションができるようになる子どもたちを目の当たりにしているから断言できる。


文科省政策分野別審議会情報などをみると海外子女の教育環境改善などは取り上げられていないので、今後も大きな改善は見込めないが、現場の視点から本ブログでも今後トピックとして取り上げていきたい。また、海外子女の状況の理解のために、本書をより多くの人に手にとって頂きたい。

*1:海外子女教育の概要 平成26年4月15日現在

『つながりっぱなしの日常を生きる』

中年女性社会学者によるアメリカの若者の声の代弁、というとシニカルすぎるきらいがあるが『 It’s Complicated(邦訳:つながりっぱなしの日常を生きる)』はそんな本だ。筆者のダナ・ボイドはソーシャルメディア、若者の教育問題の専門家。2009年には”Women in Tech”にも選出された気鋭の若手学者だ。本書は、166名のアメリカのティーンに筆者自身が実際にインタビューをし、彼らの置かれる状況を浮き彫りにし、メディアで語られるステレオタイプな若者のネット利用像に真っ向から挑んでいる。10代の若者の声にならない声をエスタブリッシュメントに届く形で発信しており、同年代の子持ちの私からすると筆者は正に中年の鏡である。

It's Complicated: The Social Lives of Networked Teens

It's Complicated: The Social Lives of Networked Teens


少し内容に入る。「直接的な対人関係を避け、スマフォとにらめっこしてSNSなどにのめり込む」というのがメディアで語られる若者像であるが、筆者はこの見方を否定する。ティーンは別にFacebookTwitterが好きでスマートフォンにかじりついているわけではなく、友達とつながっていたいという今も昔も変わらない年頃の子どもの健康的な欲求に従っているだけ、と筆者は強調する。あるインタビューを受けた女の子が語っていた「FacebookTwitterでつながるよりも直接顔を合わせて友達に会えたらどんなに良いか」という正直な気持ちが印象的であった。自由に社会と関り合いを持ちたいという自然な思いを実現する方法が、昔は公園やショッピングモールにたむろすることであったが、現在はたまたまFacebookTwitterがそれを実現する殆ど唯一の方法、ということが繰り返し本書では語られる。*1


2章のPrivacyは子持ちの私に色々示唆を与えてくれ面白かった。私の子どもはまだFacebookなどは使用していないが、もし使い始めたら私はきっと安全という建前を掲げ、フォロー・チェックをするだろう。設定次第で私が見れなくすることもできるわけだから、私が見れるものは「見ても良い」ことだろう、というのが親の視点だ。が、ティーンにとっては「技術的にできること」と「実際にすること」の間には百里の隔たりがあり、自分のポストを親が逐一チェックをすることは、人が電話で話している内容を聞き耳をたてるのと同様にマナー違反と考えるようだ。また、プライバシーを権利と考えるティーンももちろんいるが、多くはそれを信頼の問題と考えている、という話も面白かった。親が自分のポストをチェックすることは、権利の侵害・マナー違反であり憤りも覚えるわけだが、「あぁ、自分は親から信頼されていないんだなぁ」という失望も強いとのこと。まぁ、何だかんだで結局私はチェックすると思うのだが、それを子どもがどのように感じるのかを事前にすることは大事であり、とても参考になった。


少し子育て中のおっさん視点が強くなったので、もう少し視点を高くしたい。本書でなされている主張の中で最も重要なものは、「テクノロジーで可視化された問題点の原因を多くの人は誤ってテクノロジーに求めてしまう」という点だ。インターネットと人とつながるテクノロジーでティーンがエンパワーされることで、彼らと彼らをとりまく環境の良い所も悪い所も、綺麗な所も醜い所も可視化される。悪い所や醜い所はテクノロジーそのものが作りだしている場合ももちろんあるが、その大半は元々社会に横たわっているものだ。インターネットが売春や性犯罪を助長するみたいな見方もあるが、そこの規制を強くしたところで、買春する人や性犯罪者が世の中からいなくなるわけではなく、別の形でティーンに忍び寄るだけの話であり、安易にテクノロジーにその原因を求めるメディア、規制を強めて仕事をしたふりをする政治家・官僚に筆者は疑問の目をむける。人は、目に見えやすいテクノロジーに原因を求め、社会に根ざした深い問題から目をそむけがちだが、技術の力で何が変わって、何が変わらないのか、そこを見極める努力を怠ってはならないと筆者は本書後半で強調し、その見方に私は強く共感する。


他に紹介したい読みどころは沢山あるが、長くなったのでこのあたりで。id:yomoyomoさんの書評を見て、原書にチャレンジしてみたが、読み応えがあり、様々な視点で参考になった。ソーシャル・ネットワークなどのテクノロジーの動向に関心がある方だけでなく、年頃の子どもを持つ人にもお薦めの一冊。

*1:もっとも、余程の大都市でなければ公共の交通機関が整備されておらず、運転免許をとるまでは、自由に移動ができかないという、アメリカならでは事情・制約がこういう状況を助長していることは間違いない。

家事と育児は足し算ではなく、掛け算

現在アメリカに住んでおり、先日家族が2ヶ月弱日本に一時帰国。私も日本には帰国したのだが、仕事があるので家族を日本に残し一人帰米し、3週間ほど一人暮らしをした(結婚以来こんなに一人でいたのはよく考えると初めて)。当然一人暮らしの期間家事は全部自分ですることとなる。日本の男性の家事の実施時間が諸外国と比較して短いなんてことが最近よく言われているが、久しぶりの長い一人暮らしを通して思ったことがいくつかあるのでまとめてみたい。

私の3週間の家事ライフ

私は独身の頃は一人暮らしをしていたし、元々料理は好きなほうなので、家事そのものはそれ程負担には感じなかった。23日間の一人暮らしの期間となったが、家事に費やした合計時間は54時間、週平均で16時間28分、日平均で2時間21分。まぁ、こんなもんかという感じ。なお、家事の時間はMyStatsというiPhoneアプリで計測。料理、食器の片付け、洗濯、掃除が多くの時間をとる家事のコアとなるが、アメリカの場合はそれに加えて庭の芝刈り、手入れも週一ではあるがそれなりに負担(2時間弱はかかる)。
個別に見ると、料理は好きなほうなので、外食は3週間の間に3回くらいしか結局しなかったし、平日の昼飯も自分で毎日おにぎりを作ったりしたがそれ程負担は感じなかった。食器と洗濯は基本的には機械がやってくれるので楽チン(晩にセットして洗浄が完了した食器を朝一で片付けるのが忙しい朝には手間を感じたが)。掃除も家が広い分大変だが、日中仕事で家にいないのでそれ程汚れ無いので週に2回掃除機をかけるくらい。もっとも家事というのは掃除、洗濯、料理というコアの部分はルーティーンなのでそんなに難しくはなく、それ以外のもろもろを如何に、どれほどこなすかが品質を左右する。シャワーカーテンを洗ったり、台ふきを重曹で煮沸したり、一時帰国時に汚れてしまったトイレとシンクを掃除したり、もろもろもなるべくこなすようにした。仕事が日本にいるときほど忙しくないというのもあるが、全般的に家事を負担に感じることは殆どなかった。

そして家族が帰ってきた

3週間のきまま、かつ孤独な一人暮らしのすえ、家族(妻、娘8歳、倅5歳)がようやく戻ってきて、また家族との生活が始まることに。時差もあるのでしばらくは家事は自分も多めに(愛妻家!)。やってみて感じたのは、家事と育児に伴う負担というのは「家事+育児」という足し算ではなく、「家事×育児」という掛け算であるということ。
家族の人数が増えれば、左側の「家事」もそれに応じて大きくなる。ここの増加の仕方は、まぁ料理のように単純に4倍にならないものもあれば、洗濯や食器の片付けのようにほぼ4倍になるものもあるし、掃除のように10倍くらいにいきなり増えるものもある。家族の帰宅の前はリビングなどはもの一つ無い状態にしていたのに、子どもが帰ってくると秒速で部屋が汚れていくのが体感できる。なかなか手強い。
そして、子どもがいると、家事をする時はその作業に集中できたいた一人暮らしの時の環境というのは如何に恵まれていたかということがよくわかる。やれAppleTVがつかないだの、だっこして欲しいだの、食事が遅々として進まないだの、宿題が終わらないだの、DS一緒にやってほしいだの、包丁で野菜きってみたいだの、遊んで欲しいだの、無駄な姉弟の喧嘩を1日20回したりだの、とにかく横槍が色々はいる。「家事」を一定量こなした後、まとめて「育児」をするというようにシリアルに処理できればよいのだが、そうはいかずパラレルな処理が求められるので、効率も落ちるし、負担もます。やはり、「家事+育児」ではなく「家事×育児」なのだ。「家事×育児=負担」という式が正しいとすれば、逆にここはレバレッジの聞く領域で、夫婦の片方が育児を受け持ち、もう片方が家事に専念できる時間を作ることで、全体の負担が減るというのが実感できた。


家事の分担のあり方
こういうことを書くと、おっかないおばさんから「そうだ!だから男性はもっと家事をすべきだ」というおっかないコメントがきたり、男性諸氏から「でも、会社の仕事がピークの時に妻は手伝えないんだから、男だって休める時に休むべきだ」というつまらないコメントがありそうだが、家事の分担のあり方に、おしなべて当てはめることのできるべき論なんてない、というのが私の考え。そこをコミュニケーションや互いに対する心配りや相手の視点によりそう姿勢で、自分にとってでなく自分たちにとって一番良い形を見つけるのが大事であり、パートナーシップの価値が最も発揮される領域だと言っても過言ではない。夫婦間の家事の分担、というのは一律に適用可能なべき論で解決できる問題ではなく、それそのもが夫婦の作品、即ちアートだと思うわけです。予想通りまとまりきらず続く。

いわゆるカタカナ英語から抜け出す方法

私は正直、23年間のカナダ生活をはじめ、アメリカやイギリスでも英語を勉強したのですが、決してうまくありません。それはどうしても習得できない分野があるのです。私の考える英語上達のエッセンスとは三つのカテゴリーがあります。
一つは一般に学校で習う文法や語彙などの知識量
一つは音として英語をとらえる能力。
三つめは欧米流の慣習からくる文章構成上の英語であります。

23年間英語圏で生活されているというだけはあり、非常に的確に日本人のぶち当たる壁をとらえている。今回のエントリーでは「音として英語をとらえる能力」という点について書いてみたい。


私はまだ渡米して半年くらいしかたっていないが、本格的に英語を仕事などで使い初めてから10年弱くらいになる。その間、私よりずっと英語でのコミュニケーション能力に長けた人を見てきたが、それでも発音がいわゆるカタカナ英語の人はかなり多い。こちらに20年近く住んでいるという人でも、話すのはカタカナ英語という人は珍しくない。


いわゆるジャパニーズ・イングリッシュだとこちらの言うことが「通じにくい」ということもあるが、それに加えて頭がカタカナで捉えようとするので、Nativeの人の言うことが「聞き取れない」という問題も出てくる。「L」と「R」の違いという話はよく出てくるが、「A」と「O」なんかは、ジャパニーズ・イングリッシュの回路だと聞き分けるのは至難の技だ。音として英語をとらえられず聞き取れないというのは、日本人の英語の永遠のテーマだ。


が、その永遠のテーマについても解決策が実はある。リスニング力をあげつつ、カタカナ英語を脱出するための勉強方法としてPhonicsはもっと日本で注目されるべきだ。私はアメリカ人の同僚にアクセントがよくないのでPhonicsを学ぶことを勧められて、コツコツと学んできたが、アメリカに来ても「君のアクセントはすごく良い」と言われることがとても多い(「日本人にしては」という但し書きがついてはいるだろうが)。音読などの学習効果ももちろんあるが、こと発音については、Phonicsの恩恵に大いにあずかっている。


で、Phonicsというのは何かと言えば、英語のスペルと発音の間にある規則を学ぶ勉強法というのが簡単な説明だ。例えば、dogは「ドッグ」と言うとカタカナ英語になってしまうが、「d」と「o」と「g」をPhonicsの規則に従ってそれぞれ発音すると、よりNativeっぽいdogとなる。それぞれの音を、「どういう舌の動き」で「どういう空気のはき方」で、発するのか理解し、目の前の綴りをそのルールに応じて口から出すことをPhonicsではひたすら学ぶ。カタカナ英語が体に染み付いているので一朝一夕ではいかないが、地道に練習を続けるとかなり効果がある。


勉強の素材は色々あるが、私がいくつか試した中でお勧めなのは下記の本。

英語のリスニングは発音力で決まる!

英語のリスニングは発音力で決まる!

Phonicsという言葉こそ一度も出てこないが、方法論は完全にPhonicsだ。私は毎朝の通勤の運転の中で必ず全ての音を練習するようにしているが、そういう腹筋的な地味な練習を長く続けることが一番だと信じている。カタカナ英語、ジャパニーズイングリッシュを脱したいという方は是非本書を手にとって見て欲しい。

「都議会セクハラ野次」問題は騒ぎすぎ

都議会で塩村あやか都議会議員に対して飛ばされた野次について、大盛り上がりのようだが、不謹慎だの、犯人探しだので騒ぎすぎだ。野次の内容は確かに品性下劣だし、職務中の発言としては不適切極まりないし、これだけ話題になっているのに言った本人たちはだんまりを決め込んでいるというのも卑怯千万だし、こういう発言を何も言わずに流すというのも問題だ。でも、それにしても騒ぎ方の方向性に疑問を覚えるし、政治のトピックとして最もホットなのがこの問題というのもいかがなものかと思う。また、犯人探しだの何だので盛り上がってガス抜きされて、大本の妊娠や出産に関わる現状の改善、解決に向けての施策の実現の方に議論が及ばないんじゃないかと不安を覚える。このままじゃ、声紋分析して、議員が特定されて、その議員が謝罪、反省、辞任して、皆の溜飲が下がって一見落着になってしまうのではないだろうか。
また、塩村議員だってその場ででた下品な野次に対して一喝したのに数の論理で押されて否応なくというようならまだしも、言葉につまってそのままその場は退散というのも、私の正直な気持ちとしては心もとない。そういう不見識な議員をその場で引きずり出すとか、そういう不見識な発言があって笑い声が議会でおこるというようなことだから各種の施策が実現に向かわないんだと切り返すとか、そのくらいの技量や胆力を議員として磨いていって欲しい。そういう力強さもないと、保育園の待機児童の問題とかを解決するために、根強く存在する既得権益をもった抵抗勢力を丸め込んだり、叩き潰したり、正に戦いを勝ちにもっていくなんてことは期待できない。後日会見をひらいて「声紋分析します」とか、「侮辱に対する処置の要求」いうのもよいのだけど、そっちの犯人探しに力を注ぐのではなく、盛り上がっているうちに元々ご自身が提起した問題のほうに軸足を移していったほうがよいのではないだろうか。

女性役員のいる会社は競争力がある?そんなつまらん議論はやめたほうが良い

"女性役員のいる会社は、業績が良く、競争力もあり、イノベーティブな理由"なる記事を読んだのだが、外資系企業で声高に叫ばれるダイバーシティによる女性の積極登用を見てきた経験から一言言いたい。有能な女性の活躍の場が広がることはとても良いことだと思う。また、有能な女性が活躍する場や制度が十分に整備されていないのも現実だと思う。だが、「女性役員のいる会社は、業績が良く、競争力もあり、イノベーティヴだから女性役員の比率をもっとあげるべきだ」という意見には賛成できない。目的と手段が逆になって長続きすることなんて世の中に一つもないからだ。

数カ月前にニューヨークで、「the 30% Club」アメリカ支部をキックオフための重要な会議が開かれました。the 30% Clubとは、「上場企業の役員にもっと女性を増やす」という目的を持つ民間セクターです。

有能な女性が役員として活躍できる場が増えるのは良いことだが、それと今以上に役員になる女性をもっと増やすというのは別の話だ。個別具体的な話を抜きに、「30%まで比率をあげると、いいことがおきるに決まっている」という結論ありきのこの団体に疑問をおぼえる。この30% Clubという組織のウェブサイトを見たが、「義務としての数値的な目標を持つことはサポートしていない(We do not support mandatory quotas)」と但し書きがついているものの、組織の名前が思いっきり数値的目標なので、但し書きをどう解釈してよいのか理解に苦しむ。また、Steering Committeeのメンバーを見ると殆どが女性。「GROWTH THROUGH DIVERSITY」とあるが、自組織のダイバーシティはどうなっているんだと問いたい。

女性役員の割合を、企業規模やビジネスや産業に関わらず、すべての会社が増やした方がいい、説得力ある理由が少なくとも3つはあります。

と記事中で3つの理由があげられているが、私にはどれもすっと入ってこない。


「1.女性役員がいる会社の方が儲かっている(Companies with women on the board perform better financially)」という点については議論があまりにも雑。直接的な因果関係はないが、全てのデータは女性がUpside以外はもたらさないと言っている、との強弁に説得力を感じる人がいるのだろうか。CFOやFinancial Controllerというような財務面の役員に女性を登用している会社と、それ以外の会社の利益率の差を比較して、女性財務役員のいる会社のほうが利益率が高い、とか、せめてもう一段深いレベルの議論を期待したい。


「2.女性役員がいる会社の方がイノベーティブ(Companies with women on the board are more innovative)」というのも雑。多様性イノベーションを加速するという原則論と女性の役員登用率の向上の間にある溝に説得力のあるロジックで橋を全くかけられていない。「世界的なマーケットで大部分を占める女性」って一体なんのことを言っているんだろうか。せめて、「食品・消費財メーカーのような購買の意思決定権を女性が握ることが多い産業においては、女性は市場機会や顧客のセグメントに関して、男性社員には思いつかないような、個人的な視点を持ち込める」というなら、「へぇどんなデータがあるのか見てみたい」という気になるが、「企業規模やビジネスや産業に限らず」と言っているがゆえに説得力をなくしている。


「3.女性は役員の役割をより効果的にする(Women make boards more effective)」については、経験的に婦警的な役割でもってリスク管理・監視強化をごりごりする女性を多く見てきているので、その機能に限っては頷ける部分はある。だが、女性の役割登用率をあげれば「競争力」が高まるという、帰結に対する説明が薄弱で、説得力を本記事から私は全く感じない。



一部重箱の隅という話もあるが、何で「the 30% Club」に自分がこんな反感を覚えるのかというと、私自身がダイバーシティによる女性登用が逆噴射しているケースを何度か見たことがあるからだ。「有能な人をより活躍できるポジションに」という原則に異は全くないのだが、「the 30% Club」みたいな「比率をあげることが正」みたいが議論になると「有能ではないのに女性だから役員になる」というケースがどうしてもでてきてしまう。それは組織にとっても不幸だし、本人にとって一番不幸な話だと思う。 実際にパフォーマンスも発揮できてなく、「あぁ、あの外人役員はダイバーシティ枠ね」みたいな陰口を叩かれている人を見たことが何回かあるが、数字ありきだからそういうつまらない話になるのだと思う。


数字ありきでとにかく「役員比率をあげよう」という話ではなく、有能な女性が経営陣として活躍できるまでのキャリアを積んでいく道にある、様々な障害を取り除こうという個別具体的な議論をもっとすべきだ。妊娠・出産という多くの女性が直面する必然的なライフイベントがもたらすインパクトの軽減とか(アメリカ女性は産休、育休のアメリカの制度としての少なさに皆不満をもらしている)、何時から何時まで職場にいたことを評価するのではなく、あくまで労働の成果を評価し、時間と場所の制約から解き放つワークスタイルの確立とか、強面のおばさんが集まって話すべき内容はもっと他にあるんではなかろうか。なお、大変蛇足ではあるが、ということが趣旨であり、女性登用率の向上そのものを苦々しく思っているおじさんの溜飲を下げるために本エントリーを書いたわけではないので、あしからず。

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